いってらっしゃい

文字数 1,591文字

―玄関―
いってらっしゃい。
行ってきます。
あ、ちょっと待って。
ん?
ネクタイ曲がってる。
……はい、これでよし。
ありがと。
今日は別にスーツなんて着なくていいんじゃないの?
そう?

ちゃんとした方がいいかなと思ったんだけど。

なのにネクタイは曲がってるんだ?
男、笑いながら。
仕方ないだろ。

あんまり鏡見てるような気分にもなれなかったんだから。

そっか。

ねえ、まだ家出るの早すぎるんじゃないかな?

早起きしすぎただけなんだから、もう少しゆっくりしてから出かけたら?

ん〜……そうだね、そうしようか。
じゃあ、座ってコーヒーでも飲みましょうよ。
…………うん、わかった。


―リビング―
はい、どうぞ。

お砂糖は2つよね。

ありがとう。
…………
ん?
……あなたにだけ働いてもらうの、申し訳ないなって。
君は家のことをやってくれているんだから、当然だろう?
でも……
それより、今日はいつもよりも更に綺麗だね。
……私も早起きして、……しっかりメイクしたのよ。
君は家から出ないのに?
だって、必要だから。
…………
……ねえ、覚えてる?

付き合ったばかりの頃、あなたの働いている姿が見たいからって、あなたの職場について行こうとして怒られたの。

あぁ、そんなこともあったね。

懐かしいな。

本当に、懐かしいよね。

今となっては全てが……あなたと過ごした全てが、大事な思い出よ。

優しく笑う男。
…………また、怒られちゃうかな。
ん?
今日も、ついて行きたいって言ったら、怒る?
怒らないと思う?
本音を言えば、私も一緒に行きたい。
許さないよ。
わかってる。

そう言われると思っていたわ。

連れて行ってもらえるはずがない。

私は家で……ここで待っていることになる。

だから、…………だから、綺麗にメイクしたの。

…………そっか。

その気持ちが、とても嬉しいよ。

私ね、本当は、あなたが他の誰かに取られちゃうんじゃないかって、心配していたこともあったの。
……あなたのことを信用できなかったわけではないけれど……でも、あなたはとても魅力的で、私なんかには勿体ないくらい素敵な人だから。

他の女の子に取られちゃうんじゃないかって、不安になっていたの。

男、苦笑して。
それは初耳だったな。
だってさ、世の中には、素敵な女の子がたくさんいたから。

本当に私だけを選んでくれるのか、……どうしても不安になってしまっていたのよ。

……じゃあ、やっと本当に信用してもらえたわけだね。
……うん。

ちょっとでも疑って、ごめんね。

……あなたは本当に、私だけを選んでくれたんだね。

そうだよ。

もう他の誰かの所になんて、行きようがないんだから。

安心してよ。

……そうだね。

もう…………他の誰かなんて、

……私達以外の人間なんて、いなくなっちゃったんだもんね。
…………そういうことだ。
窓の外から何か聞いたことのないような音が聞こえる。
……外、どうなっているんだろうね。
……さあね。
未来ってさ、ずっと続くんだと思ってたよね。

こんな風に、見たこともない恐ろしい生き物達が、自分達の住んでる世界を埋めつくしちゃう未来なんて、想像したこともなかったよ。

そうだね。

でも、……そうなってしまったものは、仕方ないんだ。

……今日までは、奇跡的にこの建物の中で生き延びてこられたけれど、ここももうどうなるかわからない。
今日でついに、食料も尽きてしまった。
最後にもう一度だけ確認するよ。

私達には、最後の瞬間までここで二人で寄り添い続けるという選択肢もある。

私は本当は、これを選びたいよ。

……いや、悪いけど、ここは僕の我儘を通させて欲しい。
ここで黙って最期を待つよりも、……外に何かの可能性を探しに行きたい。

あるかどうかはわからないけれど、もう少しだけでも、君と未来を生きられる可能性を探しに。

……気持ちは変わらないんだね。

もう何も言わないよ。

わかってくれてありがとう。

……それじゃあ、………行ってきます。

気をつけて。

…………

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