第1話

文字数 71,974文字

 出会いとは怖ろしいものです。
 あの出会いがなければ私はあのようなことにはならなかったでしょう。
 ごく平凡で、どこにでもいそうな私が(そのことは認めたくはありませんが)あのようなだいそれたことをしでかすとは誰が予想できたでしょう。

 私は工業高校を卒業して就職しました。本当は大学に進学したかったのですが、そのころ家にお金がなく、まわりから就職をすすめられたからです。
 六つ上の兄は中退ながら大学に行っており、納得はできませんでした。かといって自力で大学に行くほどの骨もなく、半分腐って就職したものです。
 就職先は地元の工場です。印刷工場で、仕事も上司もきつくてすぐやめてしまいました。
 親にはたいへん叱られたのは言うまでもありません。
 それで次の就職先をさがしているうちに、今度は正社員というよりも、とりあえずアルバイトで入ってみようと考えました。
 とにかくやってみないとそのしんどさはわかりません。それに会社内の雰囲気や人間関係など入ってみないとわかりません。
 また正社員になって失敗したと思い、やめるのはしのびありません。
 それにじっさいのところ、就職先をすぐにやめた者にすぐ就職先がみつかるかあやしいものでした。

 とりあえず新聞に入っている求人チラシを見ました。そのなかにいつも行っているコンビニの弁当を作っている工場の求人がありました。時給は安いものの、印刷物をつくるのと違って、食べ物をつくるのは楽しそうに思えました。それに何かと食べれる機会があるかもしれません。もうそれだけでウキウキしました。
 それでその工場に応募することに決めたのです。
 さっそく電話すると翌日面接となり、履歴書を書いて面接に行きました。服装に迷いましたが、アルバイトだし、スーツは着ないまでもダメージジーンズはやめて清潔な服装をこころがけました。
 綺麗で大きな工場の玄関から入り、受付で女性事務員に面接に来たことを告げると近くの椅子に座って待つように言われました。その近くには同じく面接に来たらしい太った中年女性が座っていました。
 その女性はすぐにすぐ近くにあるドアから手招きされて入っていきました。
すこし緊張して待っていると先ほどの女性が出てきました。そしてドアのなかから白いつなぎの服を着て、頭の禿げあがったメガネをかけた人から手招きされました。
部屋内にはその人しかいませんでした。前に座るように言われ座りました。履歴書はときかれ履歴書をわたしました。なにを言われるかヒヤヒヤものでした。
しかし、じーっと履歴書を見られたあとこう聞かれました。
「なにか聞きたいことは?」
「い、いえありません」ととっさに答えました。
「じゃあ明日から来てもらえるかな」
「は? はい」
「八時半からだけど、最初だから早めに八時に来てくれるかな」
「はい」
「ああ、それから昼食になにか持ってくるように。社販でなにかあるかもしれないけどないかもしれないから」
「はい」
「じゃあ、これで」と立ち上がりました。
 私もつられて立ちました。そしてうながされるままに部屋から出ました。
 まさかの即決。あっというまの出来事でした。あれこれ聞かれるのではという心配などしていたことが馬鹿らしいほどでした。
 それに一応工場見学なるものがあるのではないかと思っていただけに意外でした。ことわるつもりは毛頭ありませんでしたが、一応見ておきたかったというのはありました。
 まあ、どっちみち明日見ることになるのですが。
 建物を出て外の空気を吸うと、だんだん採用になったことの喜びがひしひしとわいてきました。なんとなくニヤけていたものです。
 帰りに明日のためにコンビニでパンを買いました。

 次の日はあっというまにきました。はやめに寝たせいもありましたが、はやめに目がさめました。緊張していたのかもしれません。
 さっさと着替え、パンを一つだけ食べ、カフェオレで流し込むとバイクで出ました。早めに工場につきました。あまりにもはやくついたせいで、バイクを置いた場所でしばらくボーっとしていたほどです。
 そして八時前には工場に入っていきました。事務所であいさつすると、またあの女性事務員がいて白い服を渡されました。
そして「来たときと帰るときはこれをやってください」とタイムカードを渡され、壁際の機械で印字して、壁にとりつけられているタイムカードケースに入れました。
それから男子ロッカーの場所を教えられ、そこで着替えてくるように言われました。
 男子ロッカーはそう広くなく、自分の名前が貼られたロッカーはそれほどさがすことなく見つけられました。
 服を脱ぎ、ロッカーに入れました。白い服は上下がつながっていました。今まで着たことのないへんな感じでしたが、それを着て、まえのファスナーを閉じました。服と同時に白い帽子をもらったのですが、普通じゃない帽子でかぶりかたもわからないので手に持ちました。
 そしてロッカーを閉じ、カギを閉めました。そのカギをポケットに入れようとしたのですが、どこにもポケットがありません。
 カギをよくみると輪ゴムのようなものがついていました。ああ、これはプールに行ったときのようにすべきなのかと思い、手首にはめました。
 ロッカー室を出て、また事務所に行きました。またあの事務員のところへ行きました。するとソファのほうを手でさしました。また座るのかと思いました。そのほうを見ると、白のつなぎを着て、頭のまわりに黄色い線のはいった白帽子をかぶってすわっている人がいました。
 私がそちらを見るとその人が立ち上がりました。意外に少し背が低く、ぽっちゃりしていました。
 そちらのほうに歩いて行くと、
「行きましょうか」
 と丸顔にメガネの声が発せられ、意外に若い女性だとわかりました。
「はい」と力強く答えました。
 その女の人の後ろをついていきます。
 すぐそばにあったドアを入りました。鏡がありました。
「ここで帽子をかぶってください」
 私は持っていた帽子をすぐかぶろうとしました。
「いや、こっちがさき」
 と目のまえにある箱から白く細い紐のようなものをとってくれました。そして鏡の横にある帽子のかぶりかたなる張り紙をしめしてくれました。
 その張り紙を見て、ひも状のものをひらいて薄い帽子上にしてかぶり、その上から持っていた帽子をかぶりました。さらに同じくまえの箱にあったマスクをしました。
 知らないうちに女性もマスクをしていました。
 壁にローラーがかけてあって、それを手にとらされ、体中をその粘着面でコロコロしました。
 それをかけて、また内側のドアを通るとそこには手洗い場がありました。
 これまたまえに洗い方がはりだしてあります。それを見ながらよく洗いました。女性も手を横で洗っていました。洗い終わると使い捨ての紙で手を拭きました。
 それからまた次のドアがあり、二人で入りました。すると両脇の穴から風がブワーッと吹いてきました。
「ぐるっとまわって、体をたたいてください」と言われ、女性がそのようにするので真似してそうやりました。
 エアーがきれて女性につづいてドアを出ます。すぐそこに小さなハンドソープポンプのようなものがありました。女性がそのノズルの下に手を出すと自動でなにか液体が出ました。
「手をアルコール消毒します」
 私も手を差し出すと透明の液体が出てきました。それを手全体になじませるようにすりつけました。
 あと厨房のような場所を通っていくとすぐコンベアが何列もある広いところに出ました。そのなかにいるのは一人しかいませんでした。その人も白い服にマスク姿です。
「おはようございます」
 と女性がその人に声をかけたので、私も同じように言いました。その人も同じようにかえしてきました。
 奥の端まで行くと、
「まだはやいんで待ちましょうか」と言われました。
 壁を背に二人並んで立っていました。私はなんとなく構内を見つめていたものです。
「こういう食品工場とかはじめて?」
 急にきかれてドキリとしました。
「あ、はい。まえに印刷工場で働いたことあるんですけど」
「ああ、そう」
「まあ、まわりの人がいろいろいってくれるでしょうけど、わからないことがあったら周りの人にきいてね」
「はい」
 それからなにかまたきいてくるのかと思ったがそういうこともなく、逆にこちらからきくことはないかと頭をまわそうとするのですが、朝早く緊張もあったせいか質問が思い浮かびませんでした。
 そうこうするうちにどんどん白い服の人たちが増えていきます。
 なにかの片付けか掃除のようなものをはじめる人もいたり、すぐ立ち話をはじめる人たちもいました。
 みるみるうちに人が増えてきて、数十人私たちの前に塊となって立っていました。
 それらを女性と二人で見ている感じで変な感じがしました。
 そして急にカーンとカネがなりました。
「おはようございます!」と女性が大きな声を発したので驚きました。
 また同じように前の集団もかえしてきたので緊張しました。
「今日も衛生管理、品質管理、安全管理のほう徹底しておねがいします。
 それから今日から一班のほうに入ってもらう片山瞬君です」
 といきなり紹介されて頭が真っ白になりました。
「よ、よろしくおねがいします」
 と言うのがせいいっばいでした。
「では、今日も元気に明るくかんばりましょう」
 集団は一気にばらけたかと思うとそれぞれのラインで一塊になりだしました。
「こっちです」
 女性のあとについて、一番端の集まりに連れていかれました。
「片山瞬君です。よろしく」
 と女性は言うとすぐきびすをかえし、どこかへ行ってしまいました。
 集まりはマスクではわかりにくかったですが、声からさっすると女性が多いような気がしました。
「今日もいつもの通りで」
「彼はどうするの?」
「はじめだし、いちばん最後おぼえてもらえば」
「そうだね」
 とか言っていました。
 集まりはバラけたかとおもうと、一人に「こっち」と手招きされました。
 ついていき、ラインの端に来ました。
「これから商品が流れてくるから、それをケースに入れて積んでいきます」
 どうやら声からすると若い男のようでした。胸に黒字で名字らしきものが書かれていました。
「ここにパックが流れてきて、それを俺がケースに入れるから、そのケースを台車に積んでいってくれるかな」
「はい」
 見ると壁際にケースと台車が積み上げてありました。
「けっこう流れてくるの速いから」
「はい」
 その人はケースをとりやすいようにひきよせたので、私は台車をすぐとれるようにひきよせました。
「あ、八段ね。積むの」
「はい。それから、あのー、積んで台車はどこに持っていけば」
「そこらへんに置いといてくれれば。そしたら仕分けの人らが持っていって入れるから」
「仕分け」
「そう。仕分け。その壁の向こうはそれぞれの店舗に送れるようにするために仕分けするところだから」
 そんな話をしているうちに、もう商品が流れてきました。それはコンビニでよくみかける透明のパックにつめられたサラダです。キャベツやニンジンやミニトマトが入れられてあって、カラフルでおいしそうでした。
 目の前の先輩はそれをすばやくケースのなかに置いていく。それがけっこうな速さで驚きました。
 あっというまにケースがいっぱいになったので、それを台車に置きました。
 先輩はすぐにもう次のケースをすばやくとっていて、商品をケースに置いていっています。
 ちらとラインのまえのほうを見ると、みなさん下をむいて一心不乱に集中しているように見えました。
「はい」
 と言われて驚いて見ると、もうケースは満杯になっていました。なんという速さでしょう。
 ひっくりかえらないように気をつけつつ、ケースを台車を上にかさねました。
 これはよそ見しているひまないなと思いました。
 じっさい集中してケースを置き続けました。
「あ、とまった」
 と先輩がつぶやき、商品が流れてこなくなりました。
 先輩が前を見たので自分も見ると、前の人たちがバラけて、どこかに行こうとしていました。
「ちょっと、休憩」
 と言われ、ほっとしました。
 後ろを振り向くとと積みあげたけっこうな量の台車が並んでいました。もっとやった感覚はありましたが、おそらく仕分けの人らが持って行ったからでありましょう。
 壁の高いところにつけられた時計を見ると、もう二時間くらいたっていました。
 あっというまだったなとふりかえっていると、
「トイレ行く?」
 と先輩に声をかけられました。
 先輩についていき、ロッカー横のトイレに行きました。
 その時はじめて先輩の顔を見ました。予想以上に若く、あまり私と変わらないのではないかと思いました。
 終わってすぐひきかえすと、また念入りにローラーかけ、手洗い、またエアシャワーを
をあびました。
 職場にもどると、まだ前の人たちはすべてもどってきてないようでした。
 また同じように仕事できるように待機していると、
「仕事、大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
「明日、筋肉痛になってるかもしれないけど」
 と言って先輩の目は笑っていました。
「はぁ」
 私はそれはいやだなと思いつつ、苦笑いしていました。
「まえ、女の人多いから、ここばっかりやらされるかもしれないけど」
「そうですか。女の人、多いですか」
 と話してる間に商品が流れてきました。それからはまた同じことの繰り返し。だんだんと少しは止まってくれないかと思うようになってきました。さすがに疲れてきたということでしょう。
 たまに止まることがあるのですが、またすぐに動き出します。私はやれやれと思いながら続けました。
 やがてカーンと鐘がなりました。なんなのかと思いましたが、ラインは止まらないのでそのままやらざるをえません。
 すると別のラインの人たちがゾロゾロと出ていくのがわかりました。
 ちらりと時計を見ましたが十一時半なので、昼食には早いとは思いましたが。でも、その人たちは十二時まえにもどってきました。
 そして十二時にまたカーンと鐘がなりました。
 するとすぐラインは止まりました。
「昼飯行きましょうか」と先輩に声をかけられました。
 先輩についていくと他の人たちで出口が混みあっています。
「ロッカーの横に食堂があるから、そこで食べる。なにか持ってきた?」
「はい。パンを」
 それから先輩についてロッカーまでパンをとりにいき、食堂についていきました。そのまま先輩の横に座りました。テーブルに茶の入ったヤカンらしきものがありましたが、パンに茶は飲む気がせず、周りをぐるりと見ると壁際に自動販売機があったので立ち上がりました。
 それであたたかいカップカフェオレを買いました。
 それをもどって座ると先輩はもう手作りらしき弁当を食べていました。
 彼女に作ってもらったのか、母親に作ってもらったのか、それとも自分で作ったのかちょっと気になってききかけましたがやめときかした。
 さすがに疲れていてしゃべる気にもならなかったせいもあるでしょう。
 熱いカフェオレをとりあえすすすり、パンをすこしずつ食べる。
 まわりの人たちはがやがやしゃべっていて、遠くでテレビがニュースをやっている。内容は頭に入ってこない。
 周りをなんとなく見ると女性が多く、それもおばさんが多いようでした。
「いつもパン?」
 いきなり先輩にきかれ、ドキリとしました。
「はい。たいてい」
「弁当にしたかったら、たのめるはずだけど。そのかわり何百円か天引きされるけどね」
 そういえば赤いプラスチックケースの弁当を食べている人もいるようでした。
 が、たいして食べたくもなかったので、それ以上そのことについてきく気はおこりませんでした。
 ぼーっとしながらモグモク食べていると、先輩はあっというまの食べたようで、弁当をしまいどこかへ行ってしまいました。
 だんだん食べ終わる人が出てきて、どこかへ消えていきます。
 たばこかな? どこかにたばこを吸うところがあるのだろうな。
 パンは全部食べきれず立ち上がりました。
 ロッカーにパンを置きにいくと先輩が座りこんで、なにやら楽しそうにスマホでしゃべっていました。彼女か友達なのでしょうか。
 私はとりあえずもう職場に行っとこうと思い、一人で帽子をかぶり、マスクをつけ、エアシァワーをくぐりました。ローラーがけも忘れたわけではありません。
 さすがに職場は誰もいませんでした。作業をしていないと、ひんやりして体にしみます。早く来るべきではなかったかとすこし後悔しました。
 台車に積んだ商品はもう仕分けの人が持って行ったようで、すっかりありませんでした。
 そのかわり台車だけが積まれたものがたくさんありました。
 それらをとりやすいように、ととのえなおしました。が、それからやることがなくなってしまいました。
 早く誰か来ないかなぁ、と考えました。
 また、下がTシャツとボクサーパンツだけなのに後悔しました。明日は長そでを着て、下ばきをはいてこようと決めました。
 そうこうしているうちに人がゾロゾロと入ってきました。
 そのなかにあの先輩がいないものかと見ていたものですが、なかなか現れませんでした。ずっとスマホで話しているということなのでしょうか。
 そしてやっとのことで忙しそうに現れました。
「仕事、大丈夫?」
「はい」
 という会話のあと、すぐラインが流れだしました。
 昼休みで休憩したので元気は回復していました。それにすこし寒くなっていたので、動くのはかえってありがたいものがありました。
 そして一時間もすると、また疲れを感じだしました。さきほどの「大丈夫?」にそうでもないと伝えるべきだったかとも思えてきました。
 先輩にしてもずっと同じことをよくできるなぁと思えてきました。
 そして三時ごろの休憩ではほとんど何も考えられなくなっていました。
 ただトイレに行き、ロッカーでペットボトルのカフェオレを飲んだだけで職場にもどりました。
 またラインが動くまえ、先輩に「あと二時間。がんばって」と笑いかけられました。
 私としては苦笑しつつうなずくしかありませんでした。
 それから二時間というもの、ただひらすら機械のように体を動かしつづけました。もはや何も考えなくても体が自動的に仕事をするようになっていましたが。
 ただ、こまったのは後ろに出来上がった台車がたまりすぎて置きにくくなったり、台車がなくなりそうであせらされたりすることでした。
 でも、それも仕分けの人たちが気をきかせてかちゃんとしてくれたりしました。
 とにかくあとははやく終わってくれないかなと思うばかりでした。何度壁にある時計を見たことでしょうか。そのたびにあとどれくらいか復唱していたものです。
 そして終わりの鐘がなったとき、どんなにうれしかったことでしょう。
 ラインが止まり、できあがった台車と空台車をならべるのを先輩は手伝ってくれました。
「おつかれさん」と先輩は言いのこし、あがっていこうとするので、私は、
「あ、最後に集まったりしないんですか」
「いや、終わりはない。もう帰っていいよ」
 と言われました。
 あとは帰る人の波にのまれていきました。みんな何があるのかすごい勢いで帰っていきます。先輩もあっというまに帰っていきました。
 ロッカーのもどろうとしているところ、朝にいろいろと教えてもらった女性に声をかけられました。
「今日はどうでしたか」
「はあ」なんと言ったらいいものか考えました。本音を言うべきか、やる気をみせるべきか。
「お疲れさまです」ととりあえずこう言いました。
「疲れたでしょうけど、家に帰って疲れをとって、しっかり明日もがんばってくださいね。お疲れさまです」
「はい」
 女性は笑顔をのこして去っていきました。
 まあ、そう言われると明日もがんばろうという気にはなりました。
 のろのろと着替え、ロッカーを出ました。
 そして例の事務員と目があったので「お疲れさまです」と声をかけました。
「お疲れさまです。タイムカード押しました?」
「あ、いや、まだでした」あわてて押しました。
 私は苦笑まじりに頭をさげて退社しました。
 建物を出て、バイク置き場のところまで行き、ホッと息をつきました。
 とにかく終わった。無事一日を終えた。
 原付バイクが横を通っていくときに「お疲れさん」と声をかけられドキリとしました。
 いそいで「お疲れです」とかえしました。
 バイクに乗ると辺りはちょうど日暮れでした。
 工場地帯にある工場なので、それぞれの門からクルマなり、バイクなり、自転車なりに乗った人やバス停を目指すのか歩きの人もいました。
 一人暮らしの自分の部屋に帰って風呂に入って、夜めしをたべて、あとはテレビを観るのも少なく、明日にそなえて早く眠りにつきました。疲れているせいもあって、横になった瞬間に寝てしまいました。

