第1話

文字数 124,528文字

時代を変え



































 装いを変え



































 状況を変え



































 リンカーネーションズ


































   リン










 私はその当時、ガルネル地区、新疆というところで暮らしていた。
 私は、両親の死去と共に、四歳で親戚の家に預けられた。それなりに、可愛がられて育てられていたが、十五歳になると同時に、私は家を出て働きに出ることになった。親戚のその家は、裕福だったので、高等学校への進学を私は進められた。もちろん、将来を考えれば、それが一番よかったのだが、私は勉学を望んではいなかった。結局のところ、積み重なっていくのは知識だけだと、私は思ったのだ。知識とは、この世の中をどうやって渡って、生き抜いていくかの処世術と、ほとんど同義だと感じたのだった。そして、人生の節目節目で、試験による振り分け方をされることを、私は嫌った。華々しく、世の中のピラミッドをのぼっていき、権力闘争に身を捧げる気もなかったし、そうではない、教養としての知識を欲っしているわけでもなかった。そんなものは、心の底から望んだときには、いつだって、自力で獲得できると考えた。
 とりあえず私は、最低限の衣食住が賄える意味での、生き抜く方法だけを身につけていかなければならなかった。それでさえ、まるで生きていく気持ちが、希薄だった私には、面倒なことではあったのだが。
 私は、『遊亭』という大人の男女が遊戯を楽しむ店で、働くことになった。
 ゴミ捨てや掃除を主に担当して、『子供』と呼ばれる女性のために食事をつくるなどの雑用をすることになった。『子供』と呼ばれる女性の話し相手になることもあった。十五歳という、この店では最も若い男であったため、はじめから可愛がられ、ここでも私は、人から好かれるという運命を重ねていくこととなった。『遊亭』には、その後、何年も働くことになった。そのあいだ、私の心を最も惹きつけ、いまだに思い出さない日がない程に、その人間性を愛した、一人の女性が居たことをここに告白したいと思う。

 彼女はリンと言った。一つ年下で、私とほぼ同じ時期に入店してきた。リンと私は、兄弟同然に、過ごしていった。リンもまた兄弟はなく、両親が死んだと同時に、路頭に迷うことになったのだという。親戚は、彼女を引き取ることを拒み、こうして『遊亭』へと連れていく以外に、何の手も差し伸べることはなかったのだ。『遊亭』の『子供』の中では、最年少であり、それにも関わらず、彼女は、半年後には(つまりは十五になった暁には)、すぐに客の相手をしなければならなかった。雑用で入った自分とは、まるで異なる過酷な生活が、待っていた。私は、彼女を憐れんでいた。その当時、私は働き始めてすぐに、年配の『子供』の女性に、初めての女というものを、教えてもらっていた。私は、女に服を脱がされ、自分もまた女の服を脱がせ、その後は、彼女の指示に従って、からだの隅々を、この目で確認し、匂いをかぎ、味を知り、そして感触を覚え尽くしていったのだった。女のからだの中へと入り、ずっと静止しているように命じられ、それでもしばらくすると、突然何かが強烈に、地面から込み上げてきたかと思ったがすぐに、それまで出たことのない液体が、女と繋がった自分の肉体の一部から、勢いよく飛び出し、女のなかに解き放っていたのだった。小便でも、ああいう出方はしなかった。どれだけ我慢に我慢を重ねても、あんな出方は絶対にしなかった。私は慌てて女の中から、からだを抜き取ってしまった。だが女は、何の指示も私には出してこなかった。勝手な行為に、叱られると思ったが、彼女は何も言わずに、そもそも私のことを見てさえいなかった。目を瞑り、口を半分開け、何やら叫び声のようなものを上げていたのだ。私はびっくりしてしまった。何か良からぬことをしてしまったのではないか。苦痛を与えてしまったのではないか。どうしていいのかわからず、私は両ひざを立てたまま、呆然としてしまった。彼女は大きく股を広げたまま、全身を脈打ちながら、横になっていた。次第に、私には、その表情が苦悶の表現ではない、別の意味を帯びてきているように見えていった。そして、私の性器からはまだ、放出したばかりの白い液体の残りが、まだベッドのシーツに向かって、滴り落ちていた。リンのその、理由のわからないその特性が発揮されたのも、ちょうどその頃だった。最初に客をとらせる前には、十数回、時に何十回と、特に性体験のない女性に対しては、念入りに、主人と若い従業員の男たちによって、時間をかけて開発されることで、やっと商品として店頭に並べることができる。処女の女を所望する客もいたが、『遊亭』では基本的にそのようなサービスは提供してはいなかった。以前に重大なトラブルを引き起こしたということで、主人は廃止してしまったらしかった。リンもまた、商品として仕上げられるべく、性の開発を進めていく、手筈であった。ところが主人は、ここで自ら指南役をすることを辞退してしまう。若いスタッフを指名する。そんなことは、これまでなかったことだという。処女の開発は、必ずこの男がすることになっていた。そして、若い従業員は、このリンを抱けることで非常な興奮を覚えていた。リンを犯すんじゃないだろうかという雰囲気を出していた。私はリンのことが好きだったので、なにか、暴力の匂いがしてきたときには、体を張って彼女を守るつもりでいた。彼女のことをずっと遠くから見ていた。本当に美しかった。透き通るような白い肌には、男ばかりか、親も含めた誰の手も触れたことがないような、何の記憶の痕跡も感じさせないような、肌に見えたのた。あるいは、自分さえ、今だに触ったことがないのではないか。何の接触をも、感じさせない存在感があった。そして、何と、性指南を命じられた若い男までもが、突如、その役割を辞退するという状況になってしまったのだ。男たちの中でたらい回しにされるかのごとく、リンから遠ざかり、距離を置こうとしていく流れが出来てしまっていた。しまいには、私のところに、その役が回ってくるのではないかとさえ、思ったくらいだ。そして、その予想はすぐに、現実となった。
「ちょっと、待ってください」と私は言う。「僕ですか?僕は無理ですよ」
「お前は、もう男になっているだろう?そう聞いているぞ」
 四歳年上の、ラダックという男は言った。
「どうして、兄さんは、断ったのですか?」
「どういう意味だよ」
 ラダックは、私を睨み付けた。
「いや、そのやはり、僕には無理です。経験が、圧倒的に足りません。ほとんど、何もしたことがない自分です」
「ハルにやってもらっただろ?男は一度やれば、あとはいくらでもやれる。女のからだの基本的な仕組みと構造を知って、一連の行為の流れさえ知ってしまえば、あとは何度やったって、一緒だ。ハルにやってもらった通りに、リンに対してもやればいい。それに教わったことをすぐに、実践するチャンスでもあるぞ。はやければはやい方が、いいんだ。好きなようにやってしまえ」
 どうして、ラダックが、リンとの行為を拒否したのか。はじめは喜んで引き受けたように見えたのに。ということは、それから、彼女と直接二人きりになったことで、気が変わってしまったのだ。他の男たちの反応も、だいたいは似たようなものだった。最初は願ってもない幸運がやってきたことに、舞い上がり、そのあとで、表情を強ばらせながら、別の男にそのチャンスを放り投げてしまう。リンに問題があるのだろうか。リンに、特別な嫌な臭いでも発する、何かがあるのだろうか。体の構造に、何か気味の悪い箇所でも、あるのだろうか。とても見てはいられない、突起物があるとか。そうか。実は、女のような男だったとか。でも、だとしたら、即刻、リンを店から追い出してしまうはずだ。そういったことではないのだ。何なのだろう。リンが頑なに拒んだからなのか。なだめて、説得することができなかったということか。難儀な女だったのかもしれない。俺の手にはおえない。やってられないよ、ということなのだろうか。男たちの表情をよく観察してみた。しかし、原因は、読み取ることができなかった。やはり私が、しなければならないのだろうか。すでに、強制的に引き受けることに決まってしまったため、私は、リンとの一夜に、思いを馳せながら、次の日を待つこととなった。翌日、私は、リンの部屋を訪れた。リンは、薄い着物の生地で造られた、和服のようなものを着ていた。肌触りの良さそうな、かなり高価なものに思えた。新入りの、まだ稼ぎのない、少女に近い女性に対する待遇としては、少し理解のできないものだった。
「リン、話は、聞いているね。僕で悪かった。まだ、君と同じ、ほとんど未経験な男だ。不手際があっても、許してほしい」
 リンは微笑んだ。部屋には窓がないはずなのに、なぜか、彼女の背後からは、太陽の光が漏れ入ってきているように見えた。いいのよ、そんなことは気にしないで。彼女はそう言っているようであった。リンが着ていた服は、するりと、両肩から流れ落ちるように、上品にはだけていった。リンの白い肌は、背後から照らす陽光と相まって、その輪郭をあいまいにしていた。リンがいなくなったかのようにも見えた。眩しすぎて、思わず、目を閉じてしまいそうになった。何かが、すでに始まっていた。私は身動きがとれずに、ただ、目を閉じたり開けたりを、繰り返していった。次第に、自分の目が開いているのか閉じているのか、リンを見ているのか、陽光を見ているのか、瞼の裏を見ているのか、区別が付かなくなっていった。リンがいない。私は、光の中で彼女を探した。なぜか、その光が、白い蛇のように感じられた。そういった輪郭は、どこにも現れはしなかった。しかし、そう、思わずにはいられなかった。この部屋そのものが、白い蛇の存在に包まれてしまっている。リンの姿は見えない。リンもまた、蛇に包まれてしまったのだろうか。私の体の輪郭も、すでに、鮮明ではなくなっていた。私そのものが、白い蛇の一部になってしまっているかのようだった。リンは、目の前にいた。リンの服はすでに、はだけてはいなかった。私は混乱し、その場で黙ってしまい、彼女を見てはいられなくなった。部屋を出ていった。そのあとしばらく、廊下で魂を抜かれたかのごとく、立ちすくんでいた。わずかに、両膝が震えていたように思う。これまで味わったことのない感情に満ちていた。私は何もできずに、ただ、時間をやり過ごしていた。幸い、廊下を通る人間はいなかった。リンは自室にいた。部屋の外に出てくることはなかった。何だったのだろう。何が起きたのだろう。リンは微笑んでいた。その表情だけが、唯一、今いる自分に、現実の欠片を与えていた。確かに、あの部屋にはリンがいた。リンと私の二人きりだった。だんだんと、高鳴る浮遊感は収まっていき、この足場に慣れ親しんだ重力感が戻ってきていた。私以外の男も、この現実を味わったのだろうか。こうして皆、逃げ出てしまったのだろうか。そして、別の男に放り投げてしまう。二度と関わり合いを持ちたくないために。
 私は、部屋へと戻り、誰とも会いたくなかった。その日はたまたま、誰の訪問者もなかった。私は一人きりの夜を過ごした。廊下を伝い、曲がりくねった道の先には、リンの部屋があった。彼女の、今は生活拠点であり、今後は、客をもその部屋でとることになる場所だった。結局、私は、リンに指先さえ触れることができなかったのだ。身動きがとれなくなってしまっていたのだ。あの瞬間に、彼女に接近し、押し倒してしまえばよかったのに。あれ以上、私は、近づくことができなかった。そして、今、私は、これまでにない程、彼女を求め始めてもいた。リンの存在で、私の意識は、埋め尽くされていたのだ。これほど、彼女を近くに感じたことはなかった。なのに、同時に、最も手の届かない場所に遠ざかってしまっている。手を伸ばしたところで、彼女の実態は、半透明になったビニールのごとく、温もりさえ感じとることができない。はじめは苦しかった。思いの拠り所を、見つけたにもかかわらず、捕まえ、こっちに引き寄せることができないのだから。じゃあ、近づいていけばいいじゃないか。私は何度も、廊下に出ていこうとした。しかし、私の体は、動かなかった。次第に苦しみに、のたうち廻っている自分が部屋にはいた。狂おしいほどに叫び、暴れまわっている自分がいた。しばらくすると、その暴れまわっている自分から、ふと、自分自身が抜け出て、まるで他人を見るようにその部屋を、睥睨しているのだった。そして、その暴れまわる苦しみに満ちた自分を、非常に憐れに思うようにもなっていった。次第に、その、のたうち廻る、私によく似たその人物は、その狂気が収まり、静かに動きが止まった状態へと、変化していった。
 まったく動かなくなってしまったのだ。私はその様子をずっと見ていた。そして、哀しみに襲われていった。生まれて初めて、ひとりぼっちになってしまったかのようだった。両親が死んだときでもない、親戚の家で育ったときでもない、この店で働くようになったからでもない、たった今。私は、この世に私しかいないような気がして、心底落ち込んでいっていたのだ。
 私には、しがみつくものは何もない。そのことを、悟らせるかのごとくの、沈黙だった。
 あまりにも静かすぎた。世界から、音が抜き取られてしまったかのようだった。私はこの世界の中では、本当はどこにもいない。そして、私という実体の中においては、誰の存在もない。この状態が、突然、沸いてきたかのごとく現れ、そこに取り込まれていたのだが、それは、偶然あらわれたものではなかった。外側から、やってきたものではなかった。元々あったものなのだ。これが現実なのかもしれない。今までは、何かしらの夢を見ていた。見続けていた。それがあるきっかけで、覚めることになった。それが今なのだ。
 私は、この哀しみを、見続けていることができなかった。私は一刻も早く、逃げたかった。しかし今夜は、一人きりで過ごす以外に方法はない。他の男たちなら、金も自由もある。店の外に出ていき、うさ晴らしをする方法は、いくらでもある。しかし、この自分には、外で遊ぶ金もなければ、外における人間関係も全くない。店の他の人間とも、気軽に話し合える関係ではない。本当にどこにも行けないのだ。私はいろんな可能性を考えた。しかし考えるほどに、道は狭まっていき、そして最終的には、この今の状態へと、強烈に引き戻されるのだ。私は運命を呪った。何をしても、ここに引き戻されるのだとしたら、どう足掻いたって、道は開かれることはない。ならば、望みどおりに、今夜は、これと共に過ごす以外にない。私は腹をくくった。哀しみに満ち、その空気を、部屋中に充満させていく様子を、私はずっと見続けていた。ときおり、これは何なのだろう。何を意味しているのだろう。示唆しているのだろうと、思うことがあった。同時にこれと似たような状況が、いくつもあったんじゃないかと。その似たシーンを、記憶の中から、かき集めている自分をも、発見してしまった。たとえ、似ているシーンがあったとして、集めて、何になるのだろう。これでもかと重ね合わせ、加工し続ける、私がいる。いったい何をしているのだろう。そうした動きもまた、この哀しみに満ちた空間から、何とか逃れ出ようとしている自らの行為であることを知り、同情の念に耐えられなくなっていった。哀しみが別の哀しみを呼びよせ、くっつけ、寄り添わせることで、束の間、慰め合ってでもいるのだろうか。哀しみ同士を、くつけ合わせているようなのだ。そして、一度くっついたら、さらにまた、さらにまたと、仲間を呼びよせるかのごとく、誘いあい、導きあっているような様子なのだ。どこにも身動きがとれずに、しがみつく人は誰もいなく、拠り所とするものも何もなく、支えてくれるものも、何もない中、その場所なき場所で、揺らめいている存在たちを、私は同時に今感じ合っているのかもしれなかった。
 ふと、リンのことを忘れていることに、私は気づいた。

 翌日になった。どんなに避けようとも、リンとは、顔を合わせることになってしまう。
 だが、その前に、当然のごとく、主人に部屋に呼び出される。リンにしかるべき教育をちゃんとしたのかと。私は目を伏せ、「いいえ、昨夜は、できませんでした」と正直に答える。主人はいつものように、罵倒することはなく、何度か頷いただけで、口に手をやり、顎を触り、目を擦ると、うなるように天井を見上げ、世話しなく、まばたきを繰り返した。
「あの、すみませんでした。大変、申し訳なく思っています」と私は答えた。
「そういうことか」と主人は言った。
 私には、どういうことなのかわからなかった。
「もう、うちには、誰も他には男がいない」
 主人は、ため息を深くついた。
「他から、誰かをつれてこなくては、あれかもな。しかし、困った。本当に困った。実に、ややこしいことになった。このままあいつを、クビにしてしまうことができたら、いかに楽か。そうだろ?クビにしてしまえば、あいつはどこか、他の店に流れていく。あんな逸材を、他で大成させることに、一役買うなんて。そんなことができると思うか?みすみす、手放せるか?他に教育だけを頼んで、うまくいったとしても、莫大な借りを作ってしまうことになる。さあ、本当に困った。お前、本当に、何とかできないのか?そんなこと、些細なことなんじゃないのか?さっさと、その、立ったものを入れさえすればいいんだ。彼女に触って、舐めて、濡れさえさせれば、なんてことないだろう?痛がっても、何度か繰り返せば。毎晩のように抱いていけば。どうして、そんな簡単なことができない?」
 私は黙って、聞いていた。
 主人の方は、だんだんと、居心地が悪くなっていったようだ。
 自分がそれをできないのだから、このような事態に、陥っているのだ。最も若い、ほとんど性体験のない男に向かって、一体どうしろというのか。主人の方が黙ってしまった。
 仕方なく、私が口を開いた。
「もう一度、チャンスをくれませんか?」
 気づけば私は、そう言っていた。
「なんだって。本当か?それは、可能なのか?見込みがあったんだな。お前は他の連中とは一味違うと思っていたんだ。そうくると思った。お前に任せる。すべてを任せるぞ!な、もう何も言わない。リンをよろしく。リンが店で、デビューする日は、俺が決める。その日に合わせて、お前はリンを仕上げていけ。俺も他の連中も、何も口出しはしない。いちいち妙な詮索もしない。お前にすべてを任せた。好きにやってくれ。信用している。頼んだぞ。その日まで」

 主人は、上機嫌で私を部屋から出ていくよう指図を出した。私は勝手に、約束をさせられてしまっていた。一ヶ月後に、リンを、客に出せる状態にしておくことになってしまった。そもそもの、性体験すら、薄っぺらなままに、さらには、店の女の子の教育すらしたことのない自分が、いったいどのように、商品価値のある女へと、仕上げ方ることができるというのか。私は誰にも、相談することができなかった。店の男たちはリンを避け、リンに関わるすべての事柄を、忌み嫌っているかのようだった。しかし、興味は、消えることがないといった・・・。
 私は絶えず、彼らの好奇な視線に、晒され続けることとなった。近寄らず、自分の身の安全は確保しながらも、リンはどうなっていくのか。そのリンを担当する私は、どのように、彼女を導いていくのか。誰よりもよく、観察できる特等席を、彼らは逐一、争っているかのように見えた。しかし、とにかく、決まってしまったものは、仕方がなかった。なんにしても、もう一度、リンと二人きりで、しっかりと向き合わなくてはならなかった。避けられないことであるのなら、今すぐにでも、飛び込んでしまうしかなかった。リンの部屋をノックする。彼女の声がした。私は戸を開けた。リンはいた。滑らかな生地の和服を着て。はだけてはいなかった。
「リン。昨日は申し訳ない」私は言った。「その、でも、リンのことは、自分が全てを任された。だから、できるまで何度だって、チャレンジするよ。僕にとっても、そういう仕事は初めてだ。これがうまくできれば、きっと、今後も」リンは何も言わずに、微笑んでいた。そういえば、昨夜とは、雰囲気が一変してしまっていた。あの艶かしい白い肌が、封印されているからなのか。首筋がかろうじて、見えただけだった。白い蛇の姿など、どこにもない。
「リン。さっそく、今からいいだろうか」
 リンは頷く。
 今なら行けるかもしれないと、私は直観した。今なら。
 リンに近づき、その体を自分に引き寄せた。華奢な体だった。性的な生々しさからは大きく解離していた。初めての相手だった女は、体じゅうから、香気が発散していた。私自身のからだに、何の興奮も反応も起きていないことを、危惧し始めた。まさか、こっちの方に、問題が起こるとは思わなかった。リンの吐息が、私の胸にかかっていた。リンの方は何故かしら、発情してきているように感じた。そうなれば、益々、私は、焦燥感と共に、何としてもこのチャンスを逃すわけにはいかないと、決意を強固にしていった。しかし、決意が揺るぎないものになればなるほど、体の肝心な部分は、固くはなっていかなかった。柔らかいその部分は、リンの体にそっと触れたまま、いかなる反応も、してくれなかった。

 その後の一ヶ月は、ずっと、そういった行ったり来たりの繰り返しであった。一糸纏わぬリンと、抱き合うといった、最もセックスに近づくことのできるときもあれば、指一本、触れることのできない、まったく彼女に近づくことさえできない、という時もあった。リンの何が、そうさせているのか。あるいは、二人の間に、いったいどんな気のやり取りがあったのかはわからない。私の状態が異なることで、起きた現象だったのか。それでも、一度たりとも性的な行為に及ぶことができなかった。唇を重ね合わせたことが、最大に、二人が個人的な距離を縮めたクライマックスとなってしまっていた。リンの胸の形を、今はよく、思い出すことができなかった。下着も、確かに取ったはずだった。しかし、その下半部分の記憶が、ほとんどなくなっていた。やはり、彼女の白い肌の影響だった。服を纏い、肌の露出を控えたときと、その肌を外に晒したときでは、まったく、その場の雰囲気が違ってしまった。肌を晒したリンの肉体は、発光していた。眩しすぎて、その明るさに、この目は少しも、慣れてはいかなかった。リンの体の記憶が飛んでしまっているのも、実際に、この目でしっかりと、見ることができなかったからだ。脳に、その光景を、焼き付けることができなかったからだ。白く鮮やかに、ピントはぼけてしまっていた。私は、それを、自分の中で「白い闇」と呼んだ。その白い闇の中で、私は、リンの肉体の場所を見失っていた。リンという物質的な存在が、その粒子を目の前で、白い闇として、雲散させてしまっていたかのようだった。私がいくら、そこに手を伸ばしてみても、触れるものは何もない。彼女を、手にいれることなどできない。消えてなくなってしまったかのようだった。けれども、確実に、そこには居る。そういった感触だけが、在り続ける。そういったジレンマだけを、リンは残していく。近づけば近づくほど。リンは遠ざかっていく。私とは遠い場所に。遠い世界に。遠い次元に。一体、私に、何ができたというのか。
 リンは変わらず微笑んでいるだけだった。

 そういえば、彼女とは、まともに話したことがないことを、今さらながら思い出す。あまりに、自分のしなければいけないことに囚われすぎていて、歳の近い者同士がするであろう通常の会話を、まったくしていないことに気づいたのだ。リンはまだ、私よりも一つ下の14歳なのだ。しかし、そう思えば思うほど、彼女はとても、年下の少女には見えなくなっていった。14だと、無理矢理に思い込もうとさえしていた。彼女の側にいるようになってからは、私はほとんど、彼女を成熟した大人の女性であると、認識していたのだ。少なくとも、二十歳は越えた女性。ハルのように、すでに長いあいだ、娼婦として経験を積んでいった女とは確かに違った。そういった体臭を、リンは放つことはなかったし、相手を欲情させる仕草や、表情などとも、無縁だった。ただ、彼女は、すでに、あらゆる人間を、男たちを、女たちを、見てきた、知ってきたような影を、感じたのだ。そうだ。影だ。影に違いなかった。彼女の背後には、厚く連なった影の群れがあった。そう感じた日から、私は、その影の存在に、注視していった。目の前のリンよりも、その背後に連なった無数の影に。そして、それは決して、白い光など発してはいなかった。どす黒い渦を伴った、腐臭すら感じる、心地のよさとは無縁な群れが、私をじっと見つめているようでもあった。私の背中に、何か冷たいものが流れ落ちるのを感じた。慌てて、リンそのものに、視点を戻した。彼女は、微笑んでいた。服を着ていた。肌は首筋以外に、ほとんど露出してはいなかった。私は彼女に近づいた。自分の胸に、彼女を引き寄せた。頭を撫でながら、両手を彼女の背中にもっていき、抱き締めた。しかし、白い闇に、当然のごとく私は囚われ、そして、彼女の存在を失っていった。そのとき、背後へと視点を移動させた。しかし、あの背後の黒い群れは、姿を見せることはなかった。

 一ヶ月は、あっという間に、過ぎていってしまっていた。主人は、私の部屋を訪れていた。彼はにやにやと笑っていた。実に機嫌が良さそうだった。この男は確信しているのだと、私は思った。リンを完全に女にすることができているのだと。そして、私は、そのリンで、この期間を楽しみつくし、男としての技能を高めていったのだと。
「約束通りに来たよ」と主人は言った。
「何も口出ししなくて、本当に、よかった。お手柄だよ。君ならやってくれると、そう思っていた。で、どうだった?いい女だったよな?爆発的に売れるぞ。よくぞ、漕ぎ着けてくれた」
 主人の喜びに、水を差すコメントをいつ挿入させるのか。私はそのタイミングばかりを図っていた。ところが、結局、私が考えついたその発想に、この私自身が一番驚いてしまった。このまま差し出してしまっていいのではないか。このまま何も言わずに、差し出してしまっていいのではないか。何も言わずに。主人の思い込みを、そのままに。何を訊かれても、リンのように、微笑みを返すだけで。あのリンの眼差しと、一つになって。リンと一緒になることで、事は滞りなく、進んでいくのではないか。これは、リンのことなのだ。私の人生でも、私の生活でもなかった。何も、私が、取り繕う必要はないのだ。リンの道を、私が邪魔をしてどうするのだ?何の作為も、ここには必要はない。そんなものが、思い浮かんでも、私はそれを無視する以外にはないのだ。このことで、思い悩むことも、苦しむことも、取り繕うこともないのだ。私は何を傲慢にも、何かをしなければならないと、そう感じていたのだろう。状況は、いかに、自分自身がこの場から立ち去るか、ということだったのだ。そこにいながら、いかに存在しないでいられるか、ということだったのだ。リンのように微笑みながら。すると、私には、あの微笑みが何であったのかがわかるような気がしてきた。あのとき、あの場には、リンなどいなかったのだ。リンはずっとそうなのかもしれない。いや、特に服を脱ぎ、肌を晒したときには、そうだったのかもしれない。服を着ているときには、まだそこには居たのかもしれない。かろうじて。しかし、身につけるものがなくなるにつれて、リンは、その場からいなくなった。リンは、自分という輪郭の中から、そっと抜け出し、どこか別の場所へと移行していたのかもしれないと、思うようになっていった。そう考えれば、あの異様な発光の説明もつく。あの白い闇の中に現れる蛇の姿も、合点がいきそうな気がした。しかし、そうではない普段でも、リンは我々とは大きく逸脱した存在具合で、そこにいるのかもしれなかった。いるようでいない。いないようでいる。つかめそうでつかめない。つかんでいながら、つかんでいない。近づけば近づくほど、遠ざかっていく。側にいようとすればするほど、消えてなくなってしまう。リンは何も語らず、微笑んでいた。私は主人に向かって微笑んでいた。彼は何かを、ずっとしゃべり続けていた。急に彼の声が、耳元で響いてきた。私の肩を何度か叩き、完全に浮かれているように見えた。おそらく、万事は、うまくいっていると思いこんでいる。私は微笑み続けた。予定通りに、明日リンは客を相手に仕事を開始する。その算段はもう、誰にも止めることができなかった。私が余計なことを口走って、妨害を加える言われもない。あとは、リン次第だと私は思った。そもそもの始まりから、私にできることなど何もなかったのだ。これでよかったのだ。リンは誰とも、性的関係を持つことなく、デビューする。どうなろうと、そこで何が起ころうと、知ったことではない。私にとっても。誰にとっても。リン以外に、誰が何をすることもない。ただ見守っていればいい。私は微笑み続けた。
 その頃には、すっかり、主人と肩を組み合い、喜びを分かち合っていたのだ。私も主人も、リンに対してできることなど、何もなかったのだ。手出しできなかった者同士が、分かち合うことのできるものが生まれたかのように、二人は、前後左右に揺れ続けていた。ただし、その事実をわかっている私と、何も知らない男の違いはあったのだが。

