第1話

文字数 4,204文字

 忘れられない旅がある。
 それは平成27年に北陸新幹線が開通した折、とある懸賞で当選した二泊三日の金沢・能登への旅だ。
 旅の内容は私にとっては「本当にいいのか!?」と思うくらい豪華なもので、新幹線は往復グリーン車、宿泊は駅前にある高級ホテル、二泊目はあの高名な加賀屋旅館、しかも特別室へのご招待というものであった。
 思いがけず生まれて初めての石川は金沢への、豪華旅行の始まりとなった。

 当日はまだ見ぬ石川の地を思い旅への期待を膨らませながら東京駅から出発、走り出して一年も経たないぴかぴかの(私にはそう見えた)かがやきに乗り込んでいざ金沢へ!
 グリーン車の座席の乗り心地が良く爆睡してしまったため残念ながら車窓の景色はほとんど記憶にないのだが(しかしトンネルが多かったような気もする)到着して駅のホームに降り立った時のことは鮮明に覚えている。
 未知の土地に来たという静かな興奮!
 まずは駅名表示の看板の近くで記念撮影をした。旅行に来たぞという感じが伝わるいい写真が撮れて、胸の高鳴りをおさえることもなくうきうきと改札を出た。

 着いた当日の金沢は生憎の雨であった。
 その日はまずホテルに荷物を預けてラウンジで軽く腹ごしらえをしてから東茶屋街へと向かった。古くからのお茶屋が並ぶ街並みで、通りに入るとまるで違う時代にきてしまったかのように感じられる。
 その頃のお天気模様はしとしと降りというレベルの雨ではなく悲しいくらいの土砂降りだったが、それもまたよしと感じさせるようなしっとりとしたお茶屋の風情であった。
 周辺には民家が建ち並ぶエリアでも石畳の道になっているところがあった。特段ガイドブックに載っているわけではないのだが何となくお散歩したこうした路地裏が私にとってはとても魅力的だった。細い石畳の階段を降りたりしていると気分はまるで物語の主人公である。いいなあ、こういうところ、住んでみたい。そう思いながら街並みを後にした。
 その後は金沢駅で銘菓を物色し夜用のおやつを手に入れ、夕飯にはホテルのレストランでお寿司をいただき北陸の海の幸を堪能した。
 このとき大将は一生懸命魚の説明をしてくださったのだがいかんせん珍しく聞きなれない響きが多くて今となっては全然名前を覚えていない。大将、ごめんなさい。でもお寿司は美味しかったです。それは絶対に間違いない。勧めるまでもないのかもしれないけれど、生魚さえ苦手でなければどなたさまにも北陸を訪ねた折にはぜひお寿司を味わっていただきたい。

 二日目は雨も上がり素晴らしい観光日和であった。
 この日は午後の特急で能登へと向かうため朝早くからの行動となった。目的地に向かう途中にバスで通りかかった近江町市場の入り口は大変な人で賑わっていた。残念ながら今回の旅ではスケジュールの折り合いがつかず行くことが叶わなかったが、いずれ訪ねてみたい場所の一つである。
 美味しいものがたくさんあるんだろうなあ…とやや後ろ髪をひかれながら到着したのは四高記念文化交流館だ。かつては旧制高等学校だった建物で、完全に私の趣味で訪ねたのだが、展示には当時の青春の面影がたくさん詰まっており大大大満足の内容であった。
 途中、椅子に座った老婆が映像にあわせて唱歌などをずっと歌っていたのが印象的だった。もしかしたら、知り合いが映っていたのかもしれない。
 さてそのあとはバスに乗り金沢駅に向かったのだがこれが大失敗だった。不慣れな土地で渋滞などの感覚が分からず思ったよりも道中時間がかかったのだ。駅に到着した時には何と発車五分前だった。しかし特急に乗るためには少し離れたところにあるコインロッカーに迷わずたどり着き荷物を出さなくてはならない。果たして乗れるのか!?無事に能登まで辿り着けるのか!?
 自慢ではないが私はインドア派のわりに俊足である。学生時代は常にリレーの選手を務めていた。
 バスを降りた瞬間私は走った。荷物を取り出すべく母を後ろに残して。(同行していました)
 荷物を出したところで残り1分。後からついてきて足踏みして私を待っている母の横をすり抜けキャリーケースを2つ持って私は走った。キャリーケースを渡す余裕もなかった。
 階段を駆け上り、通路を走ってまた階段…万事休す、発車のベルが鳴っている。
 駅員さんが私のほうを見て階段の下から何やらホームに向かって合図している。何と我々二人のために(多分時間にして数十秒だと思うのだが)わざわざ特急のドアを開けて待っていてくれたのだ。
 駅員さんの優しさで無事乗車することができた。金沢の駅員さんなんて優しいの。涙が出そう。あれ?そういえば改札通ってないぞ?
 後から母に聞いた話では私は窓口の駅員さんが呼び止める間も無くダッシュで改札を突破していたそうだ。いまだに何処が改札だったのかさっぱり思い出せない。切符を見せた母は私の方を指差した彼に「あっちです!」と行くべき方向を教えてもらえたらしい。本当に本当に恥ずかしいし今でもありがたかったなあと思っています。
 駅員さんの優しさと寛大さで私たちは無事に能登にたどり着くことができました。(ちなみに特急のなかでは疲労困憊で爆睡)