 翌朝目覚まし時計で目が覚めたのはいいのですが、すこし体を動かすとふしぶしが悲鳴をあげました。ひさしぶりの筋肉痛です。そのせいですぐには起きれませんでした。そろそろと老人のようになんとかゆっくりと起きたものです。
 起きれば、その筋肉痛にも慣れて動けるようになりました。
 遅刻しないようにバイク出でます。工場について、昨日のような何をやらされるかわからないという緊張感はないものの、またあの仕事かと思うとうんざりとした気分はないでもありませんでした。
 建物に入り、またあの事務員にあいさつして、タイムカードを押し、ロッカーで着替えました。今度は長そで・下ばきをはいたので寒くはないでしょう。構内に入っていきました。早めに来たせいもあって人と一緒になることはありませんでした。
 前日と同じように構内は誰もいませんでした。それなのに電気はしっかりついていてガランとしていました。今日はあの女性社員もいないのでひとりぼっちでした。
 またこれほどはやく来る必要はなかったなと思えてきました。そうしてじっとしていると寒さがしみてきました。こきざみに動いていないとたえられそうにありません。
「おはようございます」
 うしろから声をかけられドキリとしました。ふりかえると、きのうの女性社員でした。
 あわててあいさつをかえしました。なにか言おうかと思いましたが、何かあるのかつっきってどこかへ行ってしまいました。
 女性社員はきのうだけ私を受け入れるためだけに早く来ていたのではないようでした。
 とりあえず、あとはあの先輩が来てくれないかと考えました。ちょっとでも話せればいろいろわかってきていいなあと思えたからです。また、何もしゃべらず昨日のように同じ仕事をするのはしんどいかなという感じです。まあ、仕事内容じたいは慣れるものだとは思えましたが。
 そうこうするうちに人が入ってきました。私は昨日のAラインの付近にいました。通り過ぎる人にあいさつをしました。朝早いこともあって、どちらかというとそんなハキハキしたものではなく、モゴモゴしたものでした。
 そのなかにあの先輩がいないものかと目でさがしましたが、なかなか現れませんでした。
 あの人はぎりぎり来るタイプなのだなと思えてきました。
 そのうちきのうと同じように人が集まりました。まえにはひとりあの女性社員がいます。
 そして、鐘が鳴りました。
「おはようございます。――」
 女性社員がしゃべりだしました。あの先輩はちゃんと来ているのかどうかちらりとふりかえってみてもいるのかどうかわかりませんでした。
 そうこうしているうちに女性社員のしゃべりは終わりました。それほど気になることは言ってなかったようです。
 それぞれのラインでまたきのうのように集まります。あの先輩がいるようには見えませんでしたが。
 おばさんたちがなにやら雑談めいたことを言って輪はとかれました。
 私はどうするのかわからずにいると、ひとりのおばさんに、
「また、きのうみたいにうしろに行って」
 と言われました。
 やっぱりあれかと思いつつ、ラインのいちばんうしろに行きました。
 またきのうのように作業できるように、台車の山を引き寄せました。
 するとまえへ小さな人が現れました。頭をピョコンとさげたのでこちらもさげました。
 そしてラインのまえのほうを見て、来るのを待ちだしました。
 やはりきのうの先輩はいないのだなと思いました。このような食品工場は休みがなくフル稼働なので平日に休む人もいるということでしょう。せっかく出会ったのに残念な気がしましたが、まあ、やることは教えてもらったし、一日いないのはどおってことないでしょう。
 そうこうするうちに品物が流れてきました。
 まえの人がポンポンとケースに置いていくので、いっぱいになれば台車に置く。やることは昨日と同じです。
 考えてみれば、これくらい機械ができるだろうと思えました。でも、それを導入するにはかなり高価なロボットがいるというのも予想できました。
 一心不乱に作業していると、いきなり、
「もう慣れた?」
 とかわいい声がして驚きました。
 見ると前の人がこちらを向いて話しかけていました。
 その答えは用意してなかったので、
「ええ、まあ」
 とやっと答えました。
 見るとラインが止まっているようでした。
 止まったので声をかけてきたのでしょう。
「ふ~ん、そう」と言って、あっちを向きました。
 この小太りな感じのする小さな女性は声からさっするにまだ若そうでした。
 そう、というにはマスクの隙間から見える大きなアイメイクをほどこした目の部分しか見えないからでした。
 何か言ったものかと考えるいると、すぐラインが流れだしました。そしてまた二人とも作業をはじめました。
 それにしても声からすると若いことはまちがいなさそう。へたすると高校生ぐらいかもしれません。その子にため口でしゃべりかけられたということは、私も若いと思われたのでしょうか。それとも自分は先輩ということで敬語は使わなくといいと思ってのことでしようか。
 などと考えているうちにも作業は進めなくてはいけません。しゃべろうと思っても、とてもおちついてしゃべってられる速さではありません。
 このような速さはしゃべりたくない相手、しゃべりたくないときは有効ですが、会話を先に進めたいときはイライラとストレスがたまるといえるでしょうか。
 そのようなもんもんとした状態で、午前の休憩タイムをむかえました。ラインが止まり、女は「休憩」と言い残すと、さっさと扉を出て上がって行きました。
 私もトイレに行っときたいので後に続きました。
 私といえばトイレに行き、ロッカーでペットボトルのカフェオレを飲んで、すぐもどりました。
 まだ誰ももどってきてませんでした。私は台車をととのえました。
 そこへあの女がもどってきました。
「これ、やるの疲れた?」
「いや、まだ」
「そう」
 白服の胸元をみると、ほどよくもりあがった上に「たけだ」と黒字で書かれてありました。
 私は気になることをきいてみました。
「きのう、ここでやっていた男の人、今日はどうしたんですかね」
「知らない。休みなんじゃないの」
 やはりそうかと思いました。となると明日はまたもどってくるかもしれない。
「きのう、はいってきたの?」
「そうです」
「あたし、きのう休みだったから」
 なるほど、それで見覚えがなかったのか、と思いました。
 しかし、まてよ。明日、先輩がもどってくるとなると、この女性は前なのか、それとも先輩が前なのか……。
 と考えているうちにまた人がもどってきてラインが流れだしました。
 それからというもの昼まで一度も止まることなく流れていました。
 私はといえば前の女性の姿ばかりをチラ見しつつ、すこしはラインが止まらないかなとばかり考えていました。
 昼の鐘がなると女性は「お昼休憩」と言い残し、上がっていきます。
 私も他の人の波にのまれ、上がっていきます。
 トイレに行ったあと、ロッカーでパンをとり、食堂に行きました。昨日の場所が空いていたのでそこに座りました。横の席は先輩の席なのか空いたままでした。
 また、テレビをなんとなく眺めながらもぎもぐ食べました。窓から見える外は天気よく昼間ののんびりした空気がただよっていました。
 先輩がいないと孤独なものだなと思えました。でも、別に話しがしたいわけではなかってので、ひとりは気をつかわなくて孤独といえば孤独ですが、別に気楽でいいやとも思えなくもありませんでした。じっさいのところ、疲れているのであまりしゃべる元気はありませんでしたし。
 こういう工場の仕事だからか女性が多いといえました。女性向きの仕事というよりも時給が安いのでパートのおばさんが多いような気がしました。
 そのようにして周りを眺めていると、二列前の人がこちらを見ていてドキリとしました。あの大きな目だったので、あの女性とわかりました。マスクをとった顔ははじめて見ました。思っていた以上にかわいくて驚きました。見つめられててれくさくなったほどです。
 見つめられたといっても、ほんの数秒で、すぐなにか食べていたし、横の女性と話ししていました。
 それ以来というもの、彼女はこちらに目をくれませんでしたが、そのかわりこちらがじっくり見れました。かといってじーっと見ていたわけではありませんが。ことあるごとにちらちらテレビと交互に見ていました。
 それにしても遠目に見ると、少女といっていいような大きさで、あどけない感じがして、たまらないものがありました。
 昼食を食べ終わったあと、女性たちはどうやらそのまま食堂にいるようでした。私はといえばパンを食べ終わり、そのままテレビと彼女を交互に見ているのも変なので、早めに職場にもどることにしました。
 またひとりで帽子をかぶって、マスクをして、もどりました。例のごとく職場はがらんとしていました。すこし寒いのはしかたありません。また台車をととのえました。
 それもすぐ終わり手持無沙汰になったので、はやめに彼女が帰ってきてくれないかな、と思えました。でも、おそらく他の女性と同じくぎりぎり帰ってくるのではないでしょうか。
 人がぽつぽつと帰ってきたころ、彼女も帰ってきました。
「疲れた?」といきなりきいてきます。
「いや、休憩して回復しました」
「こっち、やってみる?」と彼女がやっていた商品置きをさしました。
 意外なことを言われたので「いいの?」とききかえしました。
「別にいいけど」
「じぁあ、こっちは?」と私がやっていた台車のほうを指差しました。
「そっちはあたしがやるけど」
「えっ、上まで置ける?」
 彼女の背丈では上まで置くのは苦しそうだったからです。
「上まで置いたほうがいいんだけど、別に置けなかったら置かなくてもいいんだよ」
「そうなのか」
 でもそれなりに重いケースを持たせるのは悪いような気がしました。
 少し考えているうちに鐘が鳴ってしまいました。
 急いで手を横にふり、こう言いました。
「今はいいよ。あとでいいから」
 彼女はうなずくと、また同じようにスタンバイし、商品が流れてきて、それをケースに置きだしました。
 それにしても彼女が代わるとは言いだすとは思いもよりませんでした。たしかにずっとこの仕事をやらされてはたまらんなあ、というのもありましたが、たえられないというものではありませんでした。
 なんとなくこの仕事は男のやる仕事で、代わるとしたら、きのうの先輩のような男なのではないかと思っていました。
 考えてみれば時給は同じはずですから、男女同じ仕事をするというのはあたりまえといえばあたりまえなのですが。
 前の仕事はただケースに置くだけの仕事には見えます。ただ、流れてくるのをどんどんさばかなければならないのでせわしない。それにときおり何がだめなのかはねている商品がありました。
 一瞬、彼女にきこうかなと思いましたが、作業に邪魔かもしれないのでやめときました。じっさいのところ、邪魔なのかどうかもわかりませんでしたが。
 そのような疑問を感じつつも、時間は過ぎました。
 そして午後の休憩になりました。トイレにさっと行ってさっと帰ってこようと考えました。できたら彼女に前の仕事のことをきくためです。
 鐘が鳴り、ラインが止まったのを見ると、誰よりもはやく階段を上がり、マスクと帽子をとって、トイレに行きました。そしてロッカーで一口ペットボトルのカフェオレを飲むと仕事場に帰りました。
 例によって誰もいません。
 一応、台車をととのえました。
 そしてあらためてというか、はじめてといっていいくらい商品をしげしげと見ました。
「やってみる?」
 うしろで声がしたのでびっくりしました。彼女でした。
「びっくりした」
「これね、ラベルがちゃんと貼れてるかどうか見るのとラップが破れていないかどうか。
あとちゃんとフタがされているかどうか」
「えっ、それをあのはやさで見るの?」
「まあ、おかしいなというのは目が慣れてそのうちわかるから。それに裏とかはおかしいのがあってもわからないし、見てられないから。ようはできる範囲で不良を見つけるということ」
「はい」
「あと、このコンベア、商品がひっかかることあるから、そのときは引き寄せてやって。それから必要以上に手を奥にやってドンベアに手をまきこまれちゃだめだよ」
 私はうなずきました。
「できそう?」
 一気に言われて、吸収できたかどうか心配でしたが、わかった気がしました。
「はい」
「じゃあ、すぐに流れてくるから」
 空ケースを置いてスタンバイしました。
 鐘が鳴りました。
「あっ、見ていたと思うけど、一ケース六個入りね」
「はい」
 すぐ商品は流れてきました。ケースに置くのに追われて、どれも不良をじっくり見ている余裕はありません。
 とにかく置くので必死です。あっというまにケースがいっぱいになりました。それを彼女がさっととってくれました。それで自分で新しいケースをとってまた入れだします。
 それを必死にくりかえしました。そのうち入れるのでせいいぱいだったのが、なにも意識せず入れられるようになりました。
 よって、商品の表面に気をくばる余裕がうまれてきました。よく見るとラベルも微妙にずれていたりします。
 そしてあきらかにずれているのを見つけて、彼女にさしだしました。
「これ、だめですか」
 彼女にききました。
 彼女はうけとり、ラベルをそろっとはがして、貼りなおしました。それで私にかえしてきました。
 それをうけとって、ケースに入れました。
 そのように集中して続けました。なんとか不良を見つけてやろうと必死でした。
 不良というのはそう多くないのですが、ときおりさきほどのようにラベルがずれていたり、ラップが破れていたりしました。
 ラップについては全部はがして、不良置きに置きました。
 それを彼女はひまをみては前に持っていっていました。
 慣れてくるとポイントがわかってきて、余裕がうまれてきました。
 不思議と不良を注視することなく見つけられるものです。
 そのように集中しているとあっというまに終了の鐘が鳴りました。
「もうわかった?」彼女に言われました。
「はい」
「慣れると簡単だから」
 二人で周りを整理しました。
 そして他の人とゾロゾロと出口にむかいました。
 出口を通るとロッカーで着替えました。タイムカードを押しました。
 外に出て外気を吸うとさわやかなものがありました。
「お疲れさん」
 と声をかけられドキリとしました。
 ふりむくと彼女がいて、サッと横をすりぬけていきました。
「あ、お疲れです」
 彼女はバイク乗り場にむかっていました。やはり小柄でしたが、白服姿とはちがってけっこう細身で茶髪で髪長く、ジーパン姿でした。
 私はゆっくり歩いて彼女のうしろ姿をみていると、彼女は原付バイクのところへ行き、ヘルメットをかぶるとサッと帰って行きました。
 そのヘルメット姿がなんともかわいくてかっこよくて、見ていてにやけてしまいました。
 それから家に帰り、めし・風呂のあと疲れて、すぐ寝てしまいました。

 目覚ましが鳴るまでぐっすり寝ました。疲れは残っていましたが、起きるのはそうつらいものではありませんでした。
 外はさわやかで、清々しいものがありました。
 私はもう慣れたもので、タイムカードを押し、スムーズに職場に入りました。やはり早かったようでいちばんのりでした。早く来てもトクなことはひとつもないので、もうちょっと遅めでいいのですが、ロッカーや職場入りまえの手洗いやエアシャワーが混むので、それがいやなので、ちょうど良いと思えました。
 ただし、そのうち良くも悪くも慣れきってぎりぎり家を出るようになり、ぎりぎり入るようになってくるかもしれませんが。
 また私はやることがないので、軽く台車の位置をととのえたりしました。
 が、それもすぐ終わってしまいます。
 さすがに今日は先輩が来るだろうから、話すチャンスがあれば、きのうやったことを言ってみようと思いました。
 それと彼女のことも軽くきいてみようかと思いました。
 もし先輩のお気に入りなら、ちとまずいと思えなくもありませんが。
 それならそれではっきりさせといたほうがいいでしょう。
 また私がチェックができることがわかって、交互にでもやるようならラクになって、時間がはやくすすむかもしれません。
 そんなことを考えているうちに少しずつ人が入ってきました。
 前のほうの壁際に立ち、入ってくる人を見ます。やがて彼女が入ってくるのが見えました。
 先輩はもうそろそろ来るだろうと思っても来ません。
 そうこうするうちに鐘が鳴ってしまいました。
 朝礼が始まって、社員がしゃべりはじめました。
 数分で終わりました。
 所属ラインだけで集まりましたが、その時になっても先輩はいません。
 遅刻? また休みか?
 私はリーダーの女性から、また後ろを言われました。
 とにかくラインの後ろにまわりました。とりあえず台車置きをやらざるをえないでしょう。
 すると来たのはまた彼女でした。ついニヤけてしまいましたが。
「最初、そっちでいい?」
 台車のほうを指差されました。
「はい」どっちみちはじめはやるつもりだったので、うなずきました。
 また今日も彼女とかと思うと、うれしはずかしのものがありましたが。
 もう慣れたもので、考えずとも勝手に体が動きます。その分、ほかのことが気になったり、考えられたりするものです。
 だんだん先輩はどうしたのだろうと気になりだしました。
 ちょっと流れがゆるくなったのをみはらかって、彼女にききました。
「おとといここで男の人といっしょにこれやったんだけど、また休みかな」
「ううん。もうやめたみたい」
 衝撃的でした。ただ休んでいるだけだと思っていたのに。
「なんでまた?」
「いや、理由はわかんないけど」
 ずっとこの人とやるんだ的な感覚をもっていただけに意外でした。なにかあったのか、まえからやめるつもりだったのか、知る由もありませんが。
 あまりもの唐突なことにただただ体を動かすしかありませんでした。
 そうこうしているうちに休憩になりました。
 またいつものようにしてから職場にもどると彼女に、
「代わる?」
 と言われて代わりました。
 考えてみれば先輩がやめたということは、彼女と一緒に仕事が多くできるということでおいしいことかもしれません。
 と思うとなんだかニヤけてきました。マスクごしにみる彼女はかわいく、先輩と仕事するより楽しいことはまちがいありません。これはやはりおいしいと言っていいのではないでしょうか。
 そう考えるとなんだか元気がでてきました。
 この味気ない仕事がなんだか有意義なものにさえ見えてきました。
 そうこうしているうちに昼ごはんになりました。
 彼女はまたおばさん連中と食べるようです。
 そして、すこしはなれたところにいるこちらに視線をくれたりします。
 一人で食べるのもたいしてさびしくなく、かえってホッとしていました。
 もちろん彼女と食べるのがベストでしたが。
 いずれいっしょに食べれないかなぁと妄想するとそれだけで楽しいものがありましたが。
 あっというまに昼休憩は終わりました。
 そしてまた彼女と代わりました。
 それにしてもこうして彼女といっしょに仕事できるのはいいですが、ほとんどしゃべる間がないのが苦しいものがあります。
 しゃべりたくない相手ならこれはちょうどいいですが、しゃべりたい相手だとかえって苦しいものがあります。
 そのようなことを考えながら、彼女の姿をチラ見ばかりしていました。
 休憩後、また彼女と代わりました。もはや仕事についてきくこともありません。
 もっとむずかしい仕事ならきくことはたくさんあったでしょうが、このかんたん体力仕事ではもはやきくことは底をついてしまいました。
 そんなことを考えていると、急に商品が流れてこなくなりました。
「どうしたんだろ」
 彼女はラインの前の方を見ています。
「どうしたんでしょうね」私にはさっぱりわかりません。
「なんかトラブルかな」
「めずらしいですね」
「まえはもっとこんなふうに止まったんだけど。ここんところ妙に調子良かったから」
「そうですか」そこで気になったのできいてみました。「ここへ入ってどれくらい?」
「三か月」
「なんだもっと前からかと」
「もっとベテランだと思った?」そう言ってフフッと笑いました。
 そこでまたラインが動き出しました。いそいで作業にもどりました。
 少しの会話でしたが、なんだか仲好くなれそうな気がしました。
 そのあと機嫌良くなんだか楽しく仕事をやれたものです。
 とはいっても、その日それ以上に話すこともなく、家路につきました。
 それでもなんだか楽しくなりそうで翌日以降に期待がもてました。

 翌日は当然のことながら、先輩が来るかどうかなんて気にしませんでした。むしろ辞めたと聞いたのに現れたらびっくりしたでしょう。おおげさなことをいえば、死んだときいた人が現れたようなものです。
 だから今度は彼女が出勤してくるかどうかが気になりました。
 朝礼が始まるのをまちつつ、彼女が入ってくるかどうか入口をそれとなく見ていました。
 すると入ってくるのが見えてホッとすると同時にニヤリとしてしまいました。
 もし彼女が休めば誰が代わりにやるのかどうかわかりませんでした。まさかひとりでやるというということはないとは思うのですが。また他に一緒にやりたいなどという人も見当たりませんでした。
 そして朝礼が始まりました。とくに聞き耳をたてる内容でもなく、今日も一日がんばりましょうということでした。
 そして私はいつものようにうしろを言いわたされました。
 また彼女が来るだろうと思っていました。今日はしゃべるまはあるか、あったらなにをしゃべろうかと思いめぐらしました。
 が、来たのはちがうおばさんでした。
「こっちでいい?」
 と言われ、商品置きのほうをゆびさしました。
「はい」
 私はめんくらって、そうとしかいえませんでした。
 考えてみれば、かならずしも彼女が来るときまっていたわけではありません。
 たまたまつづいていただけかもしれません。
 私はいっきにテンションさがりました。
 そこにいる人はいかにもふとったおばさんでした。彼女との落差はうめようがありません。
 さいわいなのはそのおばさんが比較的愛想の良さそうだということだけです。
 ただでさえテンションがさがっているうえに、あれこれうるさい人ならたまったものではありません。
 そのあと休憩ごとにかわりました。
「もう慣れた?」などと話しかけられましたが、どうしてもテンションの低いものとなりました。
 とくに彼女と話すチャンスもなく、昼ごはんの席の距離はいつも以上に遠いものに感じられました。
 気になるのは、なぜ彼女とあのおばさんが代わったのかということです。
 もし私とばかり一緒に仕事するのがいやとでも言っていたとしたらショックです。
 まあ、そういうことは本人の口からきくことはないでしょうが、おばさんあたりから聞かされるということはないわけではないでしょう。
 それゆえにおばさんとしゃべるということに積極的にはなれないものがありました。
 ということでテンションの低いまま一日を終えました。もちろん、彼女と口をきくチャンスはありませんでした。
 がっかりしながら帰路につきました。
 なんだか疲れがどっとでました。
 また明日も同じようなら、行く気しないなとさえ思われました。

