第1話

文字数 3,719文字

午前10時。開店したばかりのカフェはまだ静かだ。かすかに、優しいBGMの音がきこえる。

いつもの窓際の席で、カフェラテを飲みながら、窓の外を見た。




曇り空だ。

天気予報では20%の降水確率だったが、ジメッとしたこの空気からすると、そろそろ降ってくるかもしれない。




ヒロくんと会うのは、いつも週末の午前中だ。


月に1回ほどのペースで会うようになってから、もうすぐ半年になる。カフェでコーヒーを飲んでから、公園をプラプラ歩き、池の前のベンチに座って話をする。話が盛り上がると3時間になる事もあれば、1時間と少しで、じゃあ、とお開きになる事もあった。




ヒロくんは週末も家で仕事をする事が多いらしい。

「そろそろ行きますか」

そう言って、切り上げるタイミングを決めるのは、いつもヒロくんだった。




今日は、時間あるのかな、、

雨が降ってきたら外を歩くの嫌がるかもしれないな、と、もう一度空を見上げた。









出会ったのは、英会話スクールだった。3人のグループレッスンで、私がたまたま振替で参加したクラスのレギュラーの生徒の一人がヒロくんだった。

2回目にレッスンで会った日、その日はレッスン後に、先生や他のクラスの生徒も交えた定期的な交流会があるようだった。隣に座ったヒロくんが「今日の交流会行くんですか?」と訊いてきた。




「ううん、行った事あるんですか?」

「ないんですけど。この後暇だし、ちょっと行ってみようかなと思って。一緒に行ってみません?」




じゃあと、一緒に参加し、結局先生や他の生徒とほとんど話す事なく、ずっとヒロくんと二人で喋った。




ヒロくんは、Web制作会社に勤めるデザイナーで、私より5つ歳下の28歳だった。仕事で英語を使う訳ではないが、学生の時に3ヶ月アメリカに語学留学した経験があり、いつか英語をモノにして仕事に生かしたいと思っていると言う。

私が自分の年齢と、外資系医薬メーカーのMRである事を言うと、「MRって何するんですか?」と興味深そうに訊いてきた。クライアントである病院の医師とのやり取りを面白おかしく話すと、ヒロくんは「まじかー」と若者らしく笑いながら、自分の仕事の話もしてくれた。

自分の仕事の業界以外にも興味を持ち、将来の事もしっかり考えているヒロくんは、話をしていてあまり歳の差を感じなかった。

帰りがけにLineの交換をして別れた。




翌週の週末の午後に、Lineをしたのは私からだった。You Tubeで面白い英語の学習動画を見つけたので、それをシェアしたのだ。

私が、彼氏が出張中で暇してると言うと、「今からお茶でもしませんか」と返事が来た。

1時間後に、英会話学校がある駅から程近い、公園内にあるカフェで、落ち合った。  




コーヒーを飲みながら、色んな話をした。物分かりの悪い上司の話、付き合って2年になる3つ歳上の彼氏の話、去年行った北欧への一人旅の話。

偶然にも、ヒロくんも一人旅が好きだと言う。行った事がある場所を互いに言い合った。私はヨーロッパを、ヒロくんは主にアジアを旅していた。




「去年別れた彼女は、いつも一緒にいたがるタイプで、俺が1人で旅行するの、すげぇ嫌がったんですよ」

「まあ、普通はそうだろうねぇ」

「ヨウコさんの彼は嫌がらないんですか?」

「うん、諦めてるみたい」

2人で、ふふっと笑い合った。




朝の公園が好きだと私が言うと、「じゃあ、次回は朝にしましょうよ」と、屈託のない笑顔で次の約束をされた。5歳下という安心感もあり、OKした。

それが始まりだった。









約束の時間から5分遅れで、ヒロくんはやって来た。




「なんか降りそうですね」

「うん、そうね」

「傘持って来なかったんですよ」




そう言いながら、ヒロくんは席に座った。

ヒロくんは会うといつも、最初こちらと目を合わせずに話をする。それも、「久しぶり」とか「元気でしたか?」とか言うでもなく、ついさっきまで会話していたかのように話しかけて来るのだ。

それが、照れから来るものだと、私はもう知っている。




「仕事はどう?」

「あんまり変わんないですよ。あ、でも新しい上司がやっぱり使えなくて」




ひとしきり、上司の不満を口にする。うちの上司と大して変わらないよと、私は言い、二人で上司の悪口大会だ。実はそれほどシリアスな話ではなく、上司の悪口は二人のコミュニケーションだった。上司には申し訳ないが、これが二人にとって害の無い、共通の話題なのだ。




