第1話

文字数 1,980文字

 地球に身を置いている限り自然の力には抗えないことを忘れてはならない。そして生き物である以上自然の摂理には従わなければならないのだと心得ておかなければならない。それは突然の出来事だった。それまでの当たり前の日常はなんの前触れもなく、崩れた。大切な友人はこの夏の暑さの犠牲になってしまったのだ。猛暑の続く七月のある晩に彼は急に意識を失い病院に緊急搬送された。彼の唯一の家族である末妹からの連絡で彼が倒れたことを知らされ、どうしたら良いのかと尋ねられたので救急車を呼ぶように促し僕は彼の末妹に「今からそちらに向かうから心配するな」と伝えて電話を切った。車で二十分かけて、友人の家に着いた。急いで家の中に入りリビングに向かうと横たわっている友人が一人でいた。「おい、大丈夫か」と彼を呼び掛けるが反応がない。すると階段から人が降りてくる足音がした。彼の末妹が降りてきたのだ。無表情で彼女は言う。
「私が帰ると兄がそこに倒れていました。」
僕は呆れて「なぜすぐに助けを呼ばなかった」と彼女に問いかけたが、僕が何かおかしなことをいっているという気さえ起こすくらい、彼女の面持ちは不思議な物を見るかの如くこちらを見ていた。そして覇気がないように感じた。すると、ウーウーと救急車のサイレン音が鳴り響いた。救急隊が駆けつけてくれたのだと僕は安堵した。救急隊が部屋に入ってくると救急隊の方に状況の説明と搬送先の病院名を伺い、友人と末妹は救急車で、僕は自分の車で病院へ向かった。
病院に付くと彼はベッドに寝かされ点滴を打たれていた。末妹は病室の隅に座りジュースを飲んでいた。彼の容態の悪さもあって彼女に構ってなどいられなかった。僕は衰弱していく彼に一晩付き添った。朝の七時になると末妹は仕事があるからと一言残し、病室から出ていった。彼を見守ること十分が経過した。そのとき奇跡的に彼はベッドから上半身を起こし、僕を見つめた。それと同時に力がすっと抜けて崩れるようにベッドに沈んだ。ほんの一瞬の出来事だった。何度も彼の名前を呼び掛けたがそれは梨の礫で、彼の体に力が入っていないことと、息をしていないことを確認して、急いで先生を呼んだ。しかし、手遅れだった。彼は残った力を振り絞りこの世界で最後に見たのは僕だった。何もできなかった僕は全てを失いこの世の終わりのような心持ちになった。八時半に僕は事情を職場に連絡して、出勤できないことを涙ながらに伝えた。僕は唯一心を許していた友人を失ってしまった。この事実を頭の中で理解しようとしたが、それは現実味のない言葉を唱えるような感覚を覚えた。彼のいない日常を想像することが辛いのだ。末妹の覇気のない表情を思い出すと沸々と怒りさえ湧いてくる。

あれからちょうど一ヶ月がたった。宵の口、厭世的な気持ちは払拭できるはずもなく涙だけが止まらない日々を送っていたが、あるとき思いだすかのように彼と行くはずだった小さな山に一人で行く決心をした。そして今日の昼間はとても晴れていた。彼が旅だった日はどんよりとした灰色の空で、今日のように雲の先など見えはしなかった。しかし今日はどうだ。はっきりと見える。天に少しでも近い山の頂上へと無我夢中で僕は足を進めた。夜の空が山の色を影で染める。稜線ははっきりとしていて、それが描き出した黒い塊は形のない怪物に見えた。もう踵を返すことはできない。いっそのこと僕はこの怪物の一部になっても良いとさえ思えた。
長い時間をかけて登る。それは永遠にさえ感じほどの長い時間だ。暗闇の中、針葉樹が囲む小径を怪物に呑まれるような気持ちで登り、ようやく山頂に着いた。そこは巨大なプラネタリウムが眼前に広がっていた。この空を前にした僕の時は戻る。夏空の星はどこまでも続く夜のしじまに光を灯し、彼と過ごした日々が僕の全てだと思えた。この空と僕の過去は繋がっている。星の数だけこの世界には喜びと悲しみがあるのだと夏空は無言で提唱しているような気がした。彼と過ごした時間が星のように思えて、星の光がこの地上に届く時間は僕がこれから彼と繋がるまでの時間だと願った。
夜は深まる。時を重ねても物理的な僕と彼の距離は変わらない。記憶が薄れていくのが怖いのだ。彼の傍にいた記憶が時間が経つにつれて薄れていく気がする。だから、忘れないように彼と過ごした日々に想いを馳せて毎日心に刻む。どうしようもない気持ちが闇に漂う。できることなら、もう一度やり直したい。もっと優しく、もっと大切にしたかった。それ以上は望まない。この空は果てしなく大きくて、僕の生きている世界が余りに小さすぎることを殊更と提示している。この星空はとても美しいが同時に恐ろしいのだ。星の数の悲しみが美しくこの空を被う今宵。星空に向かって手を伸ばす。そして、僕の意識はこの空の星と少しずつ重なっていんだ。
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