第1話

文字数 1,997文字

 残酷だ。理不尽だ。不公平だ。
 もしもこれが夢ならばと、どれほど願っただろうか。
「見wgq物7聞eq事、ejjw@6-@5qp@y2@、w@qo/q@Zqo6md\e。cyugma0t.w@d)4」
 巨大な毒虫が、目を光らせてこちらを見ている。
 金切り声が響き渡る教室で、僕は同じクラスの「友介」と相対していた。
 すでに屋外は、夕日に包まれている。窓の外に見える校庭には、鉄棒やゴールポストの影が長く伸びていた。
 窓から差し込む西日は、彼の醜い姿を真っ赤に染め上げている。
 鎧のように硬い背中。アーチのように膨らんだ褐色の腹。目の前で頼りなげにピクピクと動く無数の足。胴体の大きさに比べて、足は酷く細かった。
 ……気持ちが悪い。
 友介は、人の気も知らないで、言葉めいたものを吐き出す。
「rv[Zzk新de3.f@]geqt」
 似たような毒虫がもう一匹、友介の隣に並んでいた。机を囲んで、銀紙の剥がれた板チョコを、汚らしくむさぼりながら。
「イナテイ聴ダマ」
 かつての、魅惑的な美貌は見る影もないが、機械的な口調から察するに、こいつは「エリカ」だ。
「f7h買59」
「ルテッカワ」
 意識を集中し耳を澄ませば、友介とエリカの会話を、なんとか汲み取ることができた。
「6前fスピッツk新deアルバム買Zqkt」
 おそらく、スピッツが新しくリリースした、15thアルバムについての話しだろう。僕は吐瀉物のような悪臭を我慢し、何気ない素振りを装って、全然大丈夫なフリしながら返事をした。
「あぁ、買ったよ」
 容姿は変わり果ててしまったが、こいつらは僕の友達ということになっている。
「アルバムタイトルが特に良かったね」
 無視するわけにもいかない。これまで過ごしてきた一ヶ月と同様に、これからもこいつら毒虫の中に混じって、築き上げてきた関係性を保ったまま、平穏に暮らしていかなければならない。  僕の目にはどう映ろうと、この世界で正しいのは彼らで、おかしいのは僕の方なんだ。
「ミシノタ、テスMノタシア」
 エリカが残ったチョコレートを飲み込もうと、鋭く尖った牙が煌めく口を大きく開けた瞬間、顎(がく)肢(し)から黄色い粘液が飛散し、僕の頬にこべりついた。
 頭が痛くなるような刺激臭。
 ……どうして……どうしてこんなことになってしまったんだろう。
 おそらく、一ヶ月前の交通事故で、頭を強く打ったせいだ。失認症か、重度の統合失調症。もしくは、昏睡状態にある人間の夢かもしれない。
 友介、そしてエリカ。他のみんなだって、かけがえのない大切な人ばかりだったのに……。
 募る想いを必死で押し殺し、僕は制服の裾で臭汁を拭って、トイレに行くと嘘をつき、席を立った。
「\v@ycymee:s@、7Zf[a%l|q@9u」
「ョシデデエカ、ヤイヤイ」
 このままだと、頭が狂ってしまう。
 僕は毒虫で溢れる悍ましい教室を脱出し、いつもの場所へと向かった。
 吐き気のする景観を見ないように、できるだけ足下に視線を落として、ドアが無数に並ぶ廊下を抜ける。

 カフカの小説に「主人公の男が、ある朝目覚めると、巨大な毒虫になっていた」という有名な物語がある。
 中学生の僕は「もし自分が毒虫になったら」と陰鬱な妄想をし、眠りにつくことを怖がっていた。
 しかし今は、いっそのこと自分もみんなと同じように毒虫になれたらどれほど楽だろうか、と考えている。
 だが、こんなに不安定な状況でも、我を保っていられるのには理由があった。
「百香、聞こえるか!」
 学校の奥まった場所にある中庭。強烈な照り返しをうけ、すみれ色に輝くレンガ敷きの地面に立ち、百香を探した。
「僕には、お前しかいないんだ!」
 西の空に沈みゆく大きな夕日。淡い光に照らされ、ツバキやサザンカなどの樹木が、ぼんやりと輪郭を滲ませている。
 ぐるりと庭全体を見回し、自分の後方に視線を巡らすと、間近な腐木に背中を預ける同い年くらいの少女、百香を見つけることができた。
「……百香」
 冷たい光が宿る可哀想な瞳。微かな笑顔。秋風に流されて広がった長い髪が、夕日に透けて儚げな風情を醸し出していた。
 百香は、事故の後に出会った中で、僕が抱える障害の例外となった唯一の人間。
 僕は迷うことなく百香を抱きしめた。
 ……暖かい。
 失った世界の全てが腕の中にあった。
 救われたい。この現実から、この苦しみから、この絶望から、救われたい。
 百香を抱きしめていると、身体の中に溜まっている毒が、浄化されていく。
 今の僕は彼女に生かされているんだ。
 もしも百香と出会っていなければ、僕はこの世界同様、醜く崩れ落ち、自暴自棄になっていたに違いない。
「例え世界がどうなろうと、僕たち二人の愛は変わらないから」
 強く抱きしめながら、百香の頭を撫でたその瞬間、背後から金切り声が聞こえてきた。
「んq@よ、この毒虫。気持ち悪っ」
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