鎌風の吹く村

文字数 7,423文字

   鎌風の吹く村
                         鵺 村 静 (ぬえむらせいご)
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          ◇おことわり
             文の途中、文字と文字との間に、半角分の空白があらわれる場合
            があります。これは、作者の意図によるもので、句読点につぐ ゆ
            るい区切りを示します。作者はこれを、「半読点」と呼んでいま
            す。ただし、行末(ぎょうまつ)には使用しません。
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      「鎌風」という言葉は、聞き慣れない人が多いかもしれない。これは、屋外でい
     つの間にか身体の一部に鋭い鎌で切られたような傷を負い、その原因がわからない
     と、昔の人が、これを旋風(つむじかぜ)のような一種の気象現象のせいであると
     して、その風につけた名前である。目に見えない(いたち)の仕業とも考え、
     「カマイタチ」とも呼んだ。

 この話の舞台は、ある山間(やまあい)の集落であるが、その名を明かすことはできない。そこの住民が、それを強く忌避し、拒否しているからである。便宜上、(みずのと)集落とでもしておく。
 二十一世紀に入ってすぐのころ、「限界集落」という言葉が世間を駆けめぐった。この集落もそう呼ばれた。それが全国的な話題となり、一時、大騒ぎになった。当然、集落の者たちの耳にも入ったが、彼らはみな、遠くのかみなりのように受け止めていた。
 実際、騒いでいたのは、マスコミや都会の人間達ばかりであったし、彼等の生活実態には、何の影響も及ぼさなかったからである。ところがその直後から、集落は、たいへんな迷惑を被ることになる。
 いつの間にか、どこの誰ともわからない人間が、集落のあちこちに出没するようになった。カメラをぶら下げている姿が目立った。いかにも、何か珍奇なものを見に来たと言わぬばかりだ。実害もあった。ずかずかと畑に入り込む。畔や水路を踏みつけて壊す。いきなり庭に入ってくる。やたらに建物や人を写真に撮る。ひどいのになると、住民の家の窓を勝手に開ける。
 おおむね共通しているのは、この場所に住む理由をしつこく聞くことだ。住人にとっては大きなお世話であり、迷惑この上もない。そうして、村を去るときには、たいてい取って付けたような、妙に感情を込めた調子で「がんばってください」と言う。答えようがない。
 世間の馬鹿騒ぎによって、集落が動揺したり混乱したりすることはなかった。そもそも世の中は、いつどこでどんなことが起きるかわからない。昭和新山のように新たな名所が出現しないとは限らないし、逆に消滅することだってないとは言えないだろう。そんなことは、いまさら言うまでもないことだ。
 癸集落は、村を構成する五つの集落の中で、最も険しい奥地に位置していた。隣の集落へ、また村役場までも山道で二里半(約十キロ)ほどの距離があった。深い谷を隔てて、対岸に隣県の集落があって、遠目に見下ろすことができたが、交通の方途がなく、交流はなかった。
 戸数七十、住民三百弱、「(かみ)」「(なか)」「(しも)」の三つの小字があり、たがいに二~三十丁(約二~三キロ)ずつ離れていた。小字は、二十~三十戸のまとまりで形成されいた。村役場や小学校、定期開設の診療所など、主だった施設の所在地は、村の、県道に近い別の集落だった。癸集落には、万屋(よろずや)(何でも屋=鵺村註)以外に店というものはなく、ただ、カミタチと名付けられた社が「中」の地区にあった。
 「限界」騒動以外で、癸集落に姿を見せる者といえば、他所(よそ)へ働きに出ていて一時帰宅する者、行商人、移動販売の車ぐらいだった。あとは、依頼に応じて、医者、僧侶、神職が、まれに訪れることがあった。
 癸集落の、自給自足と隔絶の度合いは、他集落に比べて特に際立っていた。同時に、文化的にも他集落と異なる多くの特徴を持っていた。とりわけ、現代文明に対して疎遠であり、古くからの言い伝えや習わしが、様々な形で生き続けていた。
 少し前まで、座産が行われていた。死者は現に、土葬に付される。どの家の玄関にも、和紙に木版で刷った鍾馗(しょうき)の絵があった。直接 壁に貼り、また、板や厚紙に貼って吊り下げたものもあった。言うまでもなく魔除けのためである。
 庭には必ず松と梅と竹が見られた。屋敷林のある家では、その中に必ず二本か三本の花梨が植えてあった。「花梨」は「カリン」であり、「借りん」である。つまり、人から金や米を借りることなく暮らしていけるという、一種の信仰である。語呂合わせと言えばそのとおりだろうが、人々にとっては、そんな暢気なものではなかった。
 たいていの家が老朽化していた。石垣が崩れていたり、屋根が剥がれそうだったり、危険と見える家が随所にあったが、いくつもの禁忌があって、あえて手をつけない家が多かった。
 最も特徴的なのが、この集落では、ある種の魔性のものが人間の正気を狂わせると信じられていたことだ。たとえば(むじな)である。貉と言えば、小泉八雲の「KUWAIDAN」の中の「MUJINA」が有名であるが、若干 ニュアンスが異なる。山の奥へ入って、「若い美しい女」に出合えば、それは貉であるから、決して声をかけてはならない。また、食品の類を見れば、それは貉であるから、絶対に手を触れてはならない。命を落とすことになる、というのである。また、狐は人に憑くと言って恐れられ、「オトウカサマ」と呼んで、小さいながら神社の一隅に祠が奉祀されている。そして、鎌鼬にまつわる話が多く残され、記録したものも存在している。

