君を乗せて

文字数 1,998文字

「ブレーキってどれですか」
「……そんな事もわからないで来たんですか」
助手席の自動車学校の教官の小林はそうって眼鏡を押し上げた。しかし未来子は負けなかった。
「それがわからないから私は免許を取りに来てるんです」
「右足のそれです」
小林の指示通りにエンジンをかけた未来子は自動車教習所のコースを走り出した。
「君は運転した事があるだろう」
「ブレーキも知らないのにあるわけないです」
そうして軽く一周した未来子は担当の小林に挨拶をして家路についた。

同じ自動車学校に通った母と妹は、姉の教官を気にしていた。
「ずるい!私の時なんて意地悪な山田だよ?」
「お母さんも山田先生だった。でも小林先生は気難しい先生だよ」
「あれで?ま、いいか」
こうして未来子はマニュアル車での運転が始まった。
「先生。質問ですけど」
「なんですか」
コースを走る未来子は彼にギアチェンジのタイミングを聞いていた。
「スタートで一速。そしてすぐに二速になるでしょ」
「そうですね」
実際にやりながら話す未来子の手元を彼はみていた。
「そして三速……!でも先生?四速になる前にすぐに赤信号なんですけど」
こんな未来子を彼はジロとみた。
「一般道路で四速は使わない。それは高速道路くらいだ」
「そーなんですか」
こんな未来子はギアチェンジの時に手に力が入り車が左に行ってしまう危険な癖を小林は指摘した。
「君は手に力が入り過ぎるんだ。もっと抜きなさい」
「じゃ、それでやってみます」
コースは青信号。未来子は一速でスタートし、力を抜いてギアをチェンジした。
「あれ?」
「何をしているんだ」
「あはは。四速に入ってる」
「一速から四速に?どうやったんだ……」
未来子は二速と三速のギアを吹っ飛ばし、四速に繋いで走ってしまった。
この日。小林は怖い顔をしていたが、ハンコを押してくれた。
こんな彼女はあっという間に仮免許を取り、小林と路上教習をしていた。
「平日の昼間だが。君は仕事は」
「介護ですけど」
父を亡くした未来子はしばらく休暇を取っており、この間に通っていると言った。
「ところで先生って、いつも疲れてますけど。そんなに大変なんですか」
「……そんなに疲れて見えるのか、実は」
独身の彼は母の介護をしていると言った。これに未来子は助言をした。
「私の勤務先はこれから施設を増やすんですよ。頼めば入居できますよ」
「そんな甘えるわけには」
「いいんですよ」
免許とは関係ないと未来子は小林のケアマネージャーへ渡すように名刺を渡した。
こんな順調の教習だったが、未来子は一度だけ女教官と高速道路教習を受けた。
「あなたね。あんまり小林先生を困らせないでね」
「え?私、何かしたんですか」
「……とにかく。大人しく免許を取ってください」
心当たりといえば、小林は未来子のために教習のスケジュールを無理して組んでいる気配はあった。これは介護のお礼に彼が無理をしていると思った未来子は、これ以降、真面目にこなして免許を取った。
「お姉ちゃん。免許取ったの元気ないね」
「別に。あ」
そこには小林から相談のメッセージがあった。明日は休みの小林は相談のために未来子の家に夕刻。車でやって来た。
仕事に復帰予定の未来子は彼を介護施設に案内した。彼の気に入った様子に胸を撫で下ろした未来子はお金の話やお得な市の助成の話をしていた時、小林に恋人がいないと知った。すると小林は未来子は運転しているのか聞いて来た。
「まだです。だって車がないもの」
「買うのか」
中古車を買う予定だと話す未来子に、彼はクルマ選びに付き合いたいと言い出した。
「初心者だし。うちの自動車学校から事故を起こす人が多いと困るしな」
「そう、ですね」
優しさではなく、介護のお礼と仕事の名誉だとはっきり言う小林の言葉は未来子には寂しかった。この夜は別れた二人は、その後、介護施設で会うようになった。
この日。彼は母が乗っていた車を譲ると言い出した。
「いくらですか」
「要らないよ」
「そんなわけには」
すると話を聞いていた老齢の母は真顔を見せた。
「先生。夫婦喧嘩はよくないですよ」
「母さん?!」
「だめ。静かに」
二人を医師と看護師と思っている小林の母は息子を叱った。
「先生の好きな人なんでしょう?優しく、ほら、手を繋いで」
手を繋ぐと彼女は嬉しそうにしていた。
「なあ。未来子君」
「何ですか」
「母の言う通りなんだ」
彼は恥ずかしそうに頭をかいた。彼は一緒にドライブに行こうと誘ってくれた。

「車間を取って」
「わかってます」
この日。二人は海岸までドライブに来ていた。運転手の未来子は彼に微笑んだ。
「帰りは達也さんが運転ね」
「練習にならないぞ」
「また来ればいいじゃん、ね?」
青い空、白い雲。二人の恋は始まっていた。








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