あとすこしだけ

文字数 1,061文字

 部屋のノブが回る。ドアが開く。
 シンデレラの魔法はとうに解けてしまった時間。今夜も。
「おかえり」
 俺はりんごの皮を剥きながら顔を上げずにつぶやく。
「先に寝てろって言ってるだろ、いつも」
 そうだね、でも眠れない。
 繰り返されるオウムのようなやり取り。
 毎度午前様のあんたを待つ俺。
 寂しいと拗ねてみせる時期はとうの昔に過ぎた。身にしみてわかってる。

 一人寝が苦手だ。昔から、どうしても。眠りは死への入り口って言うだろう。
 目が覚めた時にひとりぼっち、捨てられた子どもの頃の記憶。拭い去ることはできない。
 あんな気持ちだけは味わいたくない。もう二度と。
 5年。
 そう5年もの間、俺は12歳年上のこの男の「おまえだけだ」ということばに絆され鵜呑みにし、しがみついてきた脳天気野郎だ。
 父親の匂いを無意識のうちに嗅ぎとろうとしていたのかもしれない。
 人の繋がりそのものに飢えていた俺と若芽新芽食いの遊び人。
 時間がたつにつれ温度差が開いていく互いの熱。
 朝帰りされたときはいつも、部屋に入るなり口を塞がれ舌ごと噛みちぎられるようなキス、延々と繰り返された。
 喉元まで出かかった言葉は余さず封じられ、他の男の匂いのしみついた体に組み敷かれ、悔しさで破裂しそうな脳ミソがぐらぐらと煮え立つ。
 なのに抱きすくめられ耳を舐られ背中をなでられるだけで呆気なくすべての力が抜けた。
 すかさず体の奥深くまで男の芯をねじ込まれ高く突き上げられれば涙を流して何度でも果てる淫乱息子、それが俺だ。
 からっぽのままごとみたいな同居生活。
 夜毎繰り広げられる汗と精液にまみれたシーツの上の狂宴。
 この砂上の楼閣こそが俺たちに許された唯一無二の。
 俺は醒めたくなかったんだ。
 じりじりと追われるようなこの腐りかけの甘ったるい眩暈から。
 ずきずきと疼く傷口に塩を塗りこめるしょっぱい夢の狭間から。
 もうすこし、あとすこしだけ──

「なあ」
「うん」
 ここ出てくわ。下に待たせてるヤツいるから。じゃ。
 りんごの皮を剥く手を止め俺はゆっくりと顔を上げる。
 瞬時にそらされた視線、あっけなさすぎる幕切れ。
 俺が彼の視界に入ることはもう二度とないのだろう。
 俺も。
 あんたを待ってたよ、いつも。
 今のいままで、ずっと。

 ねえ。
 行きかけた背中が訝しげに振り向く。
「アトスコシダケ」
 待って。つぶやきながら頭上高く振りかざしたナイフが天井照明の灯を受け俺の手の中でギラリと反射する、その刃に映ったのは──
  
 出会った頃の、ふざけて肩車し合ってたあんたと俺の笑い顔。






 
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