 そうして、私は、しばしの優越感を味わった。その後、リンは娼婦となり、店では爆発的な人気を得るようになっていった。リンへの指名は殺到し、その一極集中具合は、主人を喜ばせたものの、次第に、他の娼婦への著しい拒否感を、煽ることにもなってしまったことに、困った様子も見せ始めていた。リンがいなければ、他の娼婦を指名したであろう客たちは、リンへの予約をできなかったことで、帰ってしまうことが多々あったのだ。店全体としての繁盛を考えたときには、以前よりも、売り上げが落ちていることさえあった。
 リンを求める長蛇の列は、日に日に、長く伸び続けた。噂が噂を呼び、さらなる群衆が店にはやってきていた。店の外には、若い男から年寄りまで、様々な男たちがたむろするようになり、若い女性もまた、興味本意なのか、商売の偵察なのか、はたまた、同姓の趣味があるのか。時に、パニックを起こすほどの群衆に、溢れかえっていた。
 その日、リンの客になる男は、群衆に拍手で見送られたり、嫉妬からの罵倒や悔しさからの発狂、今後に希望を繋ぐための感激など、様々な反応が飛び交い、リンとのひとときを終えた男に至っては、殴り合いや誘拐にまで、発展してしまうことさえあった。
 そんな中、リンは、律儀に客を見送るために、店先にまで姿を現し、群衆たちを沸かせた。彼女が姿を見せることで、その日の暴動はなぜか消えた。リンは、客が去ったあと、今度は群衆に向かって、静かに頭を下げて、ゆっくりと、店の中へと戻っていった。その光景は、一種の風物詩にもなった。客は、リンとのひとときについて、他言することはなく、周りもしつこく、聞きだそうとはしなかった。そういった部分に触れるのは、品がないと思ったからなのか。あるいは、そういった現実は、自分で味わうときのために、伝聞されるのを拒否していたのか。その心理は、当然、私にはわかりようがなかった。
 リンがデビューしてすでに、一年以上が過ぎていた。私もすっかりと、この店での生活に慣れ、新しく入ってくる女の子をしっかりと、女へと育てあげていくことも容易になっていた。今いる女の子の、不満の捌け口に、自分がなって、彼女たちを気持ちよく仕事へと、向かわせる役目を、一手に引き受けてもいた。そんな中でも、リンは、誰に何の相談をすることもなく、我々とそもそも、会話をすることすらなかった。ただ会えば、彼女は、微笑みを向けてくる。あの、初めて会ったときと、彼女は全く変わっていなかった。その微笑みは、自分を守るために取り繕った、偽りではまったくなかったわけだ。リンは今も、自然体で生きていた。それは私にとって、驚くべきことだった。一年という、月日が、私をはじめ、この店で、この世界で働くものを、次第に、ある特定の色へと染めていくのが通常だったからだ。経験は積み重なり、知識は常に上書きされていく。嫌でも、分厚くなっていく。削ぎ落とすことのできない属性として、身に纏っていく。また、そうしないことには、この世界で生きていくことはできなかった。この世界において、生きる術がないことになり、魅力として、光を発散することもなくなる。
 そうやって、我々は、この世界の頂上に向かって、一歩ずつ進んでいく。そして、ある時期を境に、静かに、ときに鋭く、斜面を麓に向かって、降りていくのである。そこには、高く舞い上がっていったものほど、その後の足元の危うさを身に受けることで、バランスをとっているかのようにも見えた。私もまた、そんな放物線上に、しっかりと乗ってしまっていた。そんな、我々だからこその、リンの浮世離れ具合であった。リン一人だけが、最初の輝きから、何も変わってはいない。あたらしいこの世界ならではの、光を放つこともなく、厚い仮面を脱ぎ着することで、巧みに、その場ごとに変幻していく様子もなかった。感情の上がり下がりを、表現することも、当然なかった。喜怒哀楽を突然、発露することもない。延々と、止まらないお喋りを始める様子もない。ただ、微笑んでいるだけだった。彼女だけが、何の歳も食ってはいない。時間を貪り生きては、いなかった。どこか、店ではない別の場所へと、秘密裏に抜け出していっているかのようであった。そこでは、まったく時間は止まっている。そして、彼女はほとんど、そこで過ごしている。仕事のときにだけ、店に戻ってくる。いや、仕事の時間も、そこにいるのかもしれなかった。客をも、そっちの世界に、連れ出していってるのかもしれなかった。あるいは、部屋ごと、移動させてしまっているとか・・・。とにかく、何か、秘密があるはずだった。でなければ、あの錆び付いてはいかない、輝きの説明が全くつかない。私は再び、リンへの関心が強くなっていった。そんなとき、ふと、リンのとんでもない噂を、耳にすることになる。呑み屋で食事をしていたときに、店のおかみさんに言われた、一言だった。
「あんたんところの、リンって子。たいそうな玉じゃないか」
「ええ、おかげさまで」と私は普通に答えた。「繁盛しまくってますよ。それに、それだけじゃない。店そのもののランクも、上げてくれました」
「そういうことじゃないよ」
「えっ」
「そういうことじゃない」
「というと?」
「いや、これは、あくまで噂なんだがね。うちのお客さんから、聞いた話なんだ。いいかね」
「おっしゃってください」
「リンて女。あれは、詐欺を働かせているようじゃないか」
「どういうことですか?」
「つまりは、男に何のサービスもしてないってことだよ。金だけをとってさ。はっきりと、言わせないでくれよ。やらせてくれないってことだよ」
 そうなんですか?と私は思わず答えてしまう所だった。
 自分の店のことながら、何も把握していないことを露呈させてしまうところだった。
 私は女将が気のすむまで、喋らせることにした。この手の女性は、途中で遮られたり、特に反論したりされることを、極端に嫌う。
「いや、そんなことは」と私は答えた。
「ほんとうかい?そのリンって女。ちゃんとできているのかい?男を満足させられるているのかい?」
「リンのお客になった人が、何か、女将に不満でも?」
「よせやぃ。そんなんじゃない。そんなんじゃないよ」
「もし、満足なさってなかったら、今頃は、リンを指名する人間は、誰もいなくなっているはずですけど」
「わかってる。わかってるよ。だから、あくまで噂だよ、噂。そのしゃべっていた、男の個人的な話だし。その男にだけは、そういった対応だったのかもしれないし。わからないよ。私は何も、わからない。忘れてちょうだい。申し訳なかったね。変なことを言って。私も、ほら、若くて綺麗な男に、ちやほやされる子をさ、良く思わない自分がいて、実に、恥ずかしい思いがするよ。すまないね」
「いえ、かまいません。それよりも、女将さん。そういった情報は、すべて、耳に入った時点で、僕に教えて欲しいんですよ。こうして食事をしに来たときに。お願いできませんか?そういった評判というのは、店から見ているだけでは、その一面からしか、見れていないもので」
「そうよね。きっと、そうだと思った」
 女将は急に、生き生きとし始めていった。
「酔わせて、固い口を割らせるのが、私の仕事なんだから。その期待には、応えられると思うわ」
「頼りにしてますよ」私は女将を持ち上げた。
 そういったこともあり、外からのリンの情報を、そのあといくつも掴むこととなった。
 詐欺だと言った、女将の話は、日に日に事実ではなかったものの、遠くはない状況が、そこには露呈してきていた。客の大方はそれでも、満足していたということだ。リンはまったく、店の存在意義に反して、性的なサービスをしていなかったのだ。話を総合するとそういうことだった。リンはしていない。何もしていない。ということは・・・。酒の入った客の男たちが、それでもぽろりと、リンとそれ以上の行為をしてみたいという、ちょっとした願望を漏らしているだけなのだった。よって、詐欺には当たらないと、私は何度も思った。店の方針には則していないものの、彼女なりの、客との関係は築けている。しかし。ということは。私はそればかりを考え続けていた。あの劣化なき、輝き。変化なき、微笑みの返し。じゃあ、あの部屋で、男たちはリンと二人で、何をしているのか。どんな時を過ごしているのか。店の中で一部屋だけ、まったく異様なことが行われている。この世界にあっては、リンの行動こそが、常軌を逸した異常な事態を、店の中に引き起こしている。結局、誰一人として、リンを抱いていないのだ。それで、この商売が成立していること自体が驚きだ。そして私は、その事実を知るのと同時に、主人もまた、似たような噂話を耳にしたらしく、店の男の従業員は、その話でもちきりになった。主人は、リン本人に、その事実を確かめざるを得なくなった。その役目すら、他の男に、はたまたこの私に押し付けようとしていた。しかし、さすがに、ここは、責任者である自分しかいないだろうと、腹を括ったようだった。主人は、リンが客をとる時間の前に、一人で、彼女を訪問した。男たちは、固唾を飲んで見守った。主人は五分ほどで出てきた。「どうでした?」と男たちは駆け寄った。主人は答えた。「噂は本当だったよ。リンは、客に対して、何のサービスもしていない。ただ、一緒にいるだけだ。本人も認めた」
「なんと!そうだったんですね」
 何故か男たちは、気分が盛り上がっていった。
「じゃあ、彼女は、まだ」
 やはりそういう話かと、私は思った。しかし私もまた、彼らに劣らず、浮き足立っていた
「どうなるんですか?」男たちは主人に迫った。
「どうって?」主人は、惚けた。
「このまま許すんですか?うちは、そういう店ではないですよ。他の女の子たちのことも、あります。リンだけを、特別に認めるわけにはいかないでしょ」
 たいがいは同じような意見だった。
「そうなんだが・・」
 主人の答えは、煮えきらなかった。
「ちゃんとしてください。こういうときには、びしっと」
 主人は顔をしかめ、「そんな責めないでくれよ」とぼそっと呟いた。「俺だって、困ってるんだよ。この店全体のことを、考えなければならない。その上で、リン自身のことも、最大限、配慮してやらなければならない」
「彼女を、特別扱いするんですか?」
「リンは、特別だよ」主人は言った。「お前らだって、わかってるだろ。えっ?誰か、彼女をものにできた奴は、いるのか?彼女を女に、無理矢理にでも、できた奴はいるのか?いるんだったら、そのときはじめて、物を言うんだ。大きな口を叩く権利がある。でなければ、俺と同じだ。リンは、特別であることを、認めなくちゃならん。その上で、店全体をどうするかだ」
「それでは、あべこべですよ!」
「彼女ありきの店じゃないんですよ!」
「彼女の、娼婦としての寿命だって、長くはないんですよ!店は、それ以降も、遥かに続いていくんです。それを考えてください!リンなど、店の歴史においては、ほんの瞬きほどの時間しか、居ることはないんですから。それに合わせてしまえば、店は多かれ早かれ、終わります。彼女一人のために、店に関わる、関わることになるすべての人を、犠牲にしないでください!お願いします。最初から、危ないと思ったんだ。普通の女じゃないと思ったんだ。何かやらかすと、思ったんだ!あんな女、はやいところ、切り落とすべきだったんだ!あなたにも、そう話そうと思っていたんですよ!」
 皆、男たちは言いたい放題だった。主人は黙って目を閉じ、彼らの声には耳をまったくかさないかのように、また、注意深く、耳を澄ませているかのごとく、じっと微動だにすることはなかった。
 次第に、男たちは心の内を出しつくしてしまったかのごとく、静けさに満ちていった。
「俺は、別に、いいですよ」
 静寂を突き破る一言だった。その声のする方へ、私たちは振り向いた。
 私よりも、三つほど、年上の男だった。
「僕らの負けです」と男は言った。「僕らは、誰一人、思い通りに、彼女を型に嵌めることができなかった。誰の思い通りにも、することができなかった。その現実を、受け止めるべきです。それなのにまだ、僕たちは、彼女を再び思い通りに、どこかに仕向けようとしている。いいかげんにしてください!そんなことは無理です。無駄です。そうだったじゃないですか。これまでが。どうしてそこを見ようとしないんですか?すっとばしてしまうんですか?見てください。見つめてください。それが彼女なんです。リンなんです。決して我々には誰も、近づくことができない存在なんです。客だってそうです。彼女を買えば買うほど、彼女は遠ざかっていってしまう。そういう存在なんです。それでいいんです。彼女はそういった女性なんです。いいじゃないですか。何か縁があって、この店に来たんです。我々と出会ったんです。そういった娼婦が居たって、いいじゃないですか。何人もいるわけじゃない。一人くらい、いいじゃないですか。彼女の仕事の寿命だって、ほんの、短いあいだだけでしょう?なおさら、いいじゃないですか!あっというまに、いなくなりますよ。我々はそれを快く、見送ってあげればそれでいいじゃないですか。気持ち良く、一緒に仕事をしたらいいんです。そのときまで。それが、自然なことです。何も深く考えることじゃない。作為など、まったくもって、不要なんですよ!むしろ、余計なことをしゃちゃいけない。それが、致命傷にもなる。もうすでに、彼女を、この店は受け入れたんです。さあ、もう、ここからは、何も、我々はできません。何かするごとに、それはあるべき我々の状況からは逸脱していってしまう。手を出せば出すだけ、逸脱していってしまう。こう言っては何ですが、我々にはもう、何もすることができないんです。何の手出しも、できないんです。すでに、入ってきちゃっているんだから。追い出すのもまた、作為を労することになってしまう。残念です。もうできることは、何も。リンのことは、放っておくしかありません。ある意味、無視することですね。いるのにいない。いないのにいるといった」
「まさに、それか」と主人は、ため息をついた。
 しかし、主人のくたびれた表情とは別に、他の男たちの目は、その発言した若い男に釘付けになっていた。
「お前、ってやつは」
「そんなことを、考えていたのか?」
「誰に言われたんだ?」
「そんなにしゃべったことなど。今まであったか?」
 主人は、突然、目を見開いた。
「わかった。お前の言うとおりかもしれんな。それでいこう。もう何も、口出しはしないことにする。お前たちもそうしろ。これは、特例を認めたわけじゃない。そういった区別自体が、ナンセンスな話だ。別に、何も変わったことではない。いいな。今まで通り。何も変わったことはない。いいな」
 男たちは、あっさりと納得した。私もまた、あの若い男の言葉を素直に聞き入れていた。
 それ以来、変わった事態は起きることなく、時は過ぎていった。
 変わったことと言えば、リンを取り巻く他の女娼婦たちの態度だった。最初は、気のせいかもしれなかったが、ふとリンに対する彼女たちの眼差しが、柔らかくなったように感じた。そしてリンと親しげに話す姿すら、目撃するようになった。
 それまでのリンは、誰とも、そのように話すことなどなかったから、最初は驚いた。
 私もまた、彼女に話しかけてみた。微笑みは変わってなかったが、リンは思いの他、よくしゃべった。こんなにも、親しみのある性格だとは思わなかった。リンは店じゅうの人間に、好意をもって迎え入れられていった。もうずっと、彼女は長いこと、この店で働いているかのようでさえあった。彼女のいない店を、今となっては、想像することできなくなっていた。リンが処女であることは、公然の事実として、まかり通り、当然お客も、その事実を知った上で、指名してくることとなった。しまいには、リンとは、そういった行為には及ばないということが、暗黙のルールとして、いつのまにか整備され、彼女は他に類をみない独特なポジションを、獲得することにもなった。そういった周りの変化は、彼女の神聖さ、神秘さを、ますます助長することになり、さらには、開き始めた、親しみのある人なつっこさとも、あいまり、ますます近づけば近づくほど、遠ざかっていく女という象徴性を、確かなものとしていった。以前よりも、ずっと、彼女のことをよく知るようになったというのは、錯覚で、より知らない存在になっていった。店の中心人物となり、巷でも、大変な人気と知名度が渦巻いていくにつれて、さらに浮世離れしていく様子が、浮き彫りになっていった。目に見えない薄いベールが、張り巡らされ、彼女を保護しているようにも見えた。それでも、彼女との会話量は、劇的に増えていたし、何より、彼女が恋をしているらしいことがわかったときには、私は心底驚いたものだった。リンの恋の相手は、『遊亭』の二軒隣に居た。そこは私塾だった。そこに通っている若い男のことを、リンは好きになっていたらしかった。いつも、店の外に、その日最初のお客を迎い入れるために立っている。ちょうどそのときに、その学生は、やってくるということだった。さっそく、同じ時間に、私はさりげなく店の外に抜け出し、その男がやってくるのを待った。学生というくらいだから、リンとさほど年齢が変わりないのかと思いきや、男は有に成人に達しているように見えた。大人の男だった。それでも二十歳をわずかに越えたか、二十代半ばか、そのくらいに見えた。男は、『遊亭』にはいっさい目をやらず、目的地に向かって、足早に歩を進め、後ろも振りかえらず、建物の中へと消えていった。リンは、その後ろ姿を見届けても、まだ、男の残像を見つめたままだった。彼女の、相当な思い入れを見てしまったようだった。リンは客がやってくると、微笑みを現し、いつもの彼女へと戻っていった。そういえば私は、リンが微笑んでいない、最初の顔を見たのだと思った。あんなにも哀しそうで、切ない眼差しを、彼女もするのだと思った。その日はずっと、彼女のそんな横顔が、目に写ったまま、消えることがなかった。翌日もまたそうだった。再び、夕闇に溶け込んだリンの眼差しが、昨日同様、再現される。男もまた、図ったかのように、同じ時刻にやってくる。リンの横顔が、脳裏にさらに、上書きされていくこととなった。私は、リンとその男を、何とかうまくくっつけることはできないものかと、思うようになっていった。リンの望みを叶えてあげたい気持ちで、いっぱいになっていった。胸も苦しくなっていった。リンの気持ちがまるで、私に乗り移ってきたかのようであった。そして、それは、私だけではなかったようなのだ。店の男たちは、皆、リンの恋を応援しようと、心を一つにしていたようだし、女たちもまた、すっかりと、リンの愛くるしい姿に夢中になっていたので、店中が、そのような雰囲気に変わっていた。その若い学生の男は、当然、そんなリンの想いなど知るわけもなく、ただの通り道を、通過していくだけだった。むしろ、こうした店など、忌み嫌うかのごとく、目を伏せ、背けるようにしていたのかもしれなかった。男たちは、よく相談したものだった。どうやって、二人を出会わせるか。あわよくば、二人きりにするか。まさか、男を客として、勧誘し、彼女へと誘導するわけにもいかない。しかし、リンが娼婦であるという事実は、変わらない。それでも彼女は、通常の娼婦ではない。あなたが考えるような、思っているような、娼婦ではないのだと、懸命に説明したい自分がいることに、私は気づいた。それとも、彼女にこれ以上、店の外に出ていくのを禁止し、男に姿を見られていないという前提で、二人を引き合わせるのがいいのか。ここで男たちは、まるで無意味な会話をしていたことに気づいた。リンはすでに、この界隈では、有名だったのだ。店の客ではない、男たちの中でも、ある種の、伝説的な存在になっており、リンに好意を抱く男の数も、相当数に膨れ上がっているということだった。リンを一目みようと、店の外には、常に目を光らせている男たちがいた。当然、リンの意中の相手も、知っている可能性が大きかった。その上での、あの態度なのだ。一瞥すらしたことがない。嫌っているのかもしれない。不安を、私は覚えた。けれども、たとえ、そうであったとしても、リンの魅力と繋がりあえば、状況は一変する。そう思った。きっかけをどう作っていくか。それだけが、重要なことのように思えた。我々は、リンの気持ちなど、少しも察することなく、勝手な思惑で右往左往し始めていた。その男のことを、調べてみようとする者もいれば、その私塾に入ってみようとする者。男を客として、招き入れようと画策する者。みな黙って、何もしないわけにはいかない。見過ごしてなどいられないといった、焦燥感すら、漂わせ始めていた。そして、その恋の相手の男も、また、実に爽やかで、好感のもてる男だったのだ。その相手に反対する男たちは、誰もいなかったのだ。お似合いだった。皆、二人の幸せを願い始めていた。リンの結婚相手として、すでに、見ていたのかもしれなかった。もうすぐリンは、この店をやめるだろうなと、私は予感していた。

 予感は、的中したのだ。
 その男もまた、リンのことが好きだったのだ。いつも遠目に、彼女を見つめていたのだ。
 私塾が開始される時刻はもっと遅かったのだ。男はわざわざリンを見たいがために、自習と称して、かなり早めに来ていたのだった。店の前に来れば、途端に、目を合わせるのはやめる。忌み嫌っていたわけではなく、わざと、自分の気持ちを悟られないように、通り過ぎようとしていたのだ。私は、その男から、想いを直接聞いた。リンにも伝えた。しかし予想に反して、リンは、悲しそうな表情を浮かべた。「どうしたの?リン」私は聞いた。
「うれしくはないの?君たちは、好き合っているんだよ?」
 リンは、首を左右に振り、そして答えた。
「私、嬉しい。それは、ほんとうよ。でもそれで、どうするの?私。どうしたらいいの?困るのよ、私。ただ、遠くから見ているだけでは、いけないの?ただそれだけでは、いけないの?」
 意外な言葉に、私は戸惑った。恋愛経験のなかった私は、それ以上、かけるべき言葉が見つからなかった。あとで、他の男たちに相談してみた。やはりリンもまた経験がないために、戸惑っているだけだという結論が出た。お前じゃ、駄目だなと、年上の一人が、私のお役を奪い、男に近づき、その後の予定を立てたらしかった。男は、『検挙』という国家試験を目指しているということだった。これに合格すれば、将来の生活は保証される。もちろん、はやく奥さんが欲しいし、子供も欲しい。その相手が、リンならば、これほど嬉しいことはない。彼はそう語ったのだそうだ。やはり、想いはそこまで進んでいたのだ。そしてその男は、リンまで説得させることに成功した。二人で会う算段を、見事に取り付けてきた。二人の結婚は、すぐに決まってしまった。どんな二人きりの出会いを通過し、どんな会話をして、どんな心の交流があり、どういった未来を、二人は共に描いたのか。我々には、全く知るよしもなかった。あれから、そもそも何回、彼らは密かに会ったのか。最初に、セッティングした男も、それ以降は全く知らなかった。ただ、一ヶ月後に、店の主人から皆に、リンが結婚したことを報告されたのだった。そのとき、すでにリンは店を辞めていた。彼女を最後に見たのはいつだっただろうと、私は思い出そうとした。予感はしたものの、ここまで早く、リンが店を去るとは思いもしなかった。あれほどの騒ぎを、リンは店とこの界隈にもたらしたのに、いなくなるときはあっけなく、いなくなれば、何故か最初から居なかったかのような、希薄な存在感を浮かび上がらせていた。全く不思議な存在だった。リンのことはすぐに気にならなくなり、次にリンのことに意識が向いたのもまた、店の主人がリンのことを口にしたからであった。さらに半年後だった。リンの夫は結婚後、すぐの試験で、『検挙』に合格し、一家の主として、これからリンを養っていこうとしていた。ところが、夫は配属された新天地で、農民の暴動に巻き込まれて、死んでしまったというのだ。殴り殺されたらしかった。法外な税金を課す政府の新しい役人が、派遣されたということで、嚇しのために、ほんの少しばかり、痛めつける程度のつもりだったようだ。昔から、この手の事は、当たり前のように行われていた。役人は、ほんの少しばかり、不正を犯して、初めだけ、農民に特別な優遇を図ることで、事は治まるというのが常であった。ところが、この男にそういった情報は入っていなかったのか。それとも、そんな小さな事にも、断固妥協は許さないといった姿勢だったのか、それはわからなかったが、リンの夫は真っ向から、粗野で獰猛な農民たちと、激しい闘争を繰り広げ、無惨な姿にさせられてしまったのだった。リンのお腹には、子供はいなかった。皆、ここに来てようやく、リンの残像が鮮明に甦ってきたようだった。
「それで、リンは、どうなっているんです?」
「リンは、店に戻ってくるんですか?」
「夫は役人だったのか。じゃあ、殺されても、何らかの生活の保証はしてくれるわけだ」
「本当に、子供はいなかったのですか?」
「会いに行ってもいいですか?」
「心配でたまりません」
 リンの残像は、日に日に大きくなっていった。不在の在任。いなくなればなるほど、遠ざかれば遠ざかるほど、近くに、すぐそこに、目の前にいるような気がしてくる。
 リンとは、ほとんど縁遠く、二度と会うことも叶わないことを、確信するにつれて、益々、彼女はこの店に、永久に働く娼婦のような気がしてくるのだ。何故か、今は、誰よりも、その本質は、娼婦に向いていたのではないかとさえ思えてくるのだ。誰よりも、淫らで、男の品性を削ぎ落とし、堕落させ、その生命力を抜き取っていくのではないかと思わせてくれる。今、私は彼女のそういった両面性を、色濃く感じていた。あのときは、その一方しか見えなかった。ああやって、結婚でもしてみれば、そのもう一方の側面を、知ることができる。あの夫は、それを知ってしまったのだ。だから、それに連なった影をも、引き込んでいった。そのとき、私は、突然、あのリンの背後に感じた黒い影の群れを思い出していた。あのときも確かに引き連れていた。まったく見えなかったわけではなかった。今にもリンの白い闇を乗っ取ろうと、身構えていたではないか。どのタイミングで、あの影は、主役の座を奪ったのだろう。リンはあのあとも、体を許すことはなかったのだろうか。夫との営みは当然あったはずだ。それがきっかけだったのだろうか。開いてはいけない扉を、結婚が、そして夫が、開いてしまったのだろうか。それが、あんな災厄をも引きいれてしまったのだろうか。状況はわからなかった。そして、リンが、今、どういった生活をしていて、どんな姿で生きているのか。想像することさえ難しかった。どんな姿になっていたとしても、驚かなかった。どんな姿にでも、彼女は一瞬で、なれるような気がした。いや、逆に、あの微笑みのことも思い出した。今もあのときも、結婚後も、これからも、あの微笑みのままに、存在しているかもしれなかった。ありえなくはなかった。ということは、まだ。まだ、夫とも・・・。誰にも開通させられてはいないのだろうか。夫でも無理だった。初めて恋をした男でも、無理だった・・・。そうなのだろうか。本当にそうなのだろうか。夫もまた、我々同様に、まったく行為には及べなかったのだろうか。次第に、夫も、そんな彼女を、受け入れ始めていった。受け入れれば入れるほど、逆に、彼女をとりまく神々しさには、磨きがかかっていった。ただ、彼女がそこにいるだけで幸せだった。この店の客たちのように。我々、店の従業員たちのように。この街の人たちのように。男も。女も。リンは、いまだに、あのときのまま。そう思うことが、多くなっていった。
 ちょうど、そんな時だった。主人に呼ばれ、私は彼の部屋の扉をノックした。
「入れよ」
 野太い声が聞こえた。
「失礼します」
「皆の前で、発表してもよかったんだが、どうしてか、君にまず知っておいてもらいたい。そう思って」
「何でしょう」
「リンのことだよ」
「何か、わかりましたか?」
「ああ」
「まさか、復帰ですか?」
「いや、そうじゃない。そうじゃないんだ。王宮なんだ」
「王宮って、あの」
「そう。王子の目に、とまったらしい」
「そうなんですか!よかったじゃないですか。ということは、再婚ということですね」
「いや、結婚とか、そういうんじゃないみたいだ。王子には、もう妻はいる」
「愛人ですか。それでも、いいじゃないですか」
「愛人ではないらしい」
「どういうことなのか、わかりませんけど。愛人ではないとすると、普通に、雑用とかそういうことですか?お手伝いさんみたいな」
 主人は急に、口数が少なくなってしまった。
「王宮の中のことについては、よくわからないね。ただ、リンはその中にいるようだ」
「何か、物言いは暗いですね。やっぱり、リンが心配なんですね。その王宮の中で、彼女は、男たちの好きなようにやられていると思っているんですね。でもこの店よりも、全然、待遇はいいでしょ。あわよくば、王族の仲間入りも可能だ。そのなかの誰かと、結ばれることだってある」
 結局、主人は、店の人間に、その事実を知らせることはなかった。私はリンが王宮の中でも、ひときわ輝きに磨きがかかっている様子を想像した。あれから何年経っても、リンの風貌は変わらない。微笑みはまるで変わらない。私はリンがそこでも、誰の手出しもできない特異な女性として、生きている様子をありありと、想像することができた。愛人にしようとしても、それは叶わない。当然、奥さんにしても、彼女とひとつになることは、できない。彼女は子供を生むことはない。何のために彼女はそこに居るのか。私は、この店に居たときの短い期間のことを思い出していた。あの時間における、この空間。今いる、この空間と、同じはずなのに、まるで違った世界になってしまっている。とても同じようには思えない。一年もなかったはずだ。そのあいだ、店自体がどこかに移動してしまったかのように今は感じられる。リンがやってきたというよりは、リンの方が、どこにも動かず、我々の方が、移動していったかのように。リンが移動しているのは全部錯覚で、リンの元に、周りの方が動いていってしまっている。リンを中心に、世界は廻っているかのように。そのときリンに必要なものが、リンの元へと引き付けられていく。そして、用済みとなれば、彼女の元からは自然と離れていく。ときに、消えていく。リンの夫もまた、そうであったかのように。リンのために周りが、皆、二人をくっつけようとしていたのも、今となっては、リンを定点とした、周りの時空の、のたうちまわりを、表現していたことなのかもしれない。時空が波のように静かに、ときに激しく、うねっている様子が、こうしてしばらく、距離を置いて見ることで、そのときの実態が、表だって出てくるみたいだった。今度のことも、王宮が彼女を、選んだのではない。王子が彼女を選んだのでもない。彼女の方が、そのときに必要な人間、必要な場所、状況を厳密に選び、その意思に呼応するように、現実の方が動いていった。私は彼女にとって、どんな役割を担ったのであろう。何か役にたったのだろうか。そう考えると、ああした状況もまた、リン自身が望んだことだったのではないか。ただ、リン自身が望んだものなのか、それとも、彼女の気持ちとは関係なく、彼女の生まれもった属性なのかは、わからなかった。私には、後者のように思えたが、時間が経てば経つほどに、彼女から遠ざかれば遠ざかるほどに、前者のような気がしてくるのは、いったい何故なのだろうと思った。リンが確信犯的に、物事を動かし、操っている様子が、暗闇の中で浮かび上がってくるようだった。あの白い闇もまた、実に嘘っぽく、過剰な演出を弄んでいる魔術師の背景が、リンに取りついている、そんな映像が頭から離れなくなっていく。
 こうして、リンに対するイメージが、どんどんと変わっていくなか、私は変わりばえのない機械的な日常を、何年も過ごしていくようになった。何十年と過ぎていくのも、必然のような気がしていった。私は、店の主人になっている。妻をめとい、子供も三人居る。若い女娼婦の管理も、すでに熟練している。私はこの世界の人間になっていた。すっかりと熟しきっていた。風貌もまた、以前とは比べるまでもなく、変化していることだろう。そのあいだも、リンの噂は聞いていた。王宮での華々しい活躍の話も、また。彼女が元娼婦の、しかも、一度も性行為をすることなく、客を魅了していった伝説の女であることも、彼女の価値をさらに高めていったのだった。私はふと、それが、それこそが、リンの狙いだったのではないかと、感じられてしまったのだ。リンは、自らの商品価値をあげるべく、この店にきて、そういった状況を意図的に作っていった。そして去り、結婚をし、未亡人になった。それもすべて、計算の上だったのだろうか。そして処女のままに、王宮へと入り込む。何が狙いなのだろう。王妃になりたかったのか。しかし、その後の噂では、彼女は王妃になったという話はない。その当時の王は、少し変わった趣味をもっていた。それまでの王は、自分の周りに愛人をはべらせる、ハーレム化していくのが常だったものが、そのときの王は、まったく女性を、そのようには扱わなかったのだという。王そのものが、不能なのではないかという噂も立っていたくらいだ。しかし、王は、結婚はしてなかったものの、パートナーの女性が一人いて、彼女との間に、一人、息子をもうけていた。王は他に、女性との個人的な関係は持つことはなく、逆に、王の身の回りの仕事を担当する人間を、女性にして、さらに、その女性は、若くて男性経験のない、男性経験を経ていない女性であることが、条件付けられていたのだ。これが、リンの目的だったのだろうか。ここに入り込むための、策略だったのだろうか。王はそういった女性を重用し、身の回りに配置させた。王はそういった女性の、まさに、役職としての配置に、執拗に拘り続けたらしかった。まるで、風水を扱うかのごとく、そこには彼にしか見えない、彼にしかわからない法則が、厳然と、存在するかのように。確かな秩序が、秘められているように、周りの人間には感じられた。建物の厳密な配置のもとで、女性は選ばれ、そこに置かれ、そして、健気に、王に尽くすがごとく働き続けた。リンは、そんな女性の一人になっていた。
 リンが王宮でいったい、どれくらいの期間を過ごし、どのような役割を担ったのかは、当然ながらわからなかった。次に、リンの情報が入ったのは、またさらに、何年も経ってからのことだった。リンは王宮に出入りのあった、当時、時代の頂点にいた君臨していた画家、『画報』という男の、専属のモデルになっているということだった。リンは、画報の家で寝泊まりし、彼の創作に合わせて、被写体になるべく常なる待機をしているということだった。実際、彼女のことを見たという人間に、会うことはなかったが、画報が製作する最新の作品には、常に彼女が登場するらしく、私もその後何度も、絵の中に閉じ込められた、リンの姿を見ることになった。見間違えようがなかった。リンは、初めて見たときの、十四才の微笑みそのものだったからだ。何度か、絵の中のリンを見ていくうちに、ふとこの絵は、あのモナリザと構図がそっくりであり、リンを描いた作品は、何故か、この構図以外には存在しえないかのごとく、執拗に、このパターンに拘った節が見受けられた。背景が少しずつ変えられ、額縁もまた、微妙には違った。着ている服は確かに違う。色の濃淡も違う。画家の揺れ動いている気持ちが、そこに反映されているかのようだった。しかし、肝心の、中心にいるリンの表情にはまったく変化がない。まるで一枚、彼女の写真をとり、それを大量にコピーして、その背景や衣裳だけを、その都度色付けしていっているかのようだった。リンなどすでに、そこにはいなく、ただリンへの郷愁のみを便りに、そのときの想いをキャンバスにぶつけていっている。構図やモチーフに、その時々に表現したいことを、分散させること。それを、極端に嫌っているかのように、私の目には映った。同じ強固な構造に固定することで、その周囲の変化に、意識を集中しているような、そんな画家の姿が浮かび上がってくるようであった。リンは、本当に画家のところにいるのだろうか。いや、しかし、リンはいつだって、同じ顔を我々にも向けていた。私が思い出せるのも、まさに、この表情一点だった。モデルとして、画家の前に立つときも、この顔以外を繕うことはないといってもおかしくはなかった。そして、この全く老化しない、崩れてはいかないこの瑞々しさ。清々しさ。達観したような冷たさ。包み込むような優しさ。瞬間冷凍されたままに生きている、謎の女そのものであった。ある種のモナリザだった。
 リンへの残像だけで、絵を描いていることも、考えられないことではなかったが、それでも一度は、確実に会ったことがあり、確実に彼女を前にして、キャンバスを広げていたことは間違いない。絵の中のリンは、体温を宿していた。頬が火照り始めてきているようにも見えた。それは驚きだった。リンを絵にすることで、不思議と変化が誘発されたかのようだった。初めて彼女が、肉感を持った現実の女性に見えた。だが私は、我に返った。この肉感は、彼女のそれではなかった。画家の体温だった。画家の内面がキャンバスには投影されているのだ。勘違いするところだった。あくまで、画家を通じて、今はリンにアクセスしているだけだった。そうしたモナリザとなったリンを、ずっと見つめていた。この稀代の画家の美術展に、私は開催中、何度も足を運んだ。リンと会うためなら、私はどんなところでも、訪ねていくような気がしていた。王宮のような場所ではない限り。

