5 建設計画
文字数 2,565文字
手を握って引っ張る明日香はとても楽しそうだ。ただ、私は左手を低い位置に固定され腰を折ったまま歩かなければならなかった。
ラウンジに着くと、円テーブルに誘拐されてしまった。お昼時で井戸端会議兼ご飯のために来た女性達がじろじろと見るので落ち着かない。壁の中では実験体でも差別されることは無いので、注目はただ髪色が他の人と違うという物珍しさからだろう。またはいつも端にいる私が真ん中にいるからか。
「コーヒーで良いですか? 奢ります」
「良いわよ、私が出すわ。好きな物を買うためにとっておきなさい」
コーヒーとリンゴジュースを頼む。慣れたものでメニューの位置を全暗記していた。
明日香だったか……今まで一度も会ったことがない子だ。ひと月程東京を離れていたり、その前だってほとんど壁の内側にはいなかったから気が付かなかったのだろうか。
それ以前に、この子は実験体なのか、それともただ髪色が奇抜な人間なのか。髪色こそ水色という自然にはなり得ない色だが、どうも染めたわけではなさそうだ。おそらく私と同じく、その色になるように設計されている。しかし首に焼印は無く、実験体にしては明るく元気なのが気になった。
ここがこんな髪色の人を実験体と認識しないとはとても思えない。というのも彼らは人間に少しでも手を加えれば人間としてみることは無いからだ。それに、彼らが髪色を弄るだけで終わるとは到底思えないのである。
「何も入ってませんよ、飲まなくても良いです」
物思いにふける間に運ばれてきたコーヒーに全く手をつけないので、警戒されていると思われたらしい。汚れるわけないのにエプロンに着替えた清掃ロボットがお盆を持って去っていった。
「さっき灰について聞いていましたよね。教えてあげましょうか」
「え、聞いてたの? ……いえ、その前に貴方何者なの、なんで私の名前を知ってるの、どうして呼んだの? 話があるんでしょう」
明日香はまくし立てるように聞く私をぽかんと口を開けて見ていた。
「……ああ! そうでした、自己紹介をしていませんでした」
パチンと両手を合わせ、申し訳なさそうに片目を瞑る。笑う時にできるえくぼがとても無邪気で愛らしい。
「私はI-03 、明日香と呼ばれています。気に入ってるので一葉さんも是非あすか、とお呼びください。えーとそれから、去年の末に生まれ、一年ほど二階の大部屋にいました。今は所長の秘書として働かせていただいてます」
そんなのがいたなんて初耳だったし、そんな重要な仕事をこんな年端もない実験体の少女に任せて大丈夫なのだろうか。ただ、本当だとして秘書がこのタイミングで私に接触する理由なんてひとつしかない。
東京の外に逃げたのがバレたとしか。
「何のつもり!」
椅子をはねのけて立ち上がり腰を落として戦闘態勢に。その様子を驚くように目を開くものの予想していたように落ち着いて見ていた。
「なにもしませんよ、ちょっとお話してみたかっただけです。だって一葉さんってH型のたった一人の生き残りじゃないですか。所長がよく話してくれるんですよ。でも最近は外にいることが多いようですから、チェックの日までずっと楽しみに待ってたんです」
どうやら明日香には私がH型の闘争に勝ち残った英雄のように見えているらしい。クローン同士で殺し合っただけの事件には憧れるような輝かしい話などひとつもないのに、真実を知ったらどんな顔をするだろうか。
「本当にそれだけのために呼んだの」
「ふふ、けーかいしんが強いのは良い事だと思います。ちょっと待ってくださいけんかは良くないです! 一葉さんにとって良い話を持ってきたんで、聞いてほしいんです」
無意識にぐっと力を込めた右手を深呼吸とともに緩め、紙コップに入ったコーヒーに手をつける。この店で温かいものが温かい状態で出てきたことなど一度もない。
「一葉さんはあの壁が嫌い、違いますか?」
「何故それを」
「嫌な顔して見てるのを何度も見たので」
「どこで」
「かんしカメラで……あ」