 江戸時代末期、村の名主のものとおもわれる日記には、次のように記されている。
 「癸集落 字・下 キスケ男 ゴスケ 八月急死すと申し出アリ。為に稲刈り甚くなんじふすといふ。カマエタチの為すところなり」

 ある郷土史家が、村史に載せた一文がある。次の部分が注目される。
 「(前 省略=鵺村)癸集落を檀方とする本村の寺の過去帳に、珍しい記述がある。『(戒名=略=鵺村) 俗名サキチ 行年二十九 使至死所─以者鎌鼬乎』。この漢文表記が正しいかどうかはわからないが、『死に至らしめたる所以は、鎌鼬か』と読むことができ、前例があったことを示している。この一文が過去帳の記事として珍しいのは、亡くなった経緯に言及している点である。(後略=鵺村)」

 「角川俳句大歳時記」(角川学芸出版 2013年刊)という書物は、現に図書館にあるし、書店にも並んでいる。そこに注目すべき記述がある。著者の一人、筑紫磐井(つくしばんせい、千九百五十年生まれ=鵺村註)という俳人が、その本の中でこう記している。

  [冬] 鎌鼬【かまいたち】 [天文]
 ■解説 鎌鼬は(中略=鵺村)鋭利な刃物で切られたような傷を残すところからこの名称が出た(中略=鵺村)。古くは妖怪の仕業とされたが、近代になって気象現象の一つで、真空に近い状態が生じて皮膚が裂けるという解釈が行われているが科学的には怪しい。

(二重括弧=鵺村)が、伝説通りぱっくりした傷が開きながら、血がほとんど出ず痛みもなかった。不思議なことである。(以下略=鵺村)

 実際、癸集落における鎌鼬の被害は、昔から絶えることがなかった。その恐れから、いつのころか住民たちは、自分達の手作業で、社を作った。カミタチ神社がそれである。カミタチとは、「かまいたち」の転訛であろう。神として崇め奉り、(いか)り荒ぶるのを鎮めようとしたものに違いない。
 神社と言っても、その姿は甚だ粗末なもので、掘っ立て小屋を少し大きくしたようなものである。杉皮葺きの屋根、間口三間(約五・五メートル)、奥行き四間(約九メートル)、手斧(ちょうな)のあともそのままの粗造り《あらづくり》で、手と汗とで作り上げた感じが、住民たちの必死の思いを伝えている。内部は、どこかの神社をまねたらしく、奥に向かって手前から、おおむね八畳分、六畳分、三畳分と、三部屋に区切り、三寸(約十センチ=鵺村註)ぐらいずつ、奥の部屋ほど床を高くしてある。拝殿、幣殿、本殿を意識したものと見える。❝本殿❞ は、幅がやや狭くなっている。その中央に祭壇のようなものが設けられている。真鍮の飾りをつけた両開きの扉の中には、高さ三尺ほどの工の字形の木台があって、それへ「鎌鼬大神 御座」と、ひどい金釘流で大書した紙が貼りつけられている。これが御神体代わりなのであろう。御座の御の字の右の(つくり)が、漢字の部首のおおざとのようになっている。祭りの日には、扉が開かれ、賽銭箱はなく、拝殿の前でお参りする際に、眼で直接 拝めるようになっている。かなりの年月が経過しているようで、紙が茶色く変色している。鈴の緒の布も色あせて、うす汚れたようになっている。
 平地が少ないのでやむを得ないことだが、社殿の北側と東側には、隙間のような余地しかなく、特に北側は、建物の二~三間(四~五メートル)先がもう、こわいほどの断崖になっている。のぞき込むと、ごつごつとした岩の急傾斜が足をすくませる。谷底の方から杉の木が何本か、神社の敷地の高さまで追いつきかけている。崖下からは絶えず、顔をしかめずにはいられないほど冷たい風が吹き上げている。そのため集落では、子どもたちが神社の北側へ入ることを、厳しく戒めてきた。大人でも、裏に回るときは、呪文のように「カミタチ、カミタチ」と唱えることになっていた。