 さて、能登の加賀屋といえばテレビにもよく出ている超有名旅館である。
 玄関を入ればそこはもう完全な非日常、「加賀屋」という独立した異空間であった。
 まるで一つの街のような造りに私は圧倒された。外界に出なくてもこのなかで暮らせそうである。
 そして案内された部屋に入り、仲居さんに障子を開けてもらったときの感動は忘れられない。
 目の前に大きく広がる日本海の眺めの素晴らしいこと!
 一番窓際にはテーブルが設えてあり、夕飯と朝食はそこで海を眺めながらいただけるのだそうだ。
 ああ、いいんだろうかこんな贅沢を知ってしまって。
 夕飯時、渡された献立表を見てその思いは深まる。こんなにたくさん食べきれるんだろうかというほどの料理名の羅列である。
 食事前の準備運動ならはからずも金沢駅で大運動会並みに行ってきた。胃袋の準備は万端だ。
 料理の詳細を述べるのは長くなりすぎるのでここではやめておくが兎に角盛りだくさんの海の幸オンパレードで、最後の方は「く、苦しい、でも絶対に残さない。だって美味しいから」と半ば無理やり押し込んだ。だって美味しいから。
 なお朝食でも同じことを繰り返した。
 普段朝なんてコーヒーでクッキーを流し込む程度にしか食べないのだから美味なる旅先の料理恐るべしである。
 海が違うと魚も違う。太平洋側の鮮魚に慣れ親しんだ人にこそ味わっていただきたい、日本海の幸であった。
 こう書くと加賀屋では食い倒れしただけなのかと思われそうだがもちろんお風呂も館内探検も楽しんでいる。とにかく広い!楽しい!行こうか迷っている方がいたら是非一度お行きなさいとおすすめしたい。
 そんなこんなであっという間に宿を発つ時間がきてしまった。旅の時間というのはどうしてこう過ぎるのが早いのだろうか。
 しかし楽しみはまだ終わらないのである。
 金沢駅に戻った後、我々はかの有名な兼六園へ向かった。初めて金沢に来たからにはここに行かなければなるまいという私の思いである。
 気候の良い季節とあって兼六園は多くの人で賑わっていた。
 しかしなんとまあこの広さで手入れの行き届いた美しい庭であろうか。たまたま通りかかったタイミングでは水路の中に三人の庭師の方が入り水面の落ち葉を掃除していて、その丁寧さに脱帽した。この地道な作業の積み重ねで兼六園の美しさが保たれているのだろう。
 思う存分庭を散策して堪能した後は、昼食に予約していた料亭を訪ねた。
 古い日本家屋を綺麗に手入れしてあるその料亭は、入り口からして凛とした空気が漂っていた。
 常にない朝食のボリュームでさほどの空腹ではなかったのだがそれでも出てくる料理がどれも美味しく美しいので結局残さず完食した。特に印象に残っているのが食後に出された黒蜜でいただく葛切りで、これが本当に絶品だった。何であんなに美味しかったんだろう。これを食べるためにもう一度金沢に行ってもいいくらいである。
 食後しばらく庭を眺めた後(桜の時期は大層美しいのだと女将さんが教えてくださった)我々はついに帰路につくべく駅へと向かった。
 楽しみに、本当に楽しみにしていた旅が終わってしまう。
 私は旅行中の時間も勿論好きだが出発までの旅を心待ちにする時間も大好きだ。あんなにわくわくしていた旅がもう終わってしまうのか…という寂しさに胸を詰まらせながら駅でお土産を選んだ。
 この駅のお土産販売が充実していて実に楽しい。金沢の主だった銘菓はかなり網羅しているのではないだろうか。新幹線に乗る前にエイヤっとまとめて買いたい身としては大変ありがたかった。

 帰りは再びの北陸新幹線グリーン車である。
 旅の余韻に浸りながら爆睡、気がつくと東京駅に近くなっていた。時間にして約二時間半、日本海側の石川県も身近になったものだ。
 そうして東京駅のホームに降り立ち、豪華で楽しかった私の金沢・能登旅行は終わった。

 今回の旅で何をしていたのかというと、食べてばっかりじゃないかというお声が聞こえてきそうである。もちろんたくさん食べたのだけれど、ここには書ききれなかっただけでほかにも途中で立ち寄ったお店やたまたま通りかかった街並み、素敵なスイーツ屋さんなど多くの魅力ある出会いがあった。
 それから、金沢駅の駅員さんをはじめ土地の方の優しさに触れられた旅でもあった。居心地がいいと感じたのは矢張り人の優しさが作る空気に包まれる機会が多かったからだろう。
 そして歴史の長い街には、一度では味わいきれない奥深さがある。現在の私はやっと一歳になった息子の子育てに日々奮闘中だ。そう簡単に金沢まで旅行に行くことはできないが、何年か後には家族旅行で行けたらいいなと思っている。きっとまた違う楽しみがあり、違う魅力に気づくことができるだろう。
 さらには何十年後かにでも、一人気ままに訪ねてみたい。きっとその頃にもこの街は旅人を優しく迎え入れてくれ、再び忘れられない旅の思い出を作ることができるだろう。
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