第2話

文字数 2,812文字

 というのも、私が引っ越した先がとてもひどい所だった。引っ越し先は母の会社の一階だった。その建物は、道路に面した場所で、築年数もかなり長かったから防音もあまりできていないようなところだった。さらに、私の居住スペースは六畳もないほど狭く、机を置くと布団一枚敷いただけでも床が埋まってしまうほどの広さだった。加えて、会社の社員さんたちのデスクは二回にあったから、毎日知らない人が出入りしていたし、会社のクライアントの人たちも頻繁に訪ねてきた。その後、大学へ入ったときに一人暮らしを始めるのだが、その下宿先は実家の何倍も快適だった。その家で暮らしていたことを考えると今でも少し気分が悪くなりそうになる。結局、そのような家庭の事情は周りの友人には一人も明かせなかったし、学校の教師でさえ知らなかった。だから、昔の広い一軒家に住んでいたころ遊びに来たことのある友人は私がそこに住んでいるものだとずっと思っているのである。
 そして、そんな状況が高校受験にぶち当たって、私は行きたかった高校をあきらめなくてはならなかった。ここで一つ反省すべきだったのは、私がその高校についてもっと前向きに向き合うべきだったということである。私が入学したのは中高一貫制の学校で高入生と内部生との間にいささかの溝のようなものがあったというのと、私がストレスの多い場所に住んでいたことで冷静な思考が出来なかったということがあって、私はその高校に馴染めなかった。というより、馴染もうとしなかった。ただ、クラスメイトとは普通に交流していたし、学校も病気以外の理由で休むことはなかった。もちろん、友人と呼べるような人は少数だがいた。自然科学部という部活の部長もしていた(部員は二人だけだったが)。しかし、日本の高校という所は私にとっては監獄のように感じられる点がいくつかあって、私は少し完璧主義というか神経質のようなところがあったから、やりたくないことは徹底的にするべきではないと考えていたため、二年の冬休み明け辞める旨を担任に伝え、二年の終わりに学校をやめた。学校をやめるときはいろいろな苦労はあったがここでは割愛したい。この時の私の精神状況はやはりあまりまともではなかった。とくに完璧主義的な性格がストレスを増強し、物理的な家庭環境が完全に正常な思考を困難にしていたと、今考えると思う。ただ、これだけは言いたいのは、高校を中退したこと自体は全く後悔していなし、よかったと思っている。問題があったのは、およそその後のことである。
 高校をやめて私はすぐ予備校へ入った。予備校は自由で、私の入ったところは大手の予備校より学費が安かったから、私は満足していた。母もそれ自体はすぐ許してくれたから、その頃の自分はとても希望に満ちていたと思う。しかし、ここで大きな障害となったのはやはりあの劣悪な実家の環境であった。このことは実家を出て一人暮らしをするようになって強く感じたことであり、当時の自分はそれほど実家の家庭環境が実生活に影響しているとは気づいてはいなかった。当然受験ともなれば、模擬試験などを受けるわけだが、試験というものは緊張という負荷がかかるものだ。当時、高い緊張状態が定常状態となっていた私にとって、その緊張は体が耐えられるほどのものではなかったのだろう。高校に入ったころから、私は肩こりと不眠に悩んでいた。そして、時折蕁麻疹を発症していたのだが、病院に行かずにセルフケヤでどうにかしようとしていたため、緊張によって蕁麻疹が悪化するとさらに緊張が激しくなるという悪循環に入り込み、ついには自律神経失調症を患ってしまった。皮膚科へ受診したときにはすでにかなりひどい状態になっていたため県立病院を紹介され、そこで治療を受けることになった。受信は週一回ではあったが、あまりにも薬が効かないために、週に何度も受信を繰り返した。そんなことをしていると、現役時代の受験は失敗に終わった。しかし、もし成功していても最低一年は安静にしなければならなかったから仕方がないと思えた。そして、予備校での一年が始まった。しかし、病状は全くよくならなかった。だから、さらに神経内科にも受診したがあまりよくならず、ついに心療内科を受診した。だから、当時の私は三つのないかを同時に受診しそれぞれから薬を処方されていた。それほど受診する必要があったのかと思われるかもしれないが、結局それぞれでもらった薬がなければ健康体には戻らなかった。ただ、効く薬を探すのにも結構な時間がかかり、最終的に初めから数えると三十種類近くの薬が処方された。そんなことをしていると、すぐに一年がたち、またもや受験はうまくいかなかった。そして、私は十九歳で田舎の小さな大学の土木学科へ進学することになる。
 大学に入った当初、田舎すぎる土地や大学の名前を受け入れることが出来なかったが、一年の第二クオーターが始まるころには、大学生活にもなじみ、すっかり受け入れていた。それはきっと、受験の時のストレスから解放されたことと、月一万九千円の下宿先のアパートがとても快適であったからだろう。一歳年下の同級生と馴染むのにも時間はかかったが、とても誠実な人たちだったから全く苦痛にはならなかった。そして、私は田舎のゆったりとした時間の中に静かに馴染んでいった。それから、またさまざまに事件は起きていくのであるが、私の初期の体験は大体このようなものである。
 その苦しかった初期の歴史の中で常に私のとなりにあったのが意識の問題であった。十五歳の時、私は本屋である本を見つけた。それは、ロジャーペンローズの「皇帝の新しい心」という本なのであるが、この本は人間の意識がどこから発現するのかということを物理学的な視点から論じた本であり、著者のロジャーペンローズは相対論の大家で2020年にノーベル賞に輝いてい。だから、ペンローズが受賞したというニュースは私にとってとても衝撃的だった。その当時、私は意識の問題についてはすでにあまり考えなくなっていたから、ペンローズのこともほとんど忘れていたから、そのニュースは私に十代の頃の様々な記憶を呼び覚ました。正直、私は心脳問題についての議論を受け止めきれるほど賢くない。だから、徐々に自分がこのような問題について考えていても仕方がないと思うようになっていった。しかし、そのような問題がその後の人生の中で確かに重要な視点を与えてくれたことは確かであると思っている。だから、ペンローズの受賞の知らせはとてもうれしかった。
 「意識の問題」、これについて一度は考えてみべきだろうと私は思う。きっと、日々の営みの中において分かれ道にたどり着くとき、小さな手掛かりになるかもしれない。そんな事を考えながら、今曇り空を仰いでいる。
                                    終わり
 
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