 祭りは、冬至の日と決まっている。土地の者によれば、二百年以上前から変わっていない、と言う。長い間、祭りの期日を変えずにきたというのは、近年、稀有の部類であろう。
 冬至は年末だから、その年全体を振り返ることができる。亡くなった者が出た年と、鎌鼬の被害が一度でもあれば、その年の祭りは中止になる。それ以外では、雪、雨、大風の場合にも中止してきた。
 集落にとって、祭りは盆よりも正月よりも重要な日であり、もっとも楽しみな日でもある。だから、住民総出で祝う。
 当日は、まず小字「上」「中」「下」の総代、それに行事と呼ばれる役付きの計六名が、早朝六時、カミタチ神社に寄り合う。まだ薄暗い。そして社殿の内部、小石を敷き詰めた巾三尺(約一メートル)、長さ半丁(約五十メートル)の参道、それに、境内に当たる二反足らず(約五百坪)の庭を、念入りに清掃するのである。庭の草は、住人たちの手で定期的に短く刈られている。
 祭りに必要なものは、前々から徐々に用意されている。社殿中央の部屋の東の壁に沿って、幅一尺(約三十センチ)、長さ一間(約百八十センチ)の、足の短い長台が据えてある。その上に一升瓶が十本、焼き栗、柿、蜜柑、林檎を、それぞれ山盛りにした大笊(おおざる)が五つ供えてある。
 総代たちのお清め作業が終わるころを見計らって、三々五々、人が集まってくる。お(ふだ)をいただくので、たいていは、家を代表する者たちである。そうして、拝殿の前で手を合わせて一礼すると、履き物を紙や袋などにくるんで持ち、頭を低くして中に入る。役付きなどが前の方に座を占め、順に詰めてしゃがむ。窮屈なので、震えながら外で待つ者もいる。毎度のことである。
 いつの間にか、社殿の横の庭はたいへんな騒ぎになっている。この後、神事が行われるが、すでに中にいる者以外の、女と子ども、年寄り、成人前の若者など、神事に直接 関係のない者たちがざわめいている。小集落とはいえ、ほぼ全員が一ところに寄り集まって、和気藹々と騒いでいる様は、ちょっとした壮観である。彼らの一部は、このあと行われる御礼祭りの準備をしているのである。
 十時ごろ。頼まれた神職が、ハイヤーで到着。庭を突っ切って、神社の幣殿に擬した真ん中の部屋に横の扉から入る。各家を代表する善男善女が拝殿の(ゆか)に座ってひしめいているのに向かってしずやかに一礼し、向きを変えて最奥の間へ入ると(うやうや)しく拝礼し、「鎌鼬様」の前に進み、着座する。この神職は、隣の町の神社の社司(神主)である。その神社の祭神は、「木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)」であって、「カミタチ様」とは縁もゆかりもないが、日ごろ自分の神社で行っているのと同じ式法で、一連の神事を執り行う。
 その独特の所作や節まわしに、眠くなりそうな人が出たところで、一連の神事は終了する。神職が、「鎌鼬大神」の飾り扉をゆっくりと閉め、待ちかねている人々の前まで来て御幣を振り、災厄を祓う。用意した神札、総戸数分七十枚余りを、代表に下げ渡して、待たせてあったハイヤーで風のごとく去る。
 受け取った代表は、前列の方から順に、ひとり一枚ずつ、神札を手渡す。いただいた者は、神職が出て行ったのと同じ中の部屋の扉から順に、庭の方へ出る。すべての家におふだが行きわたったことが確認され、総代の一人が、幣殿の入り口から、庭の人々に向けて大声で「ほんじつはめでとうごぜえす」と呼びかける。とともに、御礼祭りがドッという勢いで始まる。
 庭の北の端に、粗末な舞台がしつらえてあるが、寒村のしかも一集落の祭りだけに、大した見ものはない。ただ、手前に(むしろ)が三十枚ほど、きちんと敷き並べてある。本来は、舞台観賞用であるが、年寄りや子ども、決まって現れる酔っぱらいの休憩用でもある。テントなどという洒落たものはない。南側には、草地のへりに沿って、七~八台の長台が並べられている。そのあいだ間に、仮設の(かまど)が三つ据えられ、すでに火が勢いよく燃えている。そのほか、臼、杵などの準備が万端ととのっている。それらの用具、舞台づくりの材料などは、いずれも社殿の奥や軒下に収納してあったものである。
 御礼祭りとは、この年 災難危難に遭うことなく、無事におふだをいただくことができたことを、喜び祝う行事である。餅つきをし、茸汁(きのこじる)を煮て、供えてあった酒、果物を分け合っていただく。ここの茸汁とは、茸をふんだんに使いながら、土地の野菜、煮干し、細く切った昆布、それに米粉の団子を入れ、持ち寄った味噌で煮込んだ、水団(すいとん)のようなものである。これは、好きなだけふるまわれる。
 舞台には旧式ながら音響設備がある。歌が出る。踊りが出る。若い者がドタバタの掛け合いをやって、みんなを笑わせる。みな、この日のために、ひそかにネタを準備しておくのである。ついには、何人か、自らの家庭内の出来事を、卑猥な部分も含めて、スピーカーから流す者まで現れる。それら一つひとつが、集落の者にとって、年に一度のこの上ない楽しみなのである。

