第1話

文字数 4,251文字

 すべてリセットされればいい――
 何度そう思ったことか。が、現実はそう甘くはない。年が変わっても、現実はいつだって地続きだ。毎年同じ後悔をしながら年末を迎え、新年を前にすると「来年の目標」を立てる。これがいつものルーティーン。そして、それは一度として完遂されたことがない。
日進月歩どころか旧態依然、いや、完全に後退しているようにしか思えない。
順風満帆な人生など稀だ。中には何かがガッチリと嵌って上手く行く者もいるが、そんなのはひと握りで、その成功者の足許には敗北者という無数の屍が転がっている。
しかし、わたしがこうも人生に絶望している理由は何なのだろう。正直自分でもわからない。漠然とした不安。今年は、世間は元号も変わって激動の一年だったが、わたしの人生には一片の変化もなく、仕事納めをすると、途端にやることがなくなってしまった。
家でのんびりとテレビを眺めてみるも、面白くはない。
映画を借りて観ても、気づけば目はスマホの画面を見つめている。
ベッドに寝転がりながら本を読んでも、身体が疼き、結局はページが進まない。
ゲームを起動しようとするも、そもそも起動するのが面倒で、コントローラーを操作するのさえ億劫になり、結局すぐに電源を落してしまう。
2Kの自室はまるで独房のよう。肉体だけでなく、精神までもが幽閉されているように感じられる。だからこそ、わたしは部屋を飛び出すしかなかった。が、街は見渡すところ、幸せそうな家族連れや、カップルだらけ。中にはひとりで歩いている人もいるにはいるが、その淀んだ目付きと表情と雰囲気はまるで今の自分を象徴しているようで、思わず目を叛けたくなる。が、目を叛ければ、目に留まるのは幸せそうな笑顔だけ。
どうにも満たされない。これなら、仕事をしているほうがずっとマシだ。いつもは出勤前になると仕事なんかしたくないと思うが、仕事の忙しさが、普段の退屈さを忘れさせてくれるいい鎮痛剤になっていたのだとこういう時にこそ痛感する。会社の下らない忘年会にはウンザリだったが、人の声が聞こえる分、まだ良かったのかもしれない。
だって今の自分は完全にひとりなのだから。
別に人に嫌われているわけではない。恋人はもう何年もいないが、友達はいるし、実家には家族もいる。が、実家には帰れない。と言うのも、両親との仲が良くないからだ。地元の友人とも顔を合わせる機会は殆どなく、たまに都内で飲み会をやっているが、予定が合わず、今年はとうとう一度も参加できなかった。
 わたしは真空。
満たされない心の隙間。
 悲しみがしとしととわたしのマインドを濡らしていく。浸していく。
大晦日――また、わたしは用もないのに街を彷徨っている。ひとり、孤独のまま。
寒風が濡れた目を赤く腫れ上がらせる。そして、わたしは自分自身に問うのだ。
この世界には、わたしの居場所なんかないんじゃないか。
そうやって次々と浮かんでくるネガティブな思いに頭も身体も冒されていく。
どこか遠くへ行きたい。そう思い始めたのが始まりだった。わたしは歩いて駅まで向かい、適当な路線の適当な電車に飛び乗った。電車の中は淀んだ空気と澄んだ空気が混在していた。こんな日まで仕事だったのだろうか、スーツ姿のくたびれた中年の男性もいれば、これからの人生に希望を持って生きているような若い男女もいる。
わたしはイヤホンをつけ、スマホで音楽を流して目を瞑ると自分と外界を遮絶した。歪んだギターとベース、力強いドラムが特徴的なヘヴィメタルのサウンドは年の瀬の終末感や新年にはふさわしくないが、自分の怒りと絶望を吐き出すようなガラッとした歌声と、ゆりかごのように揺れる電車は、わたしの精神をどこか落ち着かせてくれた。
行く当てなど、ない。ただ、どこでもいい。自分という存在を忘れさせてくれるどこかへ行きたい。そう思い、ただシートにもたれて座っていた。
何度停車し、何度走り出したかわからない。山手線のような回廊列車ではないから、今、自分がどこにいるのかもわからない。ただ、終点を目差せばいい。そこから先どうするかは、この後の自分の判断に任せよう。わたしはまるで川の流れにされるがままになったオフェーリアのよう。そう、わたしはもう、流されるだけでいい。
電車が停まり、唐突に肩を叩かれて目を開けた。どうやら少し眠ってしまったらしい。目を開けると、クリーム色のダウンを着た中年の女性がわたしの顔を覗き込んでいた。イヤホンを取るとひとこと、終点ですよ。わたしは礼を言って電車を下りた。
さて、どうしよう。聞き慣れない駅名にまばらな人影。恐らくそんな名のある場所ではないのだろう。しかし、こうなったら、とことん知らない場所まで行ってやろう。
まるで芥川の『トロッコ』のようだ。が、わたしはあの小説の少年のように幼くはない。財布にはひと握りの円もあればカードもあるし、知らない場所に舞い降りても飛び込みでホテルに入ることもできれば、コンビニや飲食店、ネットカフェで時間を潰せもする。
そう。今の自分に、怖いものなど何もない。賽は投げられた。
わたしは未知の世界への入り口を潜り、見知らぬ駅のホームへと足を踏み入れた。
ホームをまたぎ、更に別の路線の電車に乗った。再度、電車に揺られながら目を瞑る。
