Xを求めよ

文字数 1,803文字

「てっ、てぇ、手を上げろぉおお!」
 半ば裏返った叫び声を聞きながら、先週買ったばかりの漫画にも同じ場面があったなと田沼さと子は考えた。創作物でたびたび目にする脅し文句がどれほどの効果を持つかはわからないが大抵は子悪党の台詞として用いられたのち、あっさり叩きのめされる運命を辿るのだ。
 漫画の中ならば気障なキャラクターに一笑に付されて終わり、ドラマの刑事役には「そんなことをして殺されたあの子が喜ぶとでも思っているのか!」と一喝される。けれど目前にいる男は握りしめた包丁を大仰に掲げてオフィス中に怒号を轟かせていた。
「いやだいやだいやだもう……嫌なんだ、こんなの、こんな仕事辞めてやるぅ!」
「あー。あいつ、取引先からパワハラ受けてストレスやばそうだったからなあ」
 隣に佇む上司がつぶやきながら諸手を上げる。
 退勤間際のオフィスには五人ほど残っており、突然の騒動にざわめきが走っている。男はネクタイを窮屈そうに緩めてフロアタイルを踏み鳴らした。白かった肌は西日以上に赤くなり、騒ぐたびに大粒の唾が飛ばされる。
「ほかの部下からも相談されてな、どうしたものかと悩んでいたが……遅かったか」
 上司の顔が沈痛に歪む。男は包丁で空気を切り裂きキャスターのついたホワイトボードを蹴飛ばした。書類ケースに激突してぐるりとまわり、インクがすぐ出なくなると評判のマーカーを振り落とす。
「ほらきみも、手を上げておいたほうがいいんじゃないか」
「手……」
 肘で小突かれたさと子は転がってきたマーカーを弾き返してから、耳の横まで両手を持ち上げた。
「このくらいの高さですかね」
「さあ、どうだろう。僕も初めてだから正直どこまで上げるべきなのか知らないんだ」
 己の指先を眺めて上司が答える。
「これくらい……いや、それだと向こうからは見えないかもしれない。我々の誠意を伝えるためには頭の高さを越える必要があるのではないか」
「高ければ高いほどいいということでしょうか」
「一概に肯定はできないがそういうものじゃないのかね。多分だけど」
 なにせ刃物を持っているからねとつけ加えられ、さと子は小首をかしげた。握られているのはおそらく給湯室にあった包丁だ。給湯室の棚には来客用の羊羹だけでなく、お中元の残りものや社員が土産として買ってきたお菓子などが保管されている。使用頻度が高いため怪我をしないようステンレス製に換えたばかりのはずである。
「あの、係長」
 さと子が告げようとした刹那、腕をつかまれた。薬缶のように熱い掌が強引に彼女を振り向かせる。
「さっきから俺の悪口言ってんだろ! 聞こえてないとでも思ったか! お、おまえらなんてなあっ……!」
「誤解だ柳! 田沼くんは今僕と手の高さについて話し合っていただけで」
「うるさい!」
 肩を強く押されてさと子はたたらを踏んだ。視界いっぱいに男の姿がうつし出される。一昨年入社した彼とは業務連絡を交わす程度の接点しかなく、個人的な会話をする間柄にはならなかった。彼は周囲と目を合わせることなく仕事に埋没するタイプで、さと子もまた雑談を好まなかった。高い背中を常に丸め、おずおずとした物言いはさと子に小動物めいた印象をいだかせている。
「やめろ!」
 焦燥をにじませた上司の制止と包丁の切っ先が邂逅する。血走ったまなこが見開かれる。やはり彼を選んで正解だったとさと子は暗くほくそ笑んだ。
 ぱちり。再生していた動画を止める。
 画面の中で上司と男が凍りついている。
「ああ疲れた。編集はこれくらいで大丈夫かな」
 パソコンのキーを叩く。垂れ下がったケーブルを机に戻して、オフィスチェアから伸びをする。
「綺麗に撮れたなあ、まさかおとなしい柳くんが、あんなことをするなんてね。おかげでわたしもいい仕事ができそう」
 きゅうと鳴いた背もたれから離れ、冷めきったコーヒーを淹れ直しに向かう。電子レンジを開くと夕飯用に温めていたレトルトカレーが鎮座しており、さと子は眉をひそめて額を掻いた。
「忘れてた」
 炊飯器の保温も二時間をすぎている。さと子はげんなりとスイッチを切り、カレーのパックを取り出した。
「ま、仕方ないか、そろそろ寝ないと起きられなくなるし。明日の投稿が楽しみだなあ、みんなどんな顔するのかなあ。ふふふっ、炎上してくれるといいな」
 仕事は楽しくやらなくちゃ。勿論息抜きも。
 さと子は唇を浅く舐めると軽やかにきびすを返していった。
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