 若い頃から、著しく強かった女性に対する性欲が、日に日に、急激に減退して、内なるどこかに消え入っていく様子を、王は目の当たりにしていた。王は若いときに、女を与えられ、そして、それからも何不自由なく、若くて美しい女と、次々と関係を持っていった。
 衣食住は豪勢を極め、しかしそれでいながら、王家の方針として、年に数回は、王宮を出て、貧しい農村で生活をすることになった。農作業にも一日中参加し、女性との関係も、いっさいない三ヶ月を送った。そのあいだは、とにかく、王は体を使って仕事をするのだった。女など、欲しいとも思わないほどに、酷使することもあった。それに、女など、王宮で嫌というほど抱いてきていた。王は王宮を離れる前に、溜め込むように、贅沢の限りを尽くしていった。農村での生活の後には、病院での研修と勤務が続いた。王は、一ヶ月のあいだ、体調不良でやってきた人々と触れあい、さらには、大きな病気を患い、余命もいくばくもない老若男女とも、手を取り合って過ごすことになった。王に対する教育だけが、目的ではなかった。一般庶民にも、若き王の後継者を、身近に感じてもらう絶好の機会だった。王はこういった一年のサイクルを、若いときは、生きていた。王宮に完全に戻り、王としての地位を引き継ぐときには、まだ三十代になったばかりの王でも、それ以上、贅沢にとりかつれていくことは難しかった。もちろん、最後まで、愛人をはべらすことをやめない王の方が、遥かに多かった。しかし、代々、そういったことが濃度としては、薄くなっていくこととなった。そして、現王はついに、パートナー以外の誰とも性的関係を結ばなくなっていた。その代わりに、若くて清楚な男を、まだ知らぬ女を、身の回りに配置するようになっていった。王は日に日に、この王宮の環境にも、王宮の外の世界にも、次第に、関心を示さなくなっていった。すべては飽和してきていると、王は感じていた。目新しいことなど何もなかった。前は、王宮の外の世界。自分の境遇とは、まったく異なる世界の生活、人間、人間性に、非常な興味を覚えていた。しかし、農村を転々として生活をしたり、また僧侶として、短い期間ながらも修行のようなことをしたこともあった。商人の見習いを務めたり、博打の場を体験したり、また画業の教育も受けたりと、王は教育という名の元に、やりたいことはなんでも、積極的に体験していったのだった。最初は楽しかった。初めての経験というのは刺激的だった。ところが、そうやって、色々な境遇に、仮りにも身を置いてみるのだが、次第に何をやっても、同じような感覚に、陥っていってしまっていた。あれほど違うことをしているのに。どうしても、同じことをしているように感じられてしまうのだ。そうこうしていくうちに、何と、愛人との遊びと、農作業とまでが、全く同じ精神状態で、行っていることに気づいたときには、心底驚いてしまった。つまりは、何をしていても、心は全く動かされることはなくなっていたのだ。楽しいとか、哀しいとか、苦しいとか、辛いとか、そういった感情が、すでに、麻痺していたのか何なのか、まったくどうでもよくなっていた。楽しいと、苦しい、嬉しいが、すべて同じひとつの感情であって、そのときに、どの側面にいるのかが違うだけで、まったくの同じ球体の中に、自分はいるのである。王は誰にも話すことのできない苦悩を、その奥に感じ始めた。その芽が育っていくうちに、ますます、喜怒哀楽のような感情には、興味が湧かなくなり、快楽だの何だの、逆の面では国を治めるだとか、民の生活を豊かにするだとか、人間の幸せだとか、そういったものが、どれもこれも、薄っぺらい、ただの浮遊物のような気がしてしまって、無気力になっていってしまったのだ。たとえ、物も心もすべて、裕福になったとして、で、それで、いったい何なのだろう。自分は、そういった生活に近い人生を送っている。それで、満足しているのだろうか。そういった生活を、一般庶民にも、できるだけ送ってもらいたい。そういった、人のため世のために動いていくということにも、当初ほどの生き甲斐が、見つからない。いったい自分は、何を目指して、国をどこに導いていけばいいのか。完全に道を見失ってしまっていた。目に映るすべての状況に、うんざりしていた。どこにも解消するための何物をも、見いだすことができないのだ。捌け口はどこにも見いだすことができなかった。王はあらゆる遊びもやりつくしていた。そこで初めて目をつけたのは、王宮に出入りをしていた画報という画家だった。彼は何もないところから、見事に珠玉の美を現出させる天才だった。ないものは、どこを探してもないままだ。ないものは自らつくるしかないと、気づかせてくれた男であった。
 画報を呼び、その旨を伝えた。画報もまた、同じことを言った。若いときは、技術を身に付けるために、あらゆる模写を繰り返しました。私には初め、描きたいものなど何もなかったのです。ただ、父の言われるがままに毎日、描き続けていたのです。何のために自分はこんなことを繰り返しているのだろう。父はこれをこんなふうに描いてくれという注文に応えて、お金をもらうという生活をしていました。仕事として、彼は描き続けていました。息子である私に、自分の身に付けた技をすべて、伝授しようとしていました。私が画業で生活していけるようにという親心から。また、自分で途絶えさせてはいけないという、半永久的に存続していってほしいという、自分の分身を作りたかったという気持ちもまたあったのでしょう。私は描きたいものなど、何もないなかで、描き続けるしかありませんでした。才能は相当なものだったようです。そして親父は、亡くなりました。私は、親父の仕事を継ぎました。仕事という仕事をすべて、何年にも渡ってこなし続けました。意味など考えることなく。意義など見つけ出すこともなく。私は生活していきました。絵を描くというのは、ただの手作業でした。頭も心も、切り離して、ただ、手を機械的に動かしていれば、勝手に完成するのです。喜びも手応えも何もありません。ただそれだけで、大金が入ってくるのです。よく考えれば、それは私にとっては、とても楽な仕事でした。精神的、疲労肉体的疲労も、何もありませんでしたから。今振り替えってみると、私は、仕事に人生に生活に、心底うんざりするという、たったその状況になりたいがために、運命が用意した道であることに、気づいていくのでした。私には、もう、この人生に未練などない。ここで終わらせよう。もう与えてもらった画業において、仕事による報いは、すべてやりきったことを私は感じていたのです。そのときでした。私は、一人の美しい少女に、自画像を描いてくれないかと、あらたなる仕事を依頼されるのです。
「その少女は、リンと言いました」
「リン?」
「ええ、そうです」
「リンですか?うちにも、そういった名前の子がいます」
「そうですか。違うリンですね」
「でしょうね」
「そのリンという少女は、たった昨晩、両親を亡くしたということでした。同じ晩に、両親が亡くなるというのは、事故か事件か、普通の死に方ではありません。しかし、リンはそれ以上、詳しく話そうとはしませんでした。ただ、両親との思い出を目に見える形で残したいのだと。そう言うのです。私は戸惑いました。会ったこともない人間を、どうやって描くのか。それに思い出まで込めて、描いてほしいだなんて。子供の思いつきは実に残酷です。そんな注文など受けるはずもない。しかし、リンは本気でした。その頃は六歳でしたでしょうか。はっきりとした物言いで、私にこう告げました。あなたは、この仕事を引き受けるでしょうと。そして、これは、あなたの画業が初めて花開く、最初にして唯一のきっかけともなるでしょう。あなたは、生まれ変わりますと。妙後日、受け取りにいきます。それまでに、仕上げておくように。私はまるで、師匠に命令されているかのごとく、はいと、大きな声で返事をしていたのです」
「そうですか。リンですか」
「ええ。その後、リンは、私のところに、絵を取りに来ることはありませんでした」
「その後、お会いしたことも」
「その通りです。ありません。今となっては、誰も、あのときの少女のことを、証明することはできないのです」
「それで、絵は、完成したのですか?」
「もちろん。私は初めて、モデルもなしに、キャンバスに向かうことになったのです。そして、自分でも吃驚したのですが、リンの両親を描いてくれ、という依頼だったのにも関わらず、私が描いていたのは、リンそのものでした。両親との思い出を残しておきたいという彼女の想いに、きっと反応してしまったのでしょう。リン本人の中に両親の姿、両親との関係、またあの日の出会い、その後の私の画業、そのすべてを凝縮して、そこに存在させるために必死で描いていたのでしょう。入り乱れた様々な思いや思惑が、そこにひとつの表現として結実していたのです。それが、リンの予言した事柄だったのです。私という画家が、誕生した瞬間だったわけです」
 そうして、画業を通じて、王は、何もない所に何かを作り上げるといった、あたらしい遊びを覚えるに至ったのである。画報に、絵のイロハを教わり、毎日休まずに絵を描き続けていった。これは効果があった。なかったところに、何かを生み出すというのは新鮮だった。自分が女性になったかのような気分になった。描くだいぶん前に、次に何を描くかの構想が、浮かび上がる。それをメモしたり、頭の中に記憶したり、しばらく放っておくことで、アイデアを暖め、出産の時期まで、おとなしく体内の中に転がせておく。受胎です。そして、生んでいる時間は、孕んでいる時間にくらべて遥かに短かった。そして、出産が起こる。生んでしまえば、体内にはそれまで確実にあったものがなくなっている。突然の空白が出現したかのように、虚脱感が募ってくる。空しさに満たされ、発狂したくなる。その一連の起こりが、王にとっては新鮮だった。刺激的だった。心酔していった。画報が師匠として見守ってくれてもいた。そういった状況もまた、心強かった。画報は、この道においては、遥か先に行ってしまっている。彼はここを通過したのだ。そしてさらに、深みを帯びた道の途上にいる。王は描き続けた。描いて描いて描き続けた。その狂乱状態は、次から次へと子供を孕み、出産を繰り返し、育てていく母親のごとく続いていった。次第に、王は、生み落としたキャンバスたちをどうしたらいいのか、困っていった。生むだけ、生んだらいいと、画報には言われていた。しかし、その後、この絵をどうしていくべきか。どう向き合い、どこに置き、どんな関係を築いていくべきなのか。画報は、何も言ってはくれなかった。画報は、無言でうなずくだけだった。自分で考えろということか。王はあたらしいアイデアが体内に孕んでいくのを見届けると同時に、生まれた子供たちとも、日々、向き合っていくこととなった。子育てということか。見守っていることこそ、自分に求められていることだと、王は感じた。忍耐力を養うには、絶好の機会だった。絵そのものが、何か意思を示すのを、彼は気長に待った。絵のほうが、してほしいことを示すはずだと彼は思った。画報は相変わらず、何も言ってはくれない。画報は画報で、依頼された仕事に日々没頭していたようだったし、その仕事の合間に、リンの絵を描き続けてもいた。同じ構図で、変わらぬ彼女の姿を、いつまでも描き続けている。ちらっと覗き見ても、いつだって、同じリンばかりを描き続けている。依頼される仕事は、あれほど多岐に満ちて、同じ手法で描くことを常に拒むかのごとく、画報は様々な方法を編のみ出していっては、試行錯誤もせず、どんどんと実践して、豪華絢爛な作品を生んでいく。画報は、その装飾性を武器に、当代一の画家へと、のしあがっていった。その様子を、王は身近で見ていたし、王宮に飾る絵のほとんどは、画報の作でもあった。王宮がなくなるときが来ても、画報の絵は、その後も生き延びていくのではないかと、感じたほどだ。そういった芸術の後ろ楯となる自分の功績もまた、歴史的に評価されるのではないかと、期待もした。しかし、リンの絵を見れば見るほど、同じ名で、この王宮に住むリンという女と、そのイメージは重なっていくのだ。一度、画報と引き合わせてしまうのはどうだろう。しかし、一つ気になったのは、絵の中のリンと、王宮に今いるリンとが、ほとんど同じ年齢に見えることだった。どう考えても、それは同一人物でないことを示していた。画報が自分の画業を見いだしたのは何十年も前のはずだ。そのときに出会ったリンが、こうして今、ほとんど同じ姿で存在することなどありえない。それでも王は、二人を引き合わせた。何が起こるのかを見てみたかったのだ。
「お呼びでしょうか」
「お、画報、入ってくれ。来客は、もうすぐ来るから。私の身の回りの世話をしている女性だ」
「女性ですか?」
 急に、画報は、身構えた様子を示した。
「そういえば、画報。嫁はいなかったよな。とる気はないのか?」
 ふと、画報の口許が、安堵のあまりに緩んだのが、王には見てとれた。
「そういったお話でしたか。わかりました。そういうことなら、お答えしましょう。私は生涯、独身でいるつもりなのです。それはもう、決めたことなのです。それが約束なのです。この画業を私に授けてくれる代わりに、私は自らの家庭を持つことを、放棄したのです。したがって、そういった女性と、一緒になることはありません。それに、現実においても、そういった私のための女性は、いないのです。申し訳ありません。私にはわかるのです。あなたが気をきかせて、どんな美しく優しい素晴らしい女性を、ご用意なさってくれたとしても、お応えできる私ではありません。あらかじめ正直に申しておきます。あとから、トラブルを抱えたくはないので」
 どうも、未来の嫁の候補を、ここで紹介されるのだと、画報は勘違いしているようだ。
「いや、そういうことではないんだ」
「取り繕ろわなくて結構です、王。私にはわかります。色々なことが、私には見えてしまうのです。だいぶん前に、感じとってしまうのですよ。申し訳ありません。たとえ相手に、その気がなくてもですね、そういった心づもりがなかったとしても、私には、その本人にも把握していない、想いや事柄まで、先に見えてしまうのです。そして、そのことが、私の画業の、実に、秘密の一つでもあるのです」
 王は黙ってきいていた。画報にはとりあえずは、しゃべりたいだけしゃべらせてあげよう。本当に、自覚はできていない何かを、この男は読み取っているのかもしれなかった。
 そのとき、扉がノックされる音がした。
「失礼します。入ります」
 リンだった。そして、リンは王である私ではなく、最短距離で画報を見つめていた。
 画報は膠着したまま、虚空を見つめていた。そこにリンなどいないかのごとく、リンが、目の前の空間に分散して、飛び散ってしまったかのごとく。王は黙って、見守ることにした。割り込んでいきたい気持ちを、必死で押さえ込んで、王は自分を含めたこの空間全体を俯瞰して、眺め見ることで、その衝動を回避しようとした。ときは止まってしまった。
 それが、ずっと続いていった。どちらも、口を割らなかったし、対峙したその瞬間からは、少しも動こうとはしなかった。何かの闘いが、二人のなかで、生まれているようでさえあった。王の忍耐にも限界が来ていた。
「まあ、そんなところで立っているのも、何だから、こっちに来て、座ったらどうだ?こちらは、画家の画報さんだ。この建物にも、たくさんの作品が飾られている。見たことがあるだろう。国宝だ。紹介しておくよ」
 リンは、動かなかった。ほとんど瞬きすらしていないようだった。
「ほら、画報も何をしているんだ。手ぐらい差し出したらどうだ?」
 こちらも反応はなかった。王は自ら、こうした状況を演出したものの、その後の処理に困り始めていた。やはり、この二人は、初めての対面ではなかったのか。知っている仲だったのか。様々な憶測が、脳の中で駆け巡っていく。しかし、どれも事実ではなく、現実をただかき回すだけの雑音を、鳴らし散らしていくだけだった。二人の静寂が続き、厚みを増していく中、そうなればなっていくほど、自分の中の思考の混乱具合が、ひどくなっていくことを自覚する。良からぬ想像が掻き立てられ、この場面を、正確に解釈していこうと、ざわめく人間が複数、内部に存在しているようで、終始議論のようなものを続けている。王は、そうしたざわめきを遠くから眺め、二人に自分の肉体を加えた空間をも、ただ眺め、夢の中の一場面であるかのように、引き起こした事態を、遣り過ごそうとしていた。
 その後、画報は、王宮からは消えた。リンもまた消えてしまった。二人が共に手を取り合って、王宮を去っていく姿が、目に映ってくるようだった。あの二人の関係は、今もあのときもわからなかった。ただ、画報が、リンから強烈なインスピレーションを得て、創作に励んでいることだけは確実にわかった。画報は、王宮での仕事を、その後やることはなかった。王宮には、彼の絵が百枚程度あった。いずれは、相当な値がつくことになるだろう。家宝にした。子孫末代まで、この絵は手放していけないと伝えるべきだった。絵を売ることで、安易に家を建て直すことは、厳しく諌めるべきだった。画報は、その後も、旺盛な製作を続けていた。注文による製作をいっさいやめ、自らの望みどおりに、生みだした作品を、気が向いたときに売るといったことを続けていたようだ。王も、所在のわからなくなっていた画報を見つけ出すよう、国中に命令を出したのだが、彼がどこを拠点に、どんな創作をしているのか。結局掴むことができなかった。しかし注文すると、画報は意外にも受けてくれた。王宮には多大な借りがあります。王の令は無視することはできませんと、製作された絵が、きちんとやってきた。誰か、別の人間が、成り済まして描いているのかとおもいきや、そのタッチは明らかに、画報のものだった。だいぶん作風は変化していたようだが、その根幹にあるものは、確実に、あの男の刻印だった。王は、自ら絵を描くようになったことで、どんなに適当に乱雑に描こうとも、その人間の中心は、いずれにしても、滲み出てしまうことを実感していた。王はいつも思った。この漏れ出てしまう自分という名の液体を、何とか消し去ることは、できないものかと。嫌でたまらなくなっていた。最初はそうは思わなかった。むしろ、自分の個性を、どう作り上げていくか。誰とも違う、自分ならではの絵を、どうやって描いていくか。自分だけの技法を、どう作り上げていくか。そういったことに夢中になっていった。ないところに何かを生み出すのだ。自分の刻印が色濃い、特別なものを出現させようと、躍起になるのも当然のことだった。そんな姿に、画報もまた頷いていた。その格闘は必要なものだった。もがき苦しめばいい。それは、通り抜けなければならないものだ。あとになって、振り替えるためのものだと。ところが、何年も、ひたすら絵だけを、結局描き続けていく生活を繰り返していくうちに、そこらじゅうに、自分の分身だらけが散乱している光景になった。画業を仕事とはしていない自分だ。絵はどこにも出てはいかない。画報はいい。画報は書いた分だけ、外に出ていき、自分の元からは去っていく。まったく見ることもなくなる。忘れてしまえばいい。自分の手からは離れていっている。一人歩きをしている。しかし、自分は違うと、王は思った。描けば描くほど、身の周りに、溜まっていってしまう。それでも一度、描くことに快感を覚えてしまったのだ。すぐにはやめられない。今は手放すことはできない。王はこのジレンマに陥ってしまった。描くことはやめられない。しかし、描いたものにはウンザリしていく。王は次第に、描く絵に、自分を反映させることのないようには、できないものか。考えるようになっていった。自分が製作しながら、自分を消し去ることはできないだろうかと。どうしたらそれができるのだろうと。自分の色を消したい。何としても、消し去りたい。画報にそのことを言う。画報はやはり、しばらく無言で目をつぶっていた。
「なあ、画報は、そう思うことは、ないのか?いや、ないか。自分の絵は、すでに手元にはないんだものな。離れていった絵に対して、未練はないのか?あの絵は、とてもよく描けたものだ。手元に置いておきたかった、なんてことは」
 画報は微笑む。
「それは、ありません」
「そうか。そうだよな」
「しかし、そう思える絵を、描きたいとは、思ったことはあります」
「そうなのか?それでは、僕とは逆だな」
「あなたの気持ちは、よくわかります。私もそうでしたから」
「お前も、か」
「ええ。まだ、売れていない時代でした。私の絵を買ってくれる人は、誰もいませんでした。私は、この世に、画家として存在していませんでした。私の描く絵に、自らの奥底にあるものが、溢れ出ていて、それを日々見るのが、とても辛かったことを思い出します」
「そうだったのか」
「だいぶん長く続いたのです。二十年くらいでしょうか」
「そんなに?お前はいったい、何歳なのだ?」
 王はまじまじと、画報の顔を覗きこんだ。この男は、いったいいくつなのか。これまで考えたことがなかった。リンの年齢との、兼ね合いも、よくわからず、こんがらかったままになっている。時間の感覚が、乱れきってしまっている。つじつまが、至るところで合わなくなっている。
「絵が売れ始めてからは、それはなくなったんだな?」
「それまでに描いた絵は、すべて、売れました」
「ほんとうか?すごいな。二十年分の」
「そうです」
「すべて、手放せたんだな」
「今となっては、それが、その絵こそが、未練を感じさせるものとなっています」
「そういうものなのか」
「それ以降、私は、注文を受けるという形で、製作を続けて参りました」
「そういった絵には、自分の根幹は、色濃く反映されていないのか?」
「いいえ、されています」
「そうか。それは、そうだろうな」
「反映のされ方が、異なるだけです」
「手放したものには、未練はないんだろうな」
「ありません。しかし、あなたのおっしゃることは、私にはよくわかります。いまだに、私はそれを、そのことを目指しているからです。画家になって唯一の望みが、それなのです。いつになったら、自分のいない絵を描くことができるのか。それを探し続けているのです。今初めて、ひとには言います。それが唯一の目的なのです。あの少女の絵を描いているとき、一番私は、自分自身のことを、忘れているように思うのです。そこに、何かしらのヒントが、あるような気がするのです。なので、彼女の絵を、暇を見つけては、描き続けているのです。王もお気づきでしょう?あれは、こういった理由からなのです。私もまた、あなたと一緒で、この自分という存在に、ウンザリしているのです。これは何も、絵に限った話ではない。創作に限った話ではない。すべての人に、言えることではないでしょうか。そう思います。生きているあいだの、どこかの時点で、我々人間は、気づくのではないでしょうか。きっかけはそれぞれなのでしょうが。パターンなどありません。しかし、我々は、絵という共通点が見いだされました。そういった意味では、似たような運命にあるのかもしれません。このタイミングで出会うこともまたそうです。あなたとは、きっかけが同じだった。そして、目指している方向もまた、一緒だ。ただ、あなたは、画家ではない。そうですよね。あなたは画家として、生涯その身を捧げるという人生には、ならない。そうですよね。これは過渡期です。あなたは絵からは逃れられます。あなたの色濃い刻印の図に、終始、悩まされることはない。でも、私は違います。死ぬまで画家なのです。私は何としても、自分が描きながら、自分がいないという絵を、生み出さなくてはならない。そういった技法なり感覚なりを、完成させなくてはならない。そしてそれを死ぬまで、続けなくてはならない。私は追い込まれているのです、王。今も、その強迫観念の影に追われているのですよ。その唯一、慰めを得る時間、安らぎの一別が得られる瞬間が、この少女の絵を描いているときなのです。何度も何度も、同じ構図で描き続けています。斬新さなどいりません。装飾性も、多重性も何もいりません。それはシンプルにして、すでに完結されている絵なのです。私は何も考えることなく、この簡潔性に飛び込み、同一になっていけばいいのです。何も考えずに」
 画報が、こんなにもしゃべったのは、このときが初めてのような気がした。

 絵をかくことからも、遠ざかっていた。ほんの束の間の気休め、気晴らし、現実からの逃避、猶予を、生きていた。これからも、ずっとそうなのだろう。そんな王である自分が、治める国というのもまた、実に不幸なものだと思った。
 白いキャンバスに、心の内から吐き出すように、そして、叩きつけるように、出すことにはすでに飽き飽きしていた。宮殿中が、自分の吐瀉物で、覆われていくように思われてしまった。気分が悪くなっていった。しかし、唯一、これまでと違ったことは、そんなものが、この自分の内側に積もるように存在していたことだった。日々、厚みを増していき、ほとんど窒息しかけていることに、王は気づいたのだ。実に危ない状態だったのだ。こんなにも、きらびやかに化粧をしているせいで、なおさら分からなかった。恐ろしいことだった。画報のおかげで、そういった汚物を、自らの外に出すことができた。しかし、おかげで、再び、満たされない今が出現してきていた。汚物が消えたことで、巨大な空間が、自分の中にできてしまっていたのだ。そして、この空間を、また埋めよう埋めようと、必死になっている自分を発見して、ぞっとしてしまったのだ。
 しかし、今や、豪華絢爛な何かで、穴埋めすることはできそうになかった。
 性に溺れることで、自暴自棄になることもできそうになかった。キャンバスにぶちまける吐瀉物の存在もなかった。王は途方にくれていた。ふと、リンのことを思い出していた。リンが側にいてくれたらと思い始めていた。彼女がただ存在してくれて、微笑んでくれたらと。彼女が動く様子、話す仕草を、ただ見ていたいと望んだ。姿を実際に見られなくとも、この宮殿の中には、確実にいる。そんな彼女の存在を、感じていたかった。そして、その想いを、王は実現するべく、若い女を集めようとした。性的な匂いのまったくしない、そういった気を起こす対象にもならない、経験のまるでない、心に屈託のまったくない、圧倒的に何も知らない、無垢な、それでいて、大いなる艱難辛苦を抱えているような、誰に対しても、何に対しても、意見を抱くことなく、分析することもなく、ただ自分も相手もそこに存在しているような、そういった少女を、王は求め始めていたのだ。自分の身の周りに配置しようとしていた。生まれる空白を、彼女たちで、埋め尽くそうとしていた。処女なら、いいわけではなかった。そういった無垢な内面性が自然に備わった、これからも成長していくことのない、ただ何も積み上がってはいかない、何者にもならない、リンのような子が反映された、そんな女性ばかりで、埋め尽くしたかったのだ。そして、一週間も経たずに、その幻想は、現実のものとなった。王は、自分が満たされていないことを知っていた。そしてそれでも、そういった行動に駆り立てる自分からは、目をそらさずに、見つめていることで、別の人間になろうとしていた。そういった無意味で、自らを結局のところ、疲弊させる行動を見ているのは、辛かった。しかし、王は止めることができなかった。止めに入る人間は、どこにもいなかった。王の性欲は日々減退していった。王としての仕事にも、主導権を発揮することは、なくなっていった。画材道具を手にとることも、なくなっていった。自作の絵はどこにあるのかもわからなくなっていった。それでも、何人ものリンの存在だけは、まだ王の心を刺激して、そして、彼女たちに、満たされない想いの欠片を、全面的に投影していた。王は次第に切なくなっていった。こうして、目に見える光景に、投影ばかりしているこの心の内というのは、一体何なのだろう。いつになれば、止むのだろう。何もうごめかない、静けさを、自分は持つことはできないのだろか。
 王は自ら、中止にすることができなかった。廃止にすることができなかった。このあいだも、リンの一人が、視界に入ってきていた。リンは、そういった心の内など、まるで持ってはいないかのように見えた。自分も、ああなりたかったと、王は思う。あのような在り方で、生きたかったのだと思った。しか、しそれも、自分の心が投影した幻想であって、リンたちが実際に、そういった内面性であるわけがなかった。リンたちもまた、この自分と、たいして変わりはないのだ。彼女たちには、彼女たちの思惑と計算があり、それぞれの考えや感じかたを、視界に投影している。出来上がったそれぞれの目で、この王宮、この王である自分を、見ている。宮殿を、リンだらけにしていくことは、止まらなかった。王は執拗に、リンに拘り、この世界をすべて、リンで埋め尽くしてしまいたかった。王は、このいわれのない、生まれてから消えたことのない、常にその対象を変え続けながら、何一つ、変わることのなかった不満を、これほど今感じることはなかった。これほどまでに、目の前に出現し、これほどまでに、身に迫ってきていることもなかった。王は、リンを増やし続けた。もうとっくに、飽和状態であったにもかかわらず。さらなるリンの到来を歓迎した。リンの存在で、自らを窒息させようとしていた。増やせば増やすほど、密度を濃くしていけばしていくほど、リンはその存在を、希薄にし、遠ざかっていくことを、自ら望んでいるかのようだった。

 リンの噂は、断続的に、私の耳に入ってきていた。もうすっかり、その姿を見ることはなくなっていたが、どの話からも、リンの風貌は、あの最初の姿からは、変わっていないように感じられた。私はリンがいなくなった後も、ずっと、そして主人となってからは自ら、リンの影を持った若い女を、自分の愛人のごとく、店に置くことに専念していた。そして、それは、店の繁盛にも繫がっていた。非常な目利きのある人間として、この世界では生きていくことにもなった。私は結婚もしなければ、特定の恋人を持つことも、何十年もしてこなかった。どうしても、女のからだを抱きたいときには、店に来る客と同様に、金を払い、自分が雇っている女を買うのだった。ずいぶんと、特異な人間として周りには見られていた。自分のところの女を、金を払ってまで?と。私情を持ち込むことを避けたかった。あくまで、この肉体が、欲したことなのだ。私とは関係がない。食べなければ死んでしまうのと同じことだ。ただのそれだけだった。次第に私は、女を買うこともなくなっていった。しまいには、雇った女の最初の男となるべく、その仕事すら、若い男たちに任せる始末であった。私は日々の生活に、心底飽きてしまっていたのだ。このまま死ぬまでのあいだに、私は何をすればいいのだろう。私はいったいどこにいるのだろうと、そう思うことが増えていったのだ。私は確かに、番地の確定した土地に、こうして店まで持ち、税金を納め、生活している。確かに外見上は、所在がある。確かにそれはそうなのだ。しかし、私はいない。ここにはいない。どこにもいない。私は、本当はどこにいるのだろう。地図を広げたかった。地図を広げ、ここにいるのだと、この目で、この感覚で、確定してみかった。安心感が欲しいのだと思った。私は、安心感が欲しい。そう口に出して言ってみた。どこに居るのかを知りたいのだ。番地じゃない。時代でもない。居場所とか、そういったことでもない。共同体でもない。誰といるとか、誰と何をしているとか、そういったことではない。そうじゃない。私がどこにいるのか。この地球上において、今どこに存在しているのかということではない。
 私は、張り裂ける想いが募っていく中、何故か、リンの面影に、その問いを、重ね始めていた。すがり付くように、彼女の幻影を追っていた。教えて欲しいと、心の中で呟いていた。まるで、彼女なら、それを知っているかのように。彼女は、その地図を持っているのではないかと、そう盲信しているかのように。その影は、こっちを振り向くことなく、離れていってしまう。空に吸い込まれていくかのように、消え去ってしまう。私はずっと、リンに会いたかった。確かに、この地上において、今彼女は、存在しているのだ。ただ、こっちが、どんな手を使ってでも会いにいったとして、それでいったい何になるというのか。何が変わるというのか。彼女を追っていくことで、何かが、得られるというのは、どこか違う。無理やりに、店に引き戻してきて、それで働かせれば、それでいいのか?すでに、彼女は、娼婦ではない可能性の方が高い。結婚もしていて、家族を持っている可能性すらある。主婦をしているのか。また、別の仕事を持っているのかはわからない。しかし、リンは、私が想像もできないほどに逞しく生きている。その可能性の方が高かった。万に一つ、彼女が人生から転落し、道から外れ、天からは見放され、自暴自棄になって、自他共に傷つける行為を・・・。たとえそうだったとしても。リンから、光は何も失われてはいない。私はどこまでも、リンを美化していた。私の中の変わらぬ何かを、すべて、反映させたフィクションであるかのように。その晩、願いが叶ったのだろうか。私はリンの夢を見ていた。リンが枕元に立って、こっちを見下ろしていたのだ。私は現実だと思い、言葉を失った。体を起こそうとするも、まるで自由はきかない。金縛りにあってしまったようだ。リンもまた、動かず、何の言葉も発しはしなかった。私は、ただリンを見つめ、リンもまた、私を見つめていた。一晩中、その止まったままの時間が過ぎていくのかと、そう思ったときだった。リンが話し始めた。実際に喉を震わせて、口から声を発したのかは、定かではなかった。明日。戻ってくると、彼女はそう言ったのだ。
「明日、店に戻ってくるから。だから、あなたとは、また会える。私なのよ。本当に。びっくりしないで。それは、あのときの、私のままだから。けっして、受け入れを拒絶しないで。気味悪がらないで。それは私なの。本当に。何の細工もしていない。手品じゃないの。私なのよ。私はずっと私のままなの。それは、逃れられない私の運命なの。私に下された罰なの。あなたが羨ましい。あなたたちが、私以外の、すべての人たちが、羨ましい。あなたたちが、私以外のすべての人たちが、羨ましいの。私は初めからずっと知っていた。私があなたたちのように変化していかないということを。この世から、時が満ちたときに、去っていくことができないのだということを。私以外のすべてが、移り変わっていくということを。私はただ、それを見ていることしかできない。それが、罰であるということを。私に背負わされた、それが罰なの。私の存在の意味・・・」

 その最後の言葉が、私の中に留まり、それをきっかけに、何かが旋回し始めているような気がした。最初は、ほんの波のようにざわめいているだけだった。波のように、ざわめき立っているだけだと思っていたが、次第に、この細胞そのものが、ぐるぐると回り始め、その旋回に私の体だけでなく、私そのものが飲み込まれていくかのごとく、さらには、私の外の周りの空間までもが、その旋回に同化して、範囲を拡大しながら、台風みたいに、空間を浸食していくように思われた。その歪みに、リンの輪郭もまた、崩れていってしまった。私は、水の中に溺れていくかのごとく、リンからも遠ざかっていくように感じられた。そうして、私は深く、底へと沈みこんでいってしまった。リンはいなくなった。夜の闇に覆われてしまった。リンはいなくなった。夜の闇に覆われていた。リンの声はしない。さっきまで居たこと事態が、信じられなかった。リンは、自分の存在を罰だと言った。歳をとることから、見放された己の運命を、存在意味だと表現した。私だけが変わらないのだと。私はその変化していかない自分を基点にして、変化していく周りを、ただ見ていることしかできないのだと。見ていることそのものが、言いようによれば、罰であり、存在意義なのだと。そしてリンは明日、店に舞い戻ってくるのだと。
 そのとき時刻は、何時を示していたのか。その後、一睡もできなかったにもかかわらず、朝になっても、眠気は全く訪れようとしなかった。リンは、午後の三時過ぎにやってきた。両親に連れられてきたのだと、私は思った。しかし、それは、親戚の夫婦であった。両親の死後、預けられていた家の夫婦であった。リンは幼く、それでいて、明瞭な眼差しを持った大人の賢者のようにも見えた。あのときと、全く変わってなかった。私の意識もまた、当時十五歳で家を出て、ここにやってきた時へと、戻っていた。
 私はリンに声をかけた。しかし、私は声を出しきれていなかった。自分にさえ、聞き取ることのできない小さな声だった。何かを掻き消そうと、出そうとした声のようだった。私は出しそびれた声を、飲み込んだ。私は親戚の夫婦だという男女の話に、耳を傾けながら、リンの姿をずっと、中心に捉えていた。そして、そのときだった。幼き自分の姿が、その背後に見えたのだ。あれは私だと、思わず、身を乗り出してしまいそうになった。慌てて、この主人である自分に、意識を戻そうとした。主人は今の私そのものであった。私は、その主人の顔をまじまじと見ていた。同時にリンを見ながら、さらには、その後ろにいる十五歳の自分を探していた。しかし、その顔は、私の幼きときの姿ではなかった。それはそうだ。彼は、ほんの二ヶ月前にこの店に入ってきた・・・。ちょっと待て。リンの来る二ヶ月前に来た少年・・・。それは私じゃないか。あのときの私じゃないか。そう思って、もう一度見てみる。表情は変わり、雰囲気は変わっていった。あのときの私だ。少年と意識を同化させていく。リンを見る。主人を見る。主人は、私のその顔ではない。あのときの主人だ。しかし、焦点をずらさず、その男を見ていると、次第にそれは、今の私そのものへと変わっていく。この空間の至るところに、私という存在がいくつも、浮遊していることに気づく。あのとき、あの十五の時に、私の世話をしてくれた主人。あれは、今の私だったのではないだろうか。その二人のあいだを結んだ、その間に存在する私もまた、目の前に、今その姿を現したような錯覚に、陥っていた。さらには、十五歳から五十歳を結んだ線の両端には、さらに、無数の私が広がっているように思えた。そのすべての私は、輪郭さえはっきりしないほどに、詰め込まれ、凝縮した粒子として、旋回する波の中に、消えてしまっていた。昨日の夢がまだ、続いているような感じだった。私、明日、店に帰ってくる。それが、罰なの。私の存在の意味なの。言葉もまた、旋回している。意味とは、何なのだ?リンが存在する意味とは。私は見ているだけなの。変わり行く、その周囲をただ。私は変わらない。永遠にこのまま。あなたが、あなたたちが、羨ましいの・・・。できることなら。できることなら終わりにしたい。でもこれが、私の存在意味なの。一人でも多く、一人でも多くの人が、気づいて欲しいの。私という存在に。あなたの中の、あなたたちの中の、私という存在に。ただの、それだけ。そのためだけに、私は存在している。私に気がついて。あなたの中の。波の中で、リンの声だけが、木霊しているようだった。リンの姿がよく見えなかった。私に気づいて。声は、儚く消えようとしていた。リン!今度もまた、やってこなくてならなかったんだね。この私が少しも気づいていなかったばっかりに。君はもう、ずっと変わらずに、存在しているのは、嫌なはずだ。それなのにまた。申し訳ない。誰もリンに気づいてやれなかった。いや、私が。少しも、理解してあげられなかった。リン。君という少女は、本当にいると思っていた。そして、私の目の前からは、消え、私の知らないどこかで暮らしているのだと。転々としているのだと。その姿は、少しも変わらずに、ただ、環境を変えて、どこまでも。私は変わっていく。歳をとっていく。時間は脈々と、過ぎ去っていく。ただ、通り過ぎては、脈々と過ぎ去っていく。
 リンの噂を聞いた。リンの姿を想像する。いつだって変わらない、君の姿。私は不思議がる。いやでも、そんなことは、ないだろう。何かの間違いだ。噂にしかすぎない。
 私はずっと、見ようとはしなかった。見ることを、拒否し続けていた。リンの存在の本質を、無視し続けていた。見て見ぬふりを、し続けていた。けれども、リン。君はついに、我慢の限界を超えてしまったんだね。もう一度、その現実の姿を、私の前に晒すしか、手はないところまで、追い込まれてしまったんだね。すまない。そして、私は、リンの姿を一瞥した。君は、私だったんだ。私がリンだった。リンとは、私のことだったのだと。やっと、気がついたよ、リン。リンなど、どこにもいなかったのだということを。リンは、私だったのだということを。そして、そう気づきかけたとき、私には、無数の私が、今も、ここに存在していて、姿形をちょっとずつ変えながら、旋回しながら、様々な彩りと共に、一体化していることがわかったよ。君がいつまでも、その姿を変えない理由がわかった。君は基点だった。そして、その基点は、私の内側にあった。そのことを、知らないばっかりに。いっつも、私は、この目に見える世界に、光景に。君の姿を、投影してしまっていた・・・。本当にすまなかった。今、解放してあげるよ。君が罪であると意識してしまった、その重荷を、今、取り除いてあげるよ。君が罪であると意識してしまった、その重荷を、今、取り除いてあげるから。君には、そんな言葉など似合わないのだから。そして、そんなものなど、本来、存在すらしていないのだから。
 私は、目の前にいる、夫婦だとされる二人の訪問者の姿を見た。
 当然、そこには、二人のあいだには、誰の姿もなかった。












