はっと小さな口を覆うも手遅れ。つまりこの子は私のストーカーをしていたということだ。
「ごめんなさい、やりすぎでした。早く会いたくてつい……でも誰にも言ってませんから」
壁を見ていたのは東京が近づいてからと電車を降りてから、それから今朝だ。東京のことは恐らく光る玉を通して見ていたのだろう。ということは東京に帰って来てからのことは全て覗かれていると考えて間違いないだろう。背中がぞわっとする。この子を子供と思ってなめてはダメだ。東京の外から帰ってきたことも知られているだろう。
血の気が引いて覚醒したように動き出した頭で選択肢を三つ思いついた。
ひとつ、終希を裏切ってここで大人しくする。これは何も知らない終希の元へ殺し損ねたと知った研究者が行くことになるだろう。私のせいで終希が死ぬなんてダメだ。
ふたつ、所長や研究者に告げ口をする前に明日香の口を封じる。いいやこれもだめだ。私の手で人を殺せと言うのか。しかもこんなに幼い少女を。それに明日香は秘書だ。いなくなったらすぐに気がつかれてしまう。ならば……
「私に協力してくれるかしら」
「よかった、そう来ると思ってました」
「え?」
くじの当たりを引いた時のように大喜びして髪をさらさら揺らす。三つ目は明日香を脅してでも無理やりこちらに引き込むことだった。
「ここだけの話、来年の冬に壁を壊してもう少し外側に作り直し、内側の世界を広げる計画があるんです。もしかしたら作りかけの壁を見たかもしれません。今は家の塀で建設予定地をマーキングしているだけなので言われないと分からないと思いますけどね。
それで、私壁を無くしたいんです。せっかく壊して広くするのにもう一度作る必要ないじゃないですか。所長を説得しなければならないんですが、頑固すぎて無理でした……私からもお願いします。壁の建設を止めるのを手伝ってください」
開いた口が塞がらないというのはこういうことか。こんなに都合のいい話が簡単に舞い込んでくるなんて、明日は世界がおかしくなっているかもしれない。これ以上はもう天変地異が起こる以外無いだろう。
「交渉成立ですね!」
明日香の小さな手が私の両手を包んでぶんぶん振った。子供体温を想像していたが、反してとても冷たかった。
ラウンジに着くと、円テーブルに誘拐されてしまった。お昼時で井戸端会議兼ご飯のために来た女性達がじろじろと見るので落ち着かない。壁の中では実験体でも差別されることは無いので、注目はただ髪色が他の人と違うという物珍しさからだろう。またはいつも端にいる私が真ん中にいるからか。
「コーヒーで良いですか? 奢ります」
「良いわよ、私が出すわ。好きな物を買うためにとっておきなさい」
コーヒーとリンゴジュースを頼む。慣れたものでメニューの位置を全暗記していた。
明日香だったか……今まで一度も会ったことがない子だ。ひと月程東京を離れていたり、その前だってほとんど壁の内側にはいなかったから気が付かなかったのだろうか。
それ以前に、この子は実験体なのか、それともただ髪色が奇抜な人間なのか。髪色こそ水色という自然にはなり得ない色だが、どうも染めたわけではなさそうだ。おそらく私と同じく、その色になるように設計されている。しかし首に焼印は無く、実験体にしては明るく元気なのが気になった。
ここがこんな髪色の人を実験体と認識しないとはとても思えない。というのも彼らは人間に少しでも手を加えれば人間としてみることは無いからだ。それに、彼らが髪色を弄るだけで終わるとは到底思えないのである。
「何も入ってませんよ、飲まなくても良いです」
物思いにふける間に運ばれてきたコーヒーに全く手をつけないので、警戒されていると思われたらしい。汚れるわけないのにエプロンに着替えた清掃ロボットがお盆を持って去っていった。
「さっき灰について聞いていましたよね。教えてあげましょうか」
「え、聞いてたの? ……いえ、その前に貴方何者なの、なんで私の名前を知ってるの、どうして呼んだの? 話があるんでしょう」