 かといって翌日だれと一緒に仕事するかわからず、一抹の期待とともに会社に行きました。
 彼女が職場に入ってきたことは目の隅で確認しました。
 例によって朝礼のあと、ラインで集まって、また私は後ろを言われました。
 いいかげん他のことをやらしてはくれないのかと思えました。
 私はライン後ろに向かいました。誰が来るかわかりません。仮におばさんでもがっかりはしないでおこうと決めました。
 今日あたりしゃべる機会があったら、それとなしに彼女のことをきいておこうかという考えもありました。
 それで来たのは彼女でした。
 おもわずテンションがあがりました。
 彼女もテンション高いのか、
「またよろしくね。こっちでいい?」
 という声もはずんでいるかのように聞こえました。
 私は彼女にうなずきました。
 もし彼女が私と仕事することを喜んでいるのならうれしいのですが。
 じっさいのところ喜んでいるかどうかあやしいものですし、私は前の仕事をやったことがあるわけではないので、前の仕事よりこっちのほうがいいだけかもしれません。
 とにかく彼女が来て喜んでしまいました。
 これで一日楽しくすごせるかもしれないと思えました。
 しかし、まったく同じ仕事なのに一緒にやる人が違うだけで、どうしてちがった感じになるのでしょうか。
 先輩はともかくまわりがおばさんだけならやる気もわかず、もう飽きてやめることを考えていたかもしれません。
 かといって、このようなしゃべるチャンスもあまりないのは蛇の生殺しのような感じがしないでもありません。そのうちストレスに感じてくるかもしれません。
 そうこうしているうちに休憩になりました。
 休憩後は彼女と交代しました。
 そしてあっというまに昼休み。
 またテレビをなんとなく観ながらパンを食べます。彼女をほうはあいまにそれとなく見ていましたが。
 パンを食べるとやることもないので、すぐ職場にもどりました。すこしでも彼女がはやくこないかとちょっと期待して。
 あいかわらずじっとしていると寒くなってきます。
 職場の扉がバッと開いて彼女が入ってきたので驚きました。
「もどってくるの早いね」と彼女。
「上にいてもしゃべり相手もいないし」
「ここ、じっとしてると寒いじゃん」
「ぎりぎり入ってくると、入口混むし」
「たしかに」
 と言って彼女は右手で左腕をおさえてストレッチしはじめました。
「それにしても古賀さんなんでやめたんだろね」とストレッチしつつ言います。
「わかってないの?」
「さあ。あんまりしゃべったことなかったし。片山君は知らないの?」
 はじめて名前を呼ばれドキリとしました。
「あまりしゃべる機会もなかったから」
「一日だもんね。一緒だったの」
 そうしているうちに人が戻ってきました。
「もうこの仕事慣れたでしょ」
「うん。まあ」
「もうあきたとか」
「多少」
「あたしも。でも、まだ前でやったことないことあるから」
「俺は前をやらしてくれないのかな」
「さあ、そのうちあるんじゃないかな」
 彼女とはまた場所を代わり、午後の仕事が始まりました。
 他愛のない会話でしたが、一気に仲好くなれたような気がしました。
 そのあと、その日たいしてしゃべる機会はなかったのですが、仕事が終わって、バイク置き場ですれちがうとき、さわやかにあいさつできたものです。
 その日はうれしく帰宅し、あれこれと会話を思い出し、ニンマリして、悦に入っていたものです。
 むしろ、すぐ明日が来ないかなと思えるほどでした。
 しかし、またおばさんと一緒になるかもしれないので、かならずしも良いとはかぎらないのですが。

 翌日、例によって彼女が来るのを待ちました。
 そしてまた彼女とうしろで仕事が一緒になり、内心喜びました。
 すぐ「前の仕事をやってと言われないね」
 と言われました。
 たしかにそれは同じ仕事ばかりしている私にとっては残念なことであったはずですが、今の私にはそうではありませんでした。
 あとは彼女と話す機会があったらそれでいいという感じなのですから。
 そうこうしているうちに午前の休憩が終わり、昼休みになりました。私はまた前日と同じように早く職場に行って彼女を待ちます。
 そして前日と同じかすこしまえくらいに彼女はもどってきました。
「いつもひとりで食べてるね。あたしらと一緒に食べればいいのに」
「いや、いいよ。おばさんたちだと気を遣うし」
「そんなことないよ。そんないやな人いないし」
「そう」
 まあ、別におばさんとの会話にくわらなくとも彼女のとなりに座っているだけでいいかもしれませんが。
 それに昼休みぐらい周りを気にせず、ホッとしていたいというのもありました。
 そういえば彼女の横の席は空いていたなあ、と思い出しましたが。
 でも自分がそこに座っているのを想像すると違和感がありました。
 そうこうしているうちに午後の仕事がはじまりました。
 今日もそういう会話があるなしにかかわらず、商品はどんどん流れてきます。
 毎日こんなに買う人がよくいるなと思えるくらいです。
 その日はそのあと順調に流れすぎて、話すチャンスはほとんどありませんでした。
 それでも昼間にしゃべれたので充実感はありました。
 そして次の日のことです。
 今日も彼女と一緒に仕事できるのではないかと期待していました。
 が、ラインの朝会でリーダーのおばさんに「あなたはここにのこって。前の仕事をおしえるから」と言われてしまいました。
 いいかげん同じことばっかりしていてあきていたのでよろこぶべきところですが、彼女と別のおばさんがいちばんうしろにいくのを見て、残念な気分に襲われました。
「じゃあね、この容器をここに置いていってもらうから。こういうふうにね」
 それはプラスチックの空の容器をライン上に置くというものでした。
 私が置くとラインが動き出し、ホイホイと置いていかねばなりません。
 スピード的にはまにあわないことはありませんが、けっこう速いものがあります。
 たまに容器と容器がくっついてとりにくいものがあります。
「とりにくいのは横においといてあとでとったらいいから」
 とラインから声がとんできました。
 言われたように横に置きました。
 ふと見るとラインのあとでは、それぞれ私の置いた容器めがけてキャベツを入れていったりしています。
 ここからはいちばんうしろにいると思われる彼女まで視線がとどきません。
 それにベルトコンベアに等間隔に機械のように容器を置いていかねばならないので余裕がありません。
 容器が大量に入ったビニール袋は近くにあるのですが、それをとるにも少し時間をとられ、置くのをすばやくやってとりかえせねばなりません。
 ふとこんなこと機械でできるだろうと考えましたが、それは高くつくでしょうし、くっついた容器をとるのは案外むずかしいかもしれません。
 そうこうしているうちに休憩になりました。
 トイレに行きましたが、彼女とすれちがうこともありません。
 また私が容器を置かないとはじまらないので、早めに職場にもどっておくべきではないかというのもありました。
 そして鐘がなってすぐ始まりましたが、休憩したあとで余裕を感じましたが、だんだん置いてばっかりというのも疲れを感じてきました。
 まさに機械のようになって置きつづけなければならない。
 いや、体を機械にしてほしいという感じでしょうか。それなら疲れを感じなくてすむかもしれませんから。
 じっさいのところ、このようなことを考える余裕もなく、昼休みになりました。
 トイレに行き、ロッカーで食べ物をとり、食堂のいつもの席によっこいしょと疲れを感じつつ座りました。
 ちらりと見ると、もう彼女は座っています。
 パンを食べようとして顔をあげたら、彼女がこちらを見ていて、目が合いました。
 こっちがニコッとすると、彼女は二コリともせず真顔で空いている自分の横の席を指差しました。
 ここに座ったら、という意味はわかりました。
 いつもの自分なら手を横に振っていたでしょう。ですが、新しい仕事について感想を言いたくなっていたし、彼女の目に強い意思を感じパンの袋をもって腰を上げました。
 彼女の横の席に黙って腰かけました。ほんの数列先で反対側を向いて座るので、こうも感じは変わるものでしょうか。
 それに横に彼女がいます。そこはかとない良い香りがします。
「あの仕事どう?」彼女がこちらを見ることなくきいてきました。
 こちらも見ることなく言いました。
「けっこう疲れますね」
「最初はね。そのうち慣れるよ」
 私はそういうものかもしれないと思い、うなずきました。
 そのあと周りの目が気になってしゃべりかける気はしませんでした。彼女の周りの目が気になってか何も言ってきません。
 おばさんがなにかしゃべりかけてくるのかと思いましたが、おばさんらはおばさんらで何かひっきりなしにしゃべってもりあがっていました。
 彼女はそれに参加することなく、もくもくと食べています。
 案外彼女も孤独だったのかな、と思えてきました。
 私は先に食べ終え、てもちぶさたなので先に行くことにしました。
 何も言わずに行くのは冷たいかもしれないと思い、
「先に行きます」
 と声をかけておきました。
 彼女は食べながらうなずきました。
 職場に戻って、また容器を置けるようにスタンバイしました。
 彼女はうしろなので、わざわざ前に来たりはしません。
 するとおばさんが来て、
「もう慣れた? 次はこれやって。これはあたしがやるから」
 と言われました。
 こっちと指差されたのは容器を置いた次の場所で、最初に具材を置くところでした。
「やったことないよね。手袋によくアルコールを吹いてから。これはね、これをこれぐらいね」
 と横に置いてある大きなケースからキャベツをわしづかみにして容器に入れました。
「もし極端に多かったりすくなかったりしたら、後ろのほうにあるセンサーではねられるから」
「えっ」
「まあ、どれくらいかつかむまで少しかかるだろうけど。うしろの人が少し入れたりとったりしてくれるから」
 ちょっと安心しましたが、でも、あまりちがうと文句を言われそうでいやな気がしました。
 とにかく必死にやらねばならないと思い、緊張しました。
 そして、すぐ流れだしました。
 近くに置いてくれた見本のように、容器に盛っていきます。
 意外にいけるかと思いましたが、横ですこしつまんで減らしているのに焦りました。
 でも、どちらかというと少ないより多いほうがお客さんにとってはいいだろうと、多めを心がけました。
 そのせいか、たされることよりも、少しひかれることが多いようでした。
 多いといっても最初のうちだけで、だんだん感覚がつかめてきて、ほぼ同じように入れれるようになりました。
 それで横でひかれることもたされることもないようになってきました。
 思いのほか早く慣れるものだなと内心ニヤリとしました。
 が、気をぬくとうっかり多すぎになってしまったりするものですから、油断はできません。
 あっというまに午後の休憩になり、そのあとも具材入れをやりました。
 容量をつかめ、慣れるとこちらのほうがラクかと思えてきました。
 手はまるで機械のように具材を置くようになっていました。
 そうこうするうちに終業しました。さしたる文句を言われず、終えれたことに満足いくものがありました。
 それとバイク置き場に彼女とすれちがいざまに、
「お疲れさん。疲れたでしょ」
 と微笑みながら、軽く声をかけられたことにうれしいものがありました。
 その夜は疲れて、すぐ寝てしまいました。

 次の日はどうなるのか、またわかりません。
 うしろにもどるのか、昨日と同じように言われるのか。
 朝会後、あっさりとおばさんにこう言われました。
「また昨日みたいに容器置いてくれる」
 また昨日のパターンですが文句はありません。やりたいわけではありませんが、せっかく慣れた仕事から、すぐ離れるのはもったいないものがありました。また、すぐ代えられるのはクビになったような感じがしないでもありません。
 ただし、彼女と遠くなってしまうのは残念であります。
 そのあと、慣れもあってなんなくこなしたと思います。
 思いますというのは、何も言われなかったからです。
 ひょっとすると何かあったかもしれませんが、何も言われなかったというのは何も文句のつけようがなかったと思いたいわけです。
 そういうわけで昼休みになりました。
 昨日と同じように離れて座ろうとして、また指差されるのもめんどくさいし、無視されても哀しいので、素直に彼女の横に座りました。やはり、ほのかにいい香りをします。
「具材入れるの、やってるの? あれ、むずかしいでしょ」
「はじめそう思ってたけど、もう慣れた」
「はやっ。もう慣れちゃったの」
「でも機械みたいに正確にはできないけど」
「そりゃ、そうでしょ」
 それからはもくもくと食べ、また先に行くとつげて立ちました。
 午後も前日とまったく同じパターンで進みました。
 まったく何も言われないので、ひょっとすると自分はうまいのかもしれないとうぬぼれてきました。
 だからといってほめられることもないし、自慢することでもないし、時給があがることもないのですが。
 しかし、あまりうまいとなるとこればっかりやらされて、どうなのかなという気になってきましたが。
 その日もあっさり終わりました。
 ぞろぞろと帰っていくなかで、私はまたバイク置き場につきました。
 いつもこのタイミングで彼女がうしろを通りすぎるんだよな、と後ろをチラリとふりむきました。
 案の定、後ろを彼女が歩いていました。
「お疲れさん。今日はなんか暑いねぇ」と言われました。
 それでなぜかこう口走ってしまいました。
「お疲れです。なんか一緒に冷たいものでもどうですか」
「えっ」彼女は驚いたふうに立ち止まりました。
 急いで手を振るとこう言いました。
「ううん。買い物して早く帰らなければならないかな。旦那帰ってくるし」
 彼女はそう言って立ち去りました。
 私は絶句して、その後ろ姿を見送りました。
 心の整理がつかず、しばらくそこにつったっていたものです。
 しかし彼女に彼氏や旦那がいないときいたわけではないのに、なぜそう思いこんでいたのでしょうか。
 あれほどかわいいのなら、いたとしても不思議はありません。
 いや、いないと考えるほうがおかしいのではないでしょうか。
 仕事に集中するあまり、気軽に声をかけてくれる彼女に彼氏がいないとなんとかく勝手に思い込んでしまったのかもしれません。
 なんだか馬鹿な妄想をしていたものだと腹がたってきました。すべては時間の無駄だった。
 あたりは静けさをまし、薄暗くなってきました。よけいにむなしさがあふれるばかりです。つったっていてもしかたがないので、とにかく帰ろうと思い、バイクに乗りました。
 帰ってからもつらつらと考えました。
 こっちもこっちだけど、彼女も彼女のような気がしてきました。
 あれこれ話しかけてきておもわせぶりなので、勘違いしてしまった。
 自分というより彼女が悪く思えてきました。ひょっとするともてあそんだのかもしれない。
 そう考えるとますます腹がたってきました。
 ベッドで眠ろうとしても、なかなか寝付けないものがありました。
 しかし、これからは彼女からの会話は旦那もちとして話したほうがいいな、と思いました。同僚として無視するわけにはいきませんが、仕事のことについては最低限しゃべらなければなりません。
 逆に誘われたということで、避けられたらショックだなと思えました。
 まあ、そのほうがややこしくなくていいのかもしれませんが。
 また誘われたとおばさんにでも言いふらされたりしたら……。
 まあ、彼女がそんなことをすることはないだろうとは思えましたが。
 それにしても、なぜ彼女に彼氏や旦那がいると思えなかったのだろうかと後悔するばかりでした。

 次の日、彼女と一緒に仕事することになったらどうしようかと思いましたが、また私は前で彼女は後ろでした。
 気まずいので離れてホッとしました。
 ところが昼休みになって、迷いました。
 また元のように離れても、そんなふうに意識していたのかと思われるのもいやでした。
 私としてはそんなふうに想いつめたのではなく、かえりに声をかけたのは軽いものと思われたいものがありました。
 それならこれまでとはまったくちがったところに座ろうかと思いましたが、それも目立ちそうです。
 心のなかで迷ったすえに、また彼女の横に座りました。
 無言で、彼女が話しかけてこないがぎりしゃべらないでおこうと決めました。
 まるで電車で知らない人の横に座ったように。
「なんか前のほうの仕事ばっかりだね」
 いきなりしゃべりかけてきましたが、ただうなずきました。
「前のほうがいい?」
「いや、どっちでもいいけど」
 そのあと沈黙が流れました。
 もはやこちらからきくことはないという感じでした。
「彼女いるの?」
 そう言われて驚きました。
「いきなり?」
「いや、いるのかなと思って」
「いませんですけど」
「そうなんだぁ」
 そして、また沈黙。
 心の中でいると思ったのかよ、と思いましたが、口には出しませんでした。
 それとも彼氏のいない友達でも紹介してくれるのかなと期待が芽生えました。
 が、そのあと言葉がありません。
 パンも食べ終わり、そろそろ立とうとしようとしたところ、こう聞こえてきました。
「あたしは結婚するの早すぎたなぁ」
 どういう心境でこんなこというのかはかりかねました。
 不満のようにも聞こえますが、結局のところおのろけ、自慢を聞かされるのではないかと感じ、さきに行くとつげ、立ちました。
 午後の仕事が始まりました。
 ですが、私はさきほどの会話を反芻していました。
 あのあと彼女は何を言いたかったのだろろうかと気になってきました。
 いや、聞いてもしかたがない。旦那もちだ。
 結局おのろけだ。聞いても腹立つだけだ。
 やめておこう。
 なにか言われたとしても聞き流しておこう。
 もはや関係ない。
 いや、はじめから関係ない。
 そのような心境にたどりついて、その日は仕事を終えました。
 そのような感じであるので、バイク置き場で後ろを通りすぎていくとき「お疲れさん」と声をかけられても、その言葉を返すだけで他に何も言いませんでした。
 向こうも何か言いたそうでもなかったので、その日はそれで終わりでした。
 つくづく何かを期待したのは馬鹿だったなと思えました。
 ただ彼女が旦那もちであるのが残念なことにかわりなく、ものたりなく思えることは確かでした。
 かといって彼女の他にかわいいと思えるような若い子はいませんでした。
 若そうでもかなり太かったりして、とてもしゃべりたいと思えるような感じではありませんでした。

 次の日も同じように仕事につきました。
 ずっとこればっかりやらされるのではないだろうなと考えつつやりました。
 そして昼休みです。
 もうたいしたプレッシャーを感じるこtなく、彼女の横に座れます。
 特に話さなくても問題ないし、話しかけられても適当にかえしておけばいいというのはあります。
 他のおばさんとあまりかわらなくなったという感じでしょうか。ただ、おばさんたちより若くてかわいいというだけのことです。
 そんなわけであいさつもなく、横に座りもくもくと食べ始めました。
 いきなり彼女にこう言われました。
「いつもパンね。だれかお弁当作ってくれる人いないの」
「だから彼女いないって」
「おかあさんは?」
「いるけど、もう弁当なんて作らないよ」
「ふうん。あたし作ってきてあげようか」
 あまりもの意外な言葉に口に入ったパンを吹き飛ばしそうになりました。
「えっ、旦那いるんでしょ」
「いるけど……」
「いるけど?」
 そのあと彼女はだまりこんでしまいました。そこでとめられるとすこし気になるというものです。
 まわりのおばさんの目と耳の存在があったからかもしれません。
 もっとも、もはや旦那持ちということがわかったからには強烈に興味をひくものではありませんでしたが。
 彼女が何か言うか待っていましたが、何もなく時間がきましたので立ちました。
 まあ、孤独で誰も口をきく人がいないよりましだなと思うようにしました。
 それに旦那持ちとはいえ、けっこうかわいいのだから悪くはないでしょう。
 そのようにしてその日の仕事を終えました。
 またバイク置き場ですれちがうと予想していましたし、あいさつしてあっさり帰ろうと思っていました。
「お疲れさん」
 と彼女に声をかけられました。
 私は、
「お疲れです」
 とかえしました。
 そのまま通り過ぎた気配がないので、ふしろを振り向きました。
 すると驚いたことに彼女が後ろに立っていました。二コリともせず、かといって怒ってふうでもなく、無表情といっていいものでした。
「何か?」私はそう言うしかありませんでした。
「いっしょにお茶する?」
「えっ、旦那といっしょに?」
「まさか。あそこにファミレスでいいでしょ」
 と近くにあるファミレスの方向を指差しました。
 あまりにも意外なことで、どうしていいかわからず、とりあえす「はい」と言いました。
 彼女はうなずくと、
「じゃあ、先に行って待ってるから」
 と言われ、彼女はサッとスクーターに乗って行ってしまいました。
 これはどういうことかと思いました。
 わからないまま約束してしまいました。
 とりあえず行かないとと思いました。
 私はバイクに乗り、数分でファミレスにつきました。
 以前、別のバイトをしていたとき、友人と入ったときがあったので、勝手はわかっていました。
 バイク置き場にバイクを置くと彼女のバイクを見つけました。あってホッとする反面、急に緊張してきました。二階にある入口に向かう階段をのぼりつつ、彼女は本当に一人でいるのだろうか、旦那はまさかと言われたが、友達とかといっしょにいるのではないか、いや、子供かも……。旦那はいると聞いたが、子供はいないとは聞いていません。若いので想像つきにくいのですが、結婚していたら子供がいてもおかしくはないではないですか。
 そういう疑念がふつふつと湧いてきました。
 やっばりこのまま帰ってしまおうかとふと思いました。ファミレスがわからなかったことにすればいいし、ケータイ番号を知られているわけではない。明日、会ったとき気まづいですが。それはそれで平身平頭せねばなりませんが。
 階段をのぼりきって、入口を前にしたとき少し考えました。
 が、ひきかえすこともできませんでした。
 いっそのこと、いないでくれていいと思いつつ入りました。
 女性店員が立っていました。何人か聞かれそうな感じがしたので、店内を見回しました。
 そこそこうまっている席のなかに彼女が座っているのが見えました。
 顔をあげるとこちらに手を振ってきました。
 まわりに誰もいないようです。
 私はほっとして、ため息をつき、そこにむかいました。
 まえに座ると彼女がこう言ってきました。
「おそかったんじゃない?」
「いや、そうかな」ととぼけておきました。
「もう、これきてるから」と指差しました。それは淡い桃色のジュースでした。
「なにそれ」
「トロピカルジュース」
「おいしいの」
「まあまあ」
 さきほどの女性店員が水を持ってきました。
 私は窓際にたてかけてあるメニューをとって、飲み物のページを開きました。彼女のたのんでいるトロピカルジュースはおいしそうでしたが、すこし高いので保守的にドリンクバーにしようとメニューを閉じました。
 だが、もう女子店員はいませんでした。注文に時間がかかると思ったのでしょうか。
 入口方向を見ると女子店員と目があったので手をあげました。
 すると寄ってきたので「ドリンクバーひとつ」と告げました。
「あちらのほうになります」と隅のほうを手で指しました。
 女性店員は伝票を書くと戻って行きました。
 私は席を立ち、ドリンクバーの方へ行きました。いろいろ種類はありましたが、じっくり選んでいる余裕はありませんでした。
 ちらりと振り返ると、彼女が向こうむきに座っていました。
 その後ろ姿を見て、うれしさとともに緊張感がわいてきました。
 それにしても旦那がいるのに……。
 これはひょっとしていけないことなのでは……。
 そういう考えがかすめましたが、もうあともどりはできません。要件を聞くしかありません。
 しかし、その要件が想像つきません。その要件というのがあるのかどうかさえもわかりません。
 私はグラスにアイスコーヒーを入れると、ミルクと砂糖、ストローを持って席にもどりました。
 そしてサッとミルクと砂糖を入れ、かきまぜ、ストローで一口飲みました。
 とくに変わった味ではありませんが、変わらずおいしいものがありました。
「コーヒー好きだな」と彼女はあきれたように言いました。
「まあね」
 そのあと何か言うのかと思ったら沈黙がありました。何か言うと思って、言葉を用意していないことに気づきました。
「すぐ帰らなくていいの?」と言ってみました。
「うん、まあ」と言って、ストローでジュースをかきましています。
「片山くんは早く帰らなくていいの?」彼女は大きな目で見つめてきました。
「ううん、いいんだ。結婚してるわけじゃないしね」
「そう」
「でも、ずいぶんはやく結婚したんだね」
「そう」彼女は困ったような顔をした。「別に早くしたかったわけじゃなかったんだけど」
「いい出会いがあったんだ」
「いい出会いかどうか。とにかく、あたしは早く実家を出たかった。でも、一人暮らしする余裕はなかったし」
「じゃあ、一人暮らしせず、いきなり結婚?」
「そう。前の職場で今の旦那が上司だったの。あれこれ面倒をみてくれて……」
「つきあうようになったと」
「まあ……」
「良かったじゃない。実家も出れたし、いい人見つけれたし」
「いい人……」
「いい人じゃないの?」
「正直、後悔かな。いろいろうるさいし」
「何が?」
「何かと。家事のことなんか。料理の味もうるさいし」
「たいへんだね」とついついニヤけてしまいました。
「他人事みたいに。まあ、他人事か」
「だったら早く帰らなくていいの?」
「そうだな。もう帰らないと。とにかく片山君に少し愚痴を話せてよかったよ。あたし、あんまり友だちいないし」
「そう」
 彼女は残りのジュースをストローで飲み干しました。
「じゃあ、行こうと言ったのはあたしだし、あたしが出すわ」と伝票を手にとりました。
 一瞬、最初に言いだしたのは自分だと言いそうになりましたが、やめときました。
 それよりまだアイスコーヒーがけっこう残っていたので、あわてて残りを飲み干しました。
 彼女はもうレジに行っていて、あわてて後ろにつづきました。
 ドアを出て、言いました。
「こちそうさま」
「いいえ」
 彼女はすばやくバイクのところへ行くとヘルメットをかぶりました。
「じゃあ、また明日」
 と言うと二コリともせず、颯爽と帰っていきました。
 私はホッと一息つくと、のろのろとヘルメットをかぶりました。
 しかし、彼女は何を言いたかったんだろ、というのはありました。
 ただ、すこし仲良くなれた気がしてうれしいものがありました。