   Ps 彼女からの手紙 




















 少年はその日、恋をする情熱というのを、初めて知った。
 近所に住む、歳上の女性だった。当時、少年はまだ九歳だった。
 女性の方は、ちょうど成人したばかりであった。大学に通っていたが、この半年は休学して、生まれ故郷に帰ってきていたのだ。どうりで、最近になって見るようになったと少年は思った。彼女はずっと、学校に通うために、別の土地で生活をしていたのだ。彼女が何故、今こうして、学校を休んで、家に帰ってきているのかはわからなかった。母親に訊いても、それはわからなかった。人様のうちのことを、あれこれ、訊ねるものではありませんと、たしなめられた。少年はほとんど、毎日のように、その女性を見た。彼女の家の前を通って、学校への登下校を繰り返していたし、友達の家や公園に遊びに出るときも、ほとんど彼女の家の前を、通過していったからだ。わざと、そのようなルートを辿っていった。かなりの遠回りであった。家の前を通るとき、いつも彼女は、自分の部屋に居たようだ。カーテンの閉じていない窓には、まさに、彼女の胸から上の部分が、描かれた絵画のように、写し出されていた。初めは、ガラスに反射した別の場所からの投影物だと思った。それほど、一瞬見た限りでは、この世のものとは思えなかった。色素が薄いのか、透明感がありすぎるのか、あまり動いている様子がなかったからなのか。理由は、どれでもあるような気がしたが、彼女を取り巻く光の感じが、周囲とはまったく、違っていたのだ。彼女だけが、世界から浮き出て見えていた。その逆かもしれない。とにかく周辺とはまったく、溶け込んでいなかった。
 少年は、実際にその窓を見ているときよりも、家に帰って、あとから思い出すときの方が、より鮮明に、日々の突出した情景として、再生されていたのだ。それは、友達と遊んでいても、友達と遊んでいるときも、何をしていても、突然、その映像が、目の前に現れ出てきて、少年の視界を遮った。そして心を奪われていった。胸が熱くなり、そのあと、急激に、冷たくなっていった。彼女の映像が復活して、それに支配されている時、ふと少年は、自分が周囲から隔絶されて、浮き出ているのか。はたまた、自分だけが消えてしまっているのか。見えなくなっているのか。誰の目にも止まらなくなっているような、周囲とは、別の世界に、入り込んでしまったかのように、身動きがとれなくなってしまっていた。
 本当に、二十歳なのだろうか。自分が知っている、その年齢の女性たちとは、とても同じ時代、同じ話題で生きているとは思えない。というのも、彼女は、時に自分と同じくらいの少女にも見えたし、また自分よりも、年下の少年のようにも、見える時があったからだ。それでも、やはり、成熟しかけた大人の女性にも、時々は見えた。それがあまりに、突拍子に、忘れた頃にやってくるので、その色気は半端ではない、炸裂の仕方を少年にもたらしていた。近所に住んでいた幼馴染みに、彼女のことを訊いてみたことがあった。その日も、わざわざ遠回りして、彼女の家の前を通ることにした。
「なあ、あの女の人のことは、知ってる?」
「どれ?」
「ほら、あの窓から見える人だよ」
 その日も、彼女は、やや下向きかげんで、何かに集中して作業のようなものをしている様子だった。ほとんど目線を、正面に上げることはなかったが、何故かそのときは、ふと彼女の顔が上がり、その斜め前あたりに居た二人の少年を、視界にとらえていた。
 彼女はほんの少し、微笑みさえしたのだ。すぐに下を向いて、作業に戻ってしまったが、驚きの一景となった。
 二人の少年は、言葉を失い、呆然としてしまった。
「おい、おいってば」
「ああ。俺、今、何をしていた?」
「あの子だよ」
「あの子・・」
「あれ」
 指差したその窓辺には、すでに、誰の姿もなかった。
「俺、何してたんだろ」
 幼馴染みの少年は、一瞬、記憶をなくしていた。
 しかし、しばらくしても、彼はまったく、そのときの出来事を思い出してはくれなかった。
 少年は仕方なく、彼女の話題は続けることはやめた。
 また別の日にと、思い直した。しかし、二人で遊ぶときに彼女の家の前を通ることはなくなってしまった。公園までの近道を利用したし、そもそも二人で遊ぶときには、彼女のことを思い出すことはなかった。学校に行っているときも、ほとんど思い出すことはなかった。家族と過ごしているときもまたそうだった。夜寝るとき、そう、一人でベッドの中に入るときになると忽然と、彼女の幻影が、天井に浮かび上がってきた。少年の胸を締め付けた。これはやはり、恋なのだろう。あの女の人を、特別な気持ちで見ているのだ。少年は、学校で、女の子とそういった恋の話をすることがあった。同級生の男の子たちは、プラモデルやテレビゲーム、アニメの話でしか、いつも盛り上がることはなかったし、あとはスポーツや体を動かすことを通じてしか、楽しめる間柄ではなかった。しかし、女の子は違った。女の子はいつも、クラスで誰がかっこよく、誰がタイプで、誰と誰が両想いで、誰と誰がくっついたらいいと思うか。付き合うとか、別れるとか、そういった話ばかりで、盛り上がっていた。少年は、仲のいい女の子二人に、その彼女のことを話した。いつも、その姿が忘れられず、一人きりになると、特に夜みんなが寝静まったときに、鮮明に、僕の気持ちの中に広がっていくんだ。そしてまた、会いたい、またその姿を見たいって、何度も何度も思ってしまうのだと。そういうことってあるわよ、ねえ。女の子同士は、そのように、話を盛り上げた。私たちに任せてよと、二人の女の子は言った。じゃあ、今日の下校は、私たちもそっちから、帰ろうかな。そのあとで、あなたの家で遊びましょうよ。それなら、いい口実ができるわ。あなたのお母さんに、連絡しておいて。別にお菓子とかそういうのは、用意してくれなくていいからって。
 二人はいかにも、念を押すかのように言った。
 少年は、二人の少女を連れて、彼女の家の前を通って下校した。幸いその日もいた。「あの人だよ」
 少年は誇らしげに言った。少女二人は、初めは絶句していた。そのまま、少年の家に着くまで無言になってしまった。少年の家では、ふんだんにお菓子が出てきた。少女たちは楽しそうに、むさぼり食べた。オレンジジュースも何杯か飲み、お菓子のおかわりも、綺麗に平らげてしまった。
 少年は、彼女の話をするタイミングを図っていた。しかし、二人の少女は、あっというまに帰ってしまった。用事を思い出したとか、習い事の時間だとか、嘘を丸出しにしたような理由を付けて、逃げるように帰ってしまったのだ。少年は、部屋に一人取り残された。そして、夜になっていないにもかかわらず、一人きりにされたために、心の中は、彼女でいっぱいになってしまったのだ。翌日、学校に行っても、少女二人をなかなか捕まえることはできなかった。巧みに、少年を避けているようにも思えた。少年と話すときも、絶対に、あの三人にはならないよう、細心の注意をはらっているかのように感じた。三人になりそうになれば、すぐに、人員補充へと走り、彼女の話題になることを、幾重にわたって、防線を張り巡らせている様子が、少年にも伝わってきた。その夕方、彼女の家の前へと、遠回りして帰った。下校中において初めて、彼女の姿を窓辺に見ることができなかった。残念に思いながらも、帰宅すると、その日の晩御飯のときに、その彼女が今朝、亡くなったということが、家族皆に伝えられた。近所ですからね。お通夜にも参列しないと。少年は最初からずっと、理解できずにいた。でも何とか、これには、参加しなければいけないことは分かっていた。母親に直訴した。あなた、あの子とは、何の関係もないでしょ。友達のお姉ちゃんでもないし、よく遊んでもらったわけでもない。向こうの家だって、来られたらきっと、困ると思うわよ。私たち夫婦だけで、しかも通夜だけ、参列するから。その日はあなたたち、お婆ちゃんのところで、ご飯を食べてきなさい。いいわね。少年は引き下がらなかった。あの子とは知り合いだったのだと主張した。話しかけたことも、かけられたこともあるのだ言った。心が通いあった瞬間が、何度もあったのだと。僕も連れてって。最後にお別れをしないと。ちゃんと、そういうことはしておかないと。少年は涙を流すことなく、声を荒げることもなく、ただ律儀にそう訴えた。母親よりも先に父親が、少年の声を正面から受け止めた。「いいじゃないか、ママ。この子だって、お世話になったんだよ、きっと。我々の知らないところで、交流があったんだよ。こうして、残念な別れになってしまったんだ。そのまま放置して、しかも、親の一存で、この子の想いを断ち切ってしまうのは、違うような気がする。こういうことは、早いうちに経験しておいたほうがいい。人は死ぬんだってことを。こうして、生きているということは、どういうことなのか。死ぬということは、どういうことなのか。小さいときに、その光景を少なくとも、見ておくということは、悪いことじゃない。むしろ、僕は願ってもないチャンスだと思う。しかも、この子が、自ら訴えてきてもいる。僕は大賛成だね。ママが反対しても、大丈夫。パパが、連れてってあげるからね。いいね」少年は大きく頷き、そのあとは無言で素早く用意されたご飯を平らげた。そしてすぐに自室へと引っ込んでしまった。その夜は、好きなアニメを見に、居間に下りてくることもなく、早めにお風呂に入って、ベッドに向かった。少年は一晩中、眠ることができなかった。いったい何度、彼女の顔を目撃したことだろう。たったの一回であろうと、それとも、数十回、数百回であろうとも、どちらでも、今となっては同じことだった。そして、明日からは、もう二度と、あの窓辺にはいつもの光景がないことを想像した。あったものがなくなる。少年にとっては、大きな最初の出来事となった。ずっとこの日が来ることを、実は知っていたのではないだろうか。この自分自身が。あの幼馴染みが、窓辺の彼女に会ったときの反応や、少女二人の、あの自分を遠ざけるような反応。あれは、彼らが何かを知っていて、それでとった行動なんかじゃないのだ。むしろあれは、この自分の気持ちを彼らに投影していた、その結果なんじゃないだろうかと。彼女たちは、普段と何一つ変わらず過ごしていた。しかし、この僕が、彼女たちに、自分の心の奥底で感じていた、ある想い、ある予感を、映し出してしまっていたのではないか。つまりは、ずっと知っていたのだ。彼女をはじめて見たときから、ずっと。近い将来に、彼女が亡くなるということを。この世から消えてしまうということを。忽然と、自分とは違う状況になってしまうということを。もう初めのときから、知っていたのではないか。そして、その感触。それが、これまで感じたことのなかった、想いであったために、消化しきれず、浮遊したまま、ああして、彼女の姿を毎日のように、窓辺に求めていたのではないだろうか。
 少年は、結局、通夜ばかりか、葬式にも参列することになった。ずいぶんと前から、死ぬことがわかっていた。少年は、彼女の横たわった棺を目にしたとき、そのことを確信した。この光景を、どこかで見たことがあると。これこそが、毎晩見ていた状況だったのかもしれなかった。彼女はあの窓辺の表情と、全く変わってなかった。あのときも、ほとんど動いてなどいなかった。僕は、確実に知っていたのだ。彼女の方はどうだったのだろう。彼女は、自らの命があと幾ばくもないことを、知っていたのだろうか。彼女の家族は?周りは知っていたのだろうか。うちの両親は?学校の先生たちは?彼女の友達たちは?皆、知っていたのだろうか?僕もまた気づいていたくらいだ。皆そうだったのかもしれない。彼女は?彼女はどうだったのだ?あの半年前に、実家に帰ってきたのは、もう病院では、手の施しようがないことを家族が了承していて、本人もそれを知っていて、それで・・・。いや、でもそれなら、普通は、近所にはそういった噂が流れるものだ。彼女が病気だったなんて事はないはずだ。じゃあ、彼女はやっぱり、自分で死期を悟っていたということじゃないか。彼女は、最後の半年を、生まれ故郷で過ごすことに、決めた。穏やかに逝くことを望んだ。死んでからの葬儀の段取りなどを考えても、ここがもっとも、都合のいい場所でもあった。知っていたのだろうか。あの窓辺での表情は、そういった知ったものだけが、浮かべることのできる、納得した、すべてを受け入れた表情だったのだろうか。二十年という短い生涯を、静かに振りかえっていたのだろうか。それとも、死んだあとのことまで、想像していたのだろうか。自分が死んだ後の周りの様子までを、想像していたのだろうか。ふと、僕のことを、認識していたのだろうかと思った。していたとしたら、どれほどの認識をしていたのだろう。毎日見に来ていることまで、知っていたのだろうか。こうして、棺の中の彼女を見ていると、すべてが、彼女には見えていたような気がするのだ。そして、その上で、僕に何を残そうと考えていたのか。ほとんど、こっちを見ることのなかった彼女。下を向きながら、いったい何の作業をしていたのだろう。彼女がこの半年間、実質、何もしていなかったとは考えがたい。おそらく、半年前に実家に帰ってきた理由と、関係があるはずだ。あとで、遺族に訊いてみようと思った。葬儀が済んで、少し落ち着きを取り戻してから、少年は葬儀でも、棺の中をできるかぎり覗くべく、前列に座り、しかも火葬場までついていったのだった。
 さすがに、焼かれた骨を骨壺に、箸で移動させることまでは叶わなかったが、なぜか親族以外では、唯一、そこまで付き添うことを許されたのだった。少年は、ある種、亡くなった彼女とは、親しい間柄であったと認識されているのかもしれなかった。しかし、彼女と、二度と会うことがなくなってからというもの、彼女の幻影は、日毎に、強くなっていった。窓辺での表情と、棺の中の表情は、驚くほど似かよっていて、いつでも、彼女は、そのあるがままの、何事にも動じない、どんな変化にも応じない、揺るぎのない穏やかさとでもいうべき、姿のままに、少年の脳裏には、焼き付いてしまっていた。取り除こうとすればするほど、濃くなっていった。当初の、込み上げてくる切なさからは、その執拗さへの憤りへと、次第に変わっていき、また、あっけなく姿を見せたかと思えば、一言もなく、別れを強いられたこの理不尽さに、無気力感さも誘発されて、少年の心は、どんどんと不安定になっていった。自分もまたいつかは、彼女と同じ道を、辿っていく。遥か先のことなのか。それとも、彼女よりももっと、手前に設定されているのか。それは、わからなかった。どちらにしろ、あの穏やかさをずっと保ったままに、この世に別れを告げることが、可能なのだろうかと思った。少年は、彼女のあるがままの表情を、いつまでも忘れることができなかった。最期の表情が、もしかして最初に、あったものなのではないだろうか。あの最期の表情が、先に、決まっていたのではないだろうか。その表情、そのままに、時間は、巻き戻され、そして、半年前の帰郷に、至ったのではないだろうか。
 やはり、心はもう決まっていた。
 あと、少しの命であることを、知っていたのだ。
 帰郷の前までには、色々とあったのかもしれない。それは伺い知ることはできない。今となっては。しかし、帰ってくるその日には、棺に横たわる自分の姿が、すでに見えていた。その上で、その姿のままに、一日一日を生きていこう。そうか。そうかもしれない。あの窓辺での表情。あれは、本物の穏やかさを、もしかしたら、表現しきれていなかったのかもしれない。だからこそ、いつだって、あの顔だったのかもしれなかった。どこか、作っていたのかもしれない。あれは仮面だったのかもしれない。まだ本物の穏やかさには、到達していなかったのかもしれない。じょじょにじょじょに、半年をかけて、その最期の姿に、近づいていったのかもしれない。近づこうと、日々を生きていたのかもしれない。本物の穏やかさが体現された、あの最期の姿を目指して。いや、目指してというのは、違う。あの最期の姿は、到達するべき外側にあったイメージなんかではなく、彼女の内側に、生まれたときから、生まれる前から、存在していたものなのかもしれなかった。その、あるがままの彼女の姿。最初も、最後もない、いつだってあり続けた、あり続ける、その姿を。その姿のために、日々を。僕に見られながら。日々を。それも、含まれていたのだろうか。僕がそれを見ているということも。彼女の生のなかに。彼女という存在の中に。この僕も含まれていたのだろうか。
 彼女の世界の中で、僕はこの半年、生きていたんじゃないだろうか。彼女の中に。彼女のからだの中に。彼女のお腹の中に。子宮のなかに。ふと彼女が、自分の母親のような存在に、少年には感じられてしまった。少年は成長していくうちに、最初は、その横たわる彼女の幻影が、色濃く、日々の隙間を埋め尽くしていたのだが、次第にどこかの時点で、ピークを迎え、その後は反転して、薄く、細々とした、頼りのない記憶の断片と化していき、このままでは、消えてなくなってしまうと思われるくらいにまで、存在感をなくしていったのだった。
 少年は、成人式を迎えたときに、あの幼馴染みと再会するまで、彼女のことを思い出すことのない日々を、送るまでになっていた。成人式の会場で、幼馴染みとは、ばったりと会い、共に参列することになった。二人で話しをする機会ができた。近況を語り合った後で、そういえばと、少年はあのときの窓辺の女性が、何年かぶりに強烈に甦ってきたことを知った。名前を思い出そうとするが、そもそも、知らなかったことを思い返す。
「あの、近所に住んでいたさ。なんて人だっけ」
 そういえば、その彼女と、今は同じくらいの歳になっている。あの後、彼女は、すぐに亡くなってしまった。葬儀にも参列していた。鮮明に甦ってくる。ふと、この新成人の中に、彼女の姿があるのではないかと、思わず辺りを見回してしまった。いるわけがないのに。しかし、もし居たらと考えると、ぞっとしてしまう。何故かしら、居るような気がするのだ。それも、そう遠くはない、手を伸ばせば触れられる距離に。この背中の後ろ側に、すでに迫ってきているような気すらする。
「何の話をしてるんだ?」
 幼馴染みは、言う。
 少年は、近所の当時の状況を、細かく説明する。その上で、ほら、あの道を何度も通っただろ?その通りの家にさ、いつも、居たじゃないか。綺麗な女性が。今の俺たちくらいの。病弱そうな。色の真っ白な。
「ああ、確かに、お前の言っている家は、思い出した。でも女性なんて、居たか?お前の言ってる家は、確かにそれだよな。あの家は、音楽家が、窓辺でいつもピアノを弾いていたんだよ。男のね。確かに、今の俺たちくらいだった。そのあとすぐに、死んでしまったんだ。ずいぶんと、才能のあるピアニストだったらしい。その頃には、作曲も自在にできていたって。自作の演奏をしていたのかな。あのときもさ。どうなんだろう。全く、音楽なんてあのときは興味なかったけど。今ならあれだな。是非、聴いてみたかった。最近はクラッシックに目覚めちゃってね。俺のiPod の中身は、モーツァルトだよ。ほとんど」
「男の音楽家」
「そうだよ。うちの姉がさ、ピアノやってたから。その関係で俺も、葬儀に参列したんだ。だから、よく覚えているの」
「葬儀に参列?」
「ああ、そうだよ。幼いながらも、よく覚えているよ。そのときのことは」
「俺は、居たか?」
「葬儀に?」
「ああ」
「居ないだろ。全然、関係なさそうじゃん」
「居なかったんだな」
「居たらさすがに、覚えていると思うよ。言葉も交わしただろうし」
「そうか」
 幼馴染みは、その後も、自身のクラッシック熱を余すところなく、披露していた。おかげで元少年は、自分の思考と向き合う時間ができたことに、少しほっとした気持ちを抱いた。二人の記憶の違いは、甚だしかった。どちらも、本当のことを自覚しているようだった。なので、やはり、別の記憶を、一つの共通点で交わらせてしまったのだろうと、思い直す。
「なんか、気になってきたな。作曲してたんだぞ。曲は残しておいたはずだよ。家族はとっておいているはずだよな。是非、聞いてみたいな。なあ、この後、行かないか?」
「行くって、どこに?」
「その家に、きまってるだろ。だって、お前も、実家に帰るんだろ?」
 少年もまた、幼馴染み同様に、東京の大学に通っていた。学校の近くにアパートを借りていた。共に久しぶりの帰郷だった。
「そうだな。一緒に帰るか。昔みたいに」
「なあ、今からもういっちゃおうぜ。つまらない話を聞いても、仕方がない」
「いいのか?他の同級生も、久しぶりに会うんだろ?飲み会だって、企画されている」
「いいよ、そんなの。それよりも、音楽だよ。若き天才作曲家の作品だよ。今も埋もれているんだ、きっと。親御さんたちも、気づいてないのかもしれない。俺が、発掘してやらないと。あの作曲家が浮かばれないよ。あれはきっと、天才だったんだ」
「半年くらい、居たよな。その作曲家さんは。確か、死ぬ半年前に、地元に帰郷したって。死を予感しての行動だったのかな」
「だとしたら、天才だよ。そして、そんな天才は、死後にも残る戦慄を、どこかに」
「もうそのときは、余命を知っていたのかもよ」
「いずれにしてもさ。お前が、その話をしてくれたおかげだよ。じゃなかったら、一生、思い出すことはなかった」
 そう言われると、ほんの少し、嬉しい気持ちにはなった。
 二人は、式典を抜け出して、その家のある場所を目指した。
 十年以上も前の記憶と、重なっていった。二人で下校したり、遊びに行ったりしたときの光景が、感触として甦ってくる。
「ほら、あの家だ」
 少年は、指差した。
「ほんとだ。全然、変わってないな。家も老朽化していない。あのときのままだ。周りもそうだ。新しい家が建っている様子もないし、なくなった家もない。時間が止まってしまっているようだ」
「あっ。人影だ」
「どれ?」
「あの部屋」
「誰も、居ないぞ」
「確かに居たんだって。白い影が」
「何もないぞ。あそこにちょうど、ピアノがあったんだ。ピアノの頭が、ほんの少し見える程度だった。でも、弾いている手の動きは見えなかったけど、表情はばっちりと。当然、音色も外に聞こえてきた。さすがにその旋律までは、思い出せない」
 白い人影が、ふと現れ、部屋の右から左へと、移動したような気がしたのだ。
「ちょっと待って」
 少年は立ち止まり、あのときと同じ気持ちで、窓辺を見つめ続けた。やはり、誰の姿もない。空き家になってしまっているのではないか。しかし、そういった腐食は、少しも感じることがない。庭や生け垣の手入れも、そこまで丁寧にしているようには、見えなかったが、それなりに掃除はしているように見える。幼馴染みはすでに、玄関の前に居た。何度もインターホンを押している。反応はない。彼は諦めずに、執拗に押し続けている。誰の声も返ってはこない。家の中の様子にも変化はない。
「誰も、今は、住んでないんじゃないの?」
 少年は呼び掛ける。
 幼馴染みからの返事はない。そのときだった。
 白い影が、鮮明に窓辺に現れた。少年が、からだを少し前に屈めて、視線が低くなったときであった。その偶然に、少年は乗っかった。目線を、あのときの自分にまで、下げたのだ。まるで、見る微妙な、角度こそが、人影と連動していることを盲信するかのように。
 幼馴染みは、ボタンを押し続けている。
 少年は膝を地面につけ、さらに低く低く、身を屈め始めてみる。居た。彼女だ。彼女が物憂げに下を向いて窓辺の椅子に座っている。間違いない。今も居る。あの家に間違いなく居る。何をしているのだろう。こっちを向くことはないのか。身を屈めたまま、数分が経ってしまったかのように思う。インターホンのある辺りを見る。幼馴染みはいなくなっている。ふと数十年前に、トリップしてしまったかのようだ。窓辺の彼女は消える様子はない。ほんのわずかだが、口許に、笑みが浮かんように見える。少年が再び来てくれたことを、喜ぶ仕草であるかのような。そして、少年はそのまま、時間の経過に身を任せていた。あの日の葬儀のこと、棺の中の彼女のこと、すべてを追体験し終えるまで、そのままじっと、静かにこの状況を味わっていった。
 ふと、少年は、おもむろに立ち上がった。
 それまで、周囲の音が失われていたことに、このとき初めて気がついた。
 周囲は、意外にも、車の往来が激しく、自転車の往来も激しく、歩いている人の通り道にもなっていて、少年は少し吃驚してしまった。いつのまにか、幼馴染みが隣に居た。
「帰ろうか」と彼は言った。
「やっぱり、俺の勘違いだったようだよ。音楽家なんて、居なかったのかも」
「そんなことはないよ」少年は言った。「お前の中には、確かに居たんだ。そうだろ?」
「そうなのかな?やっぱり、そうなんだよな!」
「俺も思い出してきたよ。そうだよ。ここには、若き作曲家が住んでいたんだ。東京の音大に進学して、将来を嘱望されていた。親から、そういった話を聞いたことがある。で、そのあと、音大を中退して、実家に戻ってきた。そのあとですぐに、亡くなってしまった。そうさ、この家さ。お前の記憶通りさ」
 少年は、そのように幼馴染みに言った。
「そうだよな。やっぱり、そうだよな!」
「でも、あの後さ、今思い出したんだけど。一家は、息子の死をきっかけに、引っ越してしまったんだ。思い出のつまった家には、それ以上、居られなかったんだな」
「そういうことか。今はいないんだな」
「そう。今はいない。今はね。これからもいない。あのときしか、居なかった。そして、今は、お前の心の中にしか。いい音楽と巡りあえよ。心から、そう望んでるよ」
 幼馴染みは、頷いた。
「じゃあ、戻ろうか。我々の成人式の会場に」
「そうだな。今日は、ぱーっといこう。久しぶりに、皆に会えるしな」
 少年もまた、二度と後ろを振り返ることはなかった。
















































 ps 彼女からの手紙




















 ご無沙汰しております。お久しぶりです。
 あなたの、近所に住んでいたのは、この半年の間だったでしょうか。私は、生まれ故郷に、五年ぶりに帰ってきました。東京の大学に入り、五年前に引っ越しました。そして、その後一年にわたって、ロンドンに音楽留学をしていました。私は帰国し、そのまま東京には戻らず、大学を退学して、今こうして、家へと戻ってきています。
 あなたのことは、あなたがずっと小さなとき、ほとんど生まれたばかりのときから、知っておりました。ちょうど、私が小学校を卒業するくらいの頃です。あなたが生まれたことは、私にとっては、特別なことでした。あなたとは、家族でも親戚でも何でもない。交流すらなく、話す機会さえ、ほとんどありませんでした。しかし、それでも、私は、あなたのことがずっと気になっておりました。あなたと私のあいだには、何か特別な関係があるのだと、そう感じていたのです。あなたもいつか、気づくことだと思っていました。でも、それはたぶん、入れ違え。あなたが生まれたときに私は悟りました。私はもう、あとすこしで死ぬのだと。あなたと入れ替わりに。あなたが本当の意味で、人生を生き始めるときに、そのとき私は、この世から退出するのだということを。
 あなたとは生涯、入れ違えを、繰り返す間柄なのだということを。
 そして、今度もまた。私たちは、この半年のあいだ、それでも心を僅かに、通い合わせてきましたね。この世界において、ほんの薄い繋がりであったのかもしれないけれど、でもそれを、確実にしたいがために、こうして二人は、とても近い場所に生を受けたのですから。
 これが、最初で最後の、私からの手紙です。

 あなたと私は、いつの世でも、こうして交換可能な存在であったということ。それを何としても伝えたかった。私とあなたは、互いの生きていく時間、そして、存在する空間を、交換しながら、世界を進めているのだということを。あなたが望めば、私が望めば、そして双方の望みが交わった、その地点が。そう。私たちは存在を交換するために、存在しているのです。
 私はあなた。あなたは私。私はもう残り、命がわずかなことを知っているのです。
 あなたはまだ、そのことを知らない。あなたはもうすぐ、この世の人となります。肉体的には、もうだいぶん、経つのでしょうけど。あなたの意識は、もうすぐ、この地へと完全に生まれ落ちます。そして、私は去ります。永遠に交わらないこの意識。肉体はわずかな時間、共に近くで、存在させることができたのに。それなのに。意識は違う。
 私は、最後、まだ生まれてはいないあなたに向けて、最期の言葉を、残しておかなければなりません。震える波動としての痕跡を、あなたに、残しておかなければなりません。私のなくなる意識の波動を。共に存在することが叶わない、この哀しみを。
 それでも、その残滓だけは。残滓だけを、あなたは、自分のものとし、統合していけるのです。
 十歳のあなたを見つめる私の目は、まるで母親のよう。あなたが、これから成長していくのを、別の世界で見守っています。見届けていきます。もう二度と、会うことのないこの哀しみをあなたに。そして、あなたは、その哀しみを自分のものとして、この世で溶かしていくのです。あなたの血肉として、結実することで、あなたが哀しみそのものとなることで、浄化させていくのです。私は、そのことだけを、あなたに託します。あなたに、このことを伝えているのでは、ありません。あなたが、そのことに気がつくとき。そう。それが、この手紙を、受けとったということでもあるのです。あなたの元に手紙が届いたということ。それが何よりの証拠です。あなたが死んだとき、私は、再び、地上へと生まれ落ちていきます。私が死んだとき、あなたは、生まれ落ちてきました。私たちは、生と死の、常に交わらない閉ざされた空間で、流れ、螺旋を描いていく存在なのです。
 私たちが、最期に、再び出会うとき。それは、この繰り返しが、止むときなのです。
 あなたと私は、そこで共にあるべき姿を失うのです。あなたでも、私でも、何者でもなくなるのです。そういったときは、果たしてやってくるのでしょうか。あなたなら、知っているはずです。あなたは、私に手紙を書くことは決してないのですから。あなたがすべての終止符を打つのです。あなたが、この入れ替わりの、最後の受け手なのです。私は見守ります。残りの人生を、私は見届けます。あなたはいつも、見られているのです。あなたが、この世界を見ているのではない。あなたは私に、ずっと見られているのです。あなたは、何も見てはいない。すべては見られているのです。あなたがすべての夢に気がついたとき、きっと、大いなる変化のときを、迎えることでしょう。

 さあ、時は、来ています。終わりのときは、来ております。これが、最後の言葉です。
 あなたに残せる、最後のわずかな波動なのです。哀しみの波動です。あなたへの消えない、想いのわずかなる痕跡です。意味はありません。ただ、そうするべきなのです。あなたの元に届きますようにと。あなたが生きているあいだに、届きますようにと。そして、あなたが私のことを忘れてくれる日を、心の底から願っているのです。
 存在してくれて、ありがとう。私は逝きます。さようなら。それでは。


 しかし、私にはまるでわからなかった。彼女がいったいいつ、この手紙を書き、どのように送ったのかが。私はどこで受け取り、どういった状況で、これを読んだのかが。




サイエンス  アンド リリージョン




















 その夜は、師と過ごすことのできる最後だと感じていた。
 追手はすぐそこにまで、迫ってきている。師だって、そのことがわかっているはずだ。
 どうしてあんなにも、豪勢な食事をとり、皆を酔わせて、寝てしまうことを促したのだろう。今にも、この静寂を裂いて、我々をとらえるべく、教皇の追手が、この建物に侵入してきそうであった。いつもよりも、その気配がないことが、ますます今夜であることの確信を強めていく。私なんかよりも師は今、自分がどんな状態に置かれて、どんな環境へと変わっていき、どういった結末を辿るのか。見えていないわけがなかった。
 全てを知っている。知った上でのこの行動なのだ。
 やはり、あの食事は、皆で取ることのできる、最後の晩餐であることを示しているのだろう。二度と同じ夜がやってこないことを、師は知っている。そして私は、他の弟子のようには、完全に我を忘れて飲み明かすことができなかった。師と過ごせる最後の時なのだ。噛み締めずにはいられない。哀しみが込み上げてくる。私は予感のようなものを感じるだけだった。師が一人、とらえられ、そして、一人連れていかれるということを。教皇の手下どもは、無駄な手は、少しも使わせることはしないことだろう。我々弟子と呼ばれる人間たちには、どんな影響力もないことを知っている。そんなものは放置だ。害は何もない。師は違った。教皇の体制に、何の異も唱えてはいないのに、師には力があった。教皇はそれに気がついたのだ。いずれ、人々は、師の元へと大勢が集まり、そして、その教えを吸収し、教皇に楯突くことなく、それぞれが、独立した存在として生きていくことになる。教皇の影響力など、まったく及ばないところで。教皇の脅し。権力。いっさい、関わりのない世界に、それぞれが、移行してしまうことを。教皇は怯えていたのだ。師を早く、抹殺してしまわねばなるまい。しかし、合法的に、師を捕らえることができない。彼は何の罪も犯していない。教皇に楯突く、どんな行動もしていない。捕らえるためのどんな嘘をも、でっち上げることはできない。師はほとんど、この世の中においては、存在していないも同然だった。弟子だって、まだ、わずかであった。ほんの始まりなのだった。師はこれから、人々に多大な教えを無言で、その種を撒いていき、彼のいなくなった遠い未来に、華が咲くことを祈っているのだ。そして、その芽は、早くも、摘まれようとしている。師はこうして、逃亡生活のような状態を、すでに余儀なくされている。世間では、まるで、認知もされてもいない異端者だった。未来の異端者である。それも、今の世の中の、主流の宗教、権力に反対も賛成もしていない・・・まるで、異端者とも呼べない不可思議な存在。そんな無きに等しい師が、何故、殺されなければならないのか。その理不尽さに、私は胸がいっぱいになっていた。どうせ捕らえられ、屍にされるのなら、でっちあげでもいいから、大犯罪者か、悪魔の権化のような存在として、派手に抹殺されてほしかった。それが、私の願望だった。ところが現実は、この静かな夜に、一瞬の喧騒の果てに、闇へと葬られるのだ。我々弟子たちは、何の抵抗もできないことだろう。そして追手は、我々を虫けら同様に、無視するだけであろう。殺す値もない存在として。そもそも、そういった現実を、見ることすらないのかもしれない。この泥酔の体たらくが、現実だった。
 師は、どこにいるのだろう。個室へと、入っていったのは見た。私はその部屋の前へと静かに移動した。ドアの前に立つ。扉の向こう側に、師はいるのだろうか。ノックをしようとするも、手が震えて、躊躇してしまう。この光景もまた、もう二度と訪れることはないのだろう。そう思うと、涙が込み上げてくる。私は師から、ほとんどまだ、何も吸い付くしてはいなかった。師にはもっと、長く側にいてほしかった。こんなにも早くいなくなるとは、思いもしてなかった。師の眼はいつも、優しかった。初めて、私の目を捉えたとき、彼はすでに、今日の日のことを知っていたのだろうか。私は、最後の弟子となる。最初の弟子は、師とはすでに五年以上に渡って寝食を共にしていた。羨ましかった。わずか二年にも満たない、師との旅は、今夜で、突然の断絶を経験する。誰一人、弟子たちはそのことに気づかなかった。
 深い眠りの中にいる。師は起きている。扉の向こう側には、尋常ではないエネルギーが、渦巻いているのがわかる。しかし、暖かみがあり、穏やかでもあった。それが、師だった。
 外から迫ってきている殺気の嵐とは、まるでわけが違った。
「入りなさい」
 そのとき、声が聞こえた。私は震える手で、ドアを押した。
「さあ、そこに、座りなさい」
 部屋の中には、明かりひとつ灯ってはいない。
「座りなさい。椅子があるから」
 何も見えはしなかった。しかし、そこにはやはり、師と同じ暖かみのある、何かがある。
「失礼します」
 私は思いきって、そのエネルギーが感じる場所へと、腰をおろした。
 やはり、私を包み込むものがあった。物質なのか、エネルギーなのかは、わからなかったが、固い人工物のようではなかった。
「お前だけだ。今宵、起きていられたのは」
 師は私に話かける。
「お酒を、私は口にはしませんでしたから」
「そうだな。口にはしてなかったな。他の連中は、皆、夢の中だ。お前だけは、騙せなかったようだ。仕方のない奴だ。お前にも、そのような光景は、見せたくなかった」
 師の声が、闇の中で震え続ける。
 しばらく何も、言葉のない夜が過ぎていった。
「ならば、仕方があるまい」
 師はその言葉を繰り返した。
「ならば、その光景をしっかりと、目に焼き付くす以外にない。これもまた、お前にとっては、利用する以外にはない。ただし、どうだろう。非常に難儀な、両義性のある諸刃の結末にも、なることだろう。うまくいけば、お前は何かを、その手に掴む。うまくいかなければ、お前の人生全てに渡って、いや、それ以上に、ダメージを残してしまう。そんな悲惨な結果を、招いてしまう。一瞬で、すべての闇が晴れるか。それとも、救いようのないほどの、濃い闇を招いてしまうか。とにかく、仕方がない。こういうことに、なってしまったのだ。私はひっそりと、お前たち全員から、姿を消すことには、見事に失敗したのだ。お前は眠ってはいない」
 今夜、いったい何があるというのですかと、私はそう訊きたい想いを圧し殺し、師との最後の一時を、できるだけ引き伸ばせないものかと、心苦しくなっていった。


