第1話

文字数 2,100文字

『咲へ、
これで、最後になると思うとちょっと寂しい。
生まれ変わった時、どこかでまた会おう。』

その手紙はこんな風に始まっていた。

「冗談じゃない。」咲は思った。
生まれ変わって再びカルロスに出会うのは、ごめんだった。

遊び歩いて、呑んだくれて、始末に負えない男だった。

出会いは、咲がホテルの従業員に日本語を教えていた時のこと。
咲は35歳、カルロスは21歳だった。
カンクンの白い砂とエメラルドグリーンの海が二人の運命を決めた。

カルロスは手洗いで、洗濯板を使うこと、トルティーヤの焼き方を教えてくれた。
日本ではあまり役に立たないことばかりだ。
メキシコに慣れていない咲にとって、ある時期は頼れる相手だったに違いない。

カルロスの両親は、誠実で良い人たちだった。
それが分かったのは、子宮外妊娠で咲が流産した時だ。
遠い街から家族揃って来てくれた。

お母さんは毎日チキンスープを作ってくれた。
彼女は隣村で、水しかもらえずに痩せ細って、死にそうだった赤ちゃんを養女にして育てていた。
カルロスは兄と弟の3人兄弟だったので、女の子が欲しかったのもあったかもしれない。

咲とカルロスは、この流産の後、カンクンを後にし、メキシコの北部、エンセナダに居を移した。
カルロスは、エンセナダに行けば、すぐに仕事が見つかるだろうと、高をくくっていた。
咲の方が先に(ダジャレではない)仕事についた。リーマンショックによって、メキシコ観光が影響を受け、ホテルで働こうとしていたカルロスは苦戦した。

二人は結婚をしていたが、生活費を出してもらっても感謝しないカルロスに、咲も愛情を持ち続けることが難しくなっていた。メキシコのことわざにあるように、『入り口からお金が入ってこないと、愛は窓から逃げていく』のだった。

咲が大学の語学学校で日本語を教えていた時は、配偶者は無料で大学に行くことができたので、カルロスに大学に行かないか、進めてみた。残念なことに、エンセナダには彼の望む旅行業関連の授業がなかったので、うまくいかなかった。咲は何か他のことを勉強すればいいのにと思ったが。

咲は、日系企業で仕事が決まったが、それはエンセナダから2時間のティファナにあった。
ちょうど同じ時期に離婚してティファナで就職した女生徒がいたので、二人でアパートを借りることになった。知り合いのご夫妻が使っていないアパートを貸してくれると言ったので、飛びついた。

週末には、時々エンセナダに帰った。
ある時、エンセナダに帰ると、カルロスがマッサージの女性と浮気をしている現場に入ってしまった。悲しかったのは、自分が渡したお金がこのように使われていたからで、カルロスに嫉妬するような気持ちはなかった。

ティファナの街は、ドラッグ犯罪や治安の悪いことで有名だが、ティファナに姉夫婦が居て、土地勘のあるルームメイトに助けてもらって、なんとか犯罪や事件には巻き込まれず過ごせていた。アメリカには咲の妹もメキシコ系アメリカ人の夫と住んでいたので、たまには妹に会いに行ったりもできたので、生活は全般に快適に変化していた。

カルロスには、中古の赤いホンダの車を買ってあげたのだが、ある日カルロスはその車で事故を起こした。眠いのに、運転して、友人をティファナの空港に迎えに行く途中、カーブを曲がり損ねて、池に落ちたとのことだった。必死に車の窓から這い出て、命は助かったが、車は死んだ。

咲は、先が見えないこの結婚に嫌気がさして、カルロスも同意したので離婚の手続きを進めていたところ、カルロスが刑務所に入ったとの知らせが入ってきた。運が良いのか悪いのか、離婚調停をしてくれていた弁護士(ルームメイトの元夫だった)が同行してくれ、刑務所に行って、保釈金を払ってカルロスを引き取ってきた。カルロスは詳細について話したがらなかったので、今もはっきりとした理由は分からない。

2度ほど家庭裁判所で離婚の意思を表明すると、離婚が成立した。咲は正直すっきりした。人生経験としては、豊かな経験をしたとも言えるが、渦巻く嵐の中にいる間はドキドキ、ハラハラさせられた。

悪人というのではない。人間の弱さや汚さ、人間らしさの滲み出る人物と関わっただけだ。混沌と言う言葉が、咲の頭に浮かんだ。いつか、読んだ本にあった。『メキシコでは全てが芸術である。』人生の中の一つの芸術を体験したかもしれない。

国境越しにメキシコとアメリカ側にそれぞれ立ったカルロスと咲が最後に顔を合わせた時、寂しい気持ちは否めなかった。それは、カルロスへの気持ちというより、7年頑張った自分の記憶へのノスタルジーに近いものだった。

カルロスは、カンクンで出会った頃、咲によく言っていた。「マヤ人みたいに頑固だ。」と。
どんなご縁が咲をメキシコに導いたか知らないが、咲は前世マヤ人だったのかもしれない。

咲がカルロスへの返事を書くことはないが、もし書くとすればこうだ。
『カルロスへ、
こんな体験ができたのは、あなたに出会ったからだね。沢山の思い出をありがとう。』
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み