おちょこ

文字数 1,632文字

「お父さん、もうちょっと季節を選んでくれたらねぇ……」
 母がつい愚痴りたくなるのも当然だ。
 真夏の一周忌。お寺の古いエアコンでは太刀打ちできない熱波が盆地の故郷に居座っていた。
 ただでさえ暑いのに、本堂の読経をかき消す境内のセミの大合唱。30℃を超える気温をより暑く感じさせるトッピングだ。
 法事が終わり母と二人、家まで歩く。
「優斗、帰ったらいいもの見せてあげる」
 母がフフッと笑った。
 家に着いて台所で母が出してきたのは、一対の陶製の酒器だった。
「おちょこ?」
 金色と銀色。
 手元は白くギザギザに塗られている。逆さに返すと富士山がモチーフになっていることが分かった。
「買ったの?」
 アルコールを飲まない母が、と不思議に思って尋ねてみた。
「お父さんがね」
 意外な答えだった。
 日本酒はいつも一升瓶を傾けてグラスにトクトクと注げるだけ注いだ。
 「酒はグビグビ飲むものだ」と言い切り、おちょこ否定派だった父が?
「最後の最後にお医者さんの言うことを聞くようになったのよ」
 医師からいつも減酒を勧められていた父。
 それでもずっと晩酌をやめなかった父。
 その父が自分の意思でおちょこを買ったというのだ。
「このサイズなら優斗も付き合ってくれるだろうか」
 母にそう話したそうだ。
 僕は幼い頃から酒に酔っては大声ではしゃぐ父を見てきて、嫌気がさしていた。
 だから、僕は進んで酒を口にしないし、父と酒を酌み交わしたいとも思わなかった。
 親不孝な息子だ。
 だが、記憶を失くすほど深酔いする父を見るのは自分の将来の姿を見ているようで恐怖を感じていたのだ。
 僕が就職で都会に出る前夜も、父が求めた乾杯を僕は「いや」と言葉を濁してスルーした。
 思い返すと、僕は父とちゃんと向き合ったことがないのかもしれない。
 そんなわだかまりを抱えたまま、ずっと生きていくのだろう。
 一対のおちょこ。
 それは父が僕に歩み寄ってくれたメッセージだった。僕も天国にいる父に聞こえるように何か言わないと。
「これなら乾杯できたかもな……」
 それが精一杯だった。
 胸にせり上がってくるモヤモヤを一度、深呼吸して散らした。
 父はこのおちょこを買ってからしばらく後に仕事場のブドウ畑で倒れた。
 だから、まだ未使用だった。
「今夜、優斗に使ってもらおうと思って」
 葬儀の時はバタバタして、すっかり忘れていたそうだ。
「お酒、買ってきてよ」
 母はそう言って、くたびれたキーホルダーがついた車の鍵を差し出した。
「たまに動かさないとエンジンかからなくなっちゃうから」
 それは父がいつも仕事で使っていた軽トラックの鍵だった。
 キーを回すと、ブルッと車体を震わせてエンジンが始動した。
 軽トラックに心があるなら「久しぶり」と僕に挨拶しているのか。それとも「お前かよ」と肩をすくめているのだろうか。どちらにせよ、父に会いたがっているに違いない。
 僕も同じだ。
 父が握っていたハンドルを握り、近くの酒屋へと走った。シートに汗の匂いを感じる。
 今夜、あのおちょこで日本酒を呑むのは心に沁みすぎる。泣きそうな予感がする。
 ヤだな。
 気晴らしにラジオをつけた。
 耳に入ってきたのは久々にラジオを通して聞くコマーシャルだった。
「シュポッ! トクトクトクトクッ」
 ビール瓶の栓が抜かれ、黄金色の麦酒がグラスに注がれる音。
 寺から帰った後、お茶も飲まずに出てきたので喉がカラカラだった。
「プシュ! ゴクッゴクッゴクッゴクッ」
 今度は缶を勢いよく開け、一気にビールを流しこみ喉を潤す音。僕もこのCMみたいにゴクッゴクッと喉を鳴らしてみたい。
 今夜は日本酒じゃないな……。
「ビールだろッ!」
 思わず声を上げていた。
 たしか、母はアジフライの下準備をしていたっけ? だったらなおさらビールだ!
 陽気な父の仏壇にも一杯置いてやろう。
 うまそうに鼻の下に泡をつけながらビールジョッキを傾ける父の笑顔を思い出す。
 空はギンギンに晴れ、絶好のビール日和だった。
(了)





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