第1話

文字数 1,936文字

8月某日 水曜日


―午後11:00―

はぁ……

今日は、ついてない。


あなた、もう入社3年目でしょう? 


こんな単純ミスばかりじゃ、給料泥棒って言われても仕方がないわね

『お局さま』の、ちょっと意地の悪いメガネ越しの視線と言葉を思い出して、最悪な気分が更に落ち込んでいく。


でも、私が悪いのだから文句は言えない。

だけど、あの言い方はないよねぇ

お小言は長いし、細々とした事務処理に思ったより手間取るし、帰宅はこんな時間になってしまうし、疲れたし。


何より、あんなケアレスミスを連発する自分のうっかりさ加減が嫌になる。

本当、最悪。

人気の無い、ローカル線の無人駅で電車を降りたのは、私ひとり。


つい、と上げた視線の先には、月のない闇夜にぼんやりと浮かび上がる古びた駅舎が、人気の無さを際だたせている。

うわ、なんか、不気味……

家までは、自転車で15分。


駅舎の周りには閑散として、人気は全くない。


でも、500メートルも行けば、少ないながらぽつりぽつりと民家がある。


500メートルの辛抱。

よし、一気にいくか!

気合いを入れて、自転車をこぎだす。


こわばった頬を生ぬるい風が叩き、雑木林の黒い木立ちが飛ぶように視界の端を過ぎていく。

速く!

もっと速く!

まるで何かに急かされるように一心不乱にペダルをこぐ私の視線の右端で、『チラリ』と、白いものが動いた。


うわっ……なに?
ドキリと、鼓動が早くなる。


暗闇にチラチラ浮かぶ、白い影。

見ない見ない、

何も見ない見えませんっ!

私は気付かないふりを決め込んで、そのままペタルを踏み込んだ。


正にその時、


『ビュン』と風を切って、ライトの丸い明かりの中を、右から左へ何か小さい黒い影が横切った。


ええっ!?

夜の静寂に響き渡るブレーキ音。


一瞬の無重力感が体を包み込んだと思った刹那、派手な音を立てながら、自転車もろとも砂利道に倒れ込んだ。

っ……

したたかに打ち付けた膝と肘は被害甚大で、ズキズキと鋭い痛みが脳天を直撃する。

う~、痛いーっ!
痛みに呻きながら、自転車のライトに照らされた範囲を見渡すが、倒れている小動物はいない。
良かった、轢いたんじゃなくて……。

心底ほっとして、自転車を起こしにかかったその時。


――ぎぃっ


と、どこかで音が上がった。


なに、今の音?

キョロキョロと視線だけを巡らせるが、真っ暗で何も見えない。

気のせい?

そう思った。


否、そう思いこもうとした。


でも――。


――ぎぃっ……。ぎぃっっ……。


又だ。又、同じ音。

ごくりと唾を飲み込んだその音が、やけに響く。


脳裏に、さっき視界をかすめた『白い影』が浮かんだ。


それは――。


ゆっくりと、今来た道を振り返る。


私の視線の先。


鬱蒼と木々が茂る林の中、三角形の白いものが見えた。


ゆらゆら。


ゆら、ゆら。


ゆら、ゆら、ゆら。


揺れている。


闇の中なのに、光源など無いはずなのに、そのプラスチックのつるんとしたパイプの質感まで、手に取るように分かってしまう。


『子供用ブランコ』


屋根に付いた白いピニールの幌が、ブランコが揺れるたびに、ひらひら、ひらひらと、はためいていた。


ブランコの下の方は、枯れた草が猥雑に絡み合い、私からは見えない――。


ただ、ぎぃぎぃときしむ音を闇の中に響かせて、上の部分が揺らめいているのが見えた。


風など吹いていない。


ブランコがあるのは鬱蒼とした雑木林の中で、誰かが乗っている筈などない。


ならば。

ナゼ、アレハ動イテイルノ――?

だめだ、考えるな。

何も見なかったふりをして逃げるんだ。

頭ではそう命令するのに、中途半端に自転車を起こした体勢のまま、身体が金縛りにあったように微動だにしない。


視線すら逸らせずに、ただその光景に見入っている私のことを嘲笑うかのように、


ぎいぃぃぃぃぃっ……っと、一際大きな音が響いたその後、ブランコが動きを止めた。


『がさっ』、と下草が揺れる。


『がさっ、がさっ、がさっ』


草を踏み分ける音と共に、何かが近づいてくる。

ひっ!?
その時、不意にスマホの着信音が上がった。


瞬間、体の呪縛が解ける。


私は、無言で自転車に飛び乗り、文字通り脱兎のごとく逃げ出した。


命からがら家にたどり着けば、心配げな表情の母が玄関で待ち構えていた。

電話に出ないから、心配したわよ~。

遅くなるなら、連絡ぐらいしなさいよね。

って、何その膝と肘のケガ!?

お、お母さんっ!
安堵感で、そのまま玄関にへたり込んでしまった。
えっ、何!?

何があったの!?

かくかくしかじかと説明をすると、母は半信半疑の複雑な表情を浮かべた。


しかし、被害甚大な私のスカートに目を止めた母が、怯えを含んだ声を上げた。

あ、あんた、それ、何なの!?
えっ……?

私のスカートの右側の裾。


そこには、他のものとは見間違えようのない『黒い小さな子供の手形』が一組、くっきりと残っていた。



   ―了―

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