第1話
文字数 1,552文字
圭次は乱れた布団の上に仰向けに寝転がり、白い息を吐いた。額にかいた汗を手の甲で拭い、横でぐったりしているお園を見た。やはり息を荒くし、虚ろな目で水茶屋の天井を見つめている。まだ法悦の中にいるようだった。圭次は気怠い体を起こし、お園の頬をぺちぺちと張った。
「おい、起きろ」
「まだいいじゃないか」お園は甘えた声を出した。
「そんな暇ねえよ。町方に踏み込まれたら色消しもいいとこだ」
前からこの水茶屋は逢い引きに利用していた。嗅ぎつけられるのも時間の問題だろう。
「その割りには随分念入りだったじゃないか」お園は圭次の背中にもたれ掛かる。
「さぞ、タチの悪い女に引っかかったと思ってんだろうね」明るい口調の中に、顔色を窺うような後ろめたさが混じっている。
「そんなことはねえよ」
そうは言ったが悔いる気持ちは確かにあった。主人の囲い者に手を出さなければ、あの時、掛け取りの帰り道でお園と出会わなければ、誘われた妾宅でお園の肩を抱かなければ、今も近江屋の手代として堅実に働いていただろう。ゆくゆくは暖簾分けしてもらい、米屋の主人として財をなすのが夢だった。だが、それも過ぎた話だ。
「今頃店は大騒ぎだろうね」お園がぽつりとこぼす。
圭次の瞼の裏に、肥えた老犬のような近江屋の顔が浮かんだ。
ちょうど今のようにお園と懇ろになっていたところに踏み込んで来ると、血相を変えて喚き立てながら圭次の首を絞めてきた。行為の後で力が出ないということもあったが、三十年以上、米俵を担いで鍛えた近江屋の両腕は熊のように太く、ろくな抵抗も出来ないまま圭次の意識は遠のいていった。
これも因果か、と半ば観念した時、近江屋が悲鳴を上げて仰け反り、布団の上を転がった。咳き込む圭次の目に、お園が血みどろの匕首を握りしめているのが見えた。圭次はお園の返り血を洗い流させると長屋に戻り、ありったけの金を掴んだ。様子見に店に戻った時には既に同心や町役人が何人も出張っていた。
「俺たちは一蓮托生だ。何処までもな。それより、お前こそいいのか?」
手持ちの銭は五両と三朱と八十七文。足りるかどうかは自信はないが、これでいくしかない。
「もういいよ。覚悟は出来てる。江戸の町にも名残はないね。それにもう嗅ぎつけたみたいだしね」
お園が窓の外に目を向けながら言った。圭次も覗き見ると眼光の鋭い、痩せた男が水茶屋の正面を見張っていた。
圭次の胸に緊張が走った。猶予はない。
「馬鹿だねえ。こっちの方はがら空きじゃないか」
お園は反対側の窓に身を乗り出すと口の端を緩ませる。窓の下は大川が流れている。河面に冷たい風に細かく波立ち、巨大な蛇の鱗のように見えた。
「この冬に飛び込む酔狂はいねえと思ってるんだろうよ。ここは二階だしな」
「帯があるじゃないか。あたしとアンタのを繋げば立派な縄になるよ。そこから川沿いにちょいと泳げば小舟の一つや二つ転がってるよ。気が利かない連中だねえ」
その気になればいつだって抜け出せるんだよ。お園の声は隠れん坊を楽しむ子供のように得意げだった。
圭次は左手でお園を抱き寄せ、右手で風呂敷包みを引き寄せた。お園は淋しげな笑みを浮かべた。
「じゃ、お先に」お園は笑顔で言った。
圭次は風呂敷から取り出した匕首を逆手に持ち、背中越しにお園の心臓を刺した。かすかに呻いてお園は死んだ。圭次はお園の死体を布団の上に寝かせると枕元に有り金全て置いた。畳代の足しにしてもらうつもりだった。そして踏み台に登るとお園の帯を鴨居に通し、圭次の髷の辺りの高さで輪を作った。首を通し、目を閉じると勢いよく踏み台を蹴った。