 次の日、いつものように私がいちばん前の仕事をしていると、次の場所に彼女が配置されて笑いました。
 なんだかんだと話すチャンスが増えてきたので、とくにテンションがあがることはないのですが、それでもうれしいことはかわりありません。
「あたし、ここはひさしぶりだわ」
 とひとこと言っていました。
 あとは無言で仕事をこなすのみです。
 ひさしぶりというからにはやったことあるようで、だれにも指導されずやりはじめて、こなしているようでした。
 うしろのほうがつまって、ふと置くのをやめたとき、
「うまいね」
 とほめられました。
「いや、そうでも」
 と言っておきました。
 午前の休憩がさっと終わり、すぐに昼休憩になりました。
 食堂でなんのためらいもなく、彼女の横に座りました。そしてもくもく食べます。
 やはり人妻ともなると、気軽に話しかけられるものではありません。
 それにさほど話しかけることも思いつきません。へたに話しかけて、旦那のおのろけを聞かされても面白くありません。
 というわけで彼女が何か言ってくるのを待つという姿勢にならざるをえませんでした。
 が、彼女は何も言ってきませんでした。
 食堂での会話は、そう深い会話ができるというものでもありません。誰が聞き耳をたてているかわかりません。昨日ファミレスで会ったというのも聞きようによってはとがめられてもしかたありません。
 そう考えると、なんだかスリリングな関係なのかもしれないと思い、ニヤけてしまいました。
「どうしたの?」
 といきなり彼女にきかれ、ドキリとしました。
「いや、なにも」
 とあわてて否定しました。
 ひとりで勝手ににやにやしていたら頭がおかしくなったと思われてもしかたないでしょう。
 気をつけよう。
 しかし、ここで昨日ファミレスで会ったことをもちだしたら、どういう反応をするのでしょうか。不快な表情をして怒るのでしょうか。
 ふと興味がわきましたが、チラリと彼女を見てやめときました。
「なにか?」
 と彼女にきかれました。
「いや、なにも」
「言ってよ。気になるじゃない」
「いや、昨日のことここで言ったらまずいだろうなと」
「なにが? あたし、別に悪いことしてないし」
「そうかなぁ。そうとは思わないけど」
「なんだか奥歯に物がはさまった言い方するね。じゃあ、昨日と同じように集合ね」
 あっさり、また会うことを言われておどろきました。
 私は、
「あ、はい」
 と言うしかありませんでした。
 私はもくもくと食べるしかありませんでした。まさかまた昨日のようになるとは思っていなかったので意外でした。
 私は彼女に先に行くことを告げて、席を立ちました。
 午後はなにもしゃべることなく、もくもくと仕事をしました。
 そして終業すると、彼女は私のところへ来て、こう言いました。
「先に行って待っとくね」
 別に忘れてもいないし、すっぽかすつもりもなかったのですが、念をおされたかっこうでした。
 私は彼女の目を見てうなずきました。
 そして着替えてバイクのところへ行くと、うしろを彼女が通りすぎました。
 また念をおされるかとおもいきや、
「お疲れさん」
 だけでした。
 彼女はバイクで行ってしまいました。
 これはこっちがすっぽかされてしまうのではないかと不安をおぼえました。
 かといって行かないわけにはいきません。
 もしいなかったらバイクがないだろうと思い、バイクに乗りました。
 ファミレスにつくとすぐ確認しました。
 バイクは前日と同じようにありました。
 私はなんともいえないため息をつきました。
 それでも前日よりは気楽にバイクを置いて、階段を上がっていきました。
 そして中に入ると、まったく昨日のデジャブかと思うほど同じでした。
 昨日と同じように彼女は同じ席に座っていました。
 ただ、ちがうのは顔を上げなかったこと。
 また昨日と同じ女子店員がいて目が合いましたが、私が彼女の方を指差したので、「どうぞー」と言うだけでした。
 私は歩いて、彼女の前の席に座りました。
 彼女はパッと顔を上げました。
 おどろいたふうに、
「早かったね」
 と言いました。
「そう……」
 うしろからすぐ女子店員が来ていて、水を置きました。
 私はメニューを開くことなく、
「ドリンクバー」と答えました。
 店員はすばやく伝票を書くと、
「ごゆっくりどうぞ」
 という言葉を残して消えていきました。
「なにかとってくるわ」
 と言うと私はドリンクバーのところへ行きました。
 なにか変わったものを飲みたいと考え、透明のグラスをとり、氷が出てくる機械の下にグラスを置いてボタンを押すと、氷が出てきました。
 そして、それをフルーツミックスジュースとある下に置いてボタンを押すと、濃い柿色をした液体が流れ出てきました。それをなみなみとつぐと、それをこぼさぬようにそろそろと席にもどりました。
「いっぱいじゃん」そう言われました。
 私は鼻で笑いながらテーブルの上に置くと、こぼさぬように少し飲みました。
 彼女はまた同じジュースのようでした。
「また、それ。よっぽど好きなんだな」
「だっておいしいんだもん。飲んでみる?」
 とジュースの入ったグラスを押されました。
 一瞬、間接キスできるなとノリで飲もうかと思いましたが、「いい」とことわりました。
 なにせ人妻です。
「いきなりだけど、ケータイ番号とメールアドレス教えといて」
 と彼女はショッキングピンクのスマホを持っていました。
 いきなりそういうこと聞かれるとは思ってなかったので、ドキリとしました。
 ことわる理由もないなと思いつつ、カバンからスマホを出します。
 ことわる理由あるとしたら相手が人妻だからでしょうが、相手が教えてほしいと言っているのにこちらがことわるのもおかしなものです。
 それにことわると怒らせてしまいそうでした。
 しかし、スマホの画面を見ながら少し考えました。
 教えていいのかどうか。
 私自身、そう番号を教えたりするほうではありません。相手が女性でしかも人妻となればなおさらです。
 かつて経験したことないことに一瞬とまどったとしても、おかしくはないでしょう。
 そのようにして一瞬ながらかたまっていると、
「赤外線できる?」
 ときいてきました。
「ああ、できるよ」
 かつて赤外線をつかって番号を交換したことがあります。
「おくるね」
 私は受信をおしてみました。するとあっというまに番号がおくられてきました。
「こっちにかけてみて」
 その番号にかけてみました。
 そると彼女のスマホがバイブで震えました。
「あっ、きた。番号はこれね」
 彼女はホッとしたようにため息をつくとスマホをしまいました。
「あまりしょっちゅうかけてこないでね」
 と言われました。
「いやいや、そんなにかけないよ」
 というかかける用事はないのですが。
「旦那に見つかったら、やばいかも」
「えっ」私は一瞬にして教えたことを後悔しました。
「うそうそ。でも嫉妬深いから見つかるとよくないかも」
 と言い、いたずらっぽい目で私の目を見てきました。
「おいおい」
「うそうそ」
「そんなこと言われたら不安だよ」
「そうだよね」
「旦那って、どんな人?」
「それがね、めちゃくちや太ってるの」
「出会ったころから?」
「そう。でも出会ったころはまだましだったような気がする」
「じゃあ、しょうがないじゃん。それを承知で結婚したんでしょ」
「そうだけどますます肥えてきちぁって。ごはんをたくさん食べて、しかも味にうるさいの」
「最悪だ」私はその姿を想像して、つい言ってしまいました。
 すると怒るどころか彼女はうれしそうに、
「そう最悪なんだよ。どんだけ毎日苦労してるか」
「じゃあ、これから帰って作るの。はやく帰ったほうがいいんじゃないの」
「まあ、そうだけど旦那帰ってくるの遅いから間に合うの」
「ふぅん。そうか。じゃあ、食材の量とか多いんじゃないの」
「そう。休みに大量に買うし、ネット通販でも買う。たいへん」
「料理のレパートリー多いんじゃないの」
「まあ、数は作れるけど。きたえられたから。はじめのころ、どんだけ味に文句つけられたか」
 とプンプンして言うのです。
「それを毎日やるのたいへんだなぁ」
「そう。もっと外食にすると言ってくれたらラクなのに」
「こういうところ二人で来ないの?」
「来るよ。たまにだけど。ここにも来たことあるけど」
「そうなんだ」
「こういう生活いつまで続くのかと思ったら最近ぞっとしてきちゃって」
「なんだか末期症状だな。離婚したらいいのに」
「それを考えなくもないけど」
「しちゃえば」
「簡単に言うね」と彼女は私をにらみつけました。「簡単にできりぁあ苦労しないし」
「でも、そういうことみこして結婚したんでしょ」
「そりゃあるていどはそうだけど。あんなにひどいとは」
「思わなかった?」
「そう。それに離婚したらどうなるのか。あの工場の給料ではひとりぐらしたいへんだし」
「あれ、慰謝料があるんじゃない」
「そうかな」
「弁護士に相談でもしてみたら」
「そういうのバレたらこわいなぁ」
「なぐられる?」
「ありえなくないね」
「それこそ離婚でしょ」
「いっそのこと死んでくれりゃあいいのに。生命保険も入ってるし」
「おいおい、ぶっそうだよ」
 そこで二人して飲み物でのどを潤しました。
 そのあと彼女が何か言うのかと思ったら何も言わないので、なんだか不気味でした。
 急に憂鬱げに物思いに耽っている感じがしました。
 やっと口を開いたと思うとこう言いました。
「弁護士で知っている人いるの?」
 まさか本気だとは思いませんでした。口では悪口言っても、じっさいはそれほどではないのではないかと思っていました。
「いや、知らないけど」
「なんだ」
「ネットで調べたら」
「代わりに調べといて。帰って急いで晩御飯作らなきゃいけないから」
 というとジュースを飲み干して伝票を持って立ち上がりました。
 私も急いで飲み干して立ち上がりました。
 今日は私が払うべきかと財布を出そうとすると、
「いいから」
 と言い、私の分も払ってくれました。
 彼女につづいて店を出ました。階段を下りて、それぞれのバイクへ行く前の別れぎわに、
「じゃあ調べといてね。また明日」
 と言って、すばやくバイクで消えていきました。
 私はホッとため息つくとバイクに乗り、ゆっくりトロトロ帰りました。
 家に帰り、めしを食べ、風呂に入り、あとは少しテレビを見て、明日にそなえて早めに寝るところですが、彼女にああ言われたので久しぶりにパソコンをたちあげ、インターネットにつなぎました。
 検索で近くの弁護士事務所をさがしました。
 それも離婚専門の。
 自分がまさか結婚もしていないのに離婚専門の弁護士をさがすことになろうとは思ってもみませんでした。
 調べるとあっさり三つほど見つかりました。それらの名前を紙に書き、電話番号を記すと、深くホームページを見たりせず、パソコンの電源を落として、寝ました。

 次の日、あいもかわらずの仕事です。
 もはや何も言うことはなくなったと思えるほどです。
 私の意識は彼女にしか向きませんでした。
 朝は彼女が来るかどうかがポイントでした。来るのを見て「よしよし」という気分になります。
 もはや仕事中に話すことは重要ではなく、期待もありません。とにかく休憩や終業にならないかなという感じです。
 そして昼休みになりました。また彼女の隣に座りました。
「そうそう、例のやつ調べたよ」
「ああ、例のやつ」といかにも彼女は忘れていたという感じで言いました。「そう、だったら、また集合」
 あっさりさそわれて、うんとうなずくしかありませんでした。
 それから午後の仕事に入り、もはや機械と化して身体を動かしました。
 そして終業。
 また彼女はうしろを追い越していきます。
「先に行っとくね」
 私はうなずきました。
 彼女はファミレスで昨日と同じように待っていました。
 また同じ店員で、うしろからついてきて、また「ドリンクバー」と言うと、伝票を書いて、「ごゆっくりどうぞ」と消えていきました。
「なんかとってくるわ」
 と席を立ち、ドリンクバーに行きました。
 たった一日では変わったものがあるはずもありません。
 私は目についたグレープジュースを氷の入れたグラスに注ぎました。
 その間にちらりと彼女を見て、すこしこばしてしまいました。
 私はなみなみとつがれたグラスをこばさないようにそろそろと席まで持っていきました。
 こばさずに持っていけたことにホッとして座ると、
「いっぱいじゃん」
 と言われました。
「よそ見したら、こうなってた」
 私はこぼさぬように口を寄せて少しのみました。
 それをあきれたように彼女は見ていました。
 なんだかはずかしいので、
「そうそう。言ってたやつ調べといたよ」
 カバンから紙をとりだし、渡しました。
 それをのぞきこむと、
「ああ」と声をあげました。
「調べといてって、言ってたでしょ」
「そうね」と言うが、のり気ではなさそうでした。
「やっぱ相談する気なんかないんだ」
「どうかな。相談するとなんか離婚しなくちゃいけなくなりそうだし」
「まだ離婚する気ないんだ」
「というか、やっぱりこのまま旦那が消えてくれるのがいちばんいいなと」
「消えるって、消えるわけないでしょ」
「病気とか、事故でぽっくり死なないかな」
「そんなこわいことよく言うよ」
「あんたのほうが、よっぽど好きなんだけどなぁ」と言い、私の目の奥をいたずらっぽく見てきました。
 私は自分が赤くなるのを感じました。
「な、なんだよ。急に」
「やっぱ、結婚なんて早すぎたわ」
「だったら離婚すればいいじゃん」
「離婚かぁ……」
 彼女は遠くを見て考えるふうでした。
 お互い飲み物を飲みました。
 厨房のほうからカチャカチャ食器の音が聞こえてきました。店内はゆったりとした物憂げなピアノ曲が流れています。
「今晩、あたし死ぬかもしれないなぁ」
「き、きみが?」私はおどろいてききかえしました。
「そう。あの人、あれのときあたしの上にのってくるの」
「あ、あれ?」
「わかるでしょ。あれよ。正常位」
 いきなり、まったくの想定外のことを言われて、度肝をぬかれました。
「い、いきなりそんなこと言われても」顔が熱くなるのを感じました。
「あの人、あの時かならず上にのってくるの。体重100キロこえてるのに、そんなのにのってこられつづけたら、そのうち死んでもおかしくないよね」
「やめてって、言えばいいじゃん」
「それがやめないのよね。私が苦しんでるのを見て、喜んでんの」
「ドSだな」
「そうなのよね。こまっちゃう」
 彼女はそう言って、ストローで氷をかきまわしました。カランと氷とグラスがあたる音がしました。
「だから、ぽっくり逝ってくれやしないかと」
「そう思い通りいかないよ」
「こっそり、ごはんに毒でもまぜておこうかな。じょじょに病気になるやつ」
「ヒ素?」
「ヒ素っていうの。それまぜてもわからない?」
「確か無味無臭であったような……」
「どこで買えるの?」
「知らないよ、そんなの」
「調べといてよ」
「マジ? そんなの犯罪だよ」
「そういうことでも考えないと耐えられないの」
「しかたないなぁ」
「じゃあ、このへんで」と彼女はジュースを飲んで立ち上がりました。
 私もあわてて残りを飲み干して、立ち上がりました。
 彼女は伝票を手にとりました。また払ってくれるのかとおもいきや、
「今日は払っといて」
 と白い紙を渡されました。
 私はしかたなくうけとりました。
 彼女は先に歩きだし、会計を素通りしていきました。
 私は財布を出して、女性店員にお金を払いました。
 私はおつりをうけとり、急いで階段を下りました。
 彼女はもうバイクに乗っていて、私のほうを見ると、手を上げて去っていきました。
 やれやれ自己中だなと思いつつ、のろのろとバイクに乗って帰りました。
 家に帰り、ごはんを食べて、風呂に入るというルーティーンをこなしたあと、本来なら録画したテレビを見るのですが、いつもやるわけではないパソコンの電源を入れました。
 前回のようにウイルスソフトに多くの更新があったりするわけではありません。
 即座にヒ素と検索してみます。毒性についての解説はすぐでて、それをさらっと読みました。が、どこで手に入れられるとはすぐわかりません。まあ、危険物なので当然でしょう。
 でも、インターネットとはおそろしいもので、そのうちそういうこともわかってきます。
 どのようにしたら購入できるかというのを、なんの親切なのか懇切丁寧に教えてくれる人がいるものです。
 それらをふんふんと読み、サイト名をメモりました。プリントアウトできなくもないですが、めんどくさいし、紙がもったいないし、そんなものを印刷するというのは物騒なものです。
 あれこれ見ているうちに、ふと時計を見ると、けっこう深夜になっていて驚きました。
 これは早く寝ないと明日がしんどいぞと思い、急いで寝ることにしました。