 集落にとって当たり前の数年が過ぎ、二千二十二年に入ると、癸集落に、また外部の人間たちがちらほらと姿を見せるようになった。この現象は、他の地方の名もない村々でも見られるようになったが、「限界」騒ぎのときと違って、理由がはっきりしない。
 一説に、かつて名所と呼ばれ、リゾートと騒がれ、定番観光地ともてはやされた所が、のきなみ、ひと頃の勢いを失っていることと関係があるのではないか、という見方がある。
 また、いたるところで、町おこし、村おこしなどと称して、奇抜なアイディアや、不自然なイベントをぶち上げることが盛んにおこなわれた。それぞれの土地自体、人自体が観光の原点であることを忘れたかのようであった。一般の人々が、そうした戦略意識丸出し、企図するところむき出しの人寄せ太鼓に飽き飽きして、反動的に名もない町や村のありのままの姿に接することの面白さに気付くようになった、という見方もある。あながち見当外れとは言えないかもしれない。
 癸集落の場合、「鎌鼬」などという得体の知れないものが、今なお命脈を保っていることを、テレビ局などが面白半分に取り上げたことがあったので、半信半疑ながら訪れたという人が多かったかもしれない。
 その年の冬、癸集落は、穏やかな冬至を迎えようとしていた。祭りを翌日に控えた午後、十五歳から三十九歳までの、二十数名の男どもは、社殿の中と外で翌日の準備、点検などをおこなっていた。
 そのさなか、村道に面した鳥居の前に、一台の大型バスが止まった。そうしてバスの中から、つぎつぎといかにも旅行者といった派手な姿の人々が降り立った。準備中の男どもは、「こんな時季に、なんだおか?」と思いながら、作業を続けていた。
 バスを降りた人たちは、まず空を仰ぎ、ほとんど例外なく歓声を上げた。次に大きく伸びをし、深呼吸のような動作をした。それから高い声、よく回る口で互いにしゃべり、さかんに写真を撮った。
 そのうちに、いくつかのまとまりをつくって、思い思いの方向に散っていった。だが、この辺りに彼等や彼女らの目を楽しませるものなどあろうはずもない。結局、集落の男どもが立ち働いている神社の庭に、ほとんどの人が集まってくる結果となった。そうして、そばまで来ては、あれこれと話しかけた。多くの人が、「カマイタチ」について尋ねた。だが、作業を続けたい男どもとしては、なるべく話が長引かないような受け答えをしていた。
 突然、神社の裏手の方から、複数の人の、悲鳴とも叫びともつかない声がした。同時に男一人と、女二人が、顔を押さえながら、神社の裏手から逃げるように走り出てきた。いずれも、顔のどこかに傷を負ったらしく、押さえた手から血が滴っていた。
 男どもは、直ぐに鎌鼬だと察したが、彼らにできることといえば、神社の石段に座らせて落ち着かせ、気持ちを静めてやることだけだ。
 バスの添乗員が有能で、ガイドの女性とともに適切な処置を施した。負傷した三人は、顔を包帯で巻かれ、痛々しくも仰々しい姿になった。急いで三人とほかの全員を乗せると、バスは逃げるようにして出発していったが、その後のことは分からない。
 ただ、慣例により、この年の祭りは中止となるので、男どもは、せっかく持ち出した用具やら材木やらを、無言で片付け始めた。食べ物は、適当に分けるほかない。
 この出来事は、後日、「鎌風の吹く村」として、テレビやネット上で、大々的に報じられたので、癸集落が今後どのような影響を受けるのか、甚だ懸念されるところである。(完)
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