第1話

文字数 1,997文字

  彼女は、いつも真夜中にうちのコンビニやってきて、必ずラスクを買っていく。そのため、バイトのクルーの間では「ラスクさん」と密かに呼ばれている。
「いらっしゃいませ。温めますか?」
 俺の問いかけに、ラスクさんが「結構です。ありがとう」と答えた。零時を回ってからの来店だというのに、ラスクさんはどんなときもピシッとしたパンツスーツを着ている。一体、どんな仕事をしている人なんだろう。俺は余計なことを考えつつ、パスタとラスクを袋に詰めた。
 コンビニ店員をしていると、実に色々なお客さんに会う。良い人もいれば嫌な人もいて、常連さんのことは大抵覚えている。ラスクさんは、良いお客さんだった。蛍光灯の下、スーツ姿の彼女を、レジを挟んで迎えるとき、俺はなんだか安心する。会計を終えて袋を渡すと、いつも「ありがとう」と言ってくれるラスクさん。色恋の類いではないけれど、例えるなら雨上がりに虹を見たときのような、そんな気持ちを彼女はくれる。

 最初は、小さな変化だった。いつもは「ありがとう」と言ってくれるラスクさんが、軽く頭を下げるだけになったのが始まりだ。店に彼女が来るようになって、三年目くらいだったと思う。その頃の彼女は、真夜中であることを差し引いても、いつも疲れているように見えた。
「大丈夫ですか?」
 そう訊けたら良いのだけれど、女性のお客様を相手になれなれしい接客は厳禁だ。俺は、心配になりつつレジを打った。ラスクさんの買い物には、エナジードリンクやカフェインドリンクが大量に加わるようになった。
 そのうち、ラスクさんの様子はますますおかしくなっていた。あんなに溌剌としていたのに、暗い表情で、目の下に隈を作るようになった。髪も、前は綺麗に整えていたのに今ではすっかりなおざりといった様子で、適当に束ねるだけ、しかもボサボサだった。
「病気なんじゃねーの?」
 先輩クルーは彼女の様子を見てそう言った。俺もそれは思っていた。ラスクさんは具合が悪いのかもしれない。でも、彼女に「病院に行った方がいいんじゃない」とは言えない。俺はただのコンビニ店員で、彼女とは赤の他人なのだから。
 その後も、ラスクさんは、どんどんやつれていった。それと共に、異常なほどラスクを買うようになった。うちの店ではコロコロラスクという、キューブ型にパンを切ったシュガーラスクを置いている。それを、彼女は一度に三つも四つも買うようになった。カロリーでいったら、それだけでゆうに千キロカロリーを超える。それを、彼女はほぼ毎日買うようになった。
「あの人、やべえよ。怖すぎ」
 最近入ってきた新人クルーがそう噂をするようになった。俺は、最初の頃のラスクさんを知っているだけに複雑な気持ちだった。

 そんなある夜、ラスクさんがまた来店した。彼女は鬼気迫る顔で籠を取り、バサバサとラスクの袋を五つ突っ込むと、レジカウンターにドスンと置いた。俺がレジを打っている間も、まるで親の敵みたいにレジを通されるラスクを睨んでいる。
 本当にどうしちゃったんだろう。訊けないのがもどかしい。でも、コンビニ店員に顔を覚えられていると分かると、来なくなってしまう人が一定数いる。俺たち店員とお客さんは、たとえ毎日顔を合わせていても知り合いにすらなれない。
 ラスクさん、ちゃんと食べているのかな。
 俺は山ほどのラスクを見て怖くなる。最近のラスクさんはいよいよ顔色が悪くなっていて、髪も洗っていないのか、ねっとりと脂気を帯びていた。彼女が店に来るようになった頃の、爽やかな姿を知っているだけに俺は勝手に悲しくなる。
「あの!」
 だから、そんなことをしたのかもしれない。俺はおつりを受け取って去ろうとする彼女を呼び止めた。そして、肉まんケースからまだ唯一残っていたカレーまんを出すと、包みに入れて渡した。ラスクさんはびっくりしていたけれど、いらないとは言わなかった。
「もうすぐ廃棄なので早めに食べて下さい」
 俺がそう言うと、彼女は微かに笑って「ありがとうございます」と言った。

 彼女が次に来店したのは半年後だった。俺はその日、たまたま昼のシフトに入っていた。春も終わり頃で、よく晴れた日だった。
「宅配便いいですか?」
 最初は彼女だと分からなかった。ラスクさんは私服で、頬は薔薇色に戻っていた。彼女は段ボール箱を三つ、車で持ち込んでいた。それを運ぶのを手伝いながら、俺は「お久しぶりですね」と、どうにか言った。
「私、故郷に帰るんです」
 控えの伝票を受け取りながら、彼女はそう言った。仕事は辞めたとも。送り先は全て同じ、遠い雪国の住所だった。
「ここのお店、好きでした」
 別れ際のラスクさんの言葉に、俺は胸のつかえが取れる思いだった。
「お元気で」
 そう言うしかなかった。俺たちはあくまで他人だから。けれど、俺は彼女が元気になって良かったな、と心から思う。こんな縁が、ここにはある。

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