第1話

文字数 1,148文字

「暑い・・・」
ボクはジャングルを彷徨う逃走兵のように駅へと向かう。喉はカラカラだ。
「帰りますっ」
そう叫んで会社を出たのは十分ほど前の話。気持ち良く仕事が終わったわけではない。絡み合った状況に出口が見えず、同僚の顔を見る我慢すらできなくなっていた。そして、積み上がった仕事を放ったらかして帰路についた。
「こんな日は経路を変えて気分転換」
その考えはボクをさらに苦しめた。普段通ることのない線路沿いの道を歩き、一つ離れた駅を目指す。遠い。日差しに熱せられたアスファルトはボクから水分を奪っていった。
『立ち食い焼き鳥 かっちゃん』
横断歩道の先に神登場。
『お疲れ様セット有ります。串よりどり五本とワンドリンクで980円』
目の前の信号が青に変わると自然とそこに吸い込まれた。
「お疲れ様セット、ドリンクは生で」
暖簾をくぐった瞬間に声を出す。しかしすぐに口を閉じた。
(これは違う・・・)
目の前の光景はボクが知っている焼き鳥屋では無かった。
煙立ちこむカウンターの奥から大将の「いらっしゃい」が聞こえる、そんな姿はそこには無い。
カウンターにはお一人様が立ち並び、黙々と串を食べている。静寂だ。
ボクは案内されることもなくカウンター端に陣取った。
カウンターには一人一台タブレット。画面の「いらっしゃいませ」が機械的に迎えてくれる。
「とりあえずビールを・・・」と単純にはいかないようだ。
この煩わしい電子機器が店と繋がる唯一の手段。仕方なくタブレットと無言の会話を始めてみる。
「何名様ですか?」
(一人ですよ)
「お荷物はありますか?」
(小さいのが一つ)
「荷物はタウンター下のフックに掛けてください」
(もう気付いて掛けてます)
「ご注文は?」
(お疲れ様セット)
「飲み物は何になさいますか?」
(ビールっ)
「銘柄は?」
(何でも良いけどドライで!)
「大、中、小、サイズは何になさいますか?」
(とりあえず中かな)
「瓶にします? それともジョッキ?」
(・・・ジョッキ)
「泡は多め? 少なめ?」
(・・・・・少なめで)
「プラス五十円で当店自慢のマイスターが注がせていただきますがいかがなさいますか?」
(・・・・・・・どうでもいいけど五十円ならマイスターかな?)
なかなか辿り着かない状況に私の喉は限界を迎える。
「マイスターを指名されますか?」
(初めて来たんだから指名なんかないよ!! そんなんじゃ無いんだ!!!)
心の声がそう叫ぶと指が勝手にキャンセルボタンを押していた。沸点を超えたのだ。
もう一度始めからタブレット会話をスタートさせる気力はない。
黙って店を出たボクは隣のコンビニに入った。店員の「いらっしゃいませ」が懐かしい。
「冷たいっ」
ようやくたどり着いた氷のようなビール缶がボクを一気に笑顔にしてくれる。
「単純な話なんだ」
ボクはそう確信した。
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