温めてあげる

文字数 861文字

私は生まれてすぐ、コウジという主人に育てられた。

だから、両親の顔なんて知らないんだ。

大人になった私は、大手スーパーで働くことになった。

私はお客様から評価され、このスーパーの人気モノになった。

ある日、ケンジという青年にその人気ぶりを認められ、お手伝いさんとして働くことになった。

そして、彼の自宅にある『蔵』で暮らすことになったのだ。

でもそれは、私の命が少しずつ削られていくことだと、わかっていた。

彼は、決して私にヒドい扱いはしなかった。料理好きで、優しい人だった。

私は、彼が必要なときだけ、蔵から連れ出されて、食事の手伝いをすることになっている。

こんな地味な私でも必要としてくれて、私の料理を「おいしい!」って言ってくれる。それだけで私は幸せだった。

だから私も、彼が会社から疲れて帰ってきたとき、自慢の料理で温めてあげたいと思っている。

時折見せる、少年のような笑顔が好きだった。

そんな彼に恋人ができた。

だからといって、彼を独占する権利は私にはない。
私は、ただのお手伝いさんなんだ。
傍で見守っているだけの存在なんだ……。

彼女は私のことを嫌いみたい。
蔵が臭うから、嫌なんだって。
こっちだって好かれようなんて思ってないわよ! 料理もできないくせに。
あんな冷たい女より、私のほうが、ずーっとあったかいんだから。


ある寒い冬、蔵の向こうから、泣き声が聞こえてきた。彼は泣いている。
あの女の名前を叫んで。

どうやら、失恋したみたい。

大丈夫。早くここから私を連れ出して、抱きしめて温めてあげるから、私の体温で……。

彼の悲しみは、私の温もりで少しずつ溶けていった。私と料理をすることで、少しずつ笑顔が戻ってきた。

今朝も、彼は私を冷蔵庫から取り出して、私の命を削っていく。グツグツ煮えた熱湯のなかに私は溶かされていくんだ。

鰹だしと昆布の風味が、食卓に漂い、彼は笑顔になる。

彼は私を調理して、美味しい味噌汁にしてくれるんだ。

私は地味な『味噌』でしかないけれど、彼の身も心も温めて笑顔にしてあげたい。私の存在が彼のなかに、すべて溶けてしまうまで……。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み