1時間位経ったころ

「そろそろ行きますか。」

と、ヒロくんが言う。




外に出ると、小雨がパラついていた。半袖だと少し肌寒く感じられる。今日はこのまま帰る事になるだろう。




「私、傘持っているよ」

と折りたたみ傘を広げて二人の頭上にさした。




「すみません」

ヒロくんが私の方に身体を寄せた。不思議なもので、相合傘だと、近すぎる二人の距離が自然なものに感じられる。

その時ヒロくんが意外な事を言った。

「少し歩きますか。」




人気の少ない6月の公園は、濡れた土と樹々の匂いで、むせかえるようだ。頭上では、カラスの鳴き声がした。

小雨が少しずつ本降りになり、ヒロくんは、私が濡れないように遠慮して、傘から少し距離を取ろうとした。

「大丈夫だから、ちゃんと入りなよ」

私はヒロくんに近づいた。ヒロくんの体温を近くに感じて、少しだけドキッとした。




ヒロくんは、最近体験レッスンを受けたというオンライン英会話の話をしていた。

「マンツーマンの方が話す量は増えるけど、他の人がいた方が意外と勉強になるんだな、とも思ったりして。まあ、でも結局は自分のやる気しだいですよね」

「うん、そうだね」

適当に相槌を打ちながら、私は傘の位置を少し高くしたりして、ヒロくんが濡れるのをなんとか防ごうとしていた。




「傘、俺が持ちます」

そう言って、ヒロくんは私から傘の柄を取った。




いつも座るベンチは、雨に打たれて水溜りが出来ていた。それを横目に見ながら、そのまま池の周りをゆっくり歩いた。




「俺、釣りするんですよ」

「へえ、初めて聞いた」

「前の職場では同僚とよく行ったんだけど、今の職場はそういう雰囲気無いんですよね」

「どんなもの釣るの?」

ヒロくんは、熱っぽく釣りについて語り始めた。どうやら本当に好きらしい。こんな風に自分の話をするヒロくんは珍しかった。釣ったものは自分でさばくと言うので、時々料理もするようだ。




「すごいな、私より料理できそうだな」

「ヨウコさん、いかにもできなさそうですもんね」

「そんな事ないよ。冷蔵庫にあるものとか使ってちゃちゃっと作るの得意だよ。毎回違う味になるけど」

「あー、そういうの嫌だなぁ」

「ひどい、まぁまぁ美味しいんだから」




楽しかった。これまで無いほど、ヒロくんを身近に感じた。傘はまるで、そこだけ小さな部屋があるかのように、私とヒロくんを包んでいた。




気づいたら池を1周して、元の場所に戻ってきていた。ヒロくんは立ち止まって、

「じゃあ、そろそろ行きますか」

と言った。




嫌だ。

せっかく親しく話せたのに、まだ帰りたくない。この、小さいけれど心地よくて温かい空間から、まだ出たくなかった。

「もう1周しようよ」




ヒロくんは一瞬驚いたように止まった。そして、そのまま、また池の方向へ歩き始めた。

2人とも、何も喋らなかった。

池の真ん中辺りに来た時、ヒロくんは急に立ち止まった。

ヒロくんの腕が私の腕に触れた。




その瞬間、

ヒロくんの顔が急に近づいて、ヒロくんの唇が私の唇に触れた。

傘を持っていない方の手で、肩を抱き寄せられる。もう片方の手は、傘を少し傾けて、二人の顔を周りから隠していた。ヒロくんの右肩がびっしょり濡れているのが見える。

思わず、




「肩、すごい濡れてるよ」




と、私が言うと、私を黙らせるように、もう一度キスしてきた。今度は私も、目を閉じてそれを受けとめた。ヒロくんの唇は温かった。




ヒロくんは、顔を離すと、怒ったような顔をして、そのまま目を合わせずに前を見た。何か言おうとしたように見えたが、そのまま何も言わなかった。

そして、相変わらず傘を私の方に少し傾けたまま、ゆっくり歩き出した。




どうしよう。







雨のせいだ。

雨が降らなければ、こうはならなかったのに。

雨が降らなければ、このままずっと、友達でいられたのに。





この道と雨が、ずっと続けばよいのに。




一つの傘の下で、ヒロくんの隣を歩きながら、傘を持つヒロくんの手を、私はずっと見つめていた。







おわり














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