 翌日、出社しました。
 例によって朝礼のあとで彼女がいるかどうか見ました。
 ところがいません。
 遅刻かな、と思いつつ仕事をやりました。
 ところが昼休みになって、いつもの席に座ると横は空席でした。
 気になって、その横におばさんにきいてみました。
「武田さん、どうしたんですかね」
「知らないけど、休みじゃない」
 やっぱり休みか。せっかく睡眠時間をけずって調べてきたのに。
 とはいっても、特別すぐ教えたいものではありませんでしたが。
 そのあと、いつものように仕事を終えました。
 退社するときになって、自分は明日休みだと気づきました。
 日々、一心不乱に仕事をし、食品工場で不定期に休みでは、いつ休みか、何曜日かというのはわからなくなってきます。
 明日、わざわざ朝早く起きて出社し、来てから、「休みなんじゃないの。なんで来たの」とか言われて、すごすごと帰るという失態をしなくてすんだかと思うとほっとしました。
 ということで、明日の予定などありませんでしたが、なにか食べ物を買って帰ろうとスーパーによることを思いつきました。
 バイクに乗ると、帰る途中にあるスーパーに寄りました。
 そこはまだできてまもなくで、けっこう大きなスーパーでした。
 ちょうど夕方時ということで、けっこう混んでいました。
 パンを買って帰ろうと菓子パンを選んでいるときのことでした。ちょうど棚の向こうの壁が鏡になっていました。これは万引き防止のためか、場を広くみせるためかわかりませんが、そうなっていて、私としては自分のみすぼらしい、疲れきった顔が見えるのでいやな気がしていました。
 何気にその鏡を見たとき、ふと気になる姿が見えました。
 彼女に見えたのです。
 たしか、このスーパーに買い物に来ると言ってました。休みの日に買い物に来たとしても不思議はないでしょう。もし、そうなら休みと言ってくれなかったことに文句を言ってやろうかと考えました。
 私は鏡に目をこらしました。どうも彼女に見えます。私には気づいてないようです。
 よし、驚かしてやろうと、思った瞬間です。
 彼女に横から、大きな物体が現れました。
 それは岩のように大きく、巨大風船のように丸まっているものでした。
 一目で旦那とわかりました。
 思った以上に大きく、思った以上に太っていました。
 しかも、ふてぶてしい、憎らしい顔をしていました。
 私は鏡ごしに信じられない動物を見るようにしげしげと見ました。
 彼女に旦那のことを聞いてないと、全く夫婦とは思わなかったでしょう。
 それほど不つりあいで、似つかわしくありませんでした。
 美女と野獣とはこのことだろう、と思いました。いや、巨大な肉塊の横では彼女はますます小さくおさなく見えて、美少女と肉獣という感じでした。
 その二人がこちらがわに向かってきたらどうしようかと思いましたが、さいわい、向こうにむいて歩きだしました。
 その動きはのろく旦那はまるでゆっくりと転がっているようでした。
 私はこれさいわいとすばやくパンをかごに入れ、レジに持って行きました。
 買い物をすませると駐輪場でちらりとふりむいた他にはふりむくことなく、二人を見ることなく家まで追われるかのように特急で帰ったのでした。
 その日は疲れもあって早めに寝れました。

 翌日のことです。
 もとより外出する気はありません。
 テレビを観て、うだうだするばかりでした。
 それでふと脳裏に浮かぶのはあの二人の姿でした。
 あとから考えると昨日は日曜で、旦那も休みでいっしょに買い物にでたのでしょう。
 そう考えると楽しそうに見えなくもありませんでした。
 また、彼女が旦那の休みにあわせて休んだのかと考えればジェラシーも感じます。
 そして、あの二人が夜の秘め事をやっているというのを思い浮かべるとなんともグロテスクでした。
 巨大蛙にのられおしつぶされそうになって、もだえている彼女。
 そんな想像をして、後悔しました。
 夜になって、ふと彼女に電話してやろうかと思いました。
 せっかくケータイ番号をおしえてもらったのだから、かけてもいいはず。
 どう反応するのか見てみたいという衝動にかられました。
 スマホをもち、彼女の番号を表示しました。
 ワン切りしてやろうかと思いました。するとおりかえしかけてくるのでしょうか。
 もし、そばに旦那がいたら、どういう口調で話すのでしょうか。
 気になります。興味があります。
 そう考えながら、スマホをいじっていました。
 けど、けっきょくのところ電話しませんでした。
 とくに言うことないわけですし、それで話してムッとされてもつまりません。

 そのようにして翌日を迎えました。
 まさか今日も休みではないだろうと、彼女が来るのを気にしていました。
 やはり彼女は出勤で、なにごともなかったかのように、いや、彼女にしてみればなにごともなかったということなのでしょう、普通に現れました。
 また昼までしゃべるチャンスはありませんでした。
 昼休憩になり、彼女の横に座りました。
「昨日休みだったんだね」と彼女が言ってきました。
「そっちこそ。おととい」
「あれ、言ってなかった?」
「よく言うよ。せっかく例のやつ調べたのに」
「ごめんごめん。例のやつ? ああ、例のやつね。だったら今日も集合だな」
 しぁべったのはそれだけでした。なにせだれが聞いているともかぎりません。
 それから午後はまた機械のように仕事にいそしみました。
 仕事が終わって、バイク置き場で、いつものように後ろを通り過ぎるとき、声をかけられました。
「先に行ってるよ」
 私は「OK」とだけ答えました。
 それからまたドリンクバーを頼んで、彼女の前に座るまで、まるでルーティーンにようにすすんでいきました。
 私はスーパーで見たことをどう言ってやろうかというのがありました。
「なんか調べてきたんでしぉ」
「それより、おととい見たよ」
「だれを?」
「君と旦那」
「どこで?」
「スーパー」
「ああ、買い物ね」
「仕事の帰りにスーパー寄ったらいるんだもん。びっくりしたよ」
「気づかなかったなぁ」
「あんなに旦那がでかいとは」
「言ってたでしょ」
「とても夫婦には見えなかった」
「じゃあ、何?」
「美女と野獣」
 彼女はそこでニヤリとしました。
「そんないいものではないけど」
「いいもの?」
「アニメでしょ。観たことないけど」
 そこで私は「美女と野獣」というより、「美少女と肉獣」だなと思いましたが、それは怒り出すかもしれないので、口にだしませんでした。
「とにかく、びっくりしたよ」
「すごかったでしょ。うちの旦那。まえはもっとましだったんだけど」
「まし?」
「もうちょっとほそかったってこと。結婚してから、ますますぶくぶくと」
「料理がおいしいからじゃない」
「まあ、そうかもね。作らされてんだけど」
 彼女はストローでジュースをかきまぜて飲んだ。
「昨日の晩に、ちょっと電話してやろうかと」
「なに? なにかあったの」
「いや、なにもないけど。いま話したようなことでも言ってやろうかと。まあ迷惑かもしれないからやめたけど」
「迷惑じゃないけど。でも横に旦那がいたら嫉妬するかもね」
「だろう?」
「まあ、わかんないけど」
「それより、あれ調べたよ」
「あれ?」
「毒物」
「ああ」
「本気じゃないんだろ」
「どうかな。どこで買えるの」
「そう簡単には買えないよ」
「だろうね」
「劇薬だからね」
「ホームセンターで買えるやつとかないの」
「ホームセンターねえ」
「ホームセンターでもそういうの売ってるんじゃないの」
「どうかな」
「調べといて」
「また? 簡単に言うよね」
「だって、そんなもの知らないし、家であたしが調べるわけにはいかないでしょ」
「ふふっ、そりっそうだよね。旦那に見つかったら『俺を殺す気か』って」
「でしょう~。だから、おねがい」と手をあわせられました。
「しょうがないなぁ」
「ということでおねかいね」と残りのジュースをズズズッと勢いよく吸いだした。
 私もあわてて吸い込みました。
 彼女が伝票持って立ち上がりました。
「今日はあたしが」
 と言うとレジに行き、代金を払ってくれました。
 私が一応払ってくれたことに対して、礼を言おうとすると、
「じぁあ、また明日」
 と言って、あっという間にバイクで消えていきました。
 私はいうとまたのろのろとヘルメットをかぶり、エンジンをかけました。私はため息をふ~っと吐いて、バイクに乗って帰りました。
 それからめし食べて、風呂入ってから、寝るまえに、またインターネットです。
 それにしてもインターネットというのは危険な情報にあふれています。
 犯罪者にとっては便利な世の中になったものです。
 もっとも自分は犯罪者になるつもりはありませんが。
 頼まれたので、しかたなく、ホームセンターで買えそうな毒物を調べました。
 考えてみれば、私たちのまわりに毒物などあふれているものです。ただ、口に入れないようにしているだけで、洗剤や整髪料など飲んではいけないものがたくさんあるのです。
 そのなかからホームセンターで買えるものを調べあげました。どれもたいして高くはありません。考えてみれば、そんなものがあっさり買えるような世の中というのもおそろしいものがあります。
 私はそういうものを調べてメモすると、眠りにつきました。

 またいつものように食品工場の朝がきました。
 毎日同じではあるけれども、微妙に天候や季節は動いていて、それにともなって商品も変化しているものです。
 私が入ってかれというもの、すでに新商品にきりかわっていましたが、私のすることといえばたいしてかわっていませんでした。
 私は先頭や終わりをやらされることがおおく、容器はほとんどかわらないので、変化は感じませんでした。
 ただし、容器のなかをみると、微妙にかわっていることに気づくという感じでした。
 途中の具材を入れるところに入れば、また違ったプレッシャーがあるのかもしれませんが、ラインのはじめやおわりについていれば、いったん慣れてしまえば、あとは体を機械のように動かすだけでした。
 もはや仕事がはじまれば、すこしラインが止まらないか、早く休憩にならないか、早く今日の仕事が終わらないか、しか考えません。
 とくに彼女と離れて仕事しているとなるとそうとしか思えません。
 たまにちらりとそのほうを見ても、ちょっと見えるぐらいでした。
 それにしても彼女がいなかったら、同僚もやめてしまって、とっくの昔に飽きて、どうしようもなくなっていたところです。それだけでも感謝せねばなりません。
 そのようにして、また昼休みになりました。
 彼女の横に座ります。
「調べてきたわ」
「ふ~ん、そう。またあとでね」
 それだけでした。あとはもくもくと食べるのみです。
 そして、あっというまに昼休みが終わりました。
 あと長い午後があるのみです。慣れたからといって時間がはやくならないのが困ったものです。むしろ、あきてより長くなった感じがします。
 ただ、また彼女と会えるというだけで、楽しみでワクワクしたものがありました。
 仕事が終わって、バイク置き場で彼女がうしろを通るとき、
「待ってるね」
 と声をかけられて、大きくうなずくのはここのところ毎日といえましょう。
 そして彼女が先に行き、私はゆっくり行きます。
 先に彼女がファミレスに入り、スマホをいじっているのを見つけるというパターンです。
 そして来たウエイトレスに「ドリンクバー」と言う。もはやウエイトレスは何も言わず、うなずきもせず、伝票を置いていくのみでした。
 そのあいだ彼女はちらりとこちらの顔を見ただけで、何も言いません。すぐスマホの画面に視線がもどります。
 私は席を立ち、すばやくドリンクをとりにいきます。
 いいかげんカフェオレもあきてきて、飲んだことのない抹茶ミルクのボタンを押しました。緑色したどろりとした液体が流れおち、なみなみとつがれました。
 それをそろそろと席に持ち帰ります。
 それをそろりと置くのを見て、彼女は、
「抹茶?」
「抹茶ミルク」
「抹茶、きらい」と不快そうに、すこしぶるぶると首を横に振りました。
「抹茶おいしのに」
「なんか口に残るような気がしない?」
「まあ、こなっぽいかな」
「でしょう」
「まあ、おいしいよ。抹茶アイスもだめなの?」
「だめ~」としぶい顔をします。
 こう見ると本当に子供にしか見えないなと思います。
「それよりいつもスマホでなにしてるの? 旦那とメール?」
「するわけないじゃん」
 といたずらっぽくほほ笑みました。
「ゲームだよ」
 とスマホ画面を見せられました。
 そこにはパズル系のカラフルなゲーム画面が見えました。
「ゲームかぁ。疲れててやる気しないなぁ」
「おもしろいよ。ストレス解消」
「まあ、それほどストレス解消するほどストレスもないけど」
 スマホから目を離してテーブルの上に置きました。
「ストレスなくていいなぁ。あたしはストレスだらけ」
「なんで?」
「知ってるでしょ」
「旦那?」
「そう」と言って、ため息をつきました。
「まあ、わからなくもないような気がしないでもないけど」
「なんでこんな人と結婚しちゃったんだろうと、つくづく思うの」
「たいへんだな」
「で、調べったって?」
「ああ」
 私は紙を広げて見せました。
「いろいろあるんだね。どれがおすすめ?」
「おすすめって」と私は苦笑せざるをえませんでした。
「おすすめなんてないよ。どれもばれたら犯罪だしね」
「じぁあ、ばれないやつはどれ?」
「バレにくいとなると、これかな」
 と私は指差しました。
「ふ~ん。そうなんだあ」
 と彼女は紙をしげしげとながめていました。
「そうか、ホームセンターで買えるのか」
 彼女が私の目を見つめてきました。
「なに?」
「いっしょに買いにいこうか」
「えっ、本当に買うの?」
「別につかわなくて家に置いといてもいいし」
「まあ、そうだけど」
「明日にでも、いっしょに買いにいこうか」
「明日?」
「なんかあるの? ないでしょ」
「まあ、ないけど」
「じゃあ、きまり。明日はここに来ず、あそこにあるホームセンター集合だからね」
「まあ、いいけど」
「じゃあ、きまり」
「いや待ってよ。ここならまだしも、ホームセンターでいっしょにいるのまずくない?」
「なんでよ」と口をとがらせました。
「なんかデートみたいだし」とすこしてれて言いました。
「デートでいいじゃん。ここもデートでしょ」
「まあ、そうだけど。あそこは会社の人に見つかるかもしれないんじゃないの」
「まあ、会社帰りのおばさんがいるかもしれないけど」
「そうだろう」
「まあ、それこそ偶然いっしょになったってよそおえばいいんじゃないの」
「そうだけど」
「じゃあ、きまりね」
 彼女はジュースを飲み干して立ち上がりました。
「ちょっとちょっと」
「なに?」
 私はほとんどジュースを飲んでなかったのであわてました。
「ゆっくり飲んだら。あたしが払っとくから。じゃあ、先に行くわ」
 私はストローをくわえながらうなずきました。
 彼女は代金を払って出ていきました。
 窓の外をのぞくと、下からエンジン音を鳴らしてバイクがでてきて、あっというまに道路に消えていきました。
 ため息をつきました。お金を払ってもらったし、別に早く出る必要もありません。
 私はジュースをのみほすと、あらたにカフェオレを注ぎに行きました。
 戻っても彼女はもういません。
 彼女がいたシートには、彼女がいたとすわりあとがわずかについていました。
 まだきっと生温かいだろうなという感じでした。
 私はもとの席につくと、ほっと一息つき、カフェオレを飲みました。ここに来るようになって、はじめて味わったような気がしました。
 時間をかけてカフェオレを飲み干しました。
 もう一杯ほかの飲みものをとりにいこうかとドリンクバーを見ました。あいかわらず、ドリンクバーは誰もいません。
 しかし、もう飲みものはほしくない気がしました。もう充分飲みました。ゲップがでそうです。腹がはっているのが、腹をさすってわかりました。
 もうこれ以上をここにいても時間の無駄のような気がしました。
 私は立ち上がりました。
 店を出るとき、軽く店員に会釈をしました。
 そして、ゆっくりバイクで家に帰ったのです。
 その夜はインターネットをする必要もなく、早めに寝れました。
 
 翌日もかわらぬ食品工場の一日です。
 従業員は機械のように働き、食品があいかわらず消費されていくのです。
 とはいっても微妙に数が減っていったり、新商品にきりかわっていましたが。
 それでも作業する側にとってはたいして変化はありませんでした。
 そうこうするうちに昼休みになりましたが、彼女の横に座っても、ほんの片言程度しか話しませんでした。
 勤務が終わってからのことも一言も口にだしませんでした。
 そして仕事が終わり、彼女が後ろを通りすぎるとき、こう言われました。
「さきにホームセンター行ってるよ」
 私はうなずくだけでした。
 彼女はさっとバイクに乗って行きました。
 私はのろのろとバイクに乗り、あとにつづきます。
 そのホームセンターに行くのはひさしぶりでした。夕暮れのなか、煌々と灯りがついていました。一階建ての、平たくて大きな白く角ばった姿が辺りに存在感を示していました。
 その横に雑多に自転車やバイクが置かれている場所がありました。
 そこのすみにバイクをとめました。彼女の姿はありませんでした。彼女のバイクは似たようなものがいくつかあり、どれかわかりませんでした。
 一瞬、来てないんじゃないかと不安になりました。
 電話をかけてみようかと思いました。
 いや、あんなふうに言ったのだから来ているはず。
 と思いなおし、なかに入ることにしました。
 来たことあるので、だいたい何がどこにあるかわかっているつもりです。
 なかはかなり広く、とても奥にある案内プレートは何を書いてあるのかわかりませんでした。
 彼女はどこにいるのだろうか。
 いるとすれば日曜大工用品があるような場所にいるはず。
 私はその場所に行き、棚に端から覗きました。
 すると彼女がつっ立っていました。
 私はホッとすると同時にうれしくなりました。そして近づいて行きました。
 それに気づいて、彼女が言いました。
「いろいろあってわかんないよ」
 いっしょになって探しました。
 たしかにいろいろありました。
 私は缶やチューブをとっては内容成分の項目を見ました。インターネットで調べた毒物が表記されていました。
「どれにしたらいい?」
 ときかれ、かんたんに、
「これにしたらいい」
 と言えるものではありません。
 あれこれ見ているうちに時間が過ぎていきます。
「あっ、もうこんな時間。はやくしないと」
 と彼女は言いますが、なかなかきめられるものではありません。
 私としては、やはり「これにしたらいい」とは言えません。
「もう時間切れ。きめられないわ。やっぱやめとこう。証拠残るし」
「いまさら」
「だって、しょうがないじゃん。きめれないし。今日は解散」
 というと彼女は出口へスタスタと向かいだしました。
 私もうしろをついていきます。
 彼女はふりかえりもせず、店を出ました。
 すでにあたりは暗くなっていました。電灯が駐輪場を照らしだしています。
「じゅあ、また明日」
 と言い残すと彼女は颯爽と去っていきました。
 それを見送ると、ため息をつきました。
 これで良かったのか。
 なんのために集まったのか。
 いや、これで良かったのだろう。
 と思いたかった。
 私はのろのろとバイクに乗るとゆっくり家路につきました。

 翌日、昼休みに横に座ると、なぜか彼女は怒っているように感じました。
 なんだか気まずいので、しばらくしてから、
「昨日はどうも」
 とひとこと言いました。
「また集合だかんね」
「えっ、昨日の?」
「ううん、おととい」
 それを聞いて、ほっとしました。また昨日のようになっては苦しいからです。
 しかし彼女はそう言っても、まだプンプンしているようでした。
 よっぽど何か腹立つことでもあった?、とでもきこうかと思いましたが、よけい怒りそうでやめときました。
 それから午後の仕事です。
 頭の中は無で、ただ身体を機械のように動かすだけです。
 仕事が終わり、またバイク置き場に行きます。
 すると彼女がうしろを通ります。
 あいさつぐらいするのかと思いきや、無言で通りすぎていきました。
 まだ何か怒っているのでしょうか。
 彼女はバイクで去っていきました。
 その行動はいつもと同じだったのかもしれませんが、どこか怒っているように見えたのは気のせいでしょうか。
 彼女はそのまま帰ってしまったのではないでしょうか。
 かといって一応約束したのだし、ファミレスに行かないわけにはいきません。
 私はゆるゆるとバイクを走らせ、ファミレスに向かいました。
 バイク置き場を見て、彼女のバイクがあってホッとしました。
 反面、また怒ってる彼女の相手をしなければならないというちょっと憂鬱なものをありました。
 私はそういう気分と仕事の疲れもあって、重たい身体をひきずるように階段を上がりました。
 ドアを開けると、また彼女はいつもの席に座っています。
 私がドリンクバーに飲み物をとりにいって、帰ってくるまで、スマホの画面からちらりとも顔を上げません。なにやら画面をいじっています。
 それは飲み物をとってきて、それを飲んでも続けられています。
 私はとうとうたまらず、
「またゲームですか」
 と言ってみました。
「うん」
「なにか怒ってる?」
 彼女はパッと顔をあげて、真顔でこう言いました。
「ううん、なにも」
 私はとりあえずほっとしました。
「もう食べ物に何か混ぜるなんてこと考えるのはやめとく。やっぱ、てまひまがかかりすぎるわ」
「そう。それでいいんじゃない」
 彼女はきっとこちらを見ました。
「うちに来て」
「うち?」
「あたしの家」
 なにを言いだすのか私にはわかりませんでした。
「家?」
「そう。ものとりのふりして入ってきてよ」
「も、ものとり?」
「それで旦那なぐっちゃってよ」
「な、なぐる?」
 私は動揺しました。なにを言いだすのか。
「そうなぐって。財布もっていっちゃていいから」
「な、なにもそんなことしなくても」
「それがてっとりばやいのよ。どこからはいって、どこにいるかちゃんと教えるから」
「そんなこと言われても」
「おねがい」
 と彼女に手を合わされました。
 私はなんともいえず、それを見ていました。
「だめ、じゃないよね。これだけたのんでいるのに」
 彼女は合わせた手をおろし、色メガネの奥からにらみつけてきました。
「せめて考えさせてよ」
 私はこう言うのがせいいっぱいでした。
「いつまで?」
「そうだな……」
「明日のここに来るまでね。いいでしょ」
「まあ、とりあえず」
 というのがせいいっぱいでした。
 私は思考停止で、ため息しかでませんでした。
 無言でジュースを飲むうちに、
「じゃあ、また明日ね」
 と彼女は伝票を持ち、去っていきました。
 窓から彼女が去っていくのを見送りました。
 私は腰が重くなるのを感じました。
 どうもおかしなことになってきたという気がしました。
 彼女の気持ちはわからなくはないが……。
 彼女を助けたいという気がないわけではないが……。
 それからあとは頭がまわりませんでした。
 疲れもあったでしょう。
 それはもう一杯ジュースを飲んでも変わりませんでした。
 よけいに思考能力は鈍ってくるのみでした。
 私はため息をつき、立ちました。
 それからゆるゆると家まで帰りました。ため息ばかりついていました。
 憂鬱で、はじめて会社を休もうかと考えました。
 体調が悪いと電話をかければ休めるはず。
 私が体調が悪いと休めば、彼女は考えを変えてはくれはしないか。
 でも、一日休んでも彼女は考えを変えないかもしれません。
 いっそのこと、このまま辞めてしまえば。
 でも、電話番号交換したことを思い出しました。
 電話はかかってくるでしょう。
 まあ、でなければいいことなのですが。
 そんなことを考えているうちに時間は過ぎます。
 疲れているので、とにかく寝ようと思いました。
 寝て、朝になれば、いい考えが浮かぶかもしれません。
 