 あの実験の失敗が、今でも尾を引いていた。遺伝子をエネルギーに数値化し、その病気、身体的不具合の部分だけ、そのエネルギーの配列を組み替えることで、健康にするというテクノロジーが、世に広まっているときだった。
 そうして、部分的な治療は益々、人々にとって有益になっていった。それにつれて、さらに人体を細かく、部位分けをして、不具合を念入りに修正することまで、できるようになっていった。国による保険は、適用の範囲を広げ、治療薬の投与や、手術による取り除きというのが、副次的な処置法として、存在感をなくしてきていた。レーザーによるエネルギーの働きかけが、その後、時間をかけて、遺伝子に暫時的に影響を与え、傷を癒し、肉体は蘇っていくのだ。薬は、その補佐的な役割に留まり、ほとんど痛み止めのような、その瞬間に発生する痛み、苦しみを緩和させるためだけに、使われた。薬業界は、病気の治療薬からは、どんどんと撤退していった。新薬の開発部門は、別の道を模索するようになっていった。痛み、苦しみの緩和ではなく、快感、快楽、心理的な喜びを、創出する補助薬。あるいは、率先して、人々の幸せな気分というものを、主導していくような、道しるべを果たすべく、そのような娯楽としての存在感で、生き延びようとしていた。
 一方、レーザー治療は、この部分的な操作に、当然満足するはずもなかった。
 二つの方向へと、派閥は別れていった。ひとつは、より部分を細分化して決め細かな処置をしていく対処療法へ。もうひとつは、我々、根本治療を目指す、究極の方法であった。レーザー治療を全身レベルへと引き上げ、全身の、あるべき高度な遺伝子の配列を、達成するために、そのままで良いところも、悪いところも含めた、全体に働きかけるという抜本的に、その在り方さえ問うような、治療方法の開発へと、心血を注いでいくことになった。ある種の、危険な道に踏み出し始めていることを、私はどこかで知っていた。
 しかし、私は幼い頃から、物事を部分的に追求していくことが苦手だった。そして、時に毛嫌いもしていた。その効果的な現実とは裏腹に、人間の意識のレベルは低下していくことを感じとっていた。細部が高度に洗練されていくと、その全体性は驚くほど能力を低下させていくことを、本能的に察していた。人間も含めて、存在というのは、そんなちっぽけなことではない。細部に働きかけることが悪いことであるとは、もちろん言わない。それは確かに必要なことだ。目の前の不具合を、速効性をもって、対処していくというのは、生物として当然の反応だった。しかし、人間全体の遠い将来も見据えた在り方としては、非常に危険な道でもあった。私はそんな道には、わざわざ加担したくはなかった。
 私がやらなくても、その道には、人々は殺到していく。優秀な人間は、こぞって細分化した自分特有の、自分優勢の分野を見つけて、あるいは作り出して、そこを完璧に完全に仕上げていくことであろう。そのような部分的完全性が、そこらじゅうに、跳梁跋扈していく世の中になっていく。たしかに、その狭い分野の中に、すっぽりと入ってしまえば、そこは楽園だろう。しかし、いかんせん狭い。息苦しくなり、別の狭き分野の傘へと入る。少しのあいだは、満足するかもしれない。しかし、そこもまた、後にしたくなる。そうやって、小さな限定的な世界を、転々としていくのだ。そういった、部分的全体性が、洗練されていくにつれて、世界の全体の理解が増していくとは、到底思えない。むしろ、その逆だと思った。私は、全体性に働きかけていく仕事がしたい。その想いがずっと、心の根底にあり続けた。私のあの失敗の日というのは、はじめから、生まれたときから、宿命づけられていたのかもしれなかった。そんな気さえしてしまった。あの失敗の日が、致命的に、私の人生の中には、埋め込まれていたかのような不吉さを、感じるのだ。私はレーザー治療の分野を、体全体に、同時に働きかけるという方法へと、我が研究の道を、見いだし始めていった。理論的に、頭の中で構築していく日々が、続いた。大学にいるときから、そのことだけに、エネルギーを注いでいたといっていい。共感してくれる人も、わずかながらいた。技術の危険性を指摘されてはいたが、思想や哲学に引き付けられる人が、特に多かったように思う。そうであるのなら、なおさら、私はこれを実用化してこそ、存在意義があるものだと、そう確信するようになっていった。半端な状態で、世の中に発表するのだけはやめよう。この技術に光が当たり、世の中で注目を浴びるときというのは、完全無欠な、ほとんどが、永久普遍なものとして、存在し続けることが可能な時なのだと。困難な道であるだろう。挫けさせるための要素には、事欠かないであろう。私はそれでも、人類のある部分の運命からは、熱狂的な支持を得ているはずだと思った。あれほど、部分的な治療に、人間の莫大な関心とエネルギーが、投入されているのだ。その反作用としてのバックアップが、強力にあったとして、一体、何がおかしいことであろうか。そのとおりに、私は意外にも順調に研究者としての道を、歩み始めていた。本当に思いの外、順風だったのだ。ほとんど若き研究者としては、うぬぼれを感じることさえ多々あった。何でも思うように、事が運ぶのだ。望んだこと以上に、結果がついてくるのだ。資金が環境がチャンスが自ら腰を振ってやってくるのだ。私はそれでも、そのうぬぼれを豪遊や散財といったくだらない事に投入するつもりはさらさらなかった。恵まれた予期せぬ成功を、繰り返せば繰り返すほど、それは、自らの仕事に、フィードバックさせなければならない。いったい天は、何のために、こうした幸運を授けてくれているのだろう。正確にとらえなければならない。すべてを研究に投入していけということなのだ。私はそういった意味では、純粋だった。原理主義といってもよかった。ただただ、愚直に、執拗に、最初のビジョンに、自らの、そして集まってくるエネルギーのすべてを、投入し続けていった。
 私は、そのときには、何も気づきはしなかった。今だから、今となってはそう思う、ということだった。その姿勢、その取り続けた行動そのものが、ある種の、部分的なのめり込みだったということに。


 その夜の状況は、あっという間に、揃ってしまっていた。
 酒を飲まず、あれほど醒めていた意識だったのに、いったいいつのまに、状況は揃ってしまったのか。気づけば私は、いや、私たちは、近くの村の教会の中にいた。薄暗いものの、電灯は、つけられている。そういえば、教会に夜来たことは、今までなかったかもしれなった。ステンドグラスに、光は当然入ってこない。神を称える色彩は、沈黙したままだ。
 師はすでに、捕らえられている。
 私は座席の一つに、悠長に腰かけている。両隣にも、人はいる。村の住人のようだった。たまたま立ち寄った村だったため、知っている顔はどこにもない。夜に緊急に集められたのだろう。眠い目をこすりながら、座っている老人もいる。あまり、若い人の姿がないなと思った。師は虚ろな目で、正面を見ていた。表情から、内面を伺うことはできなかった。私は、他の弟子たちの姿を探した。やはり、どこにもいない。あのまま泥酔しているのだ。私だけが、こうして、師の最期に立ち会っている。しかし、師がどうやって、奴らに捕らえられたのか。どのように、あの隠れ家に踏み込まれ、そして、連れ去られたのか。そのとき私は、何をどう対処しようとしていたのか。抵抗していたのか。それとも逃げたのか。隠れたのか。師を守ろうと、体を張ったのか。何一つ覚えてはいなかった。確かに、今、詳細を過去に渡って、辿っていくことはできそうだ。しかし、それをしてしまえば、今、目の前で起こる、いや起こっているこの現実を、取り逃がしてしまいそうで、それはできないなと強く思った。もうすでに、過去のことは、どれだけ思い出しても、変えることなどできない。今こうして、整っている状況こそが、全てなのだ。
 何が起こるのかを、この目で見届ける以外にはない。余計なことは、頭の中から排除してしまわなければならない。そう思ったが矢先、すでに、師は息耐えていた。縛り付けられた柱から、いつのまにか縄がほどけ、ゆっくりと床に向かって、倒れていくところだった。
 そのあまりに遅い情景に、私は現実味を失い、この目に映る光景を疑った。
「あの男も、逆らったんだな」
 隣の席の男が、呟いた。
「教皇の方針に、楯突いたんだろ」
「見せしめだな」
「それにしても、こうやっていちいち、呼び出しされるのもかなわない」
「いつも一緒だ」
「代わり映えのしない処刑」
「おもしろくもない」
「それに、そんな見せしめなどしなくても、俺たちは、そんなことはしねぇ。権力に逆らうことなどしねぇ。信仰もずっと持ち続けている」
「どうもな、今度のことは、それだけではなさそうだ。科学という分野が、昨今じゃ、街ではひどく盛んなのだそうだ。その科学においては、その実験の最後には、人間による試しが必要なんだと。人間に効くことを、人間をもって、証明しなければならないのだと」
「なんだって。それは、人体実験ということか?」
「その口実なんじゃないかって、噂だ」
「そうなのか」
「だから、これは、でっち上げじゃないかって。だとしたら、気をつけろ。これは、その始まりなのかもしれないからな」
「そんな」
「でっちあげなのか。なら、どれだけ、信仰に忠実に、熱心であることを示し続けても、全然、いわれのない逮捕も、あるってことじゃないか。おい、ふざけるなよ。なんだ、その科学という奴は。どうして人間を、そういった実験に使う必要があるんだ?おいっ」
「静かにしろよ。声がでかい。噂だって言ってるだろ。とにかく声を出さないでくれ。俺に話しかけないでくれ。前を向け。ほら」
 近くの席から、そのような男同士の声が、ずっとしていた。
 私は聞き入っていた。しかし、本当に、そう言われた男は、口をつぐんでしまっていた。
 声に気をとられているあいだに、師は、床に崩れ落ちていた。
 全く動かなくなっていた。
「そうじゃない」と別の老人のような声が、諭すように聞こえてくる。
「そうじゃない。人体実験とは、実に聞こえが悪い。そうじゃない。これは、宗教と科学の結婚なんだ。反目することが、宿命づけられている両者における、有効な結合の表現なのだ。そして、今日、こうして集められているのは、村の住人ばかりではない。画家や音楽家などの芸術家だ。この結合を、今後製作する作品の題材としてほしいのだそうだ。そういった願いがあると、教皇からは伺っている。それにこれは、でっちあげの逮捕ではない。あの男は、確かに危険な人物さ。まだ、罪は犯していないのかもしれない。目立ったことは、何も、まだ。しかし、すでに、弟子と呼ばれる数人を集めて、教化をしているということだ。教皇は、その芽を積んだ。これは正しいことだ。そして、教皇は、盛んになり始めている科学に、宗教家としては異例の、強力な支持までをも、表明している。これは、非常に珍しいことだ。すでに、稀代の科学者とは、友好な関係を築いている。そして、今度のことは、そんな科学者の希望を叶えた結果の出来事だ。教皇の思惑と、科学者の思惑が、こうしてこの場で、初めて深く結び付いたのだ。実に地味な儀式だった。しかし、裏では、様々なやり取りが行われている。何も知らない奴は、実に気楽なものだ。いつもどおりの、処刑だって?笑わせてくれるな。そんなものでは、決してない。確かに、見た目は地味だったさ。実に地味だったよ」
 年老いた男の声は、そう連呼した。
 実に、地味ではあった。しかし、内側では、非常に派手なことが起こっていた。行われていた。
 人間の細胞の構造、その配列を、これまでとは全て異なった配列に、一瞬で変える技術の、そのデモンストレーションだったのと。そして、師は、その技術を最初に施された人物となった。床に崩れたままの師だったが、実は死んでなどいなかったのだ。この男たちの話によると。そして、その話が浸透してくればくるほど、この周りの男たちが、稀代の科学者たちにも、見習いの、若き科学者たちのようにも、見えてくるのだった。
 その技術を、実際に人間に施した、その先にある現実を、実態を、固唾を飲んで見守っている・・・。何故かしら、この私も、そういった研究者の一人として、この場にいるような気がしてきていた。


 あのときは、うぬぼれすぎていたのだ。やることなすことが、すべて順風だった。私は自らの研究に、のめり込んだ。努力のすべて、エネルギーのすべて、幸運のすべてを投入することで、唯一のビジョンを達成しようとしていた。私の、そのうぬぼれは、絶対に、目標を達成できるという自信だけに、投入されていた。私に疑いの文字は、どこにもなかった。
 細胞のすべてを変容させる。人間をはじめ、生物、生命体、あらゆる地球上のものを。一瞬にして。部分的な変換、補足など、もうたくさんだ。一気に一瞬で、不具合のない遺伝子を持った、生命としての完全体を、私は目指した。それこそが、人類の最終目標であることを、疑わなかった。人間がこうも、不具合と共に生まれ、苦しみ、哀しみ、そして、朽ちて行くのは、この完全体というゴールに到達するための、プロセスであると、私は理解した。人間というのは、不具合のプロセスにおいて、存在するのだ。そこにこそ、この地球上で、存在する意義がある。そうなのだ。私は、人類をある種、滅ぼそうとしているのかもしれなかった。人類を終わらせようとしているのかもしれなかった。一瞬で、すべての人間においての、その全体性を変える。それこそが、私の科学者としての使命だ。だが、同時に、その瞬間に、人間のこの地での、生存理由を失う。続きがあることに、そのときは、気がつかなかった。私の心に、ほんのちょっとした隙が生まれた瞬間だった。わざと、遠回りするわけではなかったが、どうせ完成して、変容が実行され、人類が終わりを告げるのなら。もう少し、あともう少しだけ、この地上での生活を、楽しんでからにしようじゃないかと。猶予を自ら設定するのだ。そのときまで、楽しむ。あとは、最高峰の実験結果を施行することで、すべてを終わせる。終わる前に、少し寄り道がしたくなったのだ。この私は、まだ、人類として、この地上での楽しみを、やり尽くしていないんじゃないだろうか。私の仕事へのストイックさに、裂け目が生じた、瞬間だった。私は、実験に投入していた資金を、別のことに、ほんの少しだけ、回すことにした。外見的な美しさを整えよう。そのあとで、地上における、あらゆる人間生活の知識を、かき集め、内面を充実させよう。心を飾り立てる、心の機微のようなものを、繊細に理解し、そしてそれを、表現しよう。何故か、やることが多岐に渡って、見え始めてきていた。エネルギーがそう、逆流し始めると、今度はそれまで、塞き止めていた想いのようなものが、一気に決壊し、四方八方に飛び散っていくのが、私にはわかった。地上における人間体験を、様々な形で、飾り立ててやろうという野心だった。私を止めることはできなかった。実験はほっぽりだし、衣食住を必要以上に飾り立てることを、始めた。私は、自分の容姿にも気を配り、顔の見え方から、その艶の出方、受けとる印象の綺麗さに、次第に、拘り始めていくようになった。その投資に、この肉体は応えた。美の化身として、老若男女から憧れの目で、見られるようになっていった。研究室に籠りっぱなしだった私には、初めての心地のよい感覚だった。私は、のめり込んでいった。自分が感じる美しさと、人々が受けとる心地よさ、羨望のへの導き、その最高の地点を探ることに、喜びを感じていった。肉体は、またも、その欲求に応えた。私は何をやっても、うまくいくことが、宿命付けられているのかもしれなかった。うぬぼれは募っていった。帰るべき場所はある。最後にやるべきことはわかっている。今はまだ早い。そう自分に決めていたのだが、だんだんと、言い聞かせるようになっていった。たかが外れるのも、時間の問題だった。私は男であることの美しさと、女であることの美しさを、時に使い分け、時にどちらにも属さない超越した、装いを追求して、人々を驚かせた。まだ若かった。まだまだ若かった。自分と同年代の人間とは、比べ物にならないほどに、歳の取り方が遅かった。ここでも、私は自惚れた。そして、そうやって、外見を美しく装えば装うほど、内面的な知の乏しさに、辟易するようになっていった。化学とか、そういった特殊な専門性だけに、勉学のすべてを注ぐのと同じく、人間風俗一般に渡る教養を、身につけようと、奔走することになっていった。知識を身に付け、その上で、この見た目以外で、自分を表現できる技をも、身に付けようとした。私は書道に、その道を模索した。最初から、才能があったようだったし、知識層の受けもよかった。さらには、書く文字の選択や、その書き方に、自分の心を反映させることもできた。芸術にまで、昇華させることも可能だ。私はのめりこんだ。内から外から美を追求し、そして、次々とものにして、人々から称賛されるその身の程に、酔っていった。社会における地位は確立し、尊敬の眼差しで、どこに行っても、迎えられるようになった。若くて綺麗な女性は、次々と呼んでもいないのに、やってきていた。富にも恵まれた。友人関係にも恵まれた。幸福を謳歌していった。謳歌しつくしていった。欲望は、尽きることを知らなかった。さらにさらにと、洗練化に、私は心血を注いでいった。その没入の仕方は、時間が経つにつれて、悲壮な様相を、呈してきそうでもあった。しかし、一度スタートさせてしまったものに、突然の停止は許されなかった。惰性でもって、静かにフェードアウトしていけばよかったと、今ではそう思うが、当時は、思いもしなかった。私は醜悪にも、その美しさの発展に、エネルギーのすべてを注いでいってしまった。注ぎきってしまった。化学とは縁遠くなり、本当に、あの究極の実験を目指して、生きていた人間は、この自分だったのだろうかと、信じられなくもなっていった。私は、ずいぶんと遠くの荒野に、たどり着いてしまった。自分が中年の域を越え、老年に入っていること。そして、体力も低下していき、前ほど、人々は魅了されなくなっていること。そもそも、飽きてきていることを見てとったのだ。それは、信じられないことだった。人々が飽き始めているのだ。いや、違う。すでに、飽ききっているのだ。いったい、いつから。いつ、その兆候があったのか。私は記憶を遡っていった。しかし、そのとき、まるで長い夢から覚めたかのように、はっとしてしまった。そもそものはじめから、人々は飽きていたのではないか。彼ら自身も、気づいてなかったのかもしれない。彼らは本気で、そのときは、歓喜していたのかもしれない。私もまたそうだった。しかしと、私は立ち止まってしまう。そうじゃない。彼らの奥底では、初めから飽きていた。初めから、結末がどこかにあるのかわかっていた。それには気づかず。見えてきそうでも見えて見ぬふりを、繰り返し。表面的な喜びを感受した。感受していった。いつまでも、誤魔化せはしない。だからこそ、今を、最強に偽りつくしてやろうと。まさかそんな。偽りつくしてやろうという気運が、満ちていて、それは、まさか自分の想いというよりは、まさか、人々の、地上の、はじまりから、人類の始まりから、いや、人類が現れる前から、存在していた気運だったのではないか。それを、たまたま、必然的に、私がキャッチをして、それを体現し始めていった・・・。そっちに、引っ張られていった。それが、この人生。こうなってしまった、ある種の・・・。
 私は、長い眠りから醒めていた。そして、すべての虚飾に、別れを告げることを決めていた。
 ここで、突然、私は、当初のビジョンへと、急カーブを描いて旋回したのだった。あまりの急旋回と、あまりの研究へのブランクの末に、私の思考回路は、一瞬で停止と混乱に陥ってしまっていた。私はもう何年ものあいだ、放置しっぱなしであった、その実験を、何のアイドリングもないままに、急な実行へと移してしまったのだ。あのときは・・・それは完璧に準備され、そして待機していると、思い込んでいた。私の狂ったその感覚は、見境なく、過去のほとんどが、がらくたと化してしまった遺物を、そのままの形で、世の中に解き放ってしまったのだ。しかし、遺物ではあったものの、プログラミングは、めちゃくちゃになってはいたものの、エネルギーだけは、綺麗に保存されていた・・・。エネルギーだけは、逃げずに、塊として、解き放たれる日を待っていた・・・。プログラムは、そう、あのときも、当然、完成していなかったし、さらには、放置していたことで、時流の風に風化され、今使える状態には、とてもなかった・・・。実験室さえ、どこにも、今はなかった。せめて、実験室を作り、何度もプログラミングを発動させて、その動きを確かめる必要は、当然あった。それでも、おそらくは、使い物にならなかったため、過去の知識を元に、また一から作り直さなければならなかっただろう。放置していた時間の、数十倍もの時を、必要としたことだろう。少なくとも、放置する前の基準にまで、戻すだけでも、あるいは、もう不可能なことだったのかもしれない。そのすべての過程をすっとばして、私は、衝動的に発動させてしまった。そして、暴発は、地上で、最大級の表現力を得た。私が、あのとき、注ぎ込んだエネルギーだけは、本物だったことが証明された。私の最大の失敗作は、こうして、幕を静かに閉じた。その被害は、地球が、あとどれだけ続こうが、まるで清算の目処がたたないくらいの壊滅的な打撃を、与えてしまっていた。人々の意識は、ずたずたに壊れ果て、地上全体はまるで、出口を失った牢獄の迷宮のように、ひっそりと哀しみの涙を抱えてしまったかのように、思えた。私は、償うことのまるでできない、その規模の遺恨を、残してしまったことに対して、逆に、個人としての罪深さは、すべて吹っ飛んでしまったかのように感じていた。





























  あの男




















 その男の風貌は、本当に幼いときから、老人そのものであった。
 肌の艶が、唯一、年少の若く張りのある輝きに満ちていたが、それ以外は特に、男の眼差しは、少年のそれではなく、声も話し方もまた、幼い人間のそれではなかった。
 話す内容もまたそうだった。ほとんど、同級生との会話も、噛み合わないものだから、口をつぐんではいたが、教師や他の大人、あるいは両親と、世の中のニュースや、深い哲学的な話にでもなれば、口を開いた男だったが、その中身もやはり、少年のそれではなかった。
 ほとんど、老獪ともいえる、その男の発言は、まるで、世の中を生き尽くし、もうすぐ、その世から離れる準備をしている、男のそれであった。まるで、大人たちに対しては、人生を先にいったものからの助言とおぼしき事を、伝えるかのように、聞こえることもあった。しかし、男の口調はあくまで、説教じみみたものではなく、またこうあるべきだといった、絶対的な物の見方をすることもなかった。そういう意味では、アドバイスの類いではなく、ただの、老人の独り言だったような気がしないでもなかった。
 男は別に、意見を言ったわけではなかったのかもしれない。そもそも、何も発言しないことこそが、男の美学だったような気もする。男はほとんど、日々を無言で貫くことを決意したのかもしれない。年齢が上がっていく、つまりは、時が過ぎていくにつれて、男は家族とも、完全に話すことはなくなってしまった。男の周りから、人は皆離れていった。義務教育の場では、確かに男は毎日存在していたが、教師もまた、彼のことを見て見ぬふりをするのが、当たり前となっていった。身体測定のときは、確かに、彼を飛ばすことなく、運動測定のときも、彼には一通りやらせてもいた。試験用紙もまた、彼の机の上に、置かないことはなかった。そして、男もまた、それを頑なに拒否することはなかった。そして、記録はどれも、平凡なもので、特段、図抜けた優秀さを示すこともなく、かといって、老人のように、著しく劣化した運動能力や、記憶力などを、さらけ出すこともなかった。他の少年たちと変わらない、その凡庸な出来映えに、逆にそのときだけは、教師や周りの生徒たちが、瞬間的に驚きをみせることもあった。それもすぐに、忘れ去られてしまった。
 しかし、進級の季節になると、この男の特異性は、著しく極まっていくことになった。
 この男が進級?正気だろうか。いったいどこに。そして何をしに?この男はいったい、どこに向かっているというのか。異様すぎる。あまりに、人が進んでいくべき道からは、外れている。少年が青年へと成長していく、中年を経て、壮年へと、移行していくという、あるべき物語からは、著しく逸脱しているように見える。そこには、あるべきストーリーがない。ストーリーのない文章が、混在しているだけの、実験小説の失敗作みたいである。そうだ。この男は、失敗作だったのだ。男と出会った人たちは、意識的にではなかったとしろ、そう思ったことは、間違いなかった。まったくの奇形だ。この男に嵌まる、ストーリーなど、ありやしない。
 この進学、進級において。この男が辿っていくべき道など。そう。
 この男の、中学二年から三年までを、担当した男性教諭は、あの頃を振り替えるように、男のことを語り始める。こうして、取材をし始めてわかったことは、この男と出会った人間は皆、多かれ少なかれ、自分が過去に意識したこと、つまりは、この男に意識させられたことを、いつかどこかの時点で、自分の外へと吐き出したかったのだと、私はそう思うようになっていった。そして、それは少なからず、この自分にも当てはまることだと、そう感じるようになっていった。この、少年のときからの老人の風貌で、それ以降も変わらず、成長することなく、老人であり続けた男に、この自分はまるで、会ったこともないのに。実にそう思うのだった。


 中学三年で、その男を担当したその教師は、まず、本人との進路面談が、苦痛だったと話した。
「普通の生徒を、相手にするように、話を切り出したのですか?」
 私は訊いた。
「当然、そうでしょう」
「しかし、反応は、まったく、他の生徒とは、異なったわけですよね」
「ええ。反応はありませんでしたよ。何を言っても、回答は生まれず。ずっと一人で、質問しては、また別の質問をして、世間話をしてみたりと、あの手この手で、心を開いてもらおうと、質問を続けました。もう、どうにでもなれ、という気持ちでしたね。時間ばかりが気になっていました。とにかく、はやく終わらせたい。今回、そう、今だけが早く、過ぎ去ってほしい。次回や、その先のことまで、考えることは、できませんでした。とにかく、今だけが、過ぎ去ってほしい。あとは、また、あとのことだと。私は必死でした。とにかく、間が怖いわけです。彼からは、何も言葉は返ってこないのですから。また、別の言葉を、紡いでいかなくてはならないわけです。私の一人舞台です。私の一人芝居なのです。そのあいだ、この老いた男は、顔をあげることなく、私の存在など、まるで気にはなってないようでした。そもそも、彼は、いつだって、彼以外の何かを誰かを意識していたことなど、まるでないといった、そんな様子でしたから。ただ、そこに、存在しているだけ。そうです。まさに、そういった感じです。ただ、居るだけ。ほとんど、周りの人間は、最初に感じた、強烈なインパクトを受けた、その期間を過ぎると、これが皆、ぴたりと、彼の存在を忘れてしまうのです。教室に居ても、その異様な存在を忘れてしまう。ふと思いついたとき、その彼が視界に出現してきて、そして一瞬ぎくりとするのです。しかし、人間の慣れとは、所詮そのようなものです。何度も、繰り返されれば、それは、たいした意味などなくなる。日常になってしまうのです。男は、その学校空間においては、強烈な異物であったものの、他人には、全く害のない、ただ、そこに居るというだけで、過ぎ行く時間の中で、置き去りにされていったのです。ふと、私は、こんなことも思いました。そう、置き去りにされた異物。置き去りにされていく存在。そうです。彼に、進学の相談をすること自体、実に、滑稽であるということに、私は気づいていったのです。そう。彼は、生徒たちが皆、卒業してそれぞれの道へと、羽ばたいていく中にあっては、唯一、前には進んでいかない、未来には進んではいかない、ましてや、過去へと後退していくこともない、そんな存在かもしれないと、思うようになっていきました。同時に、私は、悪寒が走ったものです。いつになっても、教室の片隅に?いつになっても、この学校からは、出ていかずに?そんなことは許されない!私は彼にとっての、進学という事実は、我々にとっては、この我々のテリトリーから追い出す、ということだと、強く意味していたのです。私は、しっかりと、仕事をしなければならない。彼をきちんと、進学させなければならない。私は、他の生徒よりも、いち早く、彼の両親も入れた、三者面談を行うべきだと考えました。学年主任と、教頭に、そのことを訴え出ました。そのような特異な生徒だったために、要望はすぐに、受け入れられました。本人が何も答えないのですから。親を、いち早く加える意外に、物事は進展しそうにない。親に、今後の道筋を、しっかりと描いてもらう以外に、方法はない。そうなのです。このとき、彼にも、両親が居ることを、強烈に感じましたよ。初めての瞬間だったんです。彼に友達がいないのは当然として、彼に親族がいるなど、それまで、考えたことすらなかった。そして彼が、この学校に入学したという事実もまた、うっかりと、忘れそうになっていました。彼に、過去があるということ自体が、うまく信じられなかったのですね。どこかから、何かの理由があって、彼以外の様々な因果関係によって、今ここに、居るということが、正直なところ、うまく理解することができなかったのです。彼を見たとき、彼の存在を直視したとき、どうしても、彼に関わるどんな因果も、想像することができなかった。よって、今後のどんな未来も、描くことなどできなかった。そんなことなど、許されもしない。そんな気がして、実に震え上がったものです。
 我々は、彼に、どんな関わり方もしてはいけない。彼に、何か手出しをしてもいけない。そっとしておくべきだ。極力、関わりをもってはいけない。そもそも、彼に対しては、影響力など何も、与えることができない。何をしてもそもそもが、全くの無意味なことなのだ。全ての言動や、行動は、彼に投げかけたそのままの格好で、見事に、跳ね返ってきてしまう。いや、倍化して、返ってきてしまう。
 私は、次第に、この面談を通じて、彼の存在が急激に、増していったのですね。私という人生に、立ちはだかってきたわけです。私は、それまで、十五年という時間を教師として、過ごしてきましたが、最大の壁がここに現れたわけです。やっかいごとが、こうして、私の人生に、音もなくやってきたわけです。文字通り、言葉を発しない男なわけです。あ、これ、笑うところですよ。ただ、これだけは、わかりました。私は、この男から、逃れることはできない。私はどんな人生を、これまで辿ってきたとしても、必ずこうして、出会う運命にあった。遅かれ早かれ。そして、そのときの今が、果たして、早かったのか、遅かったのか、判断することは、できませんでした。その男を前にしたときには、時間の感覚など、あってないようなものでしたからね。とにかく、事はやってきたわけです。逃れようもないその現実が。ならば、立ち向かっていけばいいのか。どのように、対処していけばいいのか。うまくいなしていけばいいのか。どういった姿勢で、対面していくことが正しいのか。私は一分、一秒と、次第に、追い詰められていく中、とにかく今は、面談をするしかない。両親を含めた三者面談を、執り行うしかない。そこに、私の全てを、投入するしかない。私は覚悟を決めたのでした」


「そういうわけで、お母さん。まずは、あなた方家族の意見を聞くことから、始めなければなりません」
「父親がいなくて、申し訳ありません」
「では、始めましょう」
「父親のことは」
「お母さん。今は、母子家庭は、大変多くなっていますからね。どうぞ、お気になさらないで」
「何年も前から、行方不明なんです。正確に言うと、この子が生まれてからです。家に居つかなくなってしまって。でも、お金はちゃんと、入れてくれるのです。今でも。それが、唯一の救いです。彼がまだ生きていることの、唯一の証なんです」
「お母さん、始めましょう」
「はい」
「息子さんの進学を、どのように考えてらっしゃいますか。高校に進学ということで、よろしいんですよね。それとも、就職という道も、あります」
「はい」
「どのように、お考えなのか」
「息子にすべて、任せようと思っているんです」
「とおっしゃいますと?」
「息子の希望が、私たちの希望、ということです。私が意見を挟む余地はありません。こう言っては失礼ですが、先生、あなたもまた、その資格はありません。息子に何かを言う権利など。誰にもありません。唯一、この子の父親が、その権利を有していそうなものですが、あいにく、ここにはおりません。この子が決めます。我々は見守るしかないんですよ、先生。あなたは職業柄、何かをしないと、気がすまないのでしょう。仕事をしている気に、ならないのでしょう。手を差しのべることなく、見守るなんてことは、プライドが許さないのでしょう。暇を、持て余してしまうのでしょう。日々、落ち着かなくなっていくのでしょう。できるだけ、はやく、自分のクラスの、すべての生徒の今後の方向性を、見える形にしないといけない。先生方というのは、どうして、そうなのでしょうか。我先にと、すべてを把握できる状態にしておきたい。そのためなら、手段も選ばず。恥を知りなさい!私を利用しようとしても無駄です。あなた、私を、利用しようとしたのですよ。ご自分の、都合のために。私は初めから、わかっていました。でも、一度、直接お会いすることで、嗜めておかなければならないと思ったのです。三者面談など、この子にはいりません!この子だけではありません。他の子にも。全生徒にも。誰にも!いいですね!」
 私は、黙ってしまいました。
 この母親という存在も、いかにもやっかいものという感じで、先が思いやられました。


~それで、どう、対処されたのですか~
 記者である私は訊いた。
「面談は、その一度で終わりですよ。そして、その子本人に対しても、その後、直接話し合うということは、ありませんでした。もう、どうにでもなれと。実に、放っておくことにしたのです。私は私で、憤っていたのです。生徒の親に、あのように、叱責を受けたことなど、それまでの教師生活では、全くの皆無だったのです。私が何か、悪いことをしたのでしょうか。責められる、一体何をしたというのでしょう。あまりの理不尽さに、私は、その生徒を叩きのめそうとさえしました。その激しい怒りを、止めることで精一杯でした。私はその込み上げてくる嗚咽のような噴流を、無視するというその一点に、注ぎ込み、その反動は、他の生徒に、より親身に指導していくことで、解消していこうとしました。
 ところが、どうしてでしょう。別の生徒の親と、三者面談をしたときも、なんと、別の保護者に、同じようなことを言われてしまったのです。その子供は、実におとなしく、成績も優秀な、それでいて、友達も多そうな、そんな快活な生徒でした。まさか、その親に、息子の進学については、何も話すことはない。すべては、息子に任せている。親も、あなた方も、誰も、口出しすることは許されない。息子は、自分で決めるのです。それをまた、どうしてこんな大人たちが、会議のような阿保くさい、茶番を用意して、物事を強制して、仕向けていかなければ、ならないのでしょうか。いい加減にしてほしいですと。私は叱責されたのです!私は当たり前の仕事を、ただ真面目にこなそうとしてただけですよ。何なんですか、その言われようは!校長に、いや、教育委員会に、訴えてやろうかと思いましたよ。しかし、私は、教師として妙な騒ぎ、トラブル、汚点は残したくありませんでした。口をつぐみ、黙って、静かにしておこうと思いました。私は、次第に、クラス全員の生徒に対して、誰の進学も気にかけることなく、職務放棄を、堂々としてしまおうかと、そんなふうにも、思った次第なのです」
~面白い話ですね~
「面白い?いったい、どこが?」
 元教師の男は、再び、当時の怒りが吹き出してきたかのように、顔をしかめ、呻き声すら漏らし始める、始末になってしまった。
「私は、いまだにわかりません。どうして、あの年に限って。それまでは、そんなことは・・・。あの男が、クラスに居たから、という理由以外には、考えられません。どうして、私のクラスに。よりによって。あんな奴が。隣のクラスだったら、よかったのに。いえ、別の学年とか。いや、違うな。そもそも、何故、学校なんかに来るのですか?来ていったい何をしているのですか!まるで、意味などない。ただの、害なだけだ。百歩譲ってですよ。この、普通の学校に入れるべきではなかった。入れてはいけなかったのですよ。間違っていたのです。特殊学校に入れるべきでしょ。だって、そうでしょ。意思の疎通さえ、交わすことができないんですよ。何故なんです。どうしてあんな奴の入学を許可したんです?そして、よりによって、この私のクラスに。当て付けですか、これは。しかも、その、あの男一人が、おかしいだけだったら、別によかった。それが、三者面談をきっかけに、他の親御さんにも、影響がいってるなんて。どうしてですか?どういうことなのですか?あの親。いったい、何者なのですか?あんな怪物など、生んでおいて、それで平然と、しかも堂々と、ぬけぬけと、この私に意見などを、言ってくる。まるで、私が悪いかのように。あの母親は、どうかしている。元凶は、あなたなんですよ!あなたが、居なければ、あなたが生まなければ、あなたが旦那と出会わなければ、あなたがそもそも、存在しなければ。何も始まりしなかったし、何も起こりはしなかった。腐ったみかんだ。みかんが投入されたんだ。真面目に慎重に、生きてきた私に対する、これは嫌がらせだ!みかんは、別のみかんをも、腐らせていった。あの母親と、似たような母親たちを、増殖させていった。伝播していった。私は、本当に、生徒の進学に関して、そうした生徒に限っては、言われたとおりに、口をつぐみました。必要以上に、無視しましたよ。勝手にしたらいい!ところがですよ。そう思い、それを実行してからというもの、私はですね、いまだに、その現象に、苛まれ続けているんですよ。あの年では、終わらなかった。あれから、毎年のように、そんな保護者が増えていき、でも、他の教員に訊いても、まるで、そのようなことは皆無で、私のところだけに起こった、特異な現象であり続けたのです。あのような生徒は、その後、出会うことはありませんでした。しかし、あの男がもたらした影響は、今も、こうして、続いているわけです。教員をやめた、今も。職業を変え、家族を変え、人生設計を変えた、今この時も・・・」


