全一話

文字数 3,355文字

 讃岐国、屋島。
 風が入れ替わる夕凪の時刻になると、瀬戸の海は一気に蒸し暑くなる。しかし、その暑さは少しだけ、都を思い出させてくれた。

「もう、目の前だったのに……」

 海に臨む小さな館の簀子に座った資盛は、遠くに浮かぶ島々を眺めてひとりごちた。いまはただ、都の暑さすらも懐かしい。

 昨年の秋に都落ちをした平家が、福原(神戸)まで勢力を盛り返したのは、今年のはじめ。やっと都へ帰ることができると、みなが胸を躍らせていた。

 それなのに──

 資盛は失った命の数の多さに、ぎりぎりと奥歯を噛みしめた。つい力の入った指先が、広げていた薄様を引っ掻く。
 その乾いた手ざわりに、資盛は我にかえった。書きかけていた手紙の墨は、すっかり乾いている。

「──ああ、いけない。粗相をしては、右京に叱られてしまう」

 拗ねるように怒る恋人の顔を思い出して、資盛はとろけるように目尻を下げた。

 彼女からの手紙が届いたのは、つい先日のこと。都落ちの後、こちらから一度だけ手紙を届けさせたことがある。けれど、返す伝手もないであろう彼女からの返事は、まるで期待していなかった。

 それだけに、久しぶりに目にした恋人のやわらかな手蹟や、鼻の奥までくすぐる懐かしい薫物の香りに、資盛は恋に落ちた瞬間のような鮮烈な悦びを感じた。

 会いたい。会いたい。会いたくてたまらない。

「右京……きみに会いたいよ」

 資盛が声を絞りだすと、弾けるような若い笑い声がふたつ、背後で響いた。

「なーにが『きみに会いたいよ』だよ。乙女か? 乙女だな?」
「兄上はほんとうに、右京大夫どのがお好きなんですね」

 肩を並べてニヤニヤとするふたりに、資盛は顔から火を噴いた。

「行盛! 有盛! またおれをいじりに来たのかよ!」
「いじるだなんて、とんでもない。オレたちの資盛を愛でていただけだよ。な?」

 そっくり返って悪びれずに言う従兄の行盛の隣で、弟の有盛が大きくうなずいている。お互い二十代になっても、幼いころからの構図は変わらない。

「め、愛でなくていい! それに『オレたちの』ってなんだよ。オレたちのって!」
「え、イヤなの? オレも有盛も、資盛のこと大好きなんだけど」

 やはり当たり前の顔で言う行盛と、笑顔でうなずく有盛に、資盛はエサを求める金魚のように口をぱくぱくとさせた。
 それから視線をあらぬ方向へ泳がせて、ぼそりと言った。

「…………おれも好きだよ。おまえらのこと」

 すっかり仏頂面で、でもそれは心からの言葉だった。

 昨年の秋に弟が、この春には兄が入水して命を絶った。ふたりとも戦線を離脱して自死しており、遺された資盛たちは平家一門の中で微妙な立場にある。

 資盛の父は、早くに父を亡くした行盛の親代わりとなっていたので、彼らは兄弟も同然に育った。その資盛の父も都落ち以前に亡くなり、いまや兄弟たちを庇護する者はおらず、彼らの絆は深まるばかりだった。

(そうだよ、おれにはもう、こいつらしかいないんだ)

 資盛はただよわせたままの視線を、ふたたび海へ向けた。その先には福原があり、さらには都がある。狂おしいまでに恋しく、麗しい都が。

(……帰りたい。右京に会いたい)

 またも都への郷愁に溺れそうになった資盛を釣り上げるように、ふたりが嬉々として書きかけの手紙を読み上げはじめた。

「今はただ身の上も今日明日のことなれば──なんだよこれ、遺書みたいだな」
「兄上までぼくを置いていく気ですか? それはいやだなぁ」

 大切な恋人への手紙を無遠慮にのぞきこまれ、資盛はふたたび耳まで真っ赤にして抗議した。

「やめろよ! おまえら、悪趣味だぞ。──あ、恋文が羨ましいんだろ、そうなんだな?」
「いや、べつに。資盛をおちょくりたいだけ」

 渾身の反撃にも、行盛は涼しい顔で言ってのける。資盛は憤慨したように鼻を鳴らして、ぷいと横をむいた。相手にすると、いっそう絡んできそうだ。
 ふたりには構わず、手紙の続きを書こうと資盛が姿勢を正すと、弟の有盛が不安そうにそばへ寄ってきた。