 そのようにして寝て、朝はいつものようにやってきました。
 一応、疲れがとれ、すこしはさわやかな気分もします。
 前夜の会社を休もうという考えは、馬鹿らしいことのように思えました。
 そうですから、いつものように時間になるとバイクに乗って、出勤しました。
 彼女が来ているのを見ても、とくに何も思いませんでした。
 しかし昼間になり、彼女の横の席が空いているのをみて躊躇しました。
 座らないでおこうかと。
 でも、いつものように座ってしまいました。
 座ったので、すぐに立つわけにもいきません。
 無言をつらぬこうかと思いました。
 が、こう話しかけられました。
「考えた?」
「まあ……」
「じゃあ、あとできくわ」
 それだけでした。なんだかいっきに憂鬱になりました。
 きっぱりことわり、説教するくらいでないといけないのではないかとさえ思えてきました。
 そのような気分で午後の仕事に入りました。機械のように身体を動かしていれば、まるでスポーツをやっているかのような爽快感を感じることもないではありませんでしたが、やはり疲れと心の重さは溜まっていきました。
 そのようにすっきりしない感じで、その日の仕事を終えました。
 さっさと彼女を無視して帰ろうか、いやせめて用事ができたから行けないとでも言おうかと思いました。
 いつものように着替えてすぐバイク置き場に行くと、彼女に声をかけられると思い、いつもは行かないトイレに行きました。
 そして、したくもない大便所に入り、座って小をしました。
 小が終わっても、すこしじっとしていました。が、そんなところにいつまでもじっとしていられるわけではありません。
 ただ換気扇の音が耳に、トイレットペーパーを持ち帰らないでくださいという文字が入ってくるばかりです。
 私はゆっくりと立ち上がり、トイレを出ました。
 建物を出て、バイク置き場に向かいます。
 私のバイクのそばに人が立っているのが見えてドキリとしました。
 うしろ姿でわかりました。
 彼女です。
 一瞬引き返そうかと思いましたが、行くところなどありません。
 しかたなく、そちらに歩いていくと、彼女が振り返りました。
「どうしたの。いつもみたいにいないから」
「ちょっとお腹の調子が悪くてトイレへ」
「そう。大丈夫なの?」
「まあね」
「じゃあ、ファミレスで待ってるよ」
 私はうなずきました。
 彼女は動かない私に一目もくれることなく、いつものようにバイクで行ってしまいました。
 私はため息をつきました。
 また、このまま帰ってしまうことが頭によぎりましたが、いつもでも逃げていてもしかたがありません。行かざるをえないなという感じでした。
 私はけだるくバイクにまたがると、エンジンをかけ、動きだしました。
 ゆっくり走らせてもそう遠くはありません。
 いつものようにファミレスはあります。
 もはやそうなるといつものようにバイクを停めて、階段を上がっていくしかありませんでした。
 ドアを開けると彼女がいつものように座っているのが見えました。
 ただ、いつもと違うのは、あの大きな色眼鏡の奥からこちらを見ていたことです。
 その姿を見て、ドキリとしました。
 店員をひきつれて、彼女に前に座りました。
 ドリンクバーと店員に言うのを見ると、彼女はこうきいてきました。
「大丈夫?」
「うん」
「よかった。来ないんじゃないかと心配だった」
「そう」
 私はうなずくと立ち上がり、ドリンクバーに行きました。
 なんだか本当に具合が悪いような気分になったので、ちょっとでも元気がでそうな野菜ジュースにしました。
 私はしかたなく席にもどりました。そしてすぐジュースを飲みました。おもいのほかすっぱくて顔をしかめてしまいました。
「考えた?」
「なにを?」そう言った自分に驚きました。
「なにをって、うちに来てくれるやつよ」
「君の料理を食べさせてくれるのか、うれしいな」
「なにを言ってるの。旦那をやりにきて」
「まだそんなこと言ってるの。だめだよ、そんなこと言っちゃ」
 私としては、もうなんだかやぶれかぶれでした。なるようになれ、という感じでした。
「じゃあ、来ないのね」
「そりゃ、そうだろ」
 彼女はバンッとテーブルを両手で叩きました。
 驚いて、店内を見回しました。客が遠目から数人見ていましたが、さいわい店員の姿は見えませんでした。
「だめだよ。そんなことをしちゃ」
 と言い終わらぬうちに、彼女はカバンをひっつかんで立ちました。
 そしてあっというまに出口から消えていきました。
 窓の外を見ると、かつてないほどのいきおいでバイクがすっとんでいきました。
 あとに残ったのは夕暮れの景色と店内の不釣り合いなほど優雅なピアノのBGМでした。
 私は野菜ジュースを飲んで、こう思いました。
 これでいいんだ。これで彼女との関係が終わってもしかたない。それにあっちは旦那もちだろ。もともとあまり意味のないつきあいだったんだ。
 私にはほっとした気持ちとどこか残念な気持ちがある気がしました。
 それは彼女の期待にこたえられなかったせいだろうか。
 これで彼女との関係も終わりのせいだろうか。
 なんとも複雑で微妙な感情がありました。
 私はグラスを飲み干すと立ち上がりました。
 ふと伝票が残されていることに気づきました。ここのところ彼女が払うのがあたりまえになっていました。
 最後かもしれない。しかたない。
 と思い、伝票をつかみました。
 会計をすまし、外に出るとどこかさわやかな気持ちもありました。
 外気とともに、このファミレスからか、近所の住宅からなのかわかりませんが、おいしそうなカレーの匂いがしました。
 はらへったな。はやく家に帰ろう。
 私はバイクに乗ると、とくに何も考えることなく、家に帰りました。
 あとはめしを食って、風呂に入り、インターネットとテレビをなんとなく観てすごしました。
 そういう時間はあっというまに過ぎるもので、もうこんな時間か、と寝なければいけない時刻となって残念な気がしたものです。

 翌朝、けっこう寝ざめの良いものでした。
 ここのところ彼女のことばかり考え、しばられていたせいでしょうか。解放されて、さわやかな気分になれたのかもしれません。
 翌日の仕事もいい意味で無になれました。
 まるでスポーツをするかのように身体を動かしました。
 朝に彼女が来ていることはわかっていましたが、仕事が隣でないかぎりは関係ありません。
 問題は昼休みです。
 こちらからは避けることはないと思い、彼女の横に座りました。
 ちらりとこちらを見て、
「おはよう」
 と言ってきました。
 まあ、昼なのに「おはよう」はないだろうとつっこみたいところでしたが、やめときました。
 それ以上何も言ってきませんでした。
 私は席を立ち、これでいいと思いました。なにかあるのなら、なにか言ってくるだろうし、なにもないならなにも言ってこないだろう。それでいいと思いました。
 そのようにして仕事を終えました。
 バイク置き場に行くと、彼女がうしろを通り過ぎました。
「お疲れさん」
 と言われ、それをかえしました。
 まえのように「待ってる」とかいうのはありませんでした。
 私としては翌日は仕事は休みでしたし、時間に余裕があるので、ちょっと残念でさびしい気がしましたが、妙なことをもちかけられ、悩むよりましかなとも思えました。
 そのようにして、いつもより早めに家に帰ったものです。
 家に帰り、めしを食べ、風呂に入り、インターネットを見ました。それでもどこかものたりない、つまらないものがあったのでテレビを観ました。
 そのようにしてもものたりず、面白くないものがありましたが、もう時間も時間なのでテレビを切りました。そしてもう寝ようかと思っていました。
 そんなときです。スマホがブルブルしたのは。びっくりして画面を見ました。そこには非通知とありました。
 なんだ非通知かと、ほおっておこうかと思いました。間違い電話がたまにあるからです。
 でも、なぜかでてしまいました。ちょうど退屈していたからでしょうか、それとも虫の知らせということでしょうか。
「はい」
「片山くん?」
「はい」
 声ですぐわかりました。彼女だということを。なんだかうれしいものがありました。このまま疎遠になるのではないかということを覚悟していましたから。
 とにかく電話をかけてきてくれたのはうれしかったのですが、反面、ならばなぜ非通知なのか気にかかりました。通知してくれれば、もっと気持ちよくでれたのに。
「いま、ちょっといい?」
「いいよ」
 他の人なら、こんな時間になんだよ、というところでした。
「いまからこっちこない?」
「こっち?」
「あたしんちよ」
「ああ」
「いまがチャンスだからさ」
「チャンス?」
「旦那が珍しく酔って帰ってきたからさ。いまならなんてことないよ」
「なんてことない……」
「するこというから来て。おねがい」
 そんなこと言われても、という思いと、今まで若い女性に「おねがい」と言われたことがあるだろうか、という考えも浮かびました。
「聞いてる?」
 ほんの数秒間だまって考えていたのでしょう。
「とりあえす、来て」
「とりあえずということで」
 と言ってしまいました。
 家の場所を教えられました。
「じゃあ待ってるからね」
 スマホの通話をきりました。
 それで大変なことを承諾してしまったなと思いました。彼女がどんなところに住んでいるのかという興味はありました。それが承諾してしまった一因でしょう。
 それからは承諾したことに対する後悔と闘いながら、出る着替えをしました。
 そして真っ暗な外に出ることに違和感をおぼえました。町は寝静まっています。
 もうそこには昼間の明るい喧騒はありません。
 私はバイクにまたがると、その静まりかえった町にエンジン音を響かせました。自分でも驚くぐらい大きな音に感じたものです。
 私はそこから逃げるようにバイクを走らせました。
 意外に自分の家から近いので驚きました。
 ただし、そこは新しく空き地に住宅をつくられたところで、新しい住宅が建ちならび一度として、足を踏みいれたことのない地域でした。
 足を踏みいれたことのない地域で、しかも真夜中で、外灯がぽつんぽつんとしかないものですから、バイクを走らせるにしても、おそるおそるという感じでした。
 そして、もう百メートル以内のはずだなと思えると、心臓が急に早鐘を打ちはじめました。
 私はそこでエンジンを切りました。冷静をとりもどしたいのと、彼女から家にはバイクで乗りつけず、ちょっと離れたところから歩いてきてと言われていたからです。
 夜中のバイクで乗りつけるという目立つ行為はすべきではないからでしょう。
 そこの道端のバイクを置きました。こんな時間にバイクをどこかに持っていかれる心配はありません。
それから彼女の家がある方向に歩いていきます。どんどん心臓は高鳴っていきます。
 私はきょろきょろしながら、目的の家をさがしました。
 なにせ行ったことのないところを、たよりない外灯がたよりです。懐中電灯は持ってきていましたが、へたにつけてめだちたくありません。
 私はもうそろそろここかなと立ち止まり、きょろきょろしました。両サイドには小ぶりながら一軒家の住宅が並んでいます。
 すぐ近くの家の表札がでていたので、門に近寄って見てみました。
 驚きました。いきなり彼女の名字だったからです。
 番地も言われたものと同じでした。
 私はこれが彼女の家かと見上げました。
 その小さな一軒家には灯りがついていませんでした。
 私は門に手をかけました。その手に手袋がされていることを確認しました。
 それを押すとスッと開きました。
 小さな庭のようなものは月明かりにぼんやりと浮き上がって見えました。
 私はすこしでも足跡を残さぬようにと土の部分ではなく、飛び石の部分をはずさぬように歩きました。
 すぐに玄関先にたどりつきました。
 彼女からは、そのドアではなく、裏口にまわるように言われていました。
 壁づたいに右にまわっていくと細い塀沿いの道がありました。べつに物が置いてあって通りにくいわけでもなく、月明かりがして、先が見えていたのでほっとしました。
 私はそこをなるべく音をたてぬように、ゆっくりと進みました。
 裏手にでると一気にひらけていました。
 裏は空き地のようです。
 住宅が密集して、どこに目があるかわからないのは疲れます。
 そしてそこには小さな庭がありました。
 壁づたいを見ると、なかほどに裏口らしきものがありました。
 これかと思い、そろそろ歩みよりました。
 それが月明かりに細めに開いているのが不気味でした。そして、よく見るとドアノブがなく、壊れているのに驚きました。
 いきなりドアがバッと開きました。
 私はびっくりして息をのみました。心臓が縮みあがりました。
 なかから彼女の顔がのぞきました。
「ドアは壊しといたから」
 と小声で言うのです。
「び、びっくりした」
 と言うのがせいいっぱいです。
「さあ、入って」
 言われるままに入りました。
 なかは小奇麗にかたづいています。私は習慣的に靴を脱ごうとしました。
「靴は脱がなくていいの」
「あっ、そうか」私は脱ぎかけた靴をふたたび履きなおしました。それで靴のまま小奇麗な家にあがりました。靴のまま家にあがるのは日本人の感覚として変な感じがします。
 暗い家のなかを彼女について歩きます。彼女は廊下の途中で立ち止まるとひそひそ声でこう言いました。
「旦那は酔っぱらって、居間のソファで寝てるの。朝までぜったい目を覚まさないから。窓際にある重い置時計で殴って」
「こ、殺すの?」
「いないほうがいいでしょ。あんたが帰ってから警察に電話するから」
「け、警察にはなんと?」
「二階で寝てたら、物音がして、おりていったらこうなってたと言うよ」
 私はあまりにも一気に言われて動転していました。
「頼んだよ」
 そう言うと彼女は二階にあがっていきました。
 静けさのなかに、いびきらしき音がガーガー聞こえてきます。
 そこに行けばやつがいることはわかっていました。
 廊下の奥から薄明かりがもれています。
 私はそのまま固まってしまったかのように動けませんでした。
 どうしたらいいものか。
 とりあえず居間をのぞいてみるか。
 居間には微妙な薄明かりがしていました。見上げると天井の丸い電灯が薄明かりをはなっていました。
 窓には分厚いカーテンがひかれいて、右手には大きなテレビがありました。
 その対面の壁にソファがありました。そのうえに巨大な物体が横たわっていました。それは大きないびきをして、上下に波打っていました。
 まるで豚のようだ。
 豚の寝るところなど見たことないのにそう思いました。
 きっと豚が寝ているのもこんな感じだろう。
 ただし、その豚のような物体の上には、毛布のようなものがかけられていました。
 彼女がかけたのだろうか。いまさら風邪ひきを心配してもしかたあるまいに。
 私は軽い嫉妬をおぼえました。
 それにあまりにもいびきがうるさすぎました。はやくこの騒音をとめたい。
 私は壁際に目をやりました。
 そこには彼女が言ったように時計の置物がありました。
 あれだな。
 私は足音をたてないように部屋に入りました。あまりにもいびきがひどいために、足音など聞こえませんでした。また居間にはふかふかのじゅうたんが敷かれ、足音などしようもありませんでした。
 近寄ってみると、その時計は正確に時を刻んでいるようでした。
 私はその時計を両手で持ってみました。思った以上にずっしりと重たいものがありました。
 だから、すぐ元の位置に置きたくなりました。しかし置くと音がしそうでした。置いて音がして、目を覚まさせるのが怖い。
 かといって、ずっと持っているのは腕がちぎれそうです。
 あとからおもえば、その時計をふかふかじゅうたんの上に置けばよかったと思えました。
 しかし、その時、私はそんなことを思いつくことはありませんでした。
 これははやくやっちまわなければいけない。
 私はその重い時計を持って、男に近づきました。
 その丸々とした肉獣は大きな音をたてて波打っています。
 毛布から頭はつきでていますので、そこにふりおろせばいいのだと思いました。
 私は薄暗がりのなか、時計をふりあげました。
 そこでなにかが動くのが見えました。
 一瞬、男が動いたのかとドキリとしました。
 しかし、それは自分の影でした。
 ホッとした瞬間、腕の力がぬけました。
 すると時計が手のなかから、するりとぬけました。
 それは床の絨毯には直接落ちませんでした。
 絨毯の上に落ちる前に何かにあたりました。
 それは自分の足の上でした。
 グキッというすさまじい音を聞きました。
 そして自分の悲鳴も聞いたのです。
 あまりもの痛さのために、出してはいけない声をだしていたのです。
 そして天地がひっくりかえりました。私は痛さのあまりその場にひっくりかえったようです。
 それからあたりがパッと真昼のように明るくなりました。
 そして猛獣の怒号のようなものが聞こえました。
 足の痛みでそこをおさえていたのに、身体のあちこちに衝撃と新たな痛みをおぼえました。それは永遠に続くかと思われました。痛みはどんどん増していきました。
 彼女の悲鳴らしきものが遠くのほうで聞こえてきたころ、私の意識は遠くなっていきました。