岡っ引きを連れた同心が座敷に踏み込んだ時、宙づりになった黒い影が左右に揺れていた。帯のかかった鴨居が軋みを上げ、鼠の鳴き声のような音を立てていた。
「おい、起きろ」
「まだいいじゃないか」お園は甘えた声を出した。
「そんな暇ねえよ。町方に踏み込まれたら色消しもいいとこだ」
前からこの水茶屋は逢い引きに利用していた。嗅ぎつけられるのも時間の問題だろう。
「その割りには随分念入りだったじゃないか」お園は圭次の背中にもたれ掛かる。
「さぞ、タチの悪い女に引っかかったと思ってんだろうね」明るい口調の中に、顔色を窺うような後ろめたさが混じっている。
「そんなことはねえよ」
そうは言ったが悔いる気持ちは確かにあった。主人の囲い者に手を出さなければ、あの時、掛け取りの帰り道でお園と出会わなければ、誘われた妾宅でお園の肩を抱かなければ、今も近江屋の手代として堅実に働いていただろう。ゆくゆくは暖簾分けしてもらい、米屋の主人として財をなすのが夢だった。だが、それも過ぎた話だ。
「今頃店は大騒ぎだろうね」お園がぽつりとこぼす。
圭次の瞼の裏に、肥えた老犬のような近江屋の顔が浮かんだ。
ちょうど今のようにお園と懇ろになっていたところに踏み込んで来ると、血相を変えて喚き立てながら圭次の首を絞めてきた。行為の後で力が出ないということもあったが、三十年以上、米俵を担いで鍛えた近江屋の両腕は熊のように太く、ろくな抵抗も出来ないまま圭次の意識は遠のいていった。
これも因果か、と半ば観念した時、近江屋が悲鳴を上げて仰け反り、布団の上を転がった。咳き込む圭次の目に、お園が血みどろの匕首を握りしめているのが見えた。圭次はお園の返り血を洗い流させると長屋に戻り、ありったけの金を掴んだ。様子見に店に戻った時には既に同心や町役人が何人も出張っていた。
「俺たちは一蓮托生だ。何処までもな。それより、お前こそいいのか?」
手持ちの銭は五両と三朱と八十七文。足りるかどうかは自信はないが、これでいくしかない。
「もういいよ。覚悟は出来てる。江戸の町にも名残はないね。それにもう嗅ぎつけたみたいだしね」
お園が窓の外に目を向けながら言った。圭次も覗き見ると眼光の鋭い、痩せた男が水茶屋の正面を見張っていた。
圭次の胸に緊張が走った。猶予はない。
「馬鹿だねえ。こっちの方はがら空きじゃないか」
お園は反対側の窓に身を乗り出すと口の端を緩ませる。窓の下は大川が流れている。河面に冷たい風に細かく波立ち、巨大な蛇の鱗のように見えた。
「この冬に飛び込む酔狂はいねえと思ってるんだろうよ。ここは二階だしな」
「帯があるじゃないか。あたしとアンタのを繋げば立派な縄になるよ。そこから川沿いにちょいと泳げば小舟の一つや二つ転がってるよ。気が利かない連中だねえ」
その気になればいつだって抜け出せるんだよ。お園の声は隠れん坊を楽しむ子供のように得意げだった。
圭次は左手でお園を抱き寄せ、右手で風呂敷包みを引き寄せた。お園は淋しげな笑みを浮かべた。
「じゃ、お先に」お園は笑顔で言った。
圭次は風呂敷から取り出した匕首を逆手に持ち、背中越しにお園の心臓を刺した。かすかに呻いてお園は死んだ。圭次はお園の死体を布団の上に寝かせると枕元に有り金全て置いた。畳代の足しにしてもらうつもりだった。そして踏み台に登るとお園の帯を鴨居に通し、圭次の髷の辺りの高さで輪を作った。首を通し、目を閉じると勢いよく踏み台を蹴った。
岡っ引きを連れた同心が座敷に踏み込んだ時、宙づりになった黒い影が左右に揺れていた。帯のかかった鴨居が軋みを上げ、鼠の鳴き声のような音を立てていた。