 あの日以来、と元教諭は続ける。
「あの日以来、三者面談でそのような親は、次々と出現していきました。私はすべてを受け入れていきました。何も逆らう必要はない。むしろ、だんだんと、自分の教師としての仕事が、楽になっていくと、そのようにとらえ直せば、これほどいいことも、他にはあるまい。これは状況が、私に、幸運を授けてくれているのだと、日々の疲弊から避けるべく、恵みの雨を降らせているのだと、そう思い込もうとしました。わかりますよね。私は、心底、そのように捉えることができないからこそ、そのように強く、思い直し続ける必要があった。私の教師としての、存在意味は、日々失っていきました。私が、その学校という場所における、その年、その日という時間に、そこに居る意味。役割。次第に、失っていきました。私という人間の存在感は、どんどんと、薄れていくようでした。これまでの、十五年という時間は、いったい何だったのでしょう。そんな時間など、今思えば、ほんとうに、一瞬の出来事のように思え、そんなものは勘違いであって、少しも存在しなかったのだと言われれば、確かにその通りだと、答えてしまいそうになりました。大学を出て、今は、すぐの時であると言われても、まったくの違和感がないようにも思えました。あらたな、社会人生活のスタートの時である、と言われても、まったくその通りだと、答えてしまったかもしれません。本当に、そう思いました。何かが、私に迫ってきているのだと、そのようにも感じられました。三者面談は続きます。もう、私には、何も、状況を制御することなどできません。そういった気も、起きなくなっていきました。ふと私は、親たちの傍らにいる、生徒の存在を、忘れていたことに、気づいたのです。そうだ。いったいこれは、誰のための面談だったのだろう。誰について、考える時間だったのだろう。そこには、よく知った私のクラスの生徒が、座っていて、ひどく驚かされました。そこには、いつも見る、普通の生徒が座っていたことに、何か違和感すら、覚えてしまいました。あの老人のような風体のあの男が、そこにはいつも、座っているものだと勘違いしていたのです。そうだった。もう、あの男の居る面談は終わったのだ。あの、初めのとき、ただそこだけに、あの男は居た。あとは、別の生徒だった。日々、目まぐるしく、その席には、別の生徒が入れ替わり座っていました。
 私はその後、授業やホームルームで、自分のクラスの生徒を、教壇から俯瞰して見ているときに、ふと、あの風体の男が、瞬間的に見つからないということが、頻発していきました。あれほど異様な存在感を示していたあの男を、まさか、見失うなんてことがあるとは。驚きでした。どうしてだろう。いったい、どうして、私は、見失ってしまったのだろう。私は、自分がずいぶんとおかしくなってきているのではないかと思い始めました。どうしてあの男を、一瞬でも、クラスの中で探すことがあるだろう。こうして誰よりも、見晴らしのよい場所に居るにも関わらず。前など、それこそ目をつぶっていたって、あの男の不気味な波動は、感じたものです。あの男が、どこに居るのかなど、見なくてもわかる。あの男が教室に居なくとも、どこにいるのかが、だいたい分かってしまった。そして、教室に近づいてきている。あるいは、自分の今居る場所に、迫ってきている。その圧迫感が、どこにいても感じられ、警戒心は、常に私の周りに張られていた。それが、今は、目の前に居るにもかかわらず、見失っている。信じられないことでした。これは、まだ、始まりにすぎない。私はそう感じたものです。そして、その予感は、的中しました。あの男を、本当に見失うことが、日常で、頻繁に起きるようになったのです。そこに居るにもかかわらず、何故か、この瞳に映ることがない、そのようなことが、起こるようにもなってしまいました。神隠しのように。そこに居るのに見えない。全く何も見えない。そんな人物など、そこにはいない。私の視覚から、受けた信号を、脳が受けた時に、そう判断しているのです。
 しかし、最初のうちは、視覚以外は、まだ正常に反応していました。
 耳を澄ませば、その男特有の、音のようなものを感じたし、そこには確実に、あの男の感触、肌触りを感じたものです。目に見えなくとも、そこには、確実に居る。
 私はただ、視覚の一部を失っただけだ。一時的に、機能が損なわれただけだ。そう思いました。疲れているだけかもしれない。これまでの、教師生活全般に渡って、溜め込まれた疲れのようなものが、ここにきて、解放されてきているのかもしれない。そして、もしそうなら、一時的に悪い現象としての、浄化のプロセスを、辿っているのかもしれない。それはただ、放っておき、見ていれば、過ぎていくものなのかもしれない。いつかは、そう遠くない未来には、終わる。今は、我慢のしどころだ。すべては今、連鎖的に、色々なことが起こっているだけなのだ。騒ぎ立てることは何もない。冷静に、余計なことはせずに見守っていれば、それでいい。そのようにも思いました。言い聞かせていたのかもしれません。そして、視覚に続いて、残りの五感もまた、男を感知できない状況へと、事態は、移行していったのでした。
 ふと、思い付いたように突然、その誰もいないはずの空間に、あの老人の風体が出現する。その唐突さには、本当に、驚かされました。居るのにいない、ということより、いないのに居る、ということの方が、どれだけ恐ろしいことか。私の脅迫神経症は始まり、そして進んでいきました。あの男がいない空間。そう。この視界の中の、ほとんどの空間ですよ。あの男は、そのどこにでも、何の前触れもなく、現れることが可能だ。そういった可能性の中で、私は生きることになる。あの男がいない、見当たらないということ、そのものが、あの男が居る可能性のある場所が、まるで無限大のようになっていくかのようでした。あの男は、どこにでもいる。私はあの男が、視界に現れたときには、心底ほっとしたものです。これで、この今、この瞬間にだけは、男はどこにもいない。ここにいる。確実に、ここにいる。したがって、その他には、どこにもいない。私の恐怖が、空間中に拡散されることなく、今、この瞬間、その場所に凝縮され、固定されている。よって、恐怖は凍結し、分散されていない状態を保っている。
 実質、この世の全域からは、消えているともいえる。
 存在していない、消えている。しかし束の間のことです。可能性の海は再び氾濫し、私の認識空間を、埋め尽くしていく。私の頭の中には、潜在的に、あの男だらけとなっていき、目の前からは消える。そして、しまいには、面談において、目の前に座っている生徒たちが、皆、あの男のように見えていくようになってしまいました。
 次の生徒も、また次の生徒も。
 あの老人の風体の、男になっている・・・。入学時から、すでに、年老いていて、そして、卒業を前にしても、全く変わることのない風貌を晒してくる、あの男、そのものに。
 そして、最初は、面談時に、個々、別々に現れていた、あの男の幻影は、ついに、ホームルームの時に、そこにいるすべての生徒が、同時に、あの男になってしまっていることで、終焉を迎えたのです。
 私は意識を失い、その後、保健室から病院へと運ばれ、緊急の手術が始められたということです。意識はずいぶんと戻らなく、この世に復帰できたときには、すでに、その年度は終わっていて、我がクラスは、元々なかったかのように、解体され、あたらしい新緑の季節を迎えている、といった状況でした。


 一命をとりとめた私は、翌年には、教師に復帰しました。私はあの日、突然、気管を詰まらせ、咳き込み、のたうちまわりながら、意識を失ってしまったということでした。
 確かに、喉に痛みを感じ、息苦しくなり、咳き込み始めたことまでは、覚えています。炎症が短時間で激しくなり、喉を切開する手術が、急遽執り行われたということでした。気道を、無理矢理に確保しながらの、炎症を抑える投薬処置が、繰り返されました。ところが、症状はまったく収まらなかった。炎症は、さらに強く、まるで、それ自体が生き物であるかのように、のたうちまわり、始めたのです。
 開いた喉を、閉めることはできず、投薬をあれこれ、変えていく以外に、方法はありませんでした。気を抜けば、気道は、確保されることなく、そのまま詰まり、息耐えてしまうことは、確実なようでした。辛抱強く、治療は続けられました。
 そのあいだも、私は寝台にて、意識はなく、横たわったままでした。そして薬は、まったく、効いていないようでした。あらゆる薬が試されたようです。しまいには、まだ、試験段階の、非常に強いものまで。しかしそれでも、効果はまるでなかったようです。そして、その喉が、不自然に開いたままに、私は手術室を追い出されるように、一般病棟へと移されていったのです。
 管のついた、ほとんど植物人間と化してしまった私は、見舞いの人間も、まったく来ることはなく、医者は投薬する種えるためだけに、現れ、看護婦が定期的に見回りに来る以外に、ひっそりと放置されていたようです。学校関係者は、進学の忙しい時期を迎え、手が離せなく、春休みになってから、皆で、まとまって来るということになったようです。それほど、緊急を要することなく、しかしすぐに、完治するといったことにもなりそうにない。従って、まとまった時間ができたときに、訪問するといった、方針がとられたようなのです。
 そして、薬はまるで、私の症状には効いてなかったようです。ただ、何もせずに、見ているわけにもいかない、その理由だけで、機械的に、規則的に、投薬は続けられていたようです。その入院中に、一度だけ、非常におかしな事があったそうです。看護婦の一人が目撃したようです。私の部屋を訪れていた、誰かの存在が、あったということなのです。すれ違ったということなのです。看護婦が、定期検診のために、病室に入ろうとしたとき、ふっと、その脇をすり抜けて出ていく、何かの存在を感じたようなのです。とても小さな輪郭に、初めは、子供のように感じたそうです。しかし、顔を一瞬見たことで、印象は一変したそうです。老人のそれだったそうです。しかし、体つきはまだ、少年のようであったと。顔は明らかに、老けたシワだらけの、眼光は鋭い、男の顔だったと。そしてその男は、足音をまるで発することなく、消えるように、廊下へと、去っていったということなのです。それが誰なのか。もちろん、お分かりになりますよね。あの生徒、あの男が来たようなのです。たった一人で。誰の付き添いもなく。そして、病院に見舞いの許可をとることなく、勝手に。不法に侵入したようなのです。すでに、面会時間ではありませんでした。夜中のことです。それもすべて、後から、病院関係者から聞いたことです。あの男はいったい、何をしに来たのでしょうか。私とあの男。二人きりで、その空間は満たされていたのです。いったい、どのくらいの時間、そして、あの男は、何をしていたのでしょう。どんな目的の元に、私を訪れていたのでしょう。そのことを考えると、恐ろしくて、体が震えます。たった、二人きりですよ。看護婦が来たときには、すでに、用も済んで、退出するところだった・・・。ということは、目的は、確実にやり遂げたと、そう考えるのが妥当です。何をしていたのでしょう。あの男は。そもそも、あの男の出現が、すべての根元なわけでしょう?あの男もそれを、百も承知なわけですよね。何か、その原因となったものを、取り除きに、自ら出向いたわけですか?自分が発してしまった悪影響を取り除きに、自発的に?何故?気の毒に思ったから?申し訳ないと思ったから?慚愧の念に耐えられなくなったから?それとも、ただ、そうするべきだと、考えたから?いや、そうじゃないかもしれない。故意に、意図的に、何かしたことを自覚していて、その効果を、直に、確認しに来たということ?そうだ、そうに、違いない。あの男が、私を助けにくるわけがない。手を差しのべに来るなんて、考えられない。致命傷を与えに来た?そうだ、殺しにきたんだ。殺しきれなかったために、こうして自ら、直接手を下しにやってきた。しかし、その訪問のあとで、私の症状は、劇的に回復へと向かったらしいのです。喉の炎症はあっという間に治まり、ほとんど何事もなかったかのように、しばらく、医師たちは、そのことには気がつかず、無意味な投薬を継続してしまっていたようです。慌ててやめ、開いた喉を、閉めるための手術を、執り行ったようです。喉は痛々しい、傷跡を残しながらも、元の状態へと戻りました。一件落着です。そして、私が、意識を取り戻したのも、ほぼ同じときでした。そのときには、すでに、喉の傷跡は消え去っていました。跡形もなく、消えてしまっていたのです。医師は驚きました。そこには、何もなかったのです。
 私は、その空白の期間に何があったのか、その痕跡すら、事後に発見することができず、本当に何が起こっていたのか、ただ眠っていただけのように、何も想像することができず、途切れたままの現実が、目の前に置かれているだけでありました。
 あの生徒を含めた、クラス全員は、高校へと進学を決め、私のいない状態はまるで、順調極まりないといった、状況であったかのように、スムーズに、流れていったようでありました。
 私など、いないほうが、事は、順調に進んでいくのだと、見せつけられているようでもありました。本当にそう、私は理解したのです。私がいるばっかりに、問題は、不必要に創出されるのだと。私など、いないほうがいい。そもそも、この自らの体のことだって、そうだった。私が意識を失い、そこには居なかったからこそ、こうして、何の後遺症もなく、完治しているのだと。これでまた、私という人間が、現実の中でしゃしゃり出ていけば、不必要なトラブルを再び生んでしまう。とりあえずは、この病み上がりという状態では、さほどのことは起こらないだろう。ところが、回復していけばいくほどに、問題は、私という意識のせいで、作り出され、そして状況に影響が与えられ、かき乱されていってしまう。私はすぐに、その問題が、生まれていることを、発見せざるをえませんでした。あまりに分かりやすい、現象でした。それは倒れて、意識を失う前と、ほとんど同じだったともいえます。あの急激な体調の悪化と、突然の回復による、何の影響も受けなかった、強固な現実のひとつ。そして、状況は、その時よりも、増していた。程度はひどくなっていたのです。クラスの、生徒全員の姿だけでは、なかった。人間と呼ぶことのできる、すべての人間の姿が、あの老獪なる、一人の男の風貌に、なっていたのです。そのとき以来。それは、今も続いています。そう。あなたもです。あなたもまた。その男と、寸分変わない人間に見えるのですよ!」


~私も、ですか?~
「例外は、ありません」
~そんな~
「しかし、そのようなことには、もう、慣れましたからね。正直に言うと、じょじょに慣れたとか、段階を経て慣れたとか、ある日突然とか、そのようなことでは、ありません。正確に言えば、意識が戻ってからは、何が起きても、何も驚くことはなくなったのですよ。それが、なおさら、その前にも起きていたことであるのなら、何を驚く必要がありますか?」
~そうは、言っても~
「可哀想ですか?同情しますか?」
~いや、その、ええと、家族とか、そういった方たちも、皆、同じように、その・・・、その、老人の同じ顔に、見えるということですよね?そうなんですよね?~
「間違いありません」
~だとしたら~
「不思議なものですよね。一度、受け入れてしまえば、すべてが、何でもよくなってしまう。どうでもよくなってしまう。そういうものだと、受け入れてしまえば、たいして、気にもならなくなる。私はね、あることに気がついたのですよ」
~あること?~
「ええ。あること。もったいぶっても、仕方がないですから、言いますけど、その入院する前の人生。生まれてから、その日までの人生。いろいろな人に出会ってきましたよね?出会いと別れを繰り返してきた。たまに、永遠の別れを、経験することもありました。様々なドラマが、人並みにありました。ええ、確かに。でも、それで、いったい、何なのですか?それがいったい、何なのですか?どう思います?」
~何なのかと、言われましても・・・哀しい別れもあれば、共に嬉しい体験を有することもある。色々です~
「確かに、その時々に、色々なことがあります。ありました。で、それで何なのですか?今、あなたの元には、いったい何がありますか?何が残っていますか?それって、本当に、あなたが体験した出来事なんですか?ほんとうに?以前は確かに、今よりはそう感じていましたよ。思い出すってことを、頻繁にしていましたから。追体験っていうことですよね。何度も何度も、繰り返して、それでまた、味わいたいって。もっと味わいたいって。あるいは、二度と、そのようなことには、なりたくない。頑なに拒否する決意をしてみたり。その繰り返しです。それしかないんですよ。おんなじことの繰り返し。もう一度、か、もう二度と、か。そればっかり。人を変え、状況を変え、結局は、同じことが、繰り返されているだけ。本当に、ただのそれだけなんですよ。わかりますか?わからないですよね?私だって、以前はわからなかった。まるでわからなかった。ただ、薄々、無意識では、わかっていたのかもしれない。知っていたのかもしれない。その入院をきっかけに、あの意識のない理不尽な眠りを、経たことがきっかけで、私には、そういった想いが、沸いてきたんですよ。沸いて沸いて、ほとんどその想いしか、今はないんですよ!そして、この現象です。自分以外のすべての人が、同一の老人の顔にしか見えなくなったという。実に、いいじゃないですか!それでいいじゃないですか!何も困ることはない。何ら、今までとは、変化はない。ずっと、こうだったんですよ。ずっと、真実は、こうだったんですよ。それが、目に見えるわかりやすい形となって、こうして登場してきて、実に、いいじゃないですか!願ったりじゃないですか!何ら変わらない。ずっと、こうだったんですよ!今思えばです。あるいは、その特異な生徒が現れたというのも、もしかすると、発祥はこっち、私に要因があったのかもしれない。どうして、あんな理不尽なことが、この私に起こるのだろうと、運命を恨んだあの気持ち。今では、馬鹿馬鹿しいくらいです。どっちが先かは、わかりませんよ。本当に。あの男の登場によって、私の意識が多大な影響を受けて、私自身が変化していったのかもしれないし、あるいは、私の意識の変化が、ああした男を、現実に招き入れていたのかもしれない。今となっては、どっちでもいいことです。あなたと知り合ったことも、そうです。どっちが先に意識して招き入れたのか。先とか後とか、そんなものはないんですよ。どっちの因果でもない。両方なんですから。同時に現れたものなんですから。そこには、順序など何もない。順序など何もないんですよ。すべてのことに。
 目が覚めたあと、少しの間は、確かにこういうことを思いました。あの男は、進学したと聞いたけれども、それは本当なのだろうかって。そうだとしても、あの男が周りの生徒たちと同じように、成長していくわけがないじゃないか。同じような道を辿って、大人になっていくとしても、あの男そのものが、成長して、変化していくなんて、想像することができない!ならば、あの男は、どこかの時点で、他の人間たちとは劇的に、異なる道へと、逸れていくのでしょうか。または、どの道にも存在せず、脱落し、ほとんど、この世にはいない者となっいくてのでしょうか。あの男に未来などない。到達するべき、どんな場所もない。そうです。あの男には、たどり着くための空間がないのです。じゃあ、何故、この世に、この地上に、生まれ落ちてきたんです?いったい何のために?目的のない誕生なんて、私は信じませんよ。この世の因果に反します。じゃあ、何故。何故。何故。何故。あれ以来、私が、考え続けていることです。あの男の行く末では、ありませんよ。そんなものは、決してありません。あの男に未来などはそもそもない。ないものを捻りだそうとしたって、迷宮に、深入りしていくだけですから。しかし、存在する意味、存在意義だけは、確実にある。現に、存在しているんだから。私はね、そのことをもまた、今も考え続けているんですよ。ただそのことだけに、興味は集中していっているんですよ。ただ、それだけにね。だから、他の誰もが、同じ顔に見えてしまっても、それに対しての、哀しみも苦しみも苛立ちも、動揺も、何もないんです。まったく、気にならなくなってしまった。まったく」


「そして、私は、あの男だけが、あの男の存在だけが、私という人間以外の、すべてとなっていったのです」
~ちょっと、待ってくださいよ。それじゃあ、今、あなたの生きてる世界というのは、あなたと、その男以外には、何の意味もなさいということなのでしょうか~
「正確に言えば、その男のみです。私というのは、ただの、世界を映す鏡なわけですから。私という鏡に、私本人は写りませんからね。あの男だけ。あの男だけが、この世界で隙間もないくらいに、膨張していってるわけです。あの男のただ、今ここに存在する意味。存在意義と向き合うことしか、今の私にはすることがないといっても、過言ではなくなった!現に、教職は、すでに退いています。再就職はしていません。私はどこにも勤めるつもりはない。誰のために、何かをすることもない。もちろん、この自分自身に対しても。ほとんど、無気力な状態を維持しています。程度は、よりひどくなっています。私をどこか、別の場所へと向かわせる推進力は、もう、ほとんどないといっていい。私もまた、どこにも行きたくはない。何もしたくはない。何ができるわけでもない。さっきも、あなたに言ったでしょう。世界は、私がいない程、順調に、時というのは流れていくのですから。私が、意識を失っているときほど、順調に滞らない世界が、現れてくるわけですから。私など居ない方が、よっぽどいい!この意識など、世界に何の貢献もすることはない。
 現実は、どういった真意を、持っているのかわかりません。
 何が真実なのかは、我々の個々の捉え方にしか、宿ることはなさそうです。
 さて、もうすぐ、あなたと過ごす時もまた、終わりに近づいているようです。もう結末は、見えましたよね?私の結末ですよ。それは、あなたの結末でも、この場合はあるわけです。あるいは、あなたがお書きになる、記事を読む人にとっても、また、そうなのかもしれません。関わったすべての存在にとっての、結末なのかもしれない。私も、次第に、こうして言葉を紡ぎだす力が、なくなってきているのを感じます。それを聞いているあなたの気力もまた、使い尽くそうとしていることが、私にはよくわかります。すでに、この状況を産み出している構図というか、構造もまた、支える力を失ってきているように感じます。すべては同じことなのです。支える力、支えきる力は、もうどこにも残ってはいないようです。新たな熱源を探すことは、だいぶん前に、なくなりました。我々が出会って、こうして、ほとんど最後の仕事をしているという状況が、そのすべてを物語っています。熱源は、どこにもなく、あとは、この閉ざされた構図の中で、残り滓を、燃やしつくす以外には、何も起こりやしません。我々は、ただ、互いを映し出す鏡としてのみ、出会うことが可能な組み合わせなのですよ。もう、おわかりでしょう?私がさっきまでしていた話の真意を。あの老人の風体をした人物と、私の関係。それは、そっくりとそのまま、私とあなたの関係でもあるのですよ。あなたは、これから、出会う人すべてが、私に見えてくるはずです。そして、その私というのは、ただ、あの男を映し出す、鏡であったわけです。あの男を映しているだけのね。つまりは、あの男を見ているのは、私ではない。あなたなのです。あなたが見ていた世界だったのですよ。私は、そのあいだに、入っただけの、ただの通訳のような存在だった。私が話したことというのは、あなたが、体験された事なのですよ。あなたの話なのですよ。ここには、あなたしかいないのですよ。私などいない。あなただけが、居る。あなた以外には、誰もいない。そのことをよく、自覚する時期にきている。
 私はね、今この瞬間にも、あなたの前から、立ち去ることができる。でも、それをしないのは、あなたに憐れみを、感じているからです。同情しているからです。慈悲の気持ちからです。心の準備を、そしてわずかながらの助けを、こうして提供しているつもりです。捻出しているといってもいい。文字通り、最後の力を振り絞ってね。それは一方では、私自身の、なくなっていく残りの気力を、浄化し尽くすためでもあります。互いのために、出会いというのは、常に起こりますからね。あなたには、最後にわずかな、隙間のようなものが、必要だった。あなたは心から、それを求めていた。あの老人の風体の、幼い少年。どこから来たのかわからず、どこにいくのかもわからない、あの存在。ただ、あの存在が、生まれた瞬間へと、遡っていくことでしか、その存在がいったい何であるのかを、確定することができない!風体は、初めからの、それであり、時の変化に、決して連動してはいかない。時の推移を、嘲笑うかのような、その・・・。

 あなたは、あの男そのものを追っていく。あの男が今そこに存在する、その根源を知るべく、ひたすら追っていく。それだけを追って。闇の中。ただ盲目に。その男以外、あなたの世界からは、全てが脱落してゆく。追えば追うほどに。深く、その存在の中へと、沈みこんでいくほどに。時間は、遡り、そして、感覚をなくしていき、いつのまにか、消えてなくなっていく。あなたは、何かに行き当たったことを、思い出す。あの男など、どこにもいないことに気がつく。あなたは見失った。あの男の輪郭を。見事に失った。どこにもいない。そして、その輪郭は、あの男のそれだけではなく。あなたは、全てを失ったことを知る。あなた自身を失ったことを知る。
 すべての輪郭は、いつのまにか、失われているのです。









































 四次元交渉 LaFin Ⅰ



















 男は約束させられた。
 私が欲しいのなら、三か月出さずにいなさい。耐えられるかしらと、女は言った。
 一瞬、何のことだかわからなかったが、男はすぐに察知した。即答したのだった。もちろん耐えられるし、あなたの言うとおりにすると、男は答えた。
「これまで、それほど長く、体内に溜めたことがあるのかしら」
 男は生まれて初めて、性衝動を伴ったその時を思い出すべく、遡った。
 初めて、自分で自分の体内の液体を、外に出したときのことを考えた。あのとき以来、今日まで、その放出の無限のサイクルのことを思い、当然、そんなに長く衝動を内に抑えたことなどなかった。我慢しようとも思わなかったし、出したい衝動を伴えば、異性が居ずとも、何の躊躇もなく、自ら放出した。そして異性との性交渉が、近く予定されているときだけにだけ、その日の自慰を、自粛したことはあった。それくらいしか、我慢したことなどなかった。女は続ける。
「三か月というのは、便宜的に、持ち出しただけなの」
「どういうことでしょう」
「それはあくまで、目安」
「ということは」
「それ以上の、期間であることも、考えられる」
「弄んでるんですか?」
「あなたの態度次第よ」
 男は、沈黙した。
「耐えられる?」
 女は、答えを男に求め続けた。
 男は、どう答えていいものか思案した。その言動によって、その期間が調整されるのではないかと思いながら、慎重に答えるべきだと、男は思ったのだ。
「駄目ね」
 女は言う。
「考えては、駄目。もう、まともな答えは、期待できない。ここまでね」
「ちょっと、待ってください!」
「なにかしら」
「そんな、今ここで、できるかできないかを問われても、答えようがありません。やってみないことには、何もわからない。あなたは卑怯だ」
「いいでしょう。それが正解です。すぐに始めましょう。さあ、ここからが、あなたの本当の人生が始まるのです」


 これが、若い男女の交際の始まりを伝えるエピソードなのだろうか。
 こんなふうに、恋愛が始まる男女が、いったいどこにいるのだろう。
 男は、誰にも、この夜のことは話さなかった。比較対象が何もない中、男は、女との約束を果たす、ただそのためだけに、意識を集中させなければならなかった。
 その時期、男は、禁欲という名の行為の他に、日々の中で、何を具体的にやっていたのかが、今となっては、まるで思い出すことができなかったのだ。
 記憶がない、記憶が飛んでいるというのとは違った。そうではなかった
 その時期も、働いていただろうし、勉強もしていたことだろう。旅行や運動に、精を出していたことだろう。友人や仲間、家族との交流も、当然のことながらあったはずだ。
 しかし、何故か思い出すことができない。
 禁欲など、無数の日々の出来事の中においては、ほんの一部分であっただろうし、むしろ行動というよりは、無行為だったわけで、何もしていないその意識が、これほどまでにクローズアップされて、ほとんどそれしか思いだせないというのは、実に奇妙なことであった。全てがぼんやりとしていた。
 その霧の中で、物事の輪郭は全てが曖昧だった。
 その中にあって唯一、焦点がしまり、鮮明に浮き上がってくる事実が、まさにその話だと言う以外になかった。

 当然、女とも、その後は会うことがなかった。
 次に会う時、つまりは三か月後というのが、交際の開始日であり、互いの肉体を重ねあう、最初のときであるということだけが、暗に決定されていた。
 そのときまで、出さずに待てるかという問いは、正にそういうことなのだ。
 精液が、体内で醸造されるようになってから、初めて男は溜める、溜めこむ、といった行為に挑むことになった。確かに無行為には違いないが、これまでしたことのないことだった。かなり意識を強く持ち、自慰行為をしない、してはいけないという選択肢を取り続けないといけなかった。確かに、我慢というのが適切な言葉だった。
 これから三か月に渡って、いや、三か月では到底終わりではないかもしれないということを、女は示唆していた。ほとんど、無期限に渡って出さないという選択を、取り続けなければならないのかもしれなかった。そんなことが可能なのだろうか。そもそもそれは、身体にとって、悪影響なのではないだろうか。そう考えたとき、男の身体の中で、何かが、音を立てたような気がした。
 悪影響だって?ということは、精液は老廃物だと、俺はそう考えていたのだろうか。日々、製造され続ける老廃物を、体外に出す。放出するといった自然なプロセス。生理的作用。その老廃物が人間を作るわけか?
 そうか。精液というのは、老廃物なんかではない!それは生命なのだ。
 生命をつくるその原料なのだ!この液体が体内に溜まっていることに、一体何の不都合が生じるのだろう。とりあえずは、身体に問題はなさそうだ。やはり、出したいという衝動に対抗するべく、我慢を余儀なくされるということか。耐えられずに、夜通し、七転八倒ということにでもなるまいか。今から考えても、何も始まらなかった。とにかく、やるしかなかった。
 もうすでに、スタートのテープは切られていた。



 その寺院で修行を始めてから、三年が有に過ぎていた。僧侶は、朝の掃除を終えると一人石庭を眺めながら、ある女のことを思った。最後に会ったときから、三年が過ぎていた。
 突然、僧侶は、彼女に出家したい旨を伝えた。そのときはすでに妻だった。妻は絶句した。だが、夫の意志が固い事を、一瞬で見抜いてもいた。女は無言で僧侶の元を去っていた。打ち明けた明くる日にはすでに行方を眩ませていた。何手の置紙もなかった。彼女がどんな表情をし、どんな想いを抱えて去っていったのか、僧侶には何もわからなかった。三年経った今でも、何もわからなかった。
 どうしているのだろう。子供がいなかったことが幸いだった。子供がいなかったからこそ、できた決断だとも言えた。だが、家庭は持っていたのだ。妻が犠牲になった。寺院に女はいなかった。この三年の間、女を見たことすらなかった。女と交わることが一切なかった。師はこう言っていた。女がいないということは、修行者にとっては実にマイナスなことなのだと。妻という存在が家に居て、一緒に暮らすことが、自然で望ましいことなのだと。
「そうなのですか?」
 すでに、妻を捨て、家を捨てて、こうしてやってきていた僧侶(まだそのときは入信を認められてなかったので、僧侶ではなかったが)師の発言に驚いてしまった。
 ならば、何故、このような女人禁制を強いたような人里離れた僧院が、存在するのだろう。
 師は言った。
「それは、過ちを正すためには、まずは、過ちを犯さなければならないからだ」と。
 この環境が過ちであるとでも言うのか。僧侶は(まだ認められてなかったが)とにかく彼は、面食らってしまっていた。すでに退路は断ち、ここに来ているのだ。
「私には、あなたの真意が全くわかりません。わかるはずもありません。ですので、私の出家を認めてください。受け入れてください。あなたのおっしゃることを、理解したいのです」
「いいだろう」
 師は即答した。
「ただし、さっきも言ったように、これは、一つの過ちだ。過ちから出来た世界だ。そのことを、肝に銘じておくように。今はそれだけだ」
 僧侶は、わかりましたとだけ答えた。声を張って答えた。
 とにかく、今は、自分の新しい居場所が出来たことに、一つの安心を得るべきではあった。
 三年はあっという間に過ぎていった。
 朝は、寺院の掃除を三時間以上もかけて行い、そして食事の用意をする。さらには、師の文言を、書き写す行をこなし、参拝者の対応をし、夕方には瞑想を行う。再び、食事を用意し、風呂に入り、就寝する。
 日々、何も、それ以外に変わったことはしなかった。特に、大きな行事もなく、寺院には、日時を記した暦の存在も、なかった。他に僧侶は、三十人以上は居たが、広大な僧院であり、修行や作業が一緒にするといった時間が、ほとんどなかった。個別に、広大な時空間の中で、黙々と仕事をする日々であった。季節が、三回巡ったことは、体の感覚が得た情報で、感じたことだった。正確なところは何もわからなかった。
 妻との最後の交わりを、別の人間の、別の転生の出来事であるかのように、ふと今は、思いかえすのだった。

 あの晩まで、ほとんど出家を決意したことなどなかった。
 ただ、漠然とした幻想はあった。しかし、特別そうなりたいとも、なるべきだとも、なるような予感もなく、たとえ自分がそうなっている妄想が、僅かによぎる時でさえ、まるで自分の人生に起こることのようには、思えなかった。本当に、あの晩の、あの一瞬で、決まったことなのだった。何の力が、あのとき働いたのか。今もって、まったく夢の中の出来事のようなのだ。
 妻の濡れ具合も著しかった。二人が行為している時間も、通常の倍は、遥かに超えていた。
 ほとんどが一晩中、それでも、事は、ただの一瞬のうちに過ぎようとしていた。それだけ、濡れているのだから、わりに短時間で、結合したとしていても、不思議はなかった。
 もちろん、自らの屹立具合も、相当なものであった。妻も、自分も、激しく求め合っていた。
 それまで、数えきれないくらいの行為を重ねてきたが、その夜は明らかに、二人とも違っていた。まだ、二つの個別の分体であるにもかかわらず、すでに接合しているかのような不思議な感覚もあった。きっとそれなのだろう。すぐに接合にもっていかなかったのも。十分に、今のこの感覚を味わいつくそうと。一瞬一瞬が、もう二度と体験できない現実のように噛みしめていたのだ。
 長い前戯の果てに、ようやく接合を果たしたのは、未明を回ってからのことだった。
 考えられる全ての体位を展開していき、ほとんどはじめから、その絶頂に震えていたのだ。そして終わりは予想外に引き延ばされていた。
 何の躊躇も制限も与えることなく、それでいて強制的な終了をさせられることなく、いつまでも接合は続いていた。
 それほど長い行為であるのなら、妻の側の分泌も、著しく低下していきそうなものだが、その夜は、始まりのとき以上に濡れていっているように思えた。そして屹立もまた、あるいはこの自分よりも、遥かに膨張していっているかのような、そんな錯覚が起こってしまっていた。すでに接合部を感じなくなっている。巨大な時空間に包まれ、その時空間そのものが、官能のうねりを始め、嬌声を上げ、激しくも優しい繊細で、力強い伸縮を繰り返しているようでもあった。
 その海の中で、輪郭さえも失った自身が、まるで泳いでいるような、浮かんでいるような、そんな絶頂体感が続いていった。
 自分も、妻も、その姿を失い、それでいながら、確実に共に一つになっている。
 一つの時空間を、生み出している。いや、放り出されてしまっている。そのあいだも、夜は刻々と、色濃くなっていったのだろう。刻々と朝に近づき、日の出が準備されていったのだろう。
 いつまでも終わることがないように思えた、その行為にも一瞬の陰りが見えた。そのときだった。
 激しく突きあげられた巨大な波が、空に突き刺さる瞬間が見えた。
 地から湧きあがった運命が、天空高くに舞い上がった瞬間が、来たのだ。そこが果てだった。
 激しく大きな声を上げ、その終わりを迎えた。自身の輪郭も、妻の輪郭も、まるで戻ってはこなかった。何もない場所に、ただ放り投げられたかのように。昼もない夜もない光も闇もない場所に。過去にも未来にも動いてはいかない、その未知なる場所で、未来の僧侶は、言葉なく呻き続けていた。
 陽がやってきて、別の朝を迎えたそのとき、妻に出家したい旨を伝えていた。