明日香はまくし立てるように聞く私をぽかんと口を開けて見ていた。
「……ああ! そうでした、自己紹介をしていませんでした」
パチンと両手を合わせ、申し訳なさそうに片目を瞑る。笑う時にできるえくぼがとても無邪気で愛らしい。
「私は
そんなのがいたなんて初耳だったし、そんな重要な仕事をこんな年端もない実験体の少女に任せて大丈夫なのだろうか。ただ、本当だとして秘書がこのタイミングで私に接触する理由なんてひとつしかない。
東京の外に逃げたのがバレたとしか。
「何のつもり!」
椅子をはねのけて立ち上がり腰を落として戦闘態勢に。その様子を驚くように目を開くものの予想していたように落ち着いて見ていた。
「なにもしませんよ、ちょっとお話してみたかっただけです。だって一葉さんってH型のたった一人の生き残りじゃないですか。所長がよく話してくれるんですよ。でも最近は外にいることが多いようですから、チェックの日までずっと楽しみに待ってたんです」
どうやら明日香には私がH型の闘争に勝ち残った英雄のように見えているらしい。クローン同士で殺し合っただけの事件には憧れるような輝かしい話などひとつもないのに、真実を知ったらどんな顔をするだろうか。
「本当にそれだけのために呼んだの」
「ふふ、けーかいしんが強いのは良い事だと思います。ちょっと待ってくださいけんかは良くないです! 一葉さんにとって良い話を持ってきたんで、聞いてほしいんです」
無意識にぐっと力を込めた右手を深呼吸とともに緩め、紙コップに入ったコーヒーに手をつける。この店で温かいものが温かい状態で出てきたことなど一度もない。
「一葉さんはあの壁が嫌い、違いますか?」
「何故それを」
「嫌な顔して見てるのを何度も見たので」
「どこで」
「かんしカメラで……あ」
はっと小さな口を覆うも手遅れ。つまりこの子は私のストーカーをしていたということだ。
「ごめんなさい、やりすぎでした。早く会いたくてつい……でも誰にも言ってませんから」
壁を見ていたのは東京が近づいてからと電車を降りてから、それから今朝だ。東京のことは恐らく光る玉を通して見ていたのだろう。ということは東京に帰って来てからのことは全て覗かれていると考えて間違いないだろう。背中がぞわっとする。この子を子供と思ってなめてはダメだ。東京の外から帰ってきたことも知られているだろう。
血の気が引いて覚醒したように動き出した頭で選択肢を三つ思いついた。
ひとつ、終希を裏切ってここで大人しくする。これは何も知らない終希の元へ殺し損ねたと知った研究者が行くことになるだろう。私のせいで終希が死ぬなんてダメだ。
ふたつ、所長や研究者に告げ口をする前に明日香の口を封じる。いいやこれもだめだ。私の手で人を殺せと言うのか。しかもこんなに幼い少女を。それに明日香は秘書だ。いなくなったらすぐに気がつかれてしまう。ならば……
「私に協力してくれるかしら」
「よかった、そう来ると思ってました」
「え?」
くじの当たりを引いた時のように大喜びして髪をさらさら揺らす。三つ目は明日香を脅してでも無理やりこちらに引き込むことだった。
「ここだけの話、来年の冬に壁を壊してもう少し外側に作り直し、内側の世界を広げる計画があるんです。もしかしたら作りかけの壁を見たかもしれません。今は家の塀で建設予定地をマーキングしているだけなので言われないと分からないと思いますけどね。
それで、私壁を無くしたいんです。せっかく壊して広くするのにもう一度作る必要ないじゃないですか。所長を説得しなければならないんですが、頑固すぎて無理でした……私からもお願いします。壁の建設を止めるのを手伝ってください」
開いた口が塞がらないというのはこういうことか。こんなに都合のいい話が簡単に舞い込んでくるなんて、明日は世界がおかしくなっているかもしれない。これ以上はもう天変地異が起こる以外無いだろう。
「交渉成立ですね!」
明日香の小さな手が私の両手を包んでぶんぶん振った。子供体温を想像していたが、反してとても冷たかった。