犬も食わない

文字数 902文字

「師が走ると言うが、うちの場合は()()()が走るわけだ」

 年末の大掃除にすっかり心をなくし、こまねずみのように動き回る女房を笑ったら、大目玉を食らった。

「あんた、つまらないことを言ってるんじゃないよ。真っ昼間から酒なんか飲んでないで少しは手伝ったらどうなんだい!」

 女房はギャンギャンと捲し立て、俺に()()()を押し付けてよこす。

「なんでぇ、こっちはもう仕事納めしちまったんだからよぉ、正月が開けるまでどんな依頼も受け付けねえって決めたのさ。俺の女房だったらちったぁ、旦那の労を労ったらどうなんでぇ!」

 すると女房は茹でダコのように顔を真っ赤にして、手にしたはたきを振り下ろした。

「いてぇなあ、いきなり俺を叩くこたぁねえだろうが!」
「その言いぐさじゃあ、あたしが日頃から何もしてないみたいじゃないか。こっちだってねえ、人様の髪を結っておまんま食べてんだよ。あんたの子供の駄賃みたいな安い稼ぎじゃあ、酒の一杯も飲めないね! ああ、一緒になるんじゃなかった」

 その一言に心根の優しい俺の堪忍袋の緒も切れた。

「なんだとう。こんな家出て行ってやるからな!」

 酒と肴をたらふく食らった重たい体を持ち上げて、下駄を突っ掛けると、女房の声が俺の背中をドンッと押した。

「さっさと出ていっておくれよ。せいせいするね。出ていくついでに、明神様の正月飾りを買ってきとくれよ」
「わーったよ。帰りは夕七つになるからな」
「それと、あんた」

 振り返ると女房が衣紋掛けから羽織を投げて寄越した。

「外は寒いからね。気を付けていっておいでよ」

 そう言って微笑む古女房に、若かりし頃、「一緒になろう」と指切りをしたときの、甘酸っぱくもくすぐったい思いが甦った。

「正月飾りは七福神の飾りがついたやつだからね」
「あいよ」

 外に出ると待ち構えていたかのように北風が俺を苛めるが、酒で体が温まったせいか、綿入りの羽織のせいか、不思議と寒さを感じなかった。

 長屋からは大掃除を再開させた女房の鼻歌が聞こえ、俺は後ろ髪を引かれながらもさっさと用事を済ましてしまおうと明神様へ向かうのだった。

「帰ったら二人で飲み直すか」

 お互い老けちまったけど来年もよろしくな。
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