 それから意識がもどり、目を開けたとき、そこがどこかまったくわかりませんでした。
 白い部屋。
 カーテンで仕切られ、ベッドだけがありました。
 私はそこに布団をかけられ、寝ていたようです。
 私は起きあがろうとしました。
 すると足に激痛が走りました。
 私はうめきつつ、なんでこんなに足が痛いのかわかりませんでした。
 そこでハッと思い出しました。
 重い置時計をふりあげたこと。
 そして、それが手から滑り落ちたこと。
 そのあとの激痛。
 暗闇の世界。
 布団をめくると足が包帯でぐるぐる巻きにされていました。
 こうなったのかとふにおちました。
 そこでカーテンがパッと開いてドキリとしました。
 白い服を着た女性が入ってきました。パーマとメガネをかけたおばさんでした。
 その女性は私の目をのぞきこむようにして見るとこう言いました。
「痛くないですか」
「それほどでも」それは本音でした。
「先生呼びますね」
 女性はカーテンの外にでると、すぐにメガネをかけた白衣の知的な感じのする男性が入ってきました。そのうしろにさきほどの女性もいました。
「痛くないようですね。さいわいにも骨は折れてませんから。打撲で数週間で治るでしょう」
 そう言われ、ホッとしてうなずきました。
 間があったので、こちらからききました。
「ここはどこですかね?」
「病院ですよ。佐藤病院」
 佐藤病院といえば、家からそう遠くない知っている病院でした。
 そうか佐藤病院か……。
 と思っていると、カーテンがサッと開いて、スーツ姿の男二人が入ってきました。
 それと入れ違いに白衣の二人が出て行ってカーテンが閉められました。 
「片山さんですね」
 ベッド横にあった丸イスに二人はサッと座るとそうきいてきました。
「そうですけど」
「あなた、武田さん宅に侵入しましたね」
 そう言われて、あっ、と思い出しました。あの夜の出来事を。まさに走馬灯のように。そうするとこの二人は刑事なのかと思うとなにも言えませんでした。
「意識不明でここに運びこまれたんですよ。よほど痛かったんでしょうね」
 私は頭が真っ白で何も考えられませんでした。
 ただ、「はい」と言いました。
「なにしに入ったんですか」
 なにしにと言われても、という感じでした。
 まさか彼女に頼まれ、旦那を殺すつもりでしたとは口が裂けても言えるものではありません。
「そこの奥さんがあなたのことを知ってると言ってましてね。あなたも知ってるでしょ」
 まさか知らないとは言えません。
「はい」
「なにをしに入ったんですかね」
 男二人はこちらが何か言うのを待っています。
 頭に浮かんだことをきいてみました。
「そこの奥さんはなんと言ってるんですかね」
「あなたのことを知っているけど、なんで家に入ってきたのかわからないと言っています」
 ショックでした。大ショックです。
 彼女に私をかばうようなことを言ってほしかった。これではまったくの私一人が悪者ではありませんか。
 絶望を感じました。
「眠らせてください。質問に答える気力がありません」
 男二人は顔を見合わせました。
「そうですね。当夜のことをよく思い出しといてください。また来ます」
 そう言って立ち上がると二人はカーテンの外に消えていきました。
 私は横になり、ため息をつき、泣くにも泣けず、ため息ばかりつきました。
 困ったことになったぞ。
 彼女と連絡をとり、文句を言いたい気分でいっぱいです。もとはといえば彼女が言ってきたことではありませんか。いまさら知らぬ存ぜぬではひどすぎる。
 彼女はどういうつもりなのだろうかと考えました。
 考えてみれば、彼女にすれば私が失敗したことに不満があったのかもしれません。
 それがあのような言動につながったと考えられなくもありません。
 私としてはどうしたらいいのでしょうか。
 ふと、私のスマホはどうなったのかと思いました。
 私は知らないうちに薄いブルーの服を着せられています。
 身の回りに私の持っていたものはありません。
 警察に回収されたのでしょうか。
 それならば彼女と連絡をとりようがありません。
 彼女がこの場にでも来ないかぎり話もできません。
 しかし、彼女がのこのこここに来ることがありえるでしょうか。自ら、共犯だと言っているようなものです。
 すべてを刑事に話すべきかどうか、考えました。
 話すと泥仕合がはじまるでしょう。
 考えてみれば、彼女が私をそそのかしたという証拠はないでしょう。すべて私の妄想と言われてもかえすことばもないでしょう。
 もはや、彼女への想いを断ち切らねばならないのではないでしょうか。
 私はそのような問答を心のなかで、ベッドで横になりながらくりかえしていました。
 そして、疲れて眠る。
 目が覚めて、また考える。
 の繰り返しでした。
 それから、もう一つ恐れていたことがおこりました。
 ちょっとはなれた実家から両親が病院に来たのです。
 そのことはあまり思い出したくないことですので、簡単に述べましょう。
 警察から事情をきかされていたようで、いきなり、なんてことをしてくれたんだと言われました。
 私は返す言葉もありません。
 さんざん叱られたあと、やっと足のことを心配されました。
 両親は警察にすべてのことを話し、罪をつぐなうように言って、帰っていきました。
 私にとって地獄のような時間は終わりました。
 翌日、あの刑事たちが現れたときには、意志はかたまっていました。
 私は刑事たちに言いました。
「弁護士を呼んでください。話はそれからです」
 刑事は顔を見合しました。うなずくとこう言いました。
「わかりました。それには留置所に移ってもらわねばなりません。いいですか」
「はい」
「足の具合が悪ければ、その都度この病院に来てもらいます。いいですね」
「はい」
 足の具合といっても、さほど痛みを感じていませんでした。それよりも、はやくこの状態をぬけだしたいというのがありました。
「それと私のスマホはどうなったんですかね」
「それは没収させてもらいました。公判になれば証拠として提出しなければならないのでね」
 すでに裁判という戦いははじまっているのだなと感じました。
 数時間後、私は数人の刑事にかこまれ、黒塗りのワンボックスカーに乗せられました。
 両脇から刑事にはさまれています。
 ふと、手錠をしなくていいのか気になりましたが、こちらから言って、すると言われれば藪蛇です。だから黙っていました。
 クルマで、行ったことのある地元の警察に連れて行かれました。
 そして、入ったことのない奥へ連れて行かれると、そこには牢屋がありました。
 そこに入れられるのかと思うと、一気に気分はどす黒い憂鬱に染まりした。
 そんな気持ちなどおかまいなしに閉じこめられました。
 とにかく、ここからはやく出たい。出なければという気持ちが高まってきました。
 そんなとき、警官から、
「弁護士さんがみえられました」
 と言われ、急に緊張しました。
 牢屋のカギが開けられました。
 そこから出ると、すぐそばにあるドアを指し示されました。
 そのドアを開けると、机と椅子があって、その向こうがガラス張りになっていました。
 そこにメガネをかけ、スーツを着た男がいて、私を見ると立ち上がり、会釈をしてきました。
 私が椅子に座ると、その人も座りました。
 ガラスにあけられた穴から声が伝わってきました。
「国選弁護人のマキタです」
「どうも」
「不法侵入の容疑で逮捕されたようですが、事実でしょうか」
「そうです」
「それを全面的に認められるわけですか」
 私はそこで迷いました。
「なんともいえません」
「失礼ですが、前科は?」
「ないです」
「そうですか。初犯ということになりますので、仮に実刑を受けられたとしても、罰金刑ですみますよ。前科はつきますけどね」
「罰金っていうのは?」
「おそらく十万ほどですかね」
 高いといえば高いが、それぐらいの金はないことはないし、それで解放されるならという気持ちがかすめました。
「どうします?」
 弁護士は私を見つめてきました。
「被害届がなければ、そんな金ははらわなくてもいいんですよね」
 弁護士は一瞬、間をおくとこう言いました。
「たしかに。たしかにそうです。でも現実的にはでているからここにいるわけですから。それともひっこめてもらう見込みでもあるんですかね」
「いや、それはなんとも……」
 一瞬、すべてを話してほしくなかったら、被害届をさげるよう、彼女に手紙を書いてわたしてもらおうかと考えました。でも、私らしくありません。
 しかし、このままむざむざと前科一犯と罰金になるのは悔しすぎます。
「手紙を書くのでわたしてもらっていいですか」
「いいですけど。誰に?」
「奥さんに」
 弁護士はゆっくりとながらうなずいてくれました。
 もし、それでだめなら、また考えよう。
「今書きます。待ってもらっていいですか」
「わかりました。紙とペンをそちらにわたします」
 というと弁護士は立ち上がり、ドアを出ていきました。
 私はホッと息をつきました。椅子の背もたれにもたれかかると、気分がやわらぎました。
 しかし、なんて書いたらいいんだ。
 という想念がわいてきました。
 これはよく考えて書いたほうがいいのではないかと思えてきました。
 へたするとなにもかもぶちこわしになる。
 そこへドアが開いて、また弁護士が入ってきました。
「紙とペンは今、そっちへ持っていきます」
「あのう、今日中に書くので、明日来てもらっていいですか」
 弁護士はすこし上をむいて考えるふうでした。
「いいですよ。でも、時間によりますよ」
 そこへ警官が紙をペンを持って入ってきて、机に置きました。
「いつでもいいですよ」
「わかりました。こちらの都合がよい時間ということで」
「それから、その手紙の結果がでるまでは、私は黙秘でいきますよ」
「ああ、そうですね」
 そして弁護士は来る時間帯を言いのこし、去っていきました。
 私はまた殺風景な留置所にもどされました。
 紙とペンは手元にあるままです。
 私は文面を考えました。
 でも、簡単にはきまりませんでした。
 そうこうしているうちにめしがさしだされてきました。
 パンとコーヒー牛乳という簡単なものです。
 私はあれこれと考えながら、それらを食べました。
 食後、まだ一文字も書けないまま、呼ばれました。
 取調室です。
 まえには例の刑事がいました。
 名前、住所、年齢を言わされました。
「では、すべてを話してもらいましょうか」
「いえ、話しません」
 刑事は意外そうな顔をして、不快げにこう言いました。
「弁護士にあったでしょ?」
「はい。でも、まだ、しゃべりません」
「黙秘ですか」
「はい、そうです」
「いつになったらしゃべるんですか」
「先方に弁護士を通じて手紙をだします。その返事が来てからです」
 目の前の刑事は後ろに座っていた刑事と目を合わせました。
「わかりました。いいでしょう」
 そして、また独房にもどりました。
 それからあれこれ悩んだものです。
 ただ、被害届をとりさげてほしいでは効果は期待できないかもしれません。
 かといって、これまでのことをすべて話すと大変なことになるぞ、とおどすのもしょうにあいません。
 考えた末に寝るまえにやっと書いた文面はこうでした。

警察にすべてのことを話してほしくなければ、被害届をとりさげてください。

 私はその文面をおさめた封筒を頭の上において眠りにつきました。これでいいのだろうかという気持ちをもちながら。
 翌朝、わりあいすっきり起きれました。それとこの手紙でいこうと決心がつきました。
 時間通りに弁護士が来ても、もう迷いはありませんでした。
「これを彼女にわたしてください」
「わかりました」
 そして二日間の時が流れました。私にとっては長い時間でした。
 弁護士が来たので、何か進展あったとわかりました。
「あのあと本人に会いましてね。手紙をわたしました」
「それで?」
「それで昨日本人から手紙があるのでとりにいきました。これです」
 弁護士はかばんから封筒をとりだしました。
 それは係員からこちらにわたってきました。
「じぁあ、読んでみます」
 私は封筒をあけて、なかに入っていた紙をひろげてみました。
 そこにはこう書いてありました。

 なんのことかわかりませんし、夫は被害届をさげるつもりはないようです。

 ショックでした。
 少なからず期待がありました。それが粉々に打ち砕かれました。
 完全にしらばっくれる気なのだなとわかりました。
 そして怒りがこみあげてきて、手が震えてきました。
「どうしました?」
 そう弁護士に言われているのにやっと気づきました。
「なんでもないです」
「これからどうしますか」
「刑事に話します」
「そうですか。内容を言ってもらえましか」
 とは言ってみたものの、弁護士にすべてを話す気力はありませんでした。
 だまっていると弁護士はこう言いました。
「認めるのですね。初犯だし、執行猶予ですぐ出られますよ」
 それを聞いて心がぐらつきました。
 これから本当のことを言って、長い裁判に耐えられるだろうか。
 すぐ終わるのは魅力的に思えました。
「そうします」
 と口走ってしまいました。
「じゃあ、そういうことで」
 と弁護士は晴れやかな表情で立ち上がりました。
 弁護士が出ていったあと、係員にうながされるように留置所にもどりました。
 あんなことを言ってしまったが、まだとりもどせるのでは、と思えました。
 すぐ取調室の呼ばれました。
「弁護士から話しはききました。これから読みあげる文書に間違いがなかったら、サインしてください」
 刑事は咳払いして、文書を読みあげました。
 私が物盗りのために不法侵入したことになっていました。
 それは違う、と声にでかかりました。
 でも、本当は殺人未遂なのですから、罪は重いといえます。たとえ彼女にそそのかされたとしても。
「ここにサインして。それから拇印ね」
 まえに文書をさしだされました。
 一瞬とまどいました。してもいいものか。
 が、ペンを持ち、サインしてしまいました。
 そして拇印もしてしまいました。
 刑事はさっと文書をひきとると、うれしそうな顔をして確認していました。
「よーし、これでオーケイ。すぐ出られるからね」
 それからというものはあっというまでした。
 翌日、簡易裁判所というところに連れていかれ、裁判をうけると、想定通りの判決をいいわたされました。
 係員に「お疲れさん」といわれ、手錠をはずされました。
 その瞬間なんともいえぬ解放感がありました。
「もう自由だけど、どうする? いったん警察署までもどる?」
「いいです。ここで」
 そういうと頭をさげ、裁判所を出ました。
 外はまだ昼間で快晴で、まさに晴れて自由になれたという気がしました。
 裁判所の敷地を出て、こちらが駅だろうという方向に歩きだしました。
 とぼとぼと歩くうちに最初は解放感があって気分がよかったのですが、これからどうすべきなのかということに頭がいっぱいになりました。
 一応犯罪をおかしたということで、世間の目はどうなるのか気になりました。
 白い目で見られ、うしろ指をさされたりするのでしょうか。
 簡単に仕事につけなくなってしまうのでしょうか。
 そんなふうに考えると、黒い雲がひろがるように不安でした。
 しかし、こうなってしまったのは彼女のせいでした。彼女への怒りがふつふつと沸いてきました。
 なんとか駅にたどりつき、電車に乗りました。
 家へ帰る途中、いつもよく使っているコンビニによりました。
 私が犯罪をおかしたということで、店員の態度がかわっているのではないかと、不安をおぼえましたが、まったくいつもどおりの愛想が良い元気のいい店員でホッとしました。
 とにかく、そこで弁当など食べ物を買いました。
 自分の部屋にひさしぶりにもどりました。
 もっと汚れているかと思いましたが、うっすらほこりをかぶっているだけでした。
 やっともどってこられたとホッとしました。
 とりあえず窓を開け、掃除機をかけました。
 天気が良かったので、ますます爽快で、ほこりが外に出ていきました。
 そして風呂に入り、めしを食べると、ひさしぶりにぐっすりと眠ったのでした。
 
 翌日、これまた久しぶりにテレビを観て楽しんでいると、スマホが鳴り、ドキリとしました。
 その番号を見ると、なんと会社からでした。
 反射的に通話にしてみると、あの女性社員の声がしました。
「明日、人が足りないので来てくれますか?」
 単刀直入に言われて驚きました。
 まだ私を必要としてくれていることに驚きました。
 そのことに喜びを感じ、すかさず、
「はい。行きます」
 と言っていました。
 まさかあっさりもどれるとは思っていませんでしたので、うれしく思いました。
 が、どのようなツラをさげて、行ったらいいのか困ったなと思えました。
 それにしても彼女はどうしたのだろうか。
 ひょっとしてまだあそこで働いているのか?
 わからない。
 一瞬、彼女が来るかどうか、工場前でひそかに見張っていようかと思ったが、それにはもう時間はありません。とにかく明日行くと行ってしまったのですから。
 それとも会社はあったことを把握していて、彼女がもういないから電話をかけてきたのではないでしょうか。
 だったら話しはちがってきます。
 また平和な、いい意味で何もない日々にもどれます。
 私はふと、そのころをなつかしく思いました。
 あの頃にもどれるのは悪くない、いや、いまだからこそもどりたいと思えました。
 ということで、とにかく、明日は行こうと決めました。
 となると、早く寝なければいけないと、早く寝るようにしました。