「ねえ、兄上。兄上は、どこへも行きませんよね?」
「──行かないさ。いまは、おれが小松家の惣領だからな」

 資盛の言葉に、有盛がほっと表情をくずした。

 都落ちに同行した兄弟は六人。ふたりは自死し、ひとりは陣抜けをしてのち行方が知れず、いまひとりは一ノ谷で討たれている。
 いまや小松家の兄弟は、資盛と有盛しか残されていなかった。

「おれは、兄上たちと同じ道は選ばない。一門のなかで孤立したとしても、父上が遺してくださった小松家を守ってみせるよ」

 少しの迷いも感じさせずに言い切った資盛に、行盛がにじり寄ってきた。

「ふうん……小松家のために生きるってこと? ほんとうに?」
「なんだよ、嘘じゃないぞ」
「ほんとうは?」

 ちらちらと資盛の手もとにある手紙を見ながら、行盛はじっとりとした目で問いかけてくる。うっかり相手にしてしまったことを、資盛は悔んだ。

「兄上、ほんとうは?」

 有盛まで行盛に便乗し、ふたりの視線に資盛は降参した。

「ああ、もう! そうだよ! おれは右京のために生きていたいんだよ!」
「正直でよろしい。だったら、そのまま手紙に書いてやればいいのに。今日明日のことなれば──なんて言わずにさ」

 至極当たり前の提案に、資盛は口ごもった。そして目もとをうっすらと赤く染めて告白した。

「だって、カッコつけたいじゃん。死にたくない、右京に会いたいなんて、そんなみっともないこと、言えないよ。おれはちゃんと覚悟を決めてるってとこを見せたいんだよ」
「つまんねー意地張ってんなあ」
「兄上、かわいいです。右京大夫どのも、そういうところがお好きなんでしょうねえ」
「だーっ! おまえら、出ていけ! 七夕の夜くらい、ゆっくり感傷に浸らせてくれよ!」

 なかば泣きそうな顔で喚いた資盛に、行盛と有盛は「しょうがないなあ」と肩をすくめながらその場を去った。

 静寂が訪れて、資盛は息をつく。気がつけば夕凪は海へ向かう風に変わり、館の空気を入れ替えていた。

 涼を求めて庭へ降りると、資盛は七夕の空を見上げた。薄紫の空に浮かぶ星たちは、お互いを呼びあうかのように、慎ましやかに小さく瞬いている。

(おまえたちがうらやましいよ。呼び交わす相手がそこにいるんだから)

 資盛は恨めしげにため息をついた。

 一年に一度しか会うことを許されない牽牛と織姫を、あのころは哀れなことだと気の毒に思っていた。それがどうだ。いまでは一年に一度でも逢瀬の叶うふたりが、うらやましくて仕方がない。

 彼女と過ごした夏の宵、雪の朝、四季の庭。
 耳の奥に残る甘い声も、指に絡みつく長い髪も、すべてを許す柔らかな肌も、なにもかもが遠い記憶になっていた。

(捕虜になれば……なんて考えたこともあったんだよ、右京)

 一ノ谷で捕虜になった叔父が、衆目に晒されるように都大路を渡されたと聞いたとき、もしそれが自分なら、彼女はかならず来てくれるだろうと思った。

 一瞬でも視線を交わすことができるかもしれない、もしかすると、ひと言なりとも言葉を交わすことだってできるかもしれない──そう考えると、落ち着かない気持ちになった。

 でも、彼女に自分の惨めな姿を見せることは、やはり耐えがたいと思い直した。

(とにかく、生きて都へ帰ること。そして、右京に会いに行く──それだけが、おれの願いなんだ)

 福原では大敗を喫したけれど、平家はまだ諦めていない。もちろん、資盛も。

(おれたちは、よく耐えている。みんな、都に帰りたい一心なんだ。だから、おれは逃げない。どんな結果になっても、右京に胸を張ることができるような自分でいたい)

 きっと彼女も、今夜は自分を思い出してくれているはずだ。この瞬間にも、おなじ夜空を見あげているかもしれない。それだけで、いまでも彼女とつながっていると思える。

「──だから、手紙では弱音を吐かないよ。おれの強がりなんて、右京にはお見通しかもしれないけど」

 資盛は、簀子の文机に広げた薄様を見やった。かすかに風をはらんで揺れる薄様は、まるで彼女が手招きをしているように見える。

「ああ、ごめん。続きを書かないとね」

 資盛は簀子へ腰かけ、薄様をそっと指先で撫でつけた。

「さあ、今夜はずっと、きみを思って手紙を書くよ」

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