第1話

文字数 1,549文字

 人は子供の頃に得られなかったものに一生執着してしまうらしい。

「葵、あんた、しっかりしな。いくら辛くても死んだらダメよ!」

 一人暮らしのワンルームアパートに、六十歳ほどの女性がいる。テーブルの上には、卓上コンロに土鍋。中身はちゃんこ。鳥肉、人参、ネギ、ニラなどの野菜が彩りよく盛り付けられていた。

 鍋からは淡い湯気と煮詰まる音。

 くつくつくつくつ……。
 
 まるで笑っているような音だった。

「うん、母さん。私、頑張ってみるよ」
「よしよし、葵はいい子だね。さあ、鍋を食べましょう」

 女性はそう言って、小鉢にちゃんこをよそい、私に渡す。

 こんな風に二人で鍋を食べているが、この女性は私の母ではない。母親代行サービスを使い、演じてもらっているのだった。

 確かに演技上手。望んでいた温かな母親に会っているようで、涙がでそう。今日はエプロン姿でパンチパーマの女性だが、次は割烹着姿のお母さんをリクエストしようかと思う。母親代行サービスは、容姿指定もできる。

 実際の母は娘への愛情は薄かった。仕事は公務員で忙しかったが、過保護の面もあり、進路や就職も全部決められた。いわゆる毒親だ。毒親というと専業主婦のイメージもあるかもしれないが、個人的にそれは関係ないと思う。

 食卓は冷凍食品か惣菜が多かったが、たまに凝ったシチューなどを作られて圧が強かった。おそらく罪悪感が動機でやっている行為なので、素直に喜べない。そもそも母は作ったものを腐らせる事も多く、父も私もよくお腹を壊していたので、冷凍食品か惣菜の方が有難いのだが。家にある麦茶も何かマリモっぽいものが浮いてる事が常だった。私が麦茶を作っても何故かそうなる。

 思春期の時は、ブラジャーも買ってもらえなかった。生理についても教えてくれず、初潮は恥ずかしい目にもあった。母は娘のメスっぽい部分を見るのをことごとく嫌がっていた。過保護と放置される部分もムラがあり、気分も安定していない。掃除も下手で家は汚部屋化し、いつも業者を呼んで何とかしていた。あれはおそらく何かあるっぽい。私も何か受け継いでいると思い、医者に診断して貰った。

 こうして今は医者から診断を受けているのだが、「子供の頃からちゃんとケアを受けていれば……」と後悔されるぐらいだった。ただ、あの母親は「娘がハッタショ」なんて事実は受け入れられないかもしれない。今も母は何も知らずにいるが、そっちの方が幸せだろう。

 私は職場でも浮いていて「子供オバさん」、「あんな痛いオバさんにはなりたくない」と若い子から笑われている事も知っている。上司からも「決して客の前に出るな、話すな」と釘を刺されて、ため息つかれる。

 空気読めない、子供っぽい、人の気持ちがわからない、失敗ばかりの妙な大人に育ってしまい、今は人生詰んでるところ。思えば自分の人生を振り返るとギャグ漫画みたいだが、本人としては全く笑えない。彼氏もできたことはあるが「特級呪物女」と言われ、全く続かない。こっちの方面も全部詰んでいる件。理解ある彼くん一生募集中。

 そして一生得られなかったマトモな母親の愛情を得る為、こんなニセモノまで使っている。

「お母さん、わたし生きていてもいい?」
「当たり前よ。あなたは、自慢の娘じゃないの。死んだらダメよ」

 いくら仕事とはいえ、こんな演技をしなきゃいけない女性が可哀想。頭のどこかは冷静で、そんな事を思う。

「お母さんは葵のことが大好きよ」

 それでも。嘘でもこの言葉が嬉しい。

 鍋のスープが熱くて、舌を火傷しそう。目の前にいるニセモノに甘えて良いのかもよくわからないが。

 くつくつくつくつ……。

 相変わらず鍋は笑い声をあげる。何も嬉しくはないが、二人だけの鍋を楽しむ。子供の頃に得られなかった幸福を噛み締めながら。
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