第1話

文字数 2,656文字

親愛なるきみへ

突然の手紙ですまない。緊急事態だ。すまないが、この手紙は必ずきみ一人で読んでほしい。そして、コーヒーなど淹れず、今すぐに読んでほしい。予報では今日の昼から降水確率70%になっているが、雨が降ってきても洗濯物を取り込みにいったりしないでくれ。とにかく、一刻も早くこの手紙を最後まで読んでくれ。頼む。これはぼくからきみへの最後のお願いだ。

早速本題に入る。明日、2019年4月3日、14時25分東京羽田発アメリカ合衆国ワシントンdc行き、大日本航空317便は墜落する。これは予測ではない。事実だ。確実にそうなる。生存者はゼロだ。この便の乗客リストには僕の名前がある。つまり、ぼくも死ぬ。

墜落場所ははっきりとは言えないが、海の上ではない。アメリカ大陸のどこかになるだろう。したがって墜落時間も正確ではないが、おそらく現地到着時刻近くにはなると思う。現地時間で2019年4月3日14時15分にワシントン空港に着く予定の飛行機だから、日本時間では4月4日3時15分頃になるだろう。もう24時間を切っている。

ぼくは、この事故に関してきみに何かをしてほしくて手紙を書いているわけではない。第一それは不可能だ。今の時刻は2019年4月3日14時25分をすぎている。もうこの飛行機は離陸してしまっている。空の上だ。もう誰も手出しできない。第二に、ぼくはきみにそんなことをしてほしいと望んでいるわけではない。ただ、心配はしなくていい。この飛行機がきみやきみの愛するひとたちの上に落ちたり、原子炉の上に落ちて地球が崩壊するわけではない。

ではなぜきみにこんな手紙を書いているのかというと、ぼくの名前が317便の乗客リストにあることで、きみに何か危害が及ぶ可能性が微塵もないとは言い切れないからだ。昨今のメディアの被害者家族への過度な追求をきみも知っているだろう。きみはまだ家族ではないが、恋人であるのだから可能性はある。もしかしたら、日本の愚鈍な警察がぼくたちの家に来るかもしれない。そういう蛆虫みたいなやつらからきみあを守るために、ぼくはこの手紙を書いている。今からここに、この手紙を読んだあときみが何をすればいいかを記す。よく読んでくれ。3回はよみ、声に出して覚えてくれ。そして、読んだあとは燃やせ。跡形もなく。

まず、すぐに荷造りをしろ。最低限必要なものを小さいキャリーケースに詰めろ。機内持込サイズの黒いキャリーがあるだろう。あれだ。きみがよく旅行につかっている赤い大きい方は駄目だ。あれはいい色できみによく似合っているが、何より目立つし、チェックインしなきゃいけないサイズにすると後々不都合になる。手持ちバッグも同様に、目立たない地味な色にすること。派手な柄ものやブランドものは駄目だ。たとえばきみが会社に行くときにつかっている黒いナイロンのやつなんかがいいだろう。持ち物は、メイク道具、サングラス、キャップ、マスク、ストール、眼鏡、それから、パスポート。それ以外は任せる。何度も言うようだが小物や服は必ず印象に残らないようなデザインや色にするように。

用意ができたらすぐに家を出て、成田空港へ向かってくれ。そして4月3日17時20分成田発、アールエアーのモスクワ行きに乗ってくれ。フライトチケットは同封してある。チェックインする必要はない。出国の際は必ず自動ゲートを通り、出国スタンプはもらわないようにする。入国審査官の記憶になるべく残りたくないからね。常にキャップを目深に被り、眼鏡をかけていてくれ。ただし、くれぐれも怪しくない程度に。ゲートを通る時や飛行機の上では、最低限の応答だけすればいい。キャビンアテンダントはきっと、きみの席に座っていた人物がどんなふうだったか聞かれても、曖昧な答えしかできないだろう。もちろん、隣の席の人とも必要以上に話しをしてほしくない。常にマスクをして寝ていれば問題ないはずだ。
モスクワに着いたら、その一時間後に離陸するホッフェンハイム航空のミュンヘン行きに乗り換えてくれ。この時既にぼくの乗った317便は墜落しているかもしれないが、まだ捜査ができる段階じゃない。きみを取り乱させたくはないから、ニュースは見ないでくれ。
ただし、万が一ここで乗り継ぎに失敗した場合ーーー。心配はいらない。知ってるか?モスクワからリスボンまで、ヨーロッパの東のはずれから西の端っこには列車だけでいけるんだよ。それもなかなか楽しい旅になるだろうね。何日かかるかと心配しているだろうが、しかし、その必要はないよ。リスボンまで行けっていうわけじゃないんだ。すこし南の陽気なところ、ではあるけど。
さて、無事に乗り継いでミュンヘンに入れたら、入国審査では一週間旅行してから日本に帰る予定だと言えばいい。帰りの航空券を見せろと言われることはまずないだろうから問題ない。市内まで行ったら、列車のチケットを券売機で買え。国境を超えてイタリアに入ってくれ。陸路で入ればパスポートのチェックはない。ローマまで行き、テルミニ駅で降りてくれ。

駅を出たらコロッセオの方へ向かって歩いていくと、その前に大きな公園がある。その手前にタクシーが止まっているはずだから、その人にきみの下の名前をいう。そうしたらその人が目的地まで連れていってくれる。

不安になっているかい?心配いらないよ。いままで僕がきみを不幸にさせたことがあったかい?

イタリアを選んだのは、きみがいつか行ってみたいと言っていたからだ。まさか住むことになるとは思っていなかっただろうけど。

新しいパスポートの準備はできているよ。もし、気に入らなかったら、数年後には戻れるようにもしてある。きみ次第だ。でも、僕のいない日本にきみは何か未練があるかい?

さて、そろそろお別れの時間だ。時計をみてごらん。きみのフライトは17時20分。もう3時間弱しかないんだよ。すぐに準備をして出る必要がある。フライトチケットは同封してある。

あまり感傷的なことをいうときみがこの手紙を燃やせなくなりそうだからいいたくないのだけど、最後にひとつだけいわせてほしい。

きみが眠っているあいだ、ぼくはきみに最後のキスをした。これが最後だとわかっていてするキスはとてつもなく幸福で満ち足りていたよ。ぼくだけが味わってしまってすまない。じゃあ、さよなら。きみがいつまでも幸せに、僕のいない残りの人生を生きてくれることを祈っている。

きみの恋人より
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