第1話

文字数 1,922文字

15歳の冬、親友だった市子ちゃんが死んだ。自宅の鴨居で首を吊って。
暖かい部屋で蜜柑を食べながら、私は、それを聞いた。
私は葬式に行きたくないと駄々をこねて、駄々をこねて―半ば引きずられるように、お父さんに連れて行かれた。
市子ちゃんは棺の中で静かに眠っていた。私が生きている市子ちゃんを見たのは、2年前が最後だ。その時、市子ちゃんは疲れた顔で、茄子とキュウリを買っていた。当時、私達は既に言葉を交わす関係ではなくなっていた。だから、私の知る市子ちゃんは、今、棺の中に横たわる彼女より、ずっと幼い。
死んでしまった市子ちゃんは、雪のように白くて、市子ちゃんによく似たフィギュアのようだった。
葬儀場には大勢の同級生が居たけれど、泣いている子は1人も居なかった。
市子ちゃんは、もう、皆の記憶の中で過去の人だったのだ。
―やっぱり、市子ちゃんの親友は私だけだった。
静かに手を合わせながら、私は心底、ほっとしていた。
親友だった彼女が、居なくなった事に。

初めて市子ちゃんと出会ったのは、小学校の入学式だ。
1学年1クラスしか無い小さな小学校。市子ちゃんの苗字は一ノ瀬で、私の苗字は青木だったから、私達は自然と一緒に行動するようになった。掃除当番も日直も、私の隣は、いつも市子ちゃんだった。
市子ちゃんは時々、口の悪い男子から「一ノ瀬市子って、いちだらけで変なの」と揶揄われていたけど、「いち並びで縁起が良いでしょ。私のいちは、一番のいちなんだよ」と言い返していた。
実際、市子ちゃんは勉強も運動も一番の、素敵な女の子だった。
あの頃、市子ちゃんと仲良くなりたい女の子は、沢山いた。私が市子ちゃんの親友になれたのは、出席番号が隣同士だったからで、私は自分の苗字に感謝していた。
けれど、5年生の夏、私は市子ちゃんに決して話せない秘密が出来た。
優しい市子ちゃん。だけど、私がした事を知れば、彼女は絶対に私を許さなかっただろう。
その人に会ったのは、市子ちゃんが委員会で居残りになって、珍しく私が1人で小学校を出た日だった。
「あなた、市子のお友達よね?今すぐ、市子をここに呼んできてほしいの」
市子ちゃんのお母さんだと名乗るその人は、そう言って、私に声をかけてきた。
どうして自分で行かないのかと戸惑いつつも、私は頷いた。
小学校に引き返すと、ちょうど、市子ちゃんが校門から出て来るところだった。
「あれっ。待っててくれたの?先に帰ったんだと思ってた」
「あのね、市子ちゃん、さっきね―」
「ねえ、今から公園、行かない?ちょっとだけ遊んで帰ろうよ。って、今、何か言おうとした?」
「……ううん。何でもない」
公園は、あの人が待っているのとは逆方向だった。私と市子ちゃんは手をつないで公園まで行って、夕暮れまで2人で遊んだ。市子ちゃんは屈託なく、はしゃいでいたけれど、私は内心、後ろめたさに押し潰されそうだった。
言い訳をすれば、最初から伝えないつもりだったんじゃない。ただ私は、不意に怖くなったのだ。
市子ちゃんのお母さんが、すごく真剣な様子で、大きなカバンを持っていたから。思いつめた暗い瞳が、何だか、とっても不吉で、今ここで市子ちゃんを行かせてしまったら2度と戻って来ない予感がしたから。
だから、私は、市子ちゃんのお母さんの伝言を、市子ちゃんに伝えなかった。それが、市子ちゃんにとって大切な伝言だと気付きながら。市子ちゃんの親友の座を、どうしても失いたくなくて。
市子ちゃんのお母さんが失踪したそうだと、次の日、私は母から聞かされた。
お母さんが居なくなってからの市子ちゃんは暗くなって、喋らなくなった。ただ1度、男子に「捨てられっ子」と言われた時だけは、顔を真っ赤にして掴みかかっていた。
勿論、私は市子ちゃんを支えようとした。だけど、市子ちゃんは私を含む誰からも距離を置くようになり、やがて小学校にも来なくなった。気位の高い市子ちゃんは、同情や好奇の眼差しで見られるのに耐えられなかったのだろう。
私は、とても寂しかったけれど、月日が経つ内、市子ちゃんの居ない日々に少しずつ慣れていった。
中学生になる頃には、私の世界は市子ちゃんだけではなくなっていた。彼女は、もう、私の憧れた女の子ではなかった。

可哀想な市子ちゃん。彼女は、きっと最後まで本当の事を知らなかった。
あの時、市子ちゃんのお母さんはあの場所で、どれだけの間、娘が来ると信じて待っていたのだろう。
他の保護者や先生に問い質されるのを恐れて、自分では迎えに行けなかった人。
親友だった彼女の弔いは、とうに済んで、今ここに眠るのは、ただの市子ちゃんだけど。
少しの寂しさと、私を告発する者が居なくなった安堵を感じながら、私は市子ちゃんの遺影に頭を下げた。
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