 あの時期、ある種、突然この身に降りかかってきた、禁欲の記憶しかなくなっているのは、実に不思議なことであった。今はそう回想する。
 あの女性と出会ったのも、あまり現実的とはいえない。
 月に一度、神戸に出張していたのだが、その移動で、羽田空港をいつも利用していたのだ。その空港案内の女性の一人が、まさにその人であった。最初は何か案内してもらうために声を掛けたように思う。本屋はどこにあるのか。たぶんそうだったと思う。何度か話したはずだし、しかし毎月のように、彼女がその場所の担当で、毎回何かを訊いていたというのは、いかにも不自然な話だった。
 記憶が、ところどころ、抜け落ちているといったレベルでは全然なかった。ほとんどが、ごっそりとなくなっていて、むしろ、ほんのわずかな断片だけが残っていて、それを無残にもかき集めているといった状態だった。何故彼女は、私にあんな発言をしたのか。付き合うことになった経緯とは、一体どんなものだったのか。こっちからアプローチをして、彼女も満更ではなく、そして快諾したということか。それから、条件を付き出してきた。三か月待てるかしらと。三か月、出さずに待てるかしらと。どういった物言いだったのかは、覚えていない。しかし、初対面でいきなり、そのような発言をする女性など居るものだろうか。そして、受け入れている自分もまたいた。その女性の記憶は、どんどんと輪郭を溶解していってしまい、今では、どんな魅力を伴った人であったか。それすら、怪しくなっている。
 しかし、確かに約束をしたのだ。約束だけが、燦然と、この暗闇の記憶の海の中で、輝いている。他は、何もかもが、薄らいでいく記憶の海にあって、その約束だけが、唯一の現実であるかのように、生々しく海面に浮き出している。

 そもそも女性は、その約束を伝えに来た使者だったのか。女性その人に、意味などなかったんじゃないか。恋愛をするために、深い関係を持つために現れた、個と個の出会いでは、実はなかったんじゃないか。恋愛が始まるわけでは、全然なかったのではないか。
 三日目くらいから、すでに出したい衝動に駆られていった。
 反射的に、手が下半部へいくものの、数日は悶々としながら、何とか耐えていった。
 じっとしていられず、絶えず歩きまわり、とにかく意味なく、体を動かすことで誤魔
化していった。走ったり、筋トレをしたり、とにかく意識を外へ外へと、動きへ動きへ
と、紛らわせようとしていた。エネルギーを別の何かに転化する。そうやって、さらに
数日耐え忍んだように、思う。だが、それでも、この眼球は、少しも、じっとしてはく
れなかった。常に、性欲を満たすべく、獲物を捕らえるような眼差しで、若くて綺麗な
女性を追っていくことに、忙しかった。肌を露出した、その姿を必死で追っていた。次
から次へと、移り飛んでいった。さらに、悶々としていくのに、その動きは、緩まるこ
とを知らなかった。頭の中は、女性との性行為で埋め尽くされ、そしてまた、いてもた
ってもいられず、動くことを繰り返していった。声をかけることもあった。しかし、途
中であからさまにやらせてくれと、言ってしまいそうになり、自ら逃げるように去った。
そして夜、恐怖の時間が訪れる。
 一人、自室で耐えられない衝動に、のた打ち回るのだ。スマートフォンで、アダルトビデオの動画をちらっと見てしまう。延々と見てしまうことになる。屹立する性器は、もう摩擦なしではどうにもならない。どこにもいけない。終わりのない苦しみが続いていった。夜も眠れない。痒みに耐え切れなく、引きちぎるように皮膚を掻き毟る、アトピー患者のように。悶え苦しむ夜が続いていく。
 それでも治まることはない。しかし、歯痛のように、その到来には波があった。はたと、無風状態になることもあるのだ。だが、その後が恐ろしかった。さらに、倍化された巨大な欲望の波が襲ってくる。そんなことが、一週間あまり続いていく。そして今度は、激しい痛みが襲ってきた。はち切れんばかりに、屹立する性器に、痛みが伴っているのだ。睾丸部分だ。しかし、それは、表面上の便宜的な現れであって、本当のところ、痛みは、もっと奥底から別の次元からやってくる、何か、別の物のような気がしてくるのだ。
 ただの痛みではない。ただの性欲の塊ではない。何だろう。エネルギーには違いない。噴出することのできない火山のマグマが、出所を失い、地下で彷徨い続けていく光景と、重なって見えてくる。
 マグマは、その山にん個別で存在するわけではない。もっと深くて、広い、大きな、地球の全てと、繋がっているそのエネルギーが、ただ一つの表現体を纏って、こうして生まれ出てきている。
 そのエネルギーの根源には、一体何があるのか。
 地球そのものの、生命そのものの、無数の表現体を地表が近づくにつれて、露わにしている。奥へ内へと進んでいけば、それは本当のところ、何なのだろうか。
 痛みに痛みが折り重なっていくこの現実は、いったい何なのだろうか。
 ほとんど、痛みしかない時期を通過していくことになる。
 そのとき、性欲は消えていた。
 痛みそのものに、自分はなっていた。そして、一つになればなるほどに、痛みは、全身へと拡大していき、自分を超え、この肉体的輪郭を超えて、この存在する自分の輪郭を超えて、途方もなく巨大化していくことで、いつのまにか、どこかの時点で消えてしまうといったことを、繰り返していった。一か月近くが過ぎていた。

 痛みの消えた日のことは、よく覚えている。
 再び、欲望が、小出しに生まれ出ては、自分の外に、その対象を探し、見つけ出し、投影し、そしてまた別の対象へと移っていく。そんなことが、繰り返されていた。
 時おり、強烈な衝動と共に、したい、出したい他には、何もいらないといった、焦燥感に駆られて、高揚しては、落ち込むといったことを、繰り返したその先で、痛みはいつのまにか、発症することはなくなっていた。
 峠を通過したかのように、今度は、別の段階が訪れようとしていた。
 肉体に起こる乱気流は、その場所をさらに、別の場所、つまりは心の中へと、奥へと進み出でたようであった。



 僧侶は、日々の眠りが次第に変わっていく様子を、目にすることになる。
 それまでは、夢というのは、その世界を体験しているときには、まるで夢だと自覚できることはなく、目が醒めたときに初めて、夢であったことに気づくものだった。そして、どんな夢であったのかを、すぐに回想することになった。時間がそれほど経たなければ、だいたいのところは、思い出すことができた。だが、最近見る夢は、そうではなかった。朝目が醒める前に、すでに自分が夢を見ていることがわかるのだ。夢を見ている自分を、見ている自分が、すでにいると言ったらいいか。だが、その夢の世界で何が行われているのか。それが何故かわからない。何となしに、夢を見ながら寝ている自分が、そこにいるような感じなのだ。
 目の前に夢を見ながら寝ている自分がいる。僅かに分離している自分がいる。そこに肉体がある。少し離れた場所に、自分の身体が横たわっているのが、うっすらとわかる。そして夢にうなされているのが見える。何かを切実に、体験していることが、当然自分事のように伝わってくる。けれども、その内容がわからない。そうして、ほとんどが一晩中、あるいは、ほんの一瞬の出来事なのかもしれなかったが、夜が過ぎていくことになる。
 当然、目が醒める前に、自分に意識があることがわかっている。もうすぐ、眠りから醒めることが、事前にわかっているのだ。じょじょに眠りは浅くなり、こうして僅かに分離した自分自身が、目覚める瞬間に統合される。綺麗に重なり合う。

 何度も何度も、同じような夜を、過ごすようになっていった。
 その理由はわからず、昼間も、僧侶はその出来事の意味を考えるというよりは、単純に何度も振り返ることを、繰り返していった。時に僧侶は、このようにも思った。
 こうして昼間に、無意味な回想をしていることが、再び夜に同じ事体を、引き起こしているのではないだろうか。やめれば、夜には何も起こらなくなる。再び夢を見ない、あるいは夢を覚えていない、眠りを通過するか。もしくは、はっきりとその内容を覚えている、夢の中で現実のように捉え、そして目覚めたときに、それが夢だと気づく夜を、体験するようになるに違いない。その内容は、はっきりと覚えている。そうした、通常のこれまでの夢見に、戻るのではないか。
 しかし、僧侶は、昼間の回想がやめられなかった。どうしても思い出してしまうのだった。いや、ほとんど、それしか気になることはなくなっていた。これほど、日々の退屈な行を繰り返しているのだ。それがもう三年も超えている。妻のことを思い出すことも、少なくなっていた。ここに来るまでの俗世での生活を、思いだすこともなくなっていた。たとえ、思いだすことがあったとしても、まるで現実味のない、まさに同じこの人物の体験談のようには、まるで思えてこないのだ。それこそ、夢の中の世界であるかのような。知らない人間の、誰か別の人生の一幕であったかのような。ほとんど、この三年の退屈な日々の繰り返しだけが、いつのまにか、自身そのものと重なり合っていて、それ以外の何もかもが、自分との同一化を拒絶している様子が、目に映ってくるのだ。
 僧侶は、その夜の夢の意味がずっとわからず、居心地を悪くしていった。
 眠りについているにもかかわらず、何か一晩中、起きていたかのような感覚が続いていった。深い眠りとはもうだいぶん、縁遠くなってしまったかのように感じられた。一晩中目覚めたまま、一方、眠ってしまっている自分を見つめているのだ。その身体を見つめているのだ。何か、意識だけが、抜けてしまっているのだろうか。身体から抜けてしまって、そのままの状態で、自分の身体を見つめている。
 その身体が、経験している夢の中の世界を、まさに外側から様子を伺っている。
 身体の内側に入っていないものだから、そこで何が投影されているのかが、まったく、不明瞭なのだ。
 ということは再び、その傍観状態から身体を目掛けて、中へと入っていけばいいんじゃないだろうか。唐突に、閃いた。
 さっそく、その夜、試してみることにする。
 やはり、乖離状態に、気づけばなっている。今がそのときだと、うなされ始めているような、その身体目掛けて、中に入ろうと強く意識してみる。
 ふと、景色が変わる。さっきまで見えていたはずの、乖離した身体が、目の前から消失している。視界は消え、暗闇に包まれている。ずっと、その暗闇状態だけが、続いていく。
 このあと、どうすればいいのか。どんな意思を持てばいいのか。何もわからず、ただ、闇が続いていくのを見ていた。自分と思われる身体は、どこにもない。身体の中にいるのだろう。もう一回出てみようと、意図してみたらどうか。そんなことを思った。
 暗闇は消え、再び自分と思われる身体が、少し離れたところに横たわっている。
 空中に浮遊しているように見える。背景がよくわからない。部屋に寝ているはずだったが、その部屋を象徴する物が、何も現れはしない。
 この男は、一体、どこにいるのだろう。どこで何をしているのだろう。
 本当に寝ているのだろうか。熟睡しているのだろうか。そしてこの自分は一体、何なのだろう。ここで何をしているのだろう。時間も、場所も、まるで特定することのできないここで、一体何をしているのだろう。
 しばらく、浮遊したままに、放置しておく。どうしたらいいのか、わからないのだ。このまま、遠ざかってみたらどうだろう。ふと思う。
 もっと離れていったらどうだろう。近づけば近づくほど、目の焦点がますます、合わなくなっていくのが昼の世界だ。夜だって同じことだろう。ある程度離れていけば、状況が見えてくるのではないだろうか。全体像が、垣間見えてくるのではないだろうか。離れていった。
 身体から離れ、部屋から離れ、寺院、僧院から離れ、山から離れ、村から離れ、国から離れ、この時代から離れ、といったことを、繰り返していけば、いつかどこかの時点で、最も適切な焦点が、結ばれるのではないかと期待した。



 もうどれほど溜まっていっているのだろう。すでに出そうという意思が失われるほどの痛みの時期を通過し、それでも時たま、痛みは思い出したように襲ってきたりもした。
 だが、あの痛みの絶頂を、ついこのあいだ、体験した身にとっては、それはただこの身体に起こっている、実に些細なことのような気がして、気にはならなくなっていった。
 痛みは、相対的に、どんどんと引いていった。痛みの全体が、この身体からは乖離していっているようなのだ。なくなってはいないのかもしれない。ただ、痛みから遠ざかっているだけなのかもしれない。再び近づけば、その痛みは再発するのかもしれない。今はただ、一時的に離れていっているだけなのかもしれなかった。痛みが再発しないということは、願ってもないことだった。この流れに身を任せることにした。これも、痛みの後だからなのか。心地の良ささえ、生まれ出てきていた。それも錯覚なのだろう。
 単に、相対的にそう感じる、というだけなのかもしれない。
 この心地の良さも現実ではない。本物ではない偽物なのだろう。だがそう考えれば、痛みもまた、本当のことのようには思えなくなっていく。痛みも、心地よさも、両方ないのだとしたら、はじめから、何もなくなってしまう・・・。何も起こってはいないことになってしまう。そんなものはなかった。どこにもなかった。何も起こってはいなかった。何も起きてはいない。すべてが幻想で・・・。のはずはなかった。
 出さずに溜め始めたのは、この自分なのだ。
 自分の一つの行動が、一連の現象の端を発しているのだ。
 あの女に言われたそのことに端を発している・・。その女・・。その女は、本物だったのだろうか・・。
 してはいけない質問が、今、湧いてきたように感じられた。



 クワルムン教団異端の、その集団の中に、その男も所属していた。
 しかし、所属というのは、この派にとっては、個別に修行を繰り返し、自分の道を進んでいくということを、意味していた。異端といわれる所以でもあった。
 マスターと呼ばれる、何人かの長老と思われる人間が、まだ道を見つけられていない、悟りを開いてはいない人間に、個別に指導するというのが習わしだった。
 派は神を闇と設定していて、闇こそが、神であるという考えの元、運営がなされていた。クワルムン教団そのものに、そのような観念はない。神は光の中にあり、自然のなかにあり、空に、宇宙の中に、あるといった概念である。この異端の集団だけが、神を闇に見ていた。そして男はついに、洞窟での個別の行を言い渡されるのだった。もう、どれほど、時は経ったのだろう。何日が通過したのかもわからない。指定されたその洞窟の奥底において、一人、置き去りにされている。動物の死骸のような、嫌な匂いはなく、酸素が少し薄いなと思う以外には、特段、恐怖が煽られる物音もしない。反響で伝わってくるどんな動きすら感じられない。自然が造形した、洞窟の闇の中、食糧も水すら与えられずに、こうして放り込まれている。終わりのときは、一体いつなのか。実に、不安がよぎってくる。瀕死の状態になるまで、放っておかれるということは、さすがにないだろうなと思いつつも、そのことばかりが気になって仕方がない。
 無事に帰れるのだろうか。元に戻れるのだろうか。そればかりを、考えずにはいられない。そうして、時間だけが過ぎていく。何の行なのかは言い渡されてなかった。ただ、闇の中で過ごすことだけが告げられている。闇こそ神なりという教えが、ただの言葉ではなく、体験そのものであることを実感させるために、こうした行を、適切なタイミングで、指示しているのだろう。漠然と、そんなふうに考える。闇は神なり。男はこの闇しかない、この世界において、ふとここにやってくるまでの、自分の経緯について、考えざるをえなかった。何故、ここにいるのだろう。何がここに自分を運んできたのだろう。どんな力が働いたのだろう。そもそも、ここに来ることが、あらかじめ決められていたのだろうか。運命に導かれたとでもいうのだろうか。糸を引いてる、何かの存在が、あったのだろうか。クワルムン教団が、ここに引き入るべき人間の選定を、ずっと昔から、おこなっていたのだろうか。長い歴史があったのだろうか。人類の歴史上、常に影に暗躍していて、常にここにいるべき人物像と、合致する人間に働きかけ、引きずりこむように待機していたのであろうか。
 催眠術のようなものをかけ、巧みに意識を薄らせることで、ほとんど無力化された人間を、簡単に思い通りに、洞窟の中へと、個別に閉じ込めることに成功し続けていたのだろうか。
 ふと、この異端派が、クワラムン教そのものを創造して、その教団を存在させるために、ある社会を創造し、文明を開発し、そして歴史のダイナミズム、流れを、文化、経済、政治に渡って、作り出していった。あとはその時代、その場所に、生まれ来る人間たちが、各自の能力と欲望によって、多岐に渡って、広げていくのを見ているだけといった、そのような考えが、男の中で生まれていった。
 何かがここに、自分を導いてきたのではなく、もともと自分は、ここに居て、そこに意味を創出するべく、そのような外に広がる有限の世界を、創造していったのではないだろうか。つまりは、この異端の集団も、長老のマスターも、クワラウン教の本体も、洞窟付近に創設した修道院も、あるいは、修道院のある村、街並み、王の宮殿も、すべては、この自分が妄想の果てに、生み出したものなのではないだろうか。
 そしてこの、闇は神だという教えもまた。



 痛みが消えていくにつれて、体の感覚そのものも、どこか自分からは乖離しているかのように思えてきた。
 あれから、月に一度行っていたはずの神戸への出張は、どうしたのだろう。空港の案内に居たあの女性と、顔を合わせていたのだろうか。あの頃の記憶は、ほとんどなくなってきている。記憶はどんどんと抜け落ちていっている。その範囲も、着実に拡大している。
 どこに、何の拠り所を、見い出せばよいのだろう。どこに、この自分という輪郭の楔を、打ち続ければいいのだろう。痛みにはそれがあったのだと、男は再び思う。痛みには今自分がここにいる、生きているといった確信を、実に託していたことに、男は気づいていった。その下半部の痛みが、去ってしまっているのだ。下半部の存在感も、いつのまにか、去ってしまっている。痛みとは恐ろしいものだった。痛みは、この肉体感覚そのものを立ち去らせてしまっているのだ。
 そうしているうちに、何故か、自分は、今から死んでいくような気がしてならなくなってくる・・・。
 この現象は、死の前触れであって、いや、ほとんど、死のプロセスにすら、すでに入ってしまっているのではないかと思ってしまう。
 もう戻ることのない、その流れの中で。プロセスは休みなく、展開し続けている。
 その時々で、なされるべき工程を、着実に執り行っている。痛みが現れ、そして悶え、痛みが去るというのも、そのあるべき工程を、通過しているにすぎない。ならば、できることなど、何もない。その流れに逆らう、どんな自分も、すでに消えてきているのだ。解体され、溶解しているのだ。
 すると、あの女との出会い。付き合うまで、我慢できるのかと、そう言われて始まったこの認識の世界が、ただの肉体的な、性的な禁欲の話では、全然なくなってくるように思えてくる。これは、死の始まりであって、ほとんど死が、すぐそこにまで近づいてきたことによる、ある種の幻覚作用であり、幻想世界であり、例え話のようなもので・・・。母親からこんな話を、何度も聞かされていたことを思い出した。
 彼女は、息子であるこの自分を出産するときに、生死を彷徨ったことがあったのだ。
 子供が子宮の中で逆子になり、自らの臍脳で首を絞めるといった事態が、発生したのだ。母子共に危険な状態に陥ってしまった。緊急手術が行われ、ほとんど帝王切開のような形で、胎児は半ば強引に取り出された。母親の方は、そのあいだずっと、死の世界を彷徨っていた。そのときのことを母親はこう表現した。ずっと綺麗に咲き乱れた広大な花畑を眼下に、空を泳ぐように、飛んでいたのだと。そして、雲の向こう側には、亡くなった兄や父親、あったこともない親類の集団が、その背後に陣取り、皆でこっちに来いと、そう母親を手招きしていたというのだ。母は必至で手足をばたつかせ、彼らの元に行こうとするのだが、その距離は、ちっとも縮まることはなかった。それどころか、遠ざかるばかりであった。
 人が死に近接しているときには、脳から特別な信号が放っていて、そのような幻覚を見るらしかった。その母親の話を、今のこの自分の情況に、当てはめていた。
 きっと、自分はもう先がないのだ。死が決定され、招かれ、その現実に耐えられるようにするため、こうして夢のような形で、幻想が創造されたのだ。きっとそうに違いなかった。
 すべては、作りものなのだ。
 男は、その作り物の世界の中で、ただ死んで行くというそれだけが、唯一の現実のように感じ始めていたのだ。



 夜の闇の中、僧侶の意識は、身体から乖離し続けていく。
 自分が死んでいっているのだと感じた。はやく戻らなければと一瞬思う。しかし、何故かしら、強く思うことができなかった。身体に戻る必要性が感じられない。いったいこのあと戻って、それで何なのだろう。それで、何なのだ?という気持ちが、加速的に大きくなっている。身体を離れたことが原因で、そうなっているのか。そういった思いがこうして、乖離を加速させていているのか。どちらなのかがわからない。
 僧侶は身体に戻り、修行に戻ることに、意義をまるで見い出せなくなっていたのだ。

 退屈すぎる日々の繰り返しには、うんざりしていた。そして、寺院に来る前の生活に戻ることには、さらに興味を失くしていった。寺院を出て、新しい生活をすることにも気力はなく、むしろそれは、寺院に来る前に後戻りしているかのように感じ始めていた。結局のところ、この寺院が行きつく最後の場所だったのかもしれなかった。墓場のようなものだったのかもしれなかった。死を前にして、無意識に選んでいた、今際の際のようなものだったのかもしれなかった。ふと、腑に落ちたその考えに、僧侶は、妙な安心感に包まれ始めたように思われた。
 意識のどこにも力が入らない!このまま、身は、ますます軽くなり続けていく。糸の切れた風船のように、天へと舞い上がっていくに違いない。死とはこうも、力の抜けたものなのだろうか。何をこれまで、恐れることがあったのだろう。ただ身を任せていくだけでいい。すでに、見下ろしていた眼下の景色に、自らの身体は消えていた。部屋も寺院も、すでになくなっている。次第に、死んでいっているという、意識すらなくなっていっている。この世界に、この時空に、別れを告げているのだと思った。視界は消えている。夜の帳であったはずの周囲が、いつのまにか、白い闇へと変わり、さらにはその光すら消えていて、かといって、闇でも何でもないその空間に、ただ浮かんでいるだけになった。
 時の経過の感覚はない。
 ただ、何もかもが、停止してしまったかのような、状態を通過していく。
 消えるというのは、どういうことなのだろう。もうすでに、死んでしまったのだ。肉体に戻ることはないのだ。肉体との繋がりは失われているのだ。だが、意識は残っている。残ってしまっている。これはどうなっていくのか。ちゃんと消えていってくれるのか。
 ふと、周囲には、何も見えなくなっているだけで、時間は確実に経過していることを自覚した。何ら、地上にいる時と、変わってはいない!生きているのか、死んでいるのか。不鮮明な状態になっているだけで、何ら以前とは、変わっていない!
 僧侶は、やはり、夢を見ているのだと思い直した。中身のない夢だ。映像のない夢。ストーリー、状況、登場人物が、抜き取られた夢。だが、その枠は、確実に夢の構造そのものだ。中身が抜けただけで。今はただ偶然、プレーヤーにカセットが入っていないだけで。抜き取り、別のカセットをセットしている、その最中なのかもしれなかった。
 こうして、体から乖離しているのも、ただ夢を見ている状態にいるだけ。
 次なる再生を、待っているだけなのかもしれない。


 その晩のことを、僧院の長老から後に聞いた。一晩中、うなされていたらしいのだ。
 悪夢は突然、何の前触れもなく現れていた。眼下には、広大な映像が、いつのまにか、展開している。鎖に繋がれた男が、引きずられるように歩かされている。
 髪の毛は伸び切り、顔面にもその長い毛は垂れ下がっている。目は隠れ、表情もよく見えない。ぼろぼろの布きれを一枚纏っているだけの、浮浪者同然の身なりで、身体から発せられているエネルギーもまた、ひどくくすんでいた。
 男の首や手、足を固定した鎖の先端を、鎧兜のような厳めしい装飾物を纏った男、軍服姿のような男が、五人ほどいて、男に暴力を働かせながら、歩かせている様子が目に映る。
 その男の風貌こそ、まるで、共通点などなかったが、すぐに自分のような気がして、僧侶は胸が苦しくなっていった。異なる風貌に変わり、あの男はいったい何をやっているのか。周りの男は、いったい何をやっているのか。ただ移動していることだけがわかる。ふと、その風景が、異彩を放っていることに気がついた。
 その合計六人の男以外に、背景がないのだ!
 場所がどこなのかがわからない。どんな街で、どんな活気に満ちていて、そしてどの時代なのかが。
 あの男が、自分と同じ時代に属しているとは、まるで感じられなかった。この自分だと確信する気持ちが、高まるにつれて、それは別の時代、別の衣装を纏った、別の人体だと、仮定する以外になかった。だが間違いなく、その内面性には、この自分が宿っているような気がする・・・。
 夢を見ているのだと、僧侶は思い直す。何度も、そう言い聞かせるように。
 六人の男たちは、確実に移動している。捕虜になったかのような、その中心にいる男は、弱り切った身体を、鞭で打たれるかのごとく、強制的に移動させられている。
 移動させる理由が何かあるようなのだ。誰も、自発的に進んで移動しているようには見えない。その動きの遅さが、夢の世界であるからなのか、何なのか、僧侶にはわからなかった。だが、あまりに遅かった。夢を見ているこの自分が、何故か、いらつき始めている。
 何が行われるにしろ、さっさと済ませてほしい!どんな理不尽な展開でもいいから、結末を、はやいところ、知らせてほしい。どうなるかだけでも。そうすればすぐにでも、目は、覚めることだろう。
 身体に、意識は、綺麗に戻っていることだろう。もう今となっては、寺院での日々に戻る以外にはない。
 だとしたら、はやく、戻らせてほしい!こんな、気の長くなるような夜を熟睡することなく、半分目覚めたかのような状態で、過ごし続けたくはない!心身共に、ゆっくりと、休息がとりたいのだ。いったいいつから、完全に意識をなくして眠ることが、不可能になってしまったのだろう。
 僧侶は、実に宙ぶらりんな状態で、寺院での生活を、最近はなく余儀されていた。
 実に、居心地がわるかった。そうか!突然、僧侶の頭の中を、ある確信が駆け巡った。
 この眼下の情景、まるで進むとも進まない、遅々とした、展開のないこの状況、それはまさに、この僧侶である、今のこの自分の状態そのものなのではないだろうか。
 過去とは決別し、なのに、来たるべき未来が何も到来してはいない、今のこの自分の在り様なのではないだろうか!あの男の周りにいる、まるで統一感のない暴力的な男たちもまた、ある種、自分の化身なのかもしれなかった。この状況に耐えきれずに、先を促す、強制的に進めていこうとする、痺れを切らせている、この自分の分裂した意識体なのかもしれなかった。じゃあ、あのみすぼらしい、布一枚の囚人のような捕虜のような男の風貌には、いったい、どのような意味があるのか。あれはどんな象徴だというのか。

 その、鎖に繋がれた男が、身ぐるみ剥がされ、住まいとも思われる宮殿で、取り押さえられている様子が、目に浮かんでくるようだった。
 男は、何の前触れもなく捕らえられたのだ。てんでばらばらの服を着た、五人の男に捕らえられたのだ。その五人の背後には、まとまった集団を形成した男たち。さらに、その背後には、無数の群衆が蠢いていて、その奥行は計り知れなかった。
 輪郭はぼやけ、ども続こまでいているように見える。そこに視線を移せば、終わりのない群衆の輪廻に、巻き込まれてしまいそうに思える。そしてそのいくつもの集団が重なり合ったかのような無秩序さには、限りがない。終わりがなかった。
 無秩序はさらに無秩序な世界へと、分岐しているようだった。底のない沼のように見え、僧侶は、その闇の世界から目を逸らした。
 その深みを増していく闇の奥に、何があるのか。
 気になったものの、関わり合ってはだめだと、言い聞かせている自分がいた。覗いてみたいという好奇心が、それでも突き上げてくる。ふと目を、その背後に移してしまう。吸い込まれそうに蠢いている不鮮明な蠢きは、腐臭を放っているように感じられた。その一番奥には、何があるのか。中心のない、ただ拡散していくだけの終わりのない地獄は、決して抜けることのできない、始まりへと導くものなのかもしれない。どこまでも、落ちていった、その行く末には、いつのまにか上の世界へと戻ってきているものなのかもしれなかった。しかし、それも、気の遠くなる旅路と、決して体験したくない地獄の幾層もを、通過することなしには、辿りつかない場所のような気がした。
 関わり合うべきではなかった。その五人の男のように見える幻影は、そんな地獄の輪廻から浮き上がってきた、呻き声を結集させた、闇からの使者のように思える。
 闇は、神なりという言葉が、聞こえてきそうだった。どこかで聞いたその言葉が、この闇には、まるで、当てはまってはいないかのようだった。これは、真実の闇ではない。僧侶は、そう認識した。これは、闇にすらなっていない。闇に見せかけた何か別のものなのだ。五人の暫定的な男は、自らの意思で動いているようには思えなかった。魂の抜き取られた、ただの操り人形のようであった。
 その五人の男を引き連れられ、中心にいる囚われの男は、ここで自ら他を導くように、素早く動き始めた。いつのまにか、主役が反転したかのように。その男に引きずられるように、五人の男たちが遅れまいと、必死でついて行っているような様子に、変わってしまっていた。
 ふと、この一瞬で、何が起きたのか。何かが変わってしまった。増々、光景は、混沌としていき、理解不能な光景へと、変貌してしまっていた。
 小さな集団を、あるいは、背後の影までいれると、その巨大な集団を、一人の男がリーダーとして、導き勤しんでいるかのような世界に、いつのまにか見えるのだ。
 リーダーの男は、揚々と進み、それでも集団の影以外の背景が、僧侶にはまるで見えてはこなかった。いったい世界のどこであり、時代背景、文化的背景は、どういったところに位置しているのか。背景のない絵画を、延々と見せられているようなのだ。
 突然、リーダーの男の足が止まった。
 五人の男たちは、少し距離をとって止まる。
 中心の男が身に着けていた布が、はらりと地面に落ちる。
 男は裸になった。
 屹立していたのだ!
 僧侶は、目を見張った。
 目覚めが突然起こったかのように、彼の身体に心を奪われた。
 そのとき、背景のないこの光景の意味が、わかったような気がした。
 たとえ、そんな背景が、鮮明に詳細にあったとして、そんなものは、この瞬間に、まるで意味のないものに成り下がってしまう。そのことが、最初からわかっていたかのようだった。
 そんなものはいらない。不必要だと。この光景を作った、何かの力は、洞察していた。

 男は、身動き一つとらなかった。眩しかった。男の身体が輝きに満ちていた。
 男の存在そのものが発光しているかのようだった。美しいと僧侶は思った。
 これほど美しい男を、これまで見たことはなかった。想像したことすらなかった。性的な印象は、少しも、混ざり合ってはこなかった。湧き起こってはこなかった。その屹立は、途中から、そうなった、そうなってしまったという、偶然的な産物には、とても見えなかった。初めから、始まりから、この状態であった。そう思わせる力が宿っていた。性的な興奮を得たことで、こうなったわけではなく。外からやってきた性的な誘発によって、そういった反応になったのではないといった。
 僧侶は感嘆し、そして自分の目が、その一瞬から少しも動けずに、時が止まってしまっているのを、自覚した。思考もぴたりと止まってしまったかのようだった。
 周りの五人も、また、同じだった。
 誰一人、動こうとはしなかった。動けなかった。
 しかし、視線は、まるで、外すことができない。皆、見ている場所は、同じであり、その五人の背後に蠢く影の闇もまた、一人の男の存在に、その焦点は一斉に合っているような光景だった。

 男が、何か、言葉を発したかのようだった。僧侶には聞こえなかった。
 五人の男のうちの一人が、まるでかけられた催眠を、一人だけ解かれたかのように、僅かに動き始めた。男の指令が、その動きに実体を加え始めたかのようだった。
 男に言われるがままに、一人の侍従と化した、その存在の手には、長い刃のようなものがあった。
 屹立する男の輝きに、触発されたかのごとく、その化身であるかのような刃物が、ほとんどあっという間に、その男を目掛けて、振り下ろされていくのを、僧侶は目撃してしまった。
 その流れに合わせるかのごとく、男は狙いを自ら調整するかのごとく、わずかに、頭の位置を変えたのがわかった。

 まるで、天から雷鳴が響き、屹立した唯一の建物に、落ちるかのごとく。
 男と同じ輝きをもった、その存在が、これまでずっと、分かち続けた天地の回路を一瞬、繋いだかのように。光同志が混じり合い、重なり合い、一つになり、そして止まった時間を、真っ二つに切り裂いていくかのように。

 首を切られた男は、激しく射精していた。














































 四次元交渉 LaFin Ⅱ



























首は、地面と思われるその場所に、ごろりと転がった。


しばらくのあいだ、首以外の身体は変わらずに、大地にそびえ立っていた。


屹立したその部分からは大量の液体が

重力に逆らうように何度となく


その、いつまでも止むことのない噴出に

見とれていた

僧侶は・・・













 その夢を見てから、僕は不定期に何の予兆もなく、突然激しく射精することが続いていった。最初の突き上げが、体の内奥から発生したのは、昼間の真っ只中だった。真夏の暑いときだった。下着の中はねっとりと、不快な液体で満たされた、そう思った。睡眠中に起こる不愉快な夢精の感覚が、長い年月を経て、蘇ってきたからだ。まさか、昼間のしかも公然の中、何の予兆もない中、ましてや自分でも誰からも接触のない中で、性的な想像に耽ってさえいない中で、起こるとは信じられなかった。
 僕は駅ビルの百貨店のトイレへと駆け込んだ。その前にコンビニに行き、トランクスを買い、個室のトイレの中で、着替えようと思った。汚れた下着はそのまま捨ててしまおうと考えた。しかし、下着を下ろしてみると、そこには確かに無惨な精液の放出現場があったのだが、不思議と粘り気はまるでなかった。一瞬、尿を漏らしてしまったのではないかと思ったくらいだ。もちろん、そのまま履き続けていて快適なはずがない。僕は匂いを嗅いでみた。やはり性的な匂いがした。生臭い。しかし、液体は白く濁ってはいない。触ってみても、粘り気が感じられない。僕はすみやかに着替え、トイレを後にした。なかったことにするかのように素早く、その日の予定に頭を切り替えた。だがそれはただの始まりにすぎなかった。戦線が布告された、ただの序章にすぎなかったのだ。

