第1話

文字数 1,982文字

 頼んだ一杯目の酒を飲み終える頃、彼はやって来た。SNS総フォロワー数13万人だというその男は、インフルエンサーに対する私の「軽そう」というイメージを裏切り、大人しそうな銀縁の眼鏡をかけていた。

「はじめまして」
 そう言うと、彼は「どうも」と頭を下げ、向かいの席に座った。

 きっかけは高校からの友達、菜々だった。「面白そうだから」という単純な理由で、今日、菜々は彼を飲み会に連れてきたのだ。ついさっき仕事で知り合ったらしい。「この人なんだけど、知ってる?」菜々に向けられたスマートフォンの中のアカウントに見覚えはあったものの、アカウントと現実を紐づけるのは初めてのことで、私は緊張していた。

「インフルエンサーさんなんですよね?」
 現れた彼におずおずと尋ねると「あー……。おかげさまでバズってますね」と笑った。「私もフォローした方がいいですか?」という問いには「どっちでも」と。

「人気者で、すごいですね」

 追加のビールを頼んだ後、私は素直な気持ちで言った。彼は取り分けられたサラダに手を伸ばし「僕なんてネットの中だけですよ」とぼやいた。だけどそもそも私はネットの中の彼をよく知らない。箸の使い方が綺麗で、そんなところに身勝手な好感を抱いていた。

 飲み会でSNSの話はほとんどしなかった。代わりにマイナーな映画や音楽、ゲームの話で彼とは驚くほど盛り上がった。私は自分が人見知りだということも忘れ、解散する頃には帰るのが名残惜しいくらいだった。そしてそれは彼も同じだったらしい。連絡先を聞かれ、酔った頭で私は教えた。すぐに私たちは菜々を抜きにして2人きりで会うようになり、その何度目かで寝た。



 私は彼をより深く知るために、SNSの海へ潜り始めた。リアルの彼は素面では無口だった。一方、ネットの彼はおしゃべりだった。彼のアカウントは自虐を笑いに昇華したネタで人気を集め、気さくな人柄もあるのだろう、本当によくバズっていた。彼の人気を見せつけられるたびに、私は面白いような面白くないような気持ちになった。生身の彼を知っている。知り始めている。知りたい。彼の感じる場所は最近、指先や舌で知った。だけど、初めてのキスの想い出話や、朝食はご飯派といった人生観に触れるのはいつも、大量のいいねがつけられた彼の呟きからだった。知っているのに何も知らない。関われば関わるほど薄くなる。私たちはそういう関係だった。

「そもそもどうしてバズりたいの?」

 ある日、私はベッドの中でスマホをいじる彼に尋ねた。覗き込むとSNSの画面が映っていた。大量の通知が溜まっている。
「理由とか別にないよ。……見て。6時間前の呟き、めっちゃ伸びてる」

 彼はスマホを見せびらかし、バズっているのに虚ろな目で私を見上げた。

「俺、バズってるとなんか生きてる楽しいって思うのかも」
「バズんなかったら?」
「無、だね」

 馬鹿みたい。そう思いながら私はベッドに横たわった。だけど可哀想。彼の頭を胸に抱き寄せ適当に撫でた。SNSという場所から彼を呼び寄せるために。するとくぐもった声が聞こえた。

「今、暇?」
「暇だけど」
「じゃあいいね押してくんない?」

 私は彼を解放し、自分のスマホで彼の呟きにハートを押した。いいねの数字がひとつ増え、彼は「やったー」と笑った。流れでキスをした。そのとき私は自分の身体が数字になったのを感じた。1。決して唯一という意味ではない。単純に多ければ多いほどいい、そんな数字だった。私は彼に抱き着いた。単なる数字として彼を見ようとしたが、バズったことがないから無理だった。



 しばらくの間、彼との関係は続いた。ラーメンを食べに行ったり、映画を観たり、新作スイーツを食べてはバズりそうだねと盛り上がった。酔っ払いながら一緒に考えたネタのいくつかは実際にバズり、彼のフォロワー数は増え続けた。やがて彼の呟きの書籍化が決まった。人生を豊かにする気楽なものの考え方、というような一冊らしい。私はネットニュースでそれを知り、仕事終わりに電話をかけた。

「本なんてすごいね。おめでとう」
「ありがとう。俺は何もしてないよ」
「バズってたじゃん。これからもどんどんバズってね」

 じゃあね。通話を終えると、私はその指でSNSを開いた。彼の最新のつぶやきは「高校で軽音部だったとき顧問が〜」で始まっていた。ものすごい勢いでいいねの数は増えていた。オチもよかった。それなのに私は笑うことに失敗し、スマホをベッドに投げ捨て顔を歪めた。彼が軽音部だったなんて知らなかった。つまんない。そう思ったときに何かが急速に冷めていくのを感じた。私なんてただの1。本当は0が、彼と私の間にだけ生まれるエピソードの連続が欲しい。唇の端を舐めると塩辛く、濡れていた。私は泣いていた。そして、こんな涙にハートをつけられるのなんて、自分しかいなかった。
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