重なる時間

文字数 1,578文字

どうして自分が自分であることを疑わないのか?昨日の自分と今日の自分が同じであることを疑わないのか?自分がこの瞬間に突然生じたと思わないのか?今まで生きてきたという確信があるのか?
記憶のおかげだ。今まで生きてきた記憶がある。連続した記憶がある。だから、昨日までの自分と今日の自分が同じだと感じることができる。
でも、違いを感じることがある。昨日の自分とのズレがある。もちろん大きなズレではない。受け入れられるズレ。あり得ると思えるくらいのズレ。すぐに気にならなくなる程度の小さなズレ。だから普段はほとんど気にしない。
でも時々不思議な気分になる。昔ここに立って感じたことを今は感じない。昔うるさく吠え立てた犬が今は居ない。昔隣に座っていた人が今は居ない。
全部覚えてる。覚えてるからこそ今は違うことが分かる。ズレている。目の前に昔のオレが投影されたみたいなんだ。自分に自分が見えるわけはない。つまりオレとそいつは別人だってことだろ?そんな時は胸の奥が冷たくなる気がする。風が突き抜けていくみたいに感じる。空っぽになったんじゃないかと思う。だから埋めたくなる。何でもいいから埋めたくなる。でも時間が経てば元に戻る。今の自分を受け入れている。またどうでもいいことを考えてる。
暇な時間があれば思い出す。またオレの影が出てくる。そいつが出てくるたびに、オレは自分を疑ってしまう。自分が浮いてるような気がする。幽霊みたいな感じだ。オレはこの世界にはいなくて、ただ見てるだけなんじゃないかと思う。オレはオレがこの世界にいることを想像してるだけなんじゃないかと思う。友達がやってるゲームを隣で見てる感じ。自分も一緒にやってる気がするだろ?でも違う。オレは居ない。オレはそうやって少しずつズレていく気がする。世界から離れていく気がする。

少し前の話。逆のことが起きた。その日は一日中変だった。いつも考えることを考えない。いつも感じることを感じない。いつもならイラついて仕方なかったはずのことに何も感じなかった。いつもなら焦って不安に思うことに何も感じなかった。凪。世界が停止したような。スローモーションになったような。そんな感じがした。全ての刺激が遠く感じた。その日は定時に退社した。いつもは自転車で帰るけど、その日は歩いて帰った。帰り道も同じ。全部遠くにあるような感じ。人も車も道路も。危なかった。ぼおっとし過ぎていた。信号が何色なのかも気にならなかった。道行く人の群れが気にならなかった。ずっと空を眺めて歩いた。夏の夕暮れの空。ただ空を眺めていた。他の何も目に入らなかった。どんどん陽が沈んでいき、雲が赤く染まっていく。その時不思議なことが起きた。自分が重なった気がした。実家の田んぼから眺める夕日が。小学校の帰り道の土手から眺める夕日が。高校の帰り道で眺める夕日が。大学の近所の河原から眺める夕日が。近所の堤防から眺める夕日が。今この瞬間に眺めている夕日が。全部が重なった気がした。そしてそいつを眺めるオレ自身も重なった気がした。オレは確信した。こいつを眺めていたと。オレは眺めていた。どんなオレでも眺めていた。こいつを眺めていた。そう確信できた。その時にオレは今までのオレが今のオレと完全に重なっていることを感じた。不思議な気分だった。自分が生きてきたことを信じられた。全てを受け入れられる気がした。

もちろんそんな気分は永くは続かない。また元のオレに戻った。いつものオレ。

でも少しだけ分かった。生きるってことが少しだけ分かった。生きるってことは続けることだ。生きる限り続けるってことだ。何でもいいから続けよう。本当にどうでもいいことでいい。夕日を眺めるだけでもいい。続けてきたこと。そいつが生きてきたこと証明してくれる。自分を信じさせてくれる。今はなんとなくそう思う。


終わり


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