 二度目は、車を運転しているときの信号待ちで。三度目は、電車で座っているとき。四度目は、仕事の打ち合わせをしているとき。五度目は、女性とデートをしているとき。何の前触れもなく、激しく放出していた。その瞬間、もちろん身体は、その放出に合わせて、体を小刻みに揺らさずにはいられない。誰にも悟られないように、むしろ、その放出を途中で、全面的に絶ちきるかのように、全身の力を下半身に集めて止めようとする。
 頻度は、ますます増えていき、そして放出している時間も長くなっていった。液体の量もまた計り知れなかった。黒いズボンを履いてることがほとんどだったので、確かに目立ちはしなかったかもしれない。しかし立ち上がれば、裾を辿って、床に垂れ流れてしまうかのような気がする。そして現にトイレに駆け込んで、下着を下ろしたときには、その想像は現実のものになる。僕は着替え、汚れた下着を捨ててしまう。さて困ったことになった。
 これはただの、一度きりの偶発的な起こりではない。継続性があるのだ。これからずっと、起こり続けていくものなのだ。非常にやっかいなことになった。すぐに病院へと駆け込み、医者の診察を仰ぎ、薬を処方してもらうべきだと感じた。と同時にそんな外的な処方では、たとえその場は収まっても、根本的な解決には至らない。原因は深いところにある。精神的なところに。一般論だと僕は思った。心にその原因がある。それを掴み理解することで、身体への影響に変化が生まれる。一般論だと僕は思う。しかし、医者に薬を処方してもらって、本当に止まるものだろうか。何故かしら、止まるような気がしなかった。しかも、心の奥にその原因を探ろうとしても、この場合は、そう、今回はまるでぶつからないのではないだろうか。どうしてそう思ったのかはわからなかったが、確信にも似た想いが沸いてくる。僕は立ち止まり、そして考えた。いったい、これは何なのだ?何が起こってしまったのだ?異変は突然やってくる。そして、これは、単なる偏頭痛などではない。偏頭痛だって、実に辛いものだった。僕は十年ぐらい前に発症し、それ以来、今はだいぶん頻度は減ったものの、それでも忘れた頃にやってくる。ひどいときは、吐き気を伴い、半日は確実に何もできなくなってしまう。その日は頭の重さがとれることはない。不調のまま一日を終える。しかし今回のこの現象は、それとは違う。何とも似ていない。そして増えてきている。あらゆる要素が増えてきているのだ。起きる頻度から、起こったときの規模。何から何まで。不快感。不安感。行き着く先の不穏さ。誰にも言えない理解されない孤立感。そして重大な欠陥が、この身に起こっていながら、何の処方も、存在はしないこと。

 僕は、その後も、その現象を受け入れ続けた。ただ、それしか、方法はなかった。下着を毎日、余分に用意して携帯することを続けた。毎回、捨てていては、ままならないと思い、汚れた下着をいれるための、ポリ袋も携帯する。僕は、突然の射精をただ受け入れ続けた。精液は、無尽蔵に製造されているのかと思うほどに、多量に、僕は出し続けていった。それによって、女性と関係を持つときに、勃起さえ不能になってしまうのではないかという心配をよそに、そこは何の問題もなく、しかも、ご丁寧に射精まで良好なのだった。これには驚いた。何の問題も起こらなかったのだ。だが一度、女性との交わりを終えて、二人でベッドの中で仰向けになっていたときに、突然それが起こったときには驚いた。ベッドの中を汚してしまったのだ。そして彼女はすぐには、気づかなかった。僕は慌てて、タオルでそのベッドの内部を拭き取ることに奔走した。彼女は寝ていた。目をさましたとき、僕は何やらごそごそとしていたことを、不思議に思いながらも、事は何もバレはしなかった。そうなるはずだと僕は思った。これは結局のところ、誰とも共有のできないことなのだ。誰に知られることもなければ、誰かが解決してくれることでもないのだ。すべては、個人的なことなのだ。それをこのとき強く感じたものだった。そしてそれは、一つの転機にもなった。たとえ人前でそれが起こったとしても、結局のところ、誰にも目撃されることはないのだと。でも、たとえそうだとしても、何の慰めにもならなかった。僕の持ち合わせているエネルギーは、その度に、急速に枯渇していったのだから。あるべき寿命までを、完全に網羅する、そのエネルギーの総量を、すべて吸いとっていくかのように。吸いとるべく、何かの意図が働いているかのように。そして完全に、枯渇することで事は止むかのように。
 そのように僕は、この自分の存在を失っていくのだと、感じずにはいられなかった。


 やがて僕は、時と場を構わずに、起こる、この不快な現象を、不思議とそれほど気にすることがなくなっていたのだ。例えば、この前など、仕事で企業が、いくつも集まった重要なプレゼンをしている途中に、それが起こってしまった。これが初めてのときだったら、おそらく、僕は救い難いほどに、取り乱してしまったことだろう。しかし、このときはすでに、五十回は有に越えていた。僕はこの現象が、たとえ国連で演説中に起ころうとも、生中継のカメラが何台も、この自分を撮影していたとしても、それは誰にも気づかれないことを、ほとんどこのとき確信していたからだ。確かに、下着の中は汚れてしまっている。しかし、それさえも、慣れてしまえば、さほど気にすることでもない。それにだんだんと、気のせいかもしれなかったが、感覚としては、透明感がぐっと増してきているように思うのだ。確かに、最初から、精液のあのねっとりとした感触がなかったのは事実だ。でも回数を重ねるうちに、その僅かに残っていた粘り気は、次第に消えていき、かといって、尿のように、一気に拡散して生地に染みだし、外部へと漏れていくこともないのだ。むしろ起きたことに動転せずに、やってしまったという不快感さえ、取り除ければ、物理的にはそれほど嫌な感じを残してはいないのだ。蚊に皮膚を刺され、その最初の痒みをやり過ごせば、それほど痒みは強くなることなく、次第に消えてなくなっていくのと同じように。
 やがて僕は、放出してしまったことを、その後忘れ、いつまでも下着を変えることなく、過ごしてしまう時さえあった。それは驚くべきことだった。トイレで小便をするためにチャックを開いたときに気づいたのだった。半分以上は乾いてしまっていた。それでも、いちおう、僕は取り替えた。またこんなこともあった。女性と性行為をしているときに彼女の中に入っているときに、性的な摩擦を何も起こしていないときに、ふいにその沈黙の中、吹き出してしまうこともあった。僕は初め、どちらの射精なのかわからず、思考は停止してしまった。うまく、脳の回路と起きた現象とを、繋ぐことができなかったのだ。久しぶりに、何が身に起こったのかわからなくなった。どうすればいいのか。まだこれからというときに、これで終わってしまっていいのか。まずは、彼女の中から抜き取って、その事実を確認するべきなのか。その数秒のあいだ、僕はどこにもいなかった。この地上からは、特段離れた場所にいるように思えた。そして、起きたことが、自分の体であったことを信じられずにいた。誰か、別の人間の身体に起こったことを、他人として、近くで見守っていたかのようだった。僕の意識は遠く離れてしまっていた。思考が、肉体とは見事に解離してしまっていた。思考が何もないのだ。どんな指令をも、持っていないのだ。体は、その指令を待機している。次なる行動を準備している。だが、その指令は来ない。
 僕は、その様子をただ見ていた。すべてが止まっていたように思う。自分にまつわるすべての状況が、静止してしまっていたように思う。それ以上、どこにも動こうとはしない。どこから、この状況がやってきたのかも、わからなくなっている。ただ静止したその現実が、目の前にあるだけだ。僕は混乱したまま、どこにも動けずに止まってしまっていた。そして、すべてがバラバラだった。身体との一致もなく、思考との一体もなく。もちろん、彼女との一体感もなく。誰とも何とも同化していない。僕は待った。あらゆる要素が、再びあるべき場所に落ち着くのを。だが予想に反して、その止まったままの状況は、どこにも行かなかった。僕には永遠に続くように思えた。本当に永久にそれは続いていった。僕の中では。そしてそのまま、その現実は消えてしまったのだ。あんなことは、後にも先にもあのときしかなかった。引き起こそうとして、引き起こせるものではない。あのまま消えてしまったのだ。意識をそのまま失ってしまったのだと、他人は言うだろう。客観的には、そう捉えるのが妥当だろう。だが僕の感覚では、違う。それは消えてしまったのだ。あのまま僕という存在も、この地上においては、消えてしまったのだ。今の僕は、あのときまでの僕とはほんの少し違っている。継続性は絶ちきれてしまっているのだ。僕はまた別の因果で、この世に生まれ出た、別の存在のように思えた。だがもちろん、何らかの繋がりはある。でなければ、こうして記憶が連鎖したまま、意識を保っていられるわけがない。継続性は確かにある。けれども、僕がこれまで体感してきた継続性という概念とは、何かが違う。明らかに違う。そしてあのとき、女性との行為はどうなってしまったのだろう。性器を抜き取り、事はそれで、終えてしまったのだろうか。一旦抜き取り、再び仕切り直したのだろうか。それとも、そのまま関係なく、腰を動かし続け、何事もなかったかのように、性行為に没頭していったのだろうか。そしてあるべき射精へと着地していったのだろうか。何もかもがわからずじまいだった。そして、そのときの彼女とは、今も連絡が取れていない。昨日も、彼女にラインを送った。だが、既読のサインは、いつになっても現れはしなかった。送れていることは間違いないのだが、反応が何もなかった。彼女自身に確認をとることができなかった。僕は、ここでもやはり、ある種の止まったままの時間の中に、いるのかもしれなかった。


 そのようなことがあっても、突然の放出が、やむことはなかった。精液の製造に労する時間と、エネルギーとの相関関係など、まるで無視するかのごとく、放出は続いていった。それにつれて、僕はたいして、気にやむことはなくなっていったのだが、僕そのもののエネルギーは、次第に枯渇していった。体力は、それほど強靭だというわけではなかったが、それでも、人並み以上には健康であり、また運動することも好きで、トレーニングを日々していた。今もそれは続けている。けれども身体そのものの馬力というか、そういったものが、まるで失われていっているのだ。力が入らなくなっているのだ。気のせいではなかった。エネルギーを結集させて、一点にぶつけるといったことが、まるでできなくなっているのだ。例えば、野球のバッティングにおいて、構えているときは力を抜き、リラックスしていても、球を捉えるインパクトに向かって、全身の力をその一点に結集させて、強い打球を飛ばす。そういった、身体の当たり前の機能が、次第に、いや急激に、喪失していっているのだ。だが不思議だったのは、そうやって力を入れることができなくなっているにもかかわらず、打球は飛ぶのだ。球威に負けることなく、弾き返しているのである。そして前よりも、打球は力強く飛んでもいる。なのに、手応えがまったくない。僕はここでも、混乱していくことになった。気持ちと、感覚と、起きる現象が、まったく一致していないのだ。むしろ、本当に、傍で誰か別の人間が打っているのを、見ている他人のような気がしてくる。そう考えれば、すべての辻褄はあう。気持ちは、その他人に移入しているものの、手応えはまったくない。自分が、力を込めて球を打ち返している感覚はどこにもない。当然だった。僕は放出が起こるそれらの現実に対して、全てを受け入れていっていたのだが、このすべてがバラバラであるという感覚だけは、ある種の混乱から逃れることができないようであった。あるはずの感覚がないというのは、容易に受け入れられるものではなかった。受け入れるのだと、決めて、無理矢理に納得させられるものではない。むしろ、この混沌としている現実を、受け入れられないということ。それを受け入れることはできそうだった。そうして日々、僕はエネルギーを失っていった。けれども、日常生活においては、身体的な支障は少しも出てこず、これも、自分以外には、何も露見することはなさそうだった。非常な疲れを感じていくというわけでもなく、体が重くなっていくというわけでもなく、当然、健康に問題が発生するわけでもなく、ただこの僕自身が、力を込めてエネルギーを使い、事をしている、成し遂げるといった実感が、手応えが、失われているということだった。


 その状態が続いているあいだに、僕は体調を壊した。おそらく、医者に見せれば、確実に風邪だと言われるだろうと思った。喉に痛みが走った。炎症が起きたようだった。気道が狭まり、呼吸が多少苦しくなっている。声が変わり、時おり咳が出る。のど飴を舐めながら、僕はこの状況をやり過ごそうとした。不思議と、周りの人間もまた同じ症状を示し始めた。すぐに病院へと行き、彼らは皆風邪の診断を受けたようだ。真夏であったが、冷房を効かせて、早めの就寝をとることで、体力を回復させようとしていた。彼らの咳は一度出ると、止まらなくなることもあった。比較的重い症状を示しているようだった。僕もまた体調は著しく低下して、身体全体が重かった。頭がぼおっとしていて、時おり喉がちくちくした。風邪には違いなかったが、僕にはそうは思えなかった。それはただの風邪という表現を、肉体はしただけなのだ。実態は違う。これもすべて、一連の出来事の重要なピースであり、現象なのだと思った。壊れたと、僕は感じたのだ。それまで形成されていたこの僕という人間の構成が、完全に崩壊したのだと思った。再生する予定もなく、ばらばらに、ただ壊されているのだ。要素としては、何も失われてはいない。ただ解体されたのだ。こうして地面には、その僕といわれていた断片の数々が、骨のように撒き散らされているのだ。あるいは、いつのまにか、焼かれていたのかもしれない。本当に骨だけになり、分断され、転がっているかのようだった。そう思うと、まさに僕は、そうした灰と骨だけになった、自らの化身と対面しているような気に、見下ろしているような気に、なっていった。僕は、解体されたのだ。そしてこの期間、僕にあの放出の現象は起こらなくなった。もしかすると、放出は、最後の一滴を吸い尽くしたのかもしれなかった。すべてを出切ってしまったかもしれなかった。終わりはあったのかもしれなかった。それ以来、放出はまるで起こらない。放出がすべて終わったそのときに、今度は解体が始まったとでもいうのだろうか。いや、そうに違いなかった。
 これは、次の段階へと入った表れなのかもしれないと思った。もう唐突な放出は起こらないのかもしれない。どんな現象もまた、永遠に続くことはない。いつかは終わる。いつかは尽き、季節は移り変わっていく。僕は素直に、そうした移行を受け入れ続けようと思った。進んでいるのか退行しているのかはわからなかったが、とにかく状況は動いていっている。僕は逆らわず、突然の放出を、懐かしくも思った。そしてこの風邪にも似た解体されていく自分を、じっと見つめていることにした。最後の要素まで解体されるまでは、別の現象もまた起こらないということだ。だとしたら、解体に全面的に協力するしかないと思った。無尽蔵に貯蔵されていたと思われた、自らのエネルギーは、今枯渇の一途を辿っている。この一連の出来事は、明らかに完全に僕という存在を、枯渇させるために起こっていることのようだ。そう、どんどんと、放出するべきエネルギーは、微細な領域に進んでいるのだ。精液という粗い領域におけるエネルギーは、確かに汲み尽くされたのかもしれない。だからこそ、さらに残されているエネルギーを枯渇させるために、手段を変え、細く柔らかく残った領域へと、アクセスしているのかもしれなかった。やはり、風邪なんかではない。風邪はただの見せかけで、肉体におけるただの表現であり、衣装だった。事の本質ではなかった。射精だって、事の本質ではなかった。
 僕に起こっている、この何かが、おそらく、周りにも影響を撒き散らしていることに、疑いはなさそうだった。
 だが、僕は、一言もそのようなことは漏らさなかった。誰に理解される話でもなかったし、理解されたとして、それはそれで気持ちが悪かった。共有するべきどんな基盤の持ち合わせもなかった。他人と結びつけるどんな共通の概念もなかった。ただ、表向きにわかりやすい形で、物理的な現象の伝播が起こっただけだ。本質を共有してるわけではない。それは自分ただひとりだ。表層だけを共通の回路でもって、現実化させてしまっているだけだ。ある種、無視をして、やり過ごす以外にはない。申し訳なく思ったが、同時に僕にできることは何もなかった。一、二週間もすれば、彼らは、処方された薬と、自らの休息によって、回復することだろう。何事もなかったかのように、日常に回帰していくことだろう。しばらくすれば風邪を引いたことすら、忘れてしまっていることだろう。だがこの僕は違う。僕に至っては違う。これは風邪ではないのだから。そしていつまで解体が続くのかもわからない。このレベルでのエネルギーはすべて、放出され、さらなる僕としての枯渇が、促されていく。その先には、いったい何があるのか。何が待ち受けているのかわからない。恐ろしい事態が待っているのかもしれない。終わりのない次なる現象が、続いていくのかもしれない。何もわからなかった。それは進んでいくことでしか、体験していくことでしかわからない。そうした過程に、すでに入っているし、そうした流れがあるということを、確実に感じる中で、ただ何の邪魔もしないように、僕は見守っていることしかできなかった。


 そしてついに、僕は布団から朝起きれなくなった。
 そこに至るまでの兆候は、ずいぶんとあった。椅子に座れば、なかなか立ち上がれなくなった。ランニングをしているときにも、何故かしら、止まるためのエネルギーがうまく発生させることができなかった。体はそのままの勢いで、惰性に進んでいくのを、僕はただ見ているだけといった、そんなことが続いていった。それまでの僕は、寝起きというのは、ある種の得意技だった。目が覚めれば、ほとんど数秒以内に、起き上がることは可能だった。そうやって、ずっと生きてきた。目覚めもよかった。だがその日、僕は起き上がるのに、ほとんど一時間以上を費やしてしまった。それでも起き上がれたのは、まだいい方で、その後、遠くない日には、完全に起き上がれなくなることを、僕は予測した。そうなのだ。今はまだいいのだ。日の名残りのようなものなのだ。まだわずかに残ったその惰性に、身を任せていることができる。しかし、それももうすぐ、潰える。自分が廃人になってきているように感じる。何かの病魔に侵され始めているかのように感じる。窓を開けるのにも、大変な難儀を要した。体はけっして重くはなかった。ただあまりに遅かった。スローモーションの画像を見せつけられているようだった。そして、それは自分の行為だけではなかった。目に映る全ての光景が、そのようにも見えた。何もかもが遅すぎた。すると僕には、自分の体だけが、特段鈍くなっているのではないことに気づき、不可思議な感覚になっていった。あらゆる物事が、この世界そのものが、僕の意識と大きな齟齬が生じている。布団から起きれなくなったと思う、この感覚は、全く的を得ていないのだ。あるいは、別の誰かからしてみれば、実に普通の速度で、あまりに平均的な行為が、そこでは繰り広げられていたのかもしれなかった。そう思った僕は、周りの人間の反応を探った。そして、確信した。僕そのものは、外から見れば、何も変わったところはない。誰に何の指摘を受けることもない。僕は普通なのだ。だが実態は違う。あまりに違う。日に日に、かけ離れていっている。肉体と僕の意識とは、まるでシンクロしてはいない。噛み合ってはいない。僕は思った。これは、肉体が、僕とはまったく異なった命をもち、制御不能に縦横無尽に動き回る、その前兆なのではないかと。身体が僕からは、一人立ちしていくその瞬間に、今から立ち会おうとしているのではないか。その思い付きは、僕の心を笑わせた。これまで、すべてが一致していたと思われた一つの集積が、実は、ただの部分、がいくつも無造作に組み合わされた、一貫性のない部品そのものであったのではないか。こうして、解体されていくのは、ある種の必然だったのではないか。もともと、一つにはできていないのだ。ただ一つだと思わせる細工が、してあっただけの。その細工は、日々の時間の経過によって、その塗料は、着実に剥がれ落ちてしまう。そうなる必然なのだ。
 ということは、あるべき道を今、僕は進んでいってるのだろうか。何も変わったことはない。何も間違ったことにはなっていない。予定通りに、あるべき過程が踏まれていっているだけなのではないか。歩けなくなる。食べられなくなる。何もできなくなる。何も考えられなくなる。仕事もできなくなり、人と会話をすることもできなくなる。意思の疎通は不可能になり、自分の存在も認識できなくなる。それのどこがいったい予定どおりなのか。僕は笑った。そんなばかな。これが自然だって?ただ、以前の僕なら、この緊急事態に、恐らく慌てて、何かしなければと、対処に奔走したに違いない。食い止めるべく、何かの手段を講じたに違いない。当然のことだ。人間として、あるべき機能が失われていくのだ。失われないように、対処しなければならないし、もし失っていくようなら、それを補う別の代替の何かを、見つけださなければならない。ただ、このときの僕は、そういった思いには駆られなかった。そういった思いもまた、ある種、発生させるには、エネルギーが必要なことを知った。人間として存在するためには、何もしなくとも、あらゆるエネルギーが膨大に消費されていることを、僕は初めて知ったのだ。そのエネルギーさえ、今の僕には、枯渇していたことを思い知らされた。そしてそれは、僕にさらなる対抗措置からの撤退を助長する力になっていた。レールは、反対方向に丁寧にひかれていたのだ。僕は逆らわずに、すべての行為から、退散することを余儀なくされていた。それはつまりは、死を意味していた。人間のあらゆる行為は、生きるために、生き延びるために、為されることであった。その方向に、その方向の延長線上に、僕という存在は、すでに居なかった。あるべき未来の幻影もまた、なかった。僕は何者でもなくなる工程に、すでに入っていた。起き上がれなくなった布団の中で、僕はふとぼんやりと、存在感をなくしていく、我が脳にわずかに映った、一つの映像のことを思った。やけにそれだけが、色濃く見えた。そうだ。この絵が、この映像が、事の始まりだった。この夢を見たときから、始まったことだった。



首は、地面と思われるその場所に、ごろりと転がった。


しばらくのあいだ、首以外の身体は変わらずに、大地にそびえ立っていた。


屹立したその部分からは大量の液体が

重力に逆らうように何度となく


その、いつまでも止むことのない噴出に

見とれていた

僧侶は・・・



 僧侶になっている自分がいる。そして、僧侶ではない、この裸の他人を、離れたところから見ている自分がいる。筋骨のたくましく鍛えられたその男。日に焼け全身は浅黒くなっている。太陽の光を浴びたその股間もまた、固く太く天に向かって、激しく伸びていっている。男の存在そのものが、天に向かって、何かを激しく訴えているかのように。届かない、その天に向かって、最大限の表現を示しているかのように。そして大量の液体が、その先端からは、天に向かって吹き続けている。天には遥かに届かず、地上へと降り注いできている。自ら放出して、その液体を、自らが浴びているかのようだった。しかし、男の肌には、その液体は少しも付着していないように見えた。すでに放出したものと、男は永遠に交わらない別の時間の中に存在するかのように、まったく接触すらしてなかった。見とれている僧侶の姿がある。そして、その僧侶も含めた光景を、僕は今見ている。今も見ている。いつだって、その映像は、そこにある。見たいときには、いつでも。消えてはいかない。何故かそれだけが。吹き出すその瞬間は、天が与えた重力に、激しく逆らっているはずなのに、その後は、従順に受け入れ続けているように見える。

 僧侶は、この自分なのだと僕は思った。これはいつか見た光景なのだ。僕は僧侶だった時があるのだ。そして性的な放出からは、だいぶ離れていた。もう遥か昔に、いつだったか忘れてしまったほどに、遠ざかっている。今の僕もまたそうだった。いつのまにか、女性との交わりが、人生の中から消えてしまっていた。そういった機会が、いつのまにか、消滅してしまっている。あまりに自然に、なくなったものだから、それがいつだったのか、思い出すことができなかった。ふと、風のようにいなくなった。予兆もなければなくなったことによる何の感情も、沸き上がってはこなかった。再び求めることも、求めすぎて気が狂いそうになったことも、過去の記憶への憧憬も、またない。何もなくなっていた。その自然な推移に、僕は今思い当たっていた。そしてそれは、その夢の映像の中の僧侶にも、当てはまることだった。僧侶は、その生涯における、どこかの時点で、性との接触が失われていたのだ。絶ったわけでない。どこかの時点でふと消えてしまったのだ。そこから彼は僧侶になった。僧侶としての余生を過ごすことになった。いや、余生なんかじゃない。そこからが、彼の本来の人生だった。そこからが、彼の道だった。それまでの彼が歩んできた経験は、夢の中の出来事のように、あっけなく雲散してしまった。そして、再び、僧侶として歩んでいくなかで、彼はこの男に出会ったのだ。そして見とれている。どういうことなのかわからなかったが、そうしたことが僕には見てとれた。さらには、その僧侶はこの僕なのだ。失われていた記憶が、今戻ったかのようだった。さらなる記憶の戻りが、始まる予感もしていた。僕はもう、そう遠くはない日に、自分では何もできなくなってしまうのだろう。その避けられない道の過程で、僕はどうなってしまうのか。今は、目をさらに閉じることしかできなかった。


「それで、君かね。新しく入った若い者というのは」
 床の雑巾がけをしている時に、思わぬ遭遇があった。
「そうです。私です。たいして、若くはありませんが」
「年齢のことは、訊いてはいない。どうだ。ここでの生活は。慣れたかな」
 お歳を召したこの存在は、自分が誰であるのか、名乗ろうとはしなかった。
「すべてに精魂こめて、一生懸命にやることだ」
「もちろんです」と私は答える。「しかし、長老」
「長老?」
「い、いえ。その、すみません。何と、お呼びしたらいいかわからなくて」
「構わんよ」
「長老。あなたも、私のような時を経て、そうなられたのでしょうか」
 私は、自分でも思ってもいない質問を投げかけていた。
「そう思うかね?」
「いえ」
「どう思おうと、君の自由だ」
「お答えくださいませんか」
「さあ、どういう意味だろう。君は、自分が質問をしている意味を、わかっているだろうか」
「すみません。その、決して、出任せではないのですが。あるいは、そうだったのかもしれません。慎みます」
「君は、私や他の存在を見ている場合では、ないのだ。自分を見るべきなのだ。自分自身の、その瞬間瞬間の様子を、よく見るべきなのだ。他人は関係ないよ。私のことなど、気にする必要はない。私が君に話しかける。君はそれに対して、答えようとする。その自分の様子を、しっかりと把握することだ。視線の先は、私ではないはずだ。君だよ。そうするために、私は今、君の前に現れている。私を見るためじゃない。私はただの鏡なのだ。君自身を、よく見るための。そのきっかけを与えるためだけの」
「ということは、長老、いえ」
 私はいつものように、ここで、躊躇なく言葉を出していることに気づいた。いつもそうだった。ただの反応でやってきた状況に対して、返しているだけだった。踏みとどまった。君自身のことを、よく見なければならない。彼の声が、そこらじゅうで、響き渡っている。君自身を、より見ることができるよう、私は今現れている。
「長老。ということはですね、鏡の役割を果たすのは、あなただけではないということですね」
 長老は笑った。それでいい、というかのごとく、何度も頷きながら。
「今は、長老。あなたがその鏡の役割を果たしている。この瞬間から、あなただけでなく、他の誰であっても、どんな状況のどんな物であっても、すべては自分を見るためにやってくる物事にもなる。あなたの示唆を、私が今ちゃんと、受け止めたとすれば」
 長老は、何も言葉を発することなく、今度は頷きもせず、目をほんの少しだけ緩めて、私を包み込むように見ていた。
 私はもう、何も訊きませんと、心の中で呟いた。このたった一度の偶然の邂逅が、この寺で学ぶ、全てを凝縮した一場面であったかのように、私には感じられた。もうこれで、全ての修行は終えてしまったのではないか。いやそうではなかった。学ぶべき教えを、全て授かったのではないかと、思ったのだ。教えは複雑なんかではない。本当にシンプルなことなのだ。だがそれを絶えず、現実に実行できるのかといえば、それは大変難しい。そのことを、私は、その邂逅で伝えられたように思えた。そしてそれは、何も寺の中であろうとも、外の世界であろうとも、どこに居ても、どんな場面であっても、自分がどんな存在で、どんな社会的意義があり、どんな風に見られていたとしても、それとは直接何の関係もなく、ただ自分自身を見るための、ただのきっかけにすぎないことなのだと思った。そしていつかはと、私は思った。そのきっかけの羅列は、消えてなくなるときがくる。そんなものを、わざわざきっかけの鏡として、使用することなく、常に何の出会いがなくても、その状態であることが、修行の最終地点なのではないだろうかと、感じた。修行という名の落ちる、その時なのではないだろうか。そうなってしまえば、修行する場、つまりは寺院さえ、この世には存在しないのも、同然になってしまう。私にとっては。そうか。あの長老にとっては、この寺院は、この世にはある意味、存在していないものなのかもしれなかった。彼にとってはすでに、どんな出会いも、存在していないのかもしれなかった。
 ぱっと目を上げると、老人の姿はすでに、なくなっていた。
 私は、雑巾がけの仕事が、まだ、大分残された状態の、現実の前にいた。
 いつしか、いや、今このときであっても、それは可能であった。今この瞬間にも、修行は終えることが本来できるのだ。そうでありたかった。しかし私には、もうあと少しだけ、ここで修行する必要があることが明白だった。そして、その少しだけというのが、一体どれほどなのか。あの長老にしか今はわからないものだった。あの長老は知っている。私を一目見て、いや、私が、この寺院に来たということを、知ってから、さらには、この寺院に来る前から、私が生まれたときから、生まれる前から、すべてを見通す目というものを持っているに違いなかった。そして、彼という存在が、自分の未来であったとしても、何ら不思議ではないことのように感じられた。


 あと、もう一度だけ、私は、この老人との邂逅があったのだった。肉体同士として、面と向かったのか。それとも夢の中であったのか。それはいまいち確定できることではなかったが。
「きみは、まだまだ、足らない。あらゆることが足らない。懸命に、すべてのことを、こなさなければならない」
 そのとき私は、写経をしていた。背後にその老人は現れた。
「あらゆることに、だ。ここでの生活の、あらゆることにだ。言われている意味がわかるだろうか。君はまだ余力がある。心底、全霊で取り組んでいると、言えるだろうか。君はある種、ここのでの生活を楽しんでいる。まだ楽しんでいるのだ。うんざりはしていない。そしてまだ、別のことができる余力が残っている。別の何かを、命じられることを、心待にもしている。とにかく、懸命になりなさい。もううんざりだと、心身共にお手上げになる状態にまで、もっていきなさい。それが、何よりも重要なことだ。その余力を使い果たしなさい。そのための時間と場所は、ここにある。そのための場所だ。そしてあと、ひと押し。そのひと押しをするために、私という存在がある。ただ、そのためだけに。君にはその機会がある。君にはそうした運命がある。ここにいるすべてのひとに、そのチャンスがあるわけではないのだ。だから信じなさい。私の言うことを。今以上に力一杯、日々の仕事に取り組みなさい。その行き着く果てにこそ、君の出口はあるのだから。ただ、満月になるまで、君の月を増大させなさい。ただそれだけに、没頭しなさい。周りの景色が失われるまで。君以外の、すべての要素が、この世界から消失するまで。さあ」
 老人は消えた。
 そしてそれを境に、この寺院で修行にいそしむ全ての人間が、消えた。
 まるで、すれ違うことすらしなくなった。私以外の全ての命が潰えたかのように、寺院は静まりかえっていた。鳥の鳴き声すら聞こえなくなった。風さえ感じるときがなくなった。生命の途絶えた世界の果てで、すべてが止まってしまったかのようだった。
「君にも必ず、そのときは訪れるだろう」
 老人は確かに、君にもと言った。君にも、必ずそのときが訪れるだろうと。君にもという言葉が、脳の中を駆け巡っていた。君にも、必ず訪れる。その努力が、満月となるときが。君のすべての行動はそこで潰える。その先はない。君は何ひとつすることができなくなる。できるときにやっておきなさい。それはできなくなるのだから。できるときに全力で取り組みなさい。それはできなくなるのだから。君は何もできなくなるのだから。そして、する必要もなくなる。修行のすべては、そこに行き着くための、ただの手段にすぎないのだから。
 あらゆる手段があり、あらゆる道がある。その内容について、講釈を垂れたものが、いかに多いことか。しかしその中身には、いっさい意味などない!悟りに繋がる重要な知識など、何ひとつない!そんなものはない。中身に意義など何もない。そう。何だっていいのだ。唯一、重要なこと。それは、全霊に取り組むということ。この世に、ほとんどそれしかなく、そこにしか、エネルギーを費やす場所はない。そして、時間もまたない。もうそこにしか道はない。そこにしか、懸けるものがない。そして、全身で、飛び込む。飛び込み続ける。戻る場所などない。戻るための時間もない。何もかもが終わる。その瞬間。それこそが、その状態になるこそが、修行なのだということを。どんな場所に居ても、それは可能なのだ。やろうと思えば、場所など関係ないのた。寺院というのは、ただのひとつの機会なのだ。そういった状況を生み出す、ただの装置なのだ。この世のすべてのものに、すべての状況を、装置としえる機会は、本来ある。君にとっては、今はこれなのだということだ。よく見なさい!本質をよくとらえなさい!その目を持ちなさい!それだけが、重要なことだ。君は今、何をしている?何をするべき段階にいる?君の全生涯に渡るその道において、今そのどこに位置している?何が君を導いてきている?そして、どこに、行こうとしている?行こうとしているその場所からは、君には、今、何を要求している?君は心底応えようとしているだろうか。本当のところを把握しなさい。外側に騙されてはいけない。見た目に、衣装に、物質に、物理的な現象に、騙されてはいけない。今、本当は、何が起ころうとしている?どこにいる?君には何が求められている?感じるんだ。感じるしかないんだ。天の意思を感じるんだ。君は誰なのか。どんな存在なのか。その存在は、いったい何なのか。見るのだ。根底を!すべてを失ったその場所で。何も見えなくなったその時に。
 老人の声の木霊が、消え行く世界において、最後の痕跡を残しているかのようだった。
 空だけが、不思議と残っているような気がした。空だけが、いつまでも残っているような気がした。あなたもまた、そうしてあなたになったのですか、と私はその空に向かって問いたかった。老人はすでに空間そのものと同化していて、ただ空気を震わせているだけだった。


 体調はまったく戻る気配を見せなかった。日に日に悪くなっていった。体に力が入らなくなっている状況は増していた。そのときだ。再び思わぬ放出が起こった。放出している最中、体は震えていた。震えの中にむしろ、私自身が取り残されているような感覚だった。私だけが、その震えの中心で、静止して固まってしまっているようだった。私が放出しているのではない。放出の中に私がいる。その中心でただじっと見ている。放出そのものが起こっている状況を、ただ感じている。その震えの中で、じっとしている。
 私は放出が終わっても、震えがいつまでも、止まないことを不思議に思った。まるで止まることはなかった。私はもう、放出は起こらないかもしれないなと思った。もうあのような形での放出は、起こらないだろうなと。ただ、震えだけが起こる。その震えは、いつまでも止むことはない。今はこの段階における、エネルギーが外に出ていっているのだと私は思った。今はこのレベルでの、解体が進んでいるのだと。私という存在を、無へと返すための過程が、今はこの段階であるのだと。
 私は何もすることはできない。すでにプロセスは自律的に作動していっている。放出は天に捧げるかのごとく、垂直に上へと吹き出していっている。空に帰っていく水蒸気のように。
 私は知った。じょじょにじょじょに、上向きに、消えていっていることを。
 この、存在そのものが、元居た場所へと、移行しているのだということを。
 あのときの、あの寺院からは、離れ始めているということを。
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