第1話

文字数 1,697文字

 三十代前半、生まれて初めてぎっくり腰になった。きっかけはまだよちよち歩きだった姪っ子を抱き上げた時だった。自分にしか聞こえなかったけれど 腰の辺りからピキッという音が確かに聞こえた。しかしここで痛いと言ってしまえば 姪っ子を二度と抱かせてもらえないかもしれない、という不安と 叔父のぎっくり腰の原因を作ったのが自分だという罪の意識を彼女に植え付けてしまうかもしれない申し訳無さが瞬時に脳内コンピュータによって弾き出されたので十年以上経った今でもはじめてのぎっくり腰の原因については話していない。おそらくその処理能力は一時的にスーパーコンピュータ京を越えていたと思う。もちろんその時はぎっくり腰であるとは思ってもいなかった。その計算の甘さが京に勝てない要因だろうと思う。きっとこの痛みは一時的なもので一晩寝て、起きれば治っているものだと思っていたが その予想は見事に裏切られた。
 目覚ましがいつもの時間に鳴って 止めるためにベッドから起き上がろうとする。その段階で自分の躰に異常事態が起きているのがわかった。上半身を起こせないのだ。腹筋を使って起こそうとすると腰の辺りに痛みが走る。目覚ましは鳴り続ける、しかし躰が思うように動かせない。ゆっくりと寝返りをして四つん這いの姿勢になって立ち上がることが出来た。覚束ない足取りでなるべく腰に振動が伝わらないように歩く。アムロ・レイが第一話で初めて操縦したガンダムのようだ、と言えば伝わるだろうか。
 腰を痛めると今まで当たり前のように出来ていたことが出来にくくなる。まず靴下を履くのも一苦労、洗顔も一苦労、床に落ちた物を拾う時など膝を曲げてしゃがまなければならない。月に要で腰という漢字の成り立ちは上手く出来ているなぁ、と感心してしまう。腰を庇う生活を強いられる為、どうしても脚に負担が掛かる。その日は仕事を休ませてもらったが いつまでも仕事を休むわけにもいかない。藁にもすがる思いで鍼灸院のドアを叩いた。(電話で予約をした上で指定された時間に訪問した、というのが正しいけれど)
 結論から言うとこれが正解だった。小柄で優しそうな先生の鍼による治療によって腰の痛みは嘘のように消えた。人生初の鍼治療で不安もあったけれど治療中は俯せだし、自分の腰に鍼が刺さっているところなど見えない、というよりもその先生の腕が良いのか、鍼を刺された感触すらなかった。時間にすると僅か五分。先生は魔法使いか、北斗神拳継承者のどちらかだろう。この先生がいれば 今後の人生でぎっくり腰など全く怖くない。唯一の難点は予約を取るのが難しいことくらいだ。その日の内に治療してもらえたことは奇跡だった、といっても過言ではない。
 その後も毎年の恒例行事のようにぎっくり腰を患った。二回目ももちろんその先生に治療してもらったが 三回目、四回目となると またか、と思われるのが嫌で他の鍼灸院にも通ってみた。けれど腕前はあの先生には遠く及ばないような気がした。
 五度目のぎっくり腰の時、偶然、再会した 小・中学校の同窓生の萩野君が近くで鍼灸院を開いていると知ってそちらでお世話になった。彼の施術は鍼・灸・マッサージのフルコースで 治療中はお互いの近況報告だったり昔話だったりとスーパーボールくらい弾む。   
 ただ困った事が一点あって 萩野君との話の中で同窓生の誰かを最近、見かけることはあったか、と 彼が尋ねてくるので 偶然、誰々に会ったよ、と答えても 萩野君がその人物の事を憶えていないのだ。特に同窓生女子のことはさっぱり憶えていないらしい。男子も同級生ならまだなんとか憶えているレベルで 僕としては答え甲斐がさっぱり無い。それにしても同級生でも無かった僕のことをよく憶えてくれていたものだ、と今更ながら感謝する。
 今度、ぎっくり腰になった時は卒業アルバムを持ってくると約束したものの あれから数年間、幸いな事に ぎっくり腰を患わずに済んでいる。今では萩野君が僕のことも忘れているのかもしれないな、と不安になってきたので そろそろマッサージだけでも受けにいこうかと真剣に考えているところだ。
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