次はどのような光景がわたしを待っているのだろう。暗闇の中で夢想すると、これまで忘れていたドキドキが蘇えってくるようだった。
子供の頃の記憶――母に連れられて電車に乗って隣町まで買い物に行った淡い記憶。当時のわたしには、水晶体に映るすべての光景が美しく新鮮で、車窓を流れていく畑や電線、モノクロの車道ですら彩りを持っていたように感じられた。それらすべてを目に焼き付けようと当時はまだ硬かった電車のシートに乗り上げ、母に酷く怒られたのも覚えている。
懐かしい。遠い過去の記憶の中では、母はいつだって笑顔だった。どんなに怒られようと、頭の中に浮かぶのは、ひまわりのように明るい笑顔を浮かべた母の姿。
父もそうだ。厳しい人ではあったけど、幼い時に見た、ふと見せる優しさと笑顔ばかりが、わたしの記憶にはクローズアップされている。
しかし、どうしてこうなってしまったのだろう。
目蓋の裏で、涙が洪水を起こし掛けていた。このままでは車内で涙を零す恥ずかしい大人になってしまうと思い、わたしは、次の駅で降車した。
知らない駅。駅のぽつんとした明かりを除けば、目の前に広がるのは暗闇だけだった。
改札を潜った。自動改札であることすら驚きの古ぼけた景色。未だに木造の駅構内からは、長年の雨風に耐えた威厳と風格が漂っている。
駅から出ると、街灯も疎らで暗闇に殆ど飲み込まれた古びた町が薄っすらと姿を現した。
時間は二三時ちょっと前。こんな時間にもなると電車の量も少なくなるだろう。そうでなくても、こんな田舎町だ。もしかしたら、今の電車が最終かもしれない。でも関係ない。わたしは、スマホを取り出した。が、すぐにしまった。ナヴィゲーションなんていらない。今はただ、自分の足で歩いて、町を散策したい。唐突にそう思いわたしは歩き出した。
灯りのまばらな町ということもあってか、となり合う建物の間隔は随分と広く、車も全然走っていなかった。が、通り過ぎる建物からは木漏れ日のような微かな灯りと温かい家族団欒の声が漏れ出している。わたしはそれらを温かい目で見つめながら、何かを求めるように静寂漂うメインストリートへ向かって歩いた。
歩くにつれ少しずつ建物が密集し始め、気づけば古びた商店街のような場所に辿り着くが、どこもシャッターは閉まっている。開いている店もあるにはあるが、名前も聞いたことのないようなコンビニもあと三〇分もしないうちに閉店するらしい。
何とも田舎的というか。が、都会を離れて味わうこの冒険感が堪らなく楽しかった。不安な気持ちと好奇心が同居するこのドキドキ感。まるで、子供の頃に戻ったようだ。
この街を見ていると自分の田舎を思い出す。この町ほど田舎ではないし、栄えてもいなかったが、楽しかった幼少時代のそんな光景が、不意に頭をよぎるのだ。
そうやって物思いにふけていると、まるで山火事でも起きているのではないかと思えてならないような煌びやかな灯りが山の一部を煌々と照らしているのに気づいた。
何をやっているのだろう。
わたしは吸い寄せられるようにそちらへ向かった。山火事のような灯りに近づいて行くにつれ、賑やかな声が聞こえてきた。更にゆくと、その場の全様が明らかになった。
神社。
そうか。みな、除夜の鐘を聴いて年を越し、新しい一年を迎えるのだな。時間は二三時五五分。あと五分で新年だ。わたしは白い息を吐きながら神社まで走り、境内へと続く長い階段を早歩きで上った。境内に着くとわたしは肩で息をしながら呼吸を整えた。
突然、ゴーンという轟音が内耳に響き渡った。
零時ちょうど。声が上がった。新年を無事迎えられたことへの喜びの咆哮か、若者は声を上げ、壮年から老年の男女は感慨深そうにしている。そんな中、幼少の子供たちだけが、無邪気に走り回っている。まるで、年が変わったとか関係ないとでも言わんばかりに。
正月――新しい一年が始まったのだ。
気づけば、わたしの中で燻ぶっていた負の感情は消え去っていた。理由はわからない。ただ、都会で疲れ切った精神が不思議と浄化されたようだった。
 来てよかった。心からそう思えた。
 確かに、今のわたしの手持ちのカードはブタもいいところだろう。が、人生など、どうにでもなる。どうにでもなるのだ。心配ない。どうにでもなるさ。
鐘の音が、わたしの心拍にシンクロするように鳴り響く。まるで、それは命の鼓動のようだった。星の散りばめられた夜空は、ステンドグラスのように美しかった。
 たまには、人生にウンザリするのもいいかもしれない。
 帰ろう――今日から正月だ。
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登場人物紹介

平成のファーストジェネレーションです。


わたしは某県の片田舎で生まれ、育ちました。が、大学卒業後、就職に失敗し、それが原因で両親との仲は悪いです。


友達は、多くありませんが、いないわけではないです。


頭は悪くはないと思います。


趣味……音楽を聴くことですかね。


気は弱いです。


ふつつか者ですがよろしくお願い致します。

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