 翌日早く目が覚めました。留置所暮らしがあったせいでしょうか。
 ロッカーのカギは、いったん家族にたのんで返却していたので、またもらって服ももらわねばなりません。
 はやめにバイクで出ました。
 天気もよく、気分がよかったです。
 この雰囲気はなつかしいと思いました。
 そして、その工場は以前と変わらなくありました。バイクを慣れた場所に置きました。
 建物に入っていくときにはすこし緊張しました。
 階段を上がっていくと、見慣れた女性店員がいました。
 私は「おはようごさいます」と声をかけました。
 するとその人は顔をあげ、立ち上がりました。
 私は名前を名乗りました。
「ああ、また今日からですね」
 と言われ、だれもいない男子更衣室に入っていきました。
 さすがに以前の場所とはちがっていました。
「着替えて、また事務所に来てください。案内しますから」
 と言われ、着替えにかかりました。
 なつかしくもあり、新鮮味もあり、緊張とドキドキ感もありました。
 着替えて事務所にいくと、その女性はもう帽子とマスクをしていました。
「以前、来られていたから、もうこまごまとは説明しませんよ」
 と言われ、後ろについていきました。
 女性につづき、身体にローラーをかけ、手洗いし、エアシャワーを浴びました。
 もはや慣れたものです。
 そこまでは変わったところはありませんでした。
 しかし、なかに入って、
「こちらです」
 と言われ、ついていくところは私のいままで行ったところのない方面で、なにがあるのか知りませんでした。
 とたんに不安になりました。
 しんどい仕事をやらされるのではないか。
 そこは大きな機械が置かれている場所でした。
「ここで待っといてもらえます?」
「はい」
 女の人は去っていきました。
 一人にされ、不安にかられました。
 その銀色の巨大な機械は長細いものでした。
 片方に入口が空いていました。
 そこから何か入れると想像できました。
 向こう側はどうなっているのかと見に行くと同じように口が空いていました。
 これはどうやら、何かを入れて、コンベアで流し、出てくるものだと想像できました。
 なんだろうなあ、と考えていると急に鐘が鳴りました。
 始業時間のようです。
 以前のようなら、朝礼が始まってる時間です。
 忘れ去られたのではないかと、ますます不安になりました。
 すると扉が急に開きました。
「お、おはようございます」と言いました。
 入ってきたのは、ちょっと太ったおじさんでした。
「今日からね。こういうのやったことある?」
 いきなりそう言われてとまどいました。
「いえ、ぜんぜん」
「この中に温水が出て、ケースを洗うんだよ」
 と端に積まれたケースを指差しました。
「まあ、とりあえず動かすから待ってて」
 その人は端にある操作パネルのところに行くとなにか押していました。すると急に機械はうなりをあげました。そして機械のスイッチを入れるとコンベアが動きだしました。
 おじさんはもどってくるとこう言いました。
「けっこううるさいから」
「はあ。そうですね」
「俺がむこうから汚れたケースを入れるから出てきたケースをキャスターに積んでいってくれる?」
「はい、わかりました」
「あ、それからそこにある手袋して。けっこう熱いから」
 私は手袋をして待ちうけました。
 向こう側で、おじさんがケースを入れているのが見えました。
 やがて、それほど待つことなく、穴のなかから、横に立てられたケースが出てきました。
 思った以上にゆっくりです。
 私はそれをとりました。おじさんがいうようにけっこう熱いものがありました。
 私はそれをすばやくキャスターの上に置きました。
 そして、それが次から次へ出てきました。
 はじめゆるいと思えた流れもおじさんがあいだをあけずに流してくるので、だんだんと追われてきました。こちらはたまったケースを並べ、また新たなキャスターに置いていかねばなりません。
 私は暑くなって汗をかいていました。また、自分の吐いた息がマスク内にこもって、さらに暑くしていました。
 どれくらい時間がたったかわからず、一心不乱にそれをやり続けました。
 これがずっと続くとなるとたいへんだなと思えました。
 そんなことを考えていると急に流れが止まりました。
 とはいっても、また、すぐ流れてくるかもしれないので、周りを整えて待ちました。
 するとおじさんが現れて、
「おわり」
 と言いました。
「おわり?」
「そう、おわり。たまってたやつ一気にやったから。けっこう忙しかったでしょ」
「はあ。汗かきました」
「はは。まだ、この時期ましなほうだよ。夏場たいへんだから。でも、まあ、これをずぅっとやるわけではないから」
「じゃあ、何するんですか」
「これからはあっちだよ」
 というとおじさんは扉を出ていくのです。
 私はついていきました。
 電気代節約か、電灯がきれかけているのかわかりませんが、通路が薄暗くてあぶないなと思えました。
 そして、大きな扉にぶちあたるとおじさんはそれを開けました。
 そこは広い場所でした。そう、そこはいくつもの包装ラインがあるところ。一瞬にして、ここは以前よくいたところとわかりました。懐かしさが一気にこみあげてきました。
 出入りしたことのない扉からの眺めで新鮮さはありました。が、自分のいたラインをすぐ見つけることができて一気に緊張しました。
 私が遠目にそのラインを見ていると、おじさんは「こっちだよ」と反対の方を指差しました。
 なんだ違うのか。
 とほっとしたような、残念なような気がしました。
 しかし、心機一転するには違った仕事がいいだろうとすぐきりかえました。
 連れていかれたのは、製造ラインからガラス窓をとおして見れるところでした。
 商品の入ったケースが大量に積まれていました。そこで、それらを店舗別に仕分けるのです。
 じっさい私はやったことはなかったのですが、包装した商品を積んだケースをもってきたことは以前にあったのです。
 そうか、仕分けか……。
 私はなんともいえない気分になりました。それは以前から、けっこう中腰になったりすることが多そうな仕分けはラクそうではないと感じていたからです。
「やったことある?」
「いや、ないです」
「じゃあ、おしえるよ」
 それはある同じ商品が積みあげられたキャスターをひきよせ、貼りつけてあるバーコードを読ませると、それぞれ店舗別のケースのの下の枠に数がでて、その数を置いていくというものでした。
 おじさんについてやってみると簡単でした。
 次からはもう一人でやりました。
 やはり、これをずっとやりつづけるのは腰にくるというのはすぐわかりました。
 しかし、他の人たちを見てもそんなに急いでいるわけではなさそうなので、自分のペースでできました。
 それを何周かやったころ困ったことがおきました。
 はじめにその同じ商品を数えるのですが、一周してちょうどなくなるはずのものが一個あまってしまったのです。
 こういうときどうするか、おじさんは言ってませんでした。私はあわてて、横の筋をまわっていたおじさんのところへ行きました。
「そういう時はどこか間違えてないかさがすんだよ」
 と言って、いっしょにさがしてくれました。
 おじさんは一つ少ないところをすぐに見つけてくれました。商品を置くとすぐ自分の場所へもどっていきました。
 私はそのようにして、仕事をこなしていきました。
 おじさんには「きりのいいところで休憩とって」と言われ、午前の休憩をとりました。
 休憩をとったことにより、腰が少し回復してラクになりました。それでリフレッシュして、またやる気がよみがえってきました。
 私は仕分けの場所にもどるとあいているところを見つけ、仕事をはじめました。
 別の筋では、おじさんが仕分けをやっているのが見えました。
 私は数を間違えないように、集中して仕分けをこなしていきました。
 それで何周したころでしょうか。
 入口付近から視線を感じました。
 だれだろうと見ると、それは彼女でした。
 彼女が商品のつまったケースを押すかっこうでかたまって、こちらを見ていました。
 私もつられて中腰になりながら見つめてしまいました。
 私はもう彼女とは関係ないと、さきに視線を仕事に戻しました。
 少しやって、彼女のいたところをチラッとみると、さすがにいませんでした。正直ホッとしました。
 とにかく彼女とは関係ない。万が一、職場で一緒になっても、仕事の連絡事項だけにかぎろうと思っていました。
 さいわい職場はちがっていましたので、しゃべることもないでしょう。
 これでよかった。もとにもどれるとホッとしました。
 やがて、めし休憩の鐘がなりました。
 おじさんが来て、こう言いました。
「これはめし後もひきつづいてやるから、きりのいいところで置いといて、めし」
「はい」
 と言われたものの、私はわざとゆっくりやって、きりのいいところまで時間をかせぎました。
 なぜなら、すぐ休憩に行くと彼女とかちあってしまうかもしれないからです。
 五分ほどしてから、やっと私は午前の仕事を終えました。職場には誰一人としていません。
 私は誰もいない通路や階段を上がっていきました。
 エアシャワーを浴びて、ドアを出ると、食堂が見えて緊張しました。
 なかに大勢の人やそれらの人がしゃべる声、テレビの音が聞こえてきました。それらはなつかしいものでした。
 私は通路を通って、なかをチラッと見ました。
 すると驚いたことに彼女がいて、その横はまるで罠のように空いているではありませんか。
 チラッと見たとき、彼女がこちらを見てなくてホッとしました。
 もちろん、その横に座るなどとんでもありません。
 どうしようか、と思いました。
 食堂の端の空いている席に座るか、いっそのこと食堂に入るのはやめとくか。
 などと立って考えていると、いきなりうしろから、
「おい」
 と声をかけられ、とびあがりました。
「そんなにびっくりしなくても」
 そこには帽子とマスクをとったおじさんがいました。おじさんはこんな顔をしてるのだとはじめて知りました。声をかけられなかったらわからなかったでしょう。
「めし、持ってきた? いっしょに食べる?」
「いや、その……」
「どうする?」
「さきに行っててください。あとから行きますから」
「そう」
 と手をあげると、おじさんは食堂に入っていきました。
 そしておじさんが食堂のどこらあたりに座るのか見ていました。
 おじさんは窓際のあまり人の座っていないところに座りました。
 それを見て、ホッとしました。
 彼女と近い場所で目の合いそうなところはまずいなと思っていたからです。
 それを見て、ロッカーに行き、帽子とマスクをとりました。
 そして買っておいたパンとカフェオレのペットボトルの入った袋を持つと、食堂へ引き返しました。
 そして彼女の視線のこないうしろ側からのドアから入ると、窓際にいるおじさんのほうに行きました。
「おう」おじさんは顔をあげ、そう言いました。
 私はななめまえに座りました。
「暑いですね」私はそう正直に言いました。
「そうか。下が寒すぎるんだよ」
 私は袋からパンを出して食べだしました。
 おじさんはコンビニ弁当のようです。
 しばらく二人でもくもくと食べました。
 まわりではテレビや人の声ががやがやしています。
 彼女のほうはつとめて見ないようにしました。
「あ、じぶん」おじさんが話しかけてきてドキリとしました。
「まえにここにいなかった?」
「はあ」一瞬どうしようか、いなかったと嘘をつこうかと思いましたが、嘘をついてもばれるだろうと言いました。
「いましたけど」
「そうだよね。見たことあるなと思ってたんだよ」
 どういうわけか私は知りませんでした。彼女のほうばかり見ていたということでしょうか。
「またもどってきたの。なんでまた?」
 答えに困りました。
「いや、その……」
「働きやすい?」
「そう、そうですね。家からそう遠くないし」
 おじさんにきかれ、自宅のある場所を教えました。
「そうだな。近くとなるとここぐらいしかないかな」
「そうなんですよ」
 おじさんがまたもくもくと食べてくれてホッとしました。
 そうこうするうちにおじさんは弁当を食べ終わりました。
「たばこ吸うの?」
「いえ」
「そう。じゃあ、おれは吸ってくらぁ」
 と言って、喫煙室のほうへ消えて行きました。
 私は一人になり、ホッと息をつきました。
 しかし、彼女がまだ食堂にいるのか気になりました。
 以前のまままだと、ぎりぎりまでいるのが常でしたが。
 そちらを見て、目が合うということはさけなばなりません。
 とにかく、ここにいるとおちつかないし、そうそうひきあげ、職場に行っとくべきでしょう。
 休憩終わりのエアシャワーの渋滞で彼女と一緒になるのはさけなばなりません。
 ということで立ち上がりました。
 彼女のほうは見ず、食堂を出ました。
 ロッカーにもどり、食べ残したパンを入れました。
 そしてトイレで用をすませると、まだ誰もいないエアシャワーに入り、そそくさと手を洗い、職場に入っていきました。
 階段におりてくごとにひんやりしてくるような気がしました。
 そして職場の扉を開けるとあきらかにひんやりしていました。
 一瞬気持ちよかったのですが、急に寒気を感じて、ブルっとしてしまいました。
 職場のほうは、まだ誰もいませんでした。
 そらそうでしょう。時計を見ると始業十分前でした。
 寒気を感じたので、ぼちぼち仕事をはじめようかと思いました。
 けど、なんだかそこまでやる気がしないので、はじめる気はしませんでした。
 かといってじっとしてられないので、腰をのばすストレッチをしたり、アキレスけんをのばす運動をしたりしました。それでも時間があるので、うろうろと周りを見たりしました。
 そうこうしているうちに、人がぞろぞろ入ってきました。
 私は仕事を開始しました。準備運動充分なので、すぐ波にのれました。
 あまりにも集中していたので、近くにおじさんが来ていたのに気づかなかったほどです。
「やる気満々だな」
 と言いのこすと自分の仕事にもどっていきました。
 私は「いやいや」と否定しておきましたが。
 そして勢いにのっているうちに時がすぎ、午後の休憩時間になりました。
 おじさんは、
「そろそろ休憩だよ」
 と言いのこすと、出ていきました。
 私もきりのいいところをみつけて、休憩をとりました。
 さいわい彼女を見つけることはありませんでした。
 そしてまた職場にもどり、作業をはじめました。
 もはやケースを洗ったのは遠い昔のようになっていました。
 そうしているうちに、そろそろ終業時間が近づいてきました。
 さすがに慣れない仕事で腰がパンパンでした。
 ただ久しぶりの仕事ができた充実感がありました。
 それと無事社会復帰できたという事実にホッとできました。
 そんなことをふと考えていると、肩をたたかれドキッとしました。
 ふりむくとおじさんがいました。
「もうそろそろ終わりだよ。疲れただろ」
「もう腰がパンパンです」
「まあ、はじめはそうだよ。すこしは慣れるから」とハハハと笑いました。
「それとちょっと散らかってるから、軽く掃除しといて」
 と言われました。
「はい、わかりました」
 たしかにどこ行きかをしめす、貼り紙などが下に落ちていて散らかっていました。
 私はすみのホウキと塵取りをとると、それらを軽く掃いてきれいにしました。
 そうしていると鐘が鳴りました。
「もういいよ。お疲れさん」
 と言うと、おじさんは素早くあがっていきました。
 私はというと、いまあがると他の人たちが帰る渋滞にまきこまれ、彼女の近くになるかもしれないと感じ、しばらくあとかたづけのふりをしていました。
 そう何もやることはなかったのですが、ボーッとしているわけにもいかす、どこかごみが落ちていないかさがしていました。
「どうかしましたか」
 といきなり、うしろから声をかけられ、ドキリとしました。
 ふりむくと、見知らぬ人が立っていました。
 帽子を見て、線がはいっていたので、社員とわかりました。
「いや、その……」
「なんか落としました?」
「なんでもないです」
「今日どうでした? はじめてでしたよね」
「そうです。疲れました。とくに腰が」
「そう。ここは腰がね、でも慣れるというのもあるので、またがんばってください」
「はい」
「もうあがっていいですよ」
 というと別のドアから出ていきました。
 そこまで言われて、あがらないわけにはいきません。
 私はゆっくりとあがっていきました。
 さすがに誰もいません。
 男子ロッカーに入るまで、誰一人とすれちがいませんでした。
 入ってからも、ひっそりしていて、一人もいませんでした。
 私はゆっくり着替えました。
 疲れもありました。とくに腰へのダメージがあり、重たいものがありました。
 着替え終わると、カギをしめ、部屋を出ました。タイムカードを押しました。
 事務室の横を通るとき、女性事務員がこちらを見たので、
「お疲れです」
 と言うと相手も、
「お疲れさまです」
 と言ってくれました。
 階段をおり、出口を通ると、外はすっかり暗くなっていました。
 駐輪場をみると、すでに多くあるはずの自転車やバイクが少なくなっていて、人影はなく閑散としています。
 私はそれを見て、ホッとしました。
 なにごともなく平和に終われる。
 そう思いました。
 私は自分のバイクがあるところに向かいました。
 駐輪場の屋根の下につけられた、電灯がぼんやりと辺りを明るくしています。
 自分のバイクをみつけ、すぐもうそこというところでした。
 横の柱の陰からぬっと出てくるものがありました。
 私はそれを見て、あっと立ち止まりました。
 それは彼女でした。
 彼女がその大きな目で、私の目を射るように見ていました。
 彼女は立ち止まり、私の目をじっと見続けました。
 私はなにも言えず、見ていました。
 まるで獲物が獣にいすくめられて、一歩でも動けば食べられてしまうかのように。
「なんでもどってきたの?」
 その調子にはまだどういう感情がこめられているのかわかりかねました。
「い、いや、会社から電話がかかってきたんで」
「そうなんだ」
 と言うと彼女は下を向いて、何か考えているふうでした。
 私としては、もはや彼女とは何も話す気はないので、「お疲れさま」とでも言って、行こうと思って、息を吸ったところ、
「またファミレス行く?」
「そ、それはない」
「なんでよ」
 彼女はいたずらっぽい目を光らせながら、そう言いました。
「なんでよ、と言われても、ない」
 私は行こうとしました。
 すると彼女が私の左腕をつかみました。
 すると、つい、
「やめてくれ!」
 と怒鳴り、手をふりはらいました。
 もはや彼女に一瞥もくれる気はありませんでした。
 私は急いでヘルメットをかぶるとエンジンをかけました。そしてさっさとバイクを出し、走り去りました。
 そのあいだ彼女のほうは見ませんでした。見ようとはしませんでした。
 私はバックミラーに彼女のバイクがないことを確認して、ホッとしました。
 まあ、これで終わりだろ。これで終わりなのはなんだかこちらが損をしただけのような気がするがまあいい。これで平和な日々がおとずれる。
 私はなんだかすっきりして、その夜もよく寝れました。
 次の朝もさわやかに起きました。
 もし、彼女に会社であっても、無視できる自信はありました。
 また、もう彼女も何も言ってこないのでは、という気がしてきました。
 もはや、すべては過去のことで、もうまた新たな未来が待っているという気がしました。
 その日も、私は前日のようにおじさんと容器を洗ってから、仕分けに入りました。
 流れがわかると時間も速くたちます。
 昼休み、休憩所をちらりと見て、おじさんとめしを食べました。
 ちらりと彼女に目をくれようと見ましたが、彼女のいつもの席は空席でした。
 あれっ、珍しく休みかな、と思いましたが、それ以上気にはしませんでした。
 なにせ、もはや彼女とは職場はちがうし、接触する機会も必然性もありません。
 そのようにして、その日は終えました。
 彼女はいないとわかっているので、駐輪場で緊張することもありません。
 そして次の日も同じようにはじまりました。
 私としては仕分けで腰が痛くなるのはどうにかならんのかな、という思考が頭の中をしめていました。
 腰に市販の塗り薬をしても、すこしラクになるだけです。
 なんとか腰に負担をかけない方法を考えるべきかなどと仕事中も思ったりしていました。
 そうして昼休みになりました。
 私はやっばり彼女がいつもの席にいるかどうか見てしまいます。
 ところが、またいるはずの席に彼女はいませんでした。
 なにかあったのかな? いや、ただ連休をとっただけか。
 とも思いました。
 どうあろうと私の関係ないことだ。
 とそのことについて考えないようにしました。
 また私はおじさんのまえに座り、他愛のない会話に終始しました。
 とくにおじさんはギャンブルが好きで、ギャンブルをいっさいやらない私はついていけませんでした。
 また、酒好きのようで、私も飲めないわけではないので、いつか一緒に飲もうということになりました。
 そのようにして、またその日の午後の仕事もがんばり、なんの緊張をすることもなく、腰の重さをなんとかしなければならないなと考えながら帰りました。
 そして次の日も次の日も彼女は見かけませんでした。
 はじめは病気がと思いました。すごし心配の情がわきましたが、すぐ私には関係のないことと打ち消しました。
 自分の腰のほうは病院に行くほどではないにしろ、重たいことには変わりないので、ドラッグストアでぬり薬を購入して、しのいでいました。
 そうしているうちに二週間ほどしても、彼女の姿を会社で見ることはありませんでした。
 これはなんらかの事情でやめたんだなと思えました。
 さびしいというより、ホッとしました。
 もうからまれることもない。どこか清々しいものがありました。
 日々の仕事が過去のことを忘れさせてくれそうでした。
 そしてある日のこと、またおじさんといっしょに昼飯を食べていました。
 例によってギャンブルで勝ったとか負けたとかが話しのメインでした。もっぱらおじさんの成果を聞く役目です。
 そしておじさんは急にこんなことを言いだしたのです。
「あそこに座ってたコ知ってる?」
 そこは彼女が座っていた席でした。
 今日もそこは空席でした。
 私はどう答えるか迷いました。
「武田さんですよね」
 確認しました。
「そういう名前だったな。けっこうかわいいコだったな」
「ちょっとだけ知ってましたけど」
 私はおじさんが何をいうのか興味にかられこう言いました。
「死んだらしいよ」
「死、死んだ?」
 私はあまりにも意外なことで大声をあげました。
「そう。それも自殺」
「自殺?」
「よく事情は知らんがね。なんでも服毒自殺らしいよ」
 大ショックでした。ショックすぎて声がでませんでした。
「まだ若いらしいのにもったいないことするなぁ。さぁ、行くわ」
 とおじさんはこちらのショックもおかましなしに立ちあがって行ってしまいました。
 彼女が自殺するということなど全く思いもよりませんでした。
 彼女は人を殺すことはあっても、自殺するようなタイプには思えませんでした。
 人をだましてもずる賢く生きる、そんなタイプに思っていました。
 それがまさか自殺するとは……。
 私は誤解していたのかもしれません。
 とにかく混乱して、頭の整理がつきませんでした。
 とても午後の仕事どころじゃありません。
 早退させてもらおうかと思ったくらいです。
 でも、そこまでして帰ってなんになるでしょう。
 とにかく職場にもどり、午後の仕事を開始しました。
 しかしなかなか集中できず、仕事がはかどりませんでした。
 リーダー格の人から「速くしよう」といわれるしまつでした。しまいには体調を気にされるくらいです。
 それでも、なんとかその日の仕事を終えました。
 もちろん駐輪場に彼女の姿はありません。
 バイクを走らせ始めましたが、そのまま帰る気にはなれず、彼女と待ち合わせたファミレスに寄ろうかとも思いましたが、それは全く意味のないことだと思いなおしました。
 それでいつのまにか彼女に自宅方面に向かって走ってました。
 彼女の自宅へ向かうのは、そうあの日以来です。
 思い出したくもないあの日。
 二度と行くことはないと誓ったあの家。
 そのあの家は以前と変わらぬようにありました。
 彼女が死んでいないなどとは少しも感じさせません。
 私はバイクのエンジンをきり、バイクに座ったまましばし眺めていました。
 何も変わってないし、何もわからない。
 時が静かに流れるだけ。
 彼女が死んだという現実感のないまま無駄とも思える時間がすぎるだけ。
 私はエンジンをかけ、自宅へ走らせはじめました。
 家に帰って、風呂に入って、めしを食べても、なぜだということだけが頭にうずまいています。
 しかも、その答えにはたどりつきようがありません。
 私はそのままなんとか眠りにつきました。
 次の日、気分がすっきりしないまま起きました。
 とにかく会社に行きました。
 私にはあることが頭に浮かんでいました。
 それにはとにかく、午前中の仕事をこなさなければなりませんでした。
 そして昼休みになりました。
 いつもどおり食堂でおじさんのまえに座りました。
 おじさんがなにかいおうとした瞬間、私はこう言いました。
「あそこの女の人にききたいことがあるんで、ちょっと行ってきます」
「おう、いいよ」
 私はまず以前に座っていた席に座りました。そこから見慣れた風景がありました。
 でも、横を見ても彼女はいない。
 感傷にふけっている場合ではないと思い、すぐ横の席に移りました。
 横の女の人がこちらをチラリと見ました。
「どうも」
 私は頭をさげました。女の人も軽く頭をさげてくれました。
 どう言ったらいいか迷いました。
「あの……、ここに座っていた女の人、最近見ないですよね」
 なんとかこう言いました。じゃっかんつまりぎみでしたが、なんとか言えました。
「そうね……」
 そのあとに間がありました。
「死んじゃったからね」
「死んだ?」なんだかはじめて聞いたような口ぶりになってしまいました。
「そう、死んじゃったの」
「なんでですか?」
「そう、自分で死んじゃったの」
「自分で死んだ?」
「自殺ということね」
「なんでまた」
「なんででしょうね。突然だったから」
「ショックですよね」
「そう、ショック」
「理由はわからないんですか」
「そう、わからないの。でも、死ぬまえここで話したとき、なんだかふられた、と言ってたんだよね」
「ふられた?」
「そう、ふられたって、暗い顔した言ってたんだよ」
「ふられたって、あの人、結婚してるんですよね」
「だから誰にふられたのかわからないけど。いまとなっては……」
 私にはわかりませんでした。ふられたとは誰のことなのか。
 ひょっとして、俺?
 たしかにつれなくしたことは事実。
 でも、それで死んでしまうとは……。
 俺につれなくされて絶望したというのか……。
 そのようなことを女の人の横にいながら考えました。
「とにかく、死んだ人はもどってこないしね」
「そうですね」
 そのあと二人とも言葉がでませんでした。
 私は頭をさげ、席を立ちました。
 結局のところ理由ははっきりしないままでした。
 釈然としないまま窓際のおじさんのまえに座りました。
「なんかあったの?」
 とおじさんはきいてきました。
 私はどう説明していいかわからず、ただ、
「いや、とくに……」
 と口をにごしました。
 おじさんは気をきかしてが、それ以上つっこまず、またいつものギャンブル話をはじめました。
 私はうわのそらであいずちをうつばかりでした。
 そうこうするうちに昼休みも終わり、午後の仕事がはじまりました。
 私は機械的に身体を動かしつづけました。
 そして仕事が終わっても、なんの達成感もありませんでした。
 私は周りにあいさつをして、とぼとぼと家路につきました。
 頭の中はすっきりせず、釈然としないものが残りつづけていました。
 これからどうするか。
 どうするといっても、どうしようもありませんでした。彼女は死んでいないのですし。もうもどってこないのですし。
 ふと、彼女ののぞみである旦那を亡き者にしようかと思いましたが、それも彼女が死んでは意味のないことと思えました。
 私にできることといえば、せめてもの墓参りぐらいしか思い浮かびませんでした。
 しかし、その場所もわかりません。
 どっちにしても忘れるしかないのでしょうか。
 いや、忘れることなどなかなかできるものではありません。

 そのような問答を自分の中でくりかえしていましたが、それでも日々は過ぎていきました。
 そうなると、彼女のことは遠い記憶と変化せざるをえませんでした。
 そんなある日、自分の部屋のポストの上になにかはさまっているのが見えました。そこはどういうわけか物がはさまることがあって、なかなか気づかないことがあるところでした。
 気になって、それをひっぱりだすと手紙とわかりました。
 私あてで、差出人を見て、ドキリとしました。
 彼女からだったからです。
 死人からの手紙。
 そんなはずはありません。日付をみるとかなりまえのことです。
 記憶をたどるとどうやら留置所中の時です。
 私は胸をドキドキさせ、中身をとりだしました。

 留置所にあんな手紙をだしてごめんね。ああするしかなかったの。旦那とは離婚するから。またいっしょに楽しくすごそうね。

 とだけありました。
 ショックでした。この手紙を読みのがしていたことに。そしてすべては手遅れだということに。

 それから食堂の女の人からきいたことをまとめるとこのようです。
 彼女は旦那と離婚して、一人暮らしをしていたそうです。
 そのようなことを知らなかった私。
 離婚までしたのに、つれなくしてしまった私。
 後悔の念がよぎります。
 私は彼女のお墓の場所をききだし、お墓参りをしました。
 そして謝りました。
 彼女の気持ちをわかってあげられなかったことに対して。










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