第1話

文字数 3,049文字

 鳴り響く目覚ましのアラームが、青年の頭痛を悪化させた。
 アラームを止め、有給消化日だからと二度寝する。

 遠くで音が聞こえる。鋭利な刃物が床を引っかくような音。音は近づき、ベッドが揺れた。

 それはうつ伏せで眠る青年の背にのしかかる。うぐ、と息が詰まる寸前で呼吸が楽になった。そうかと思えば、今度は脇腹あたりに圧迫感を覚える。

 寝返りを打つと同時に布団をはぐ。
 しば犬のポチがベッドに入り込んでいた。

「おはよう、ポチ。頭が痛いんだよ。気圧のせいかな。……ポチ? 生きてる?」

 見つめていると、ポチの寝息が聞こえはじめた。
 青年はベッドからこっそり抜け出し、頭痛薬を飲んだ。

 先週からポチの食欲不振が続いている。
 食べやすいようにやわらかいごはんを作り、元気そうな日は少し散歩もさせた。それでも先週は半分残し、今週も食欲は戻らず、昨日はいっさい食べなかった。

 動物病院に連れていっても原因は特定できなかった。先生は「病気ではないからストレスかもしれない」と言った。
 もしかしたらこのまま……、と青年は嫌な未来を想像し、首を振る。

「飼い主が弱気じゃいけないな」

 ベッドに戻る。薬が効いてきて、青年は少しの間まどろんだ。

 職場と家の往復だけの日々に、流行り病の拡大による自粛生活で追い討ちをかけられていたとき、親戚から半ば強引に押し付けられた子犬だった。

 お迎えのために慌てて掃除した日から今までのこと、断片的にだが覚えている。

 新しい家を怖がる姿。
 ポチと呼んで反応した瞬間。
 割引の刺身をポチが勝手に食べたとき。
 走るポチについていき、息が上がった日の青空。

 どの記憶も暖かく、夢と現実の境目を失っていき、――痛みで起きた。

 時刻は正午を過ぎていた。
 ポチのごはんを用意したあと、目覚まし代わりにテレビをつけた。情報バラエティー番組のアナウンサーが元気よく話している。

『全国各地、秋らしい季節になってきました。紅葉シーズンでもあるこの季節ですが、コスモスも見頃の季節なんです。そこで本日はコスモス特集です!』

「コスモスか」

 携帯で検索した。車で20分程度のところにコスモス畑があることがわかった。

「ポチ、散歩いく?」

 散歩の言葉を耳にしたポチは、パタパタと青年の周辺を歩き回る。決まりだ。
 黒のデニムパンツにオリーブ色のカラーシャツに着替える。

 家を出る前、ポチの皿をのぞいた。皿の中のドッグフードは更地のようで、口がつけられていない証であった。


 ○


 青年はポチを車に乗せ、隣町までやってきた。
 近くのコンビニでミネラルウォーターを買い、ショルダーバッグに押し込んだ。
 車内で待つポチは尻尾を元気よく振り、はやく連れていけと言わんばかりである。

 目的地近くの駐車場に停め直し、散歩がはじまった。
 車から降りると、ポチはさっそく走りだした。リードはピンと張り、青年の足も自然と速くなる。スニーカーにしてよかった、と思いながら小走りした。

 車道の両脇は農地が広がる。手入れされた農地もあれば、ススキが気ままに伸びる農地もあった。空は広く、解放感がある。
 ケーキ屋を曲がれば目的地らしい。前進するポチを誘導し、角を曲がる。
 
「はあ、まじか」

 青年は感嘆の声をこぼした。
 赤やピンク、濃紫のコスモスが太陽の下で風とともに揺れ、畑一面に彩りを与える。

 青年は立ち止まり、携帯でポチとコスモスを写真におさめた。
 ポチは虫に驚いて頭を振った。が、すぐに虫にも慣れてコスモス畑の中に入ろうとする。

「待って、ポチ。入るのはダメ」

 くぅんとポチが鼻を鳴らした。
 何度も走っていこうとするポチを止めながら、コスモスを眺め、ときどき写真を撮りつつ散策した。

 穏やかな時間が流れる。
 連れてきてよかった。家でぐったりしていたポチも走り回っているし、今日こそ食べてくれそうだと、青年は希望を見た。

 帰りはケーキ屋に寄った。

「いらっしゃいませ」

 ――食べたい。え、ケーキを? 今から選ぶのに?
 青年は自分の気持ちに戸惑いながら「え、っと、モンブランひとつ」と注文する。

「かしこまりました。ところで、お客様はもしかしてコスモス畑を?」
「え? ええ。さっき見てきたところです」

 青年の胸中を知らない店員は、顔をしかめながらケーキを選ぶ彼と、店の外で尻尾を振るしば犬を見、話しかけた。

「きれいですよね。私も通勤中、毎日見るんです」
「素敵ですね」
「本当に! お客様、よろしければこちらの紅茶クッキーもいかがですか。奥まで行くとベンチがあって、コスモス見ながら食べるのもいいですよ」

 と目を輝かせる店員。

「大変魅力的な提案ですが、あいにく先ほど見ましたので……」
「ベンチから見る景色はまた違っていいですよ。私にはわかります、わんちゃん、まだ散歩したがってます!」
「そ、そうですか……。ではクッキーもお願いします」
「ありがとうございます! モンブランのほうはこちらでお取り置きしておきますので、帰りに寄ってください」
「わかりました」

 言われるがまま青年はクッキーを受けとり、ポチと再びコスモス畑へ向かった。

 コスモス畑を横目に歩いていくと、たしかに真っ白なベンチが置かれていた。
 青年はベンチに腰を下ろし、クッキーを摘まんだ。
 口に放り入れると、せき込んだ。
 もう一度クッキーをかじる。だが、また吐き出してしまう。

「なんだ……?」

 まるで味がない。
 突然痛みが走る。ズボンの裾をめくると、かまれた跡があった。

「怪我で味覚異常がでるのか?」とぶつぶつ言いながら、頭の片隅では親戚と一緒に観たホラー映画を思い出していた。

「わん!」

 見上げるポチの瞳は、ごはんを出されたときよりずっとイキイキしている。
 仮眠中に目覚めるほどの痛覚。
 店員の前で感じた衝動。
 そこから浮上する、ひとつの仮説。

「ポチ、お前、ゾンビなのか?」
「わん!」

 ポチはコスモス畑のほうへ駆けていった。
 ああ。ため息に続く言葉はない。

 青年は、かまれたほうの足を引きずりながらコスモス畑をかき分けていく。
 花の蜜とポケットに入れたクッキーの香ばしくも甘ったるい香りが気持ち悪い。店員のほうがよほど、――思考を振りきってポチを捜す。

 秋風にあおられ、青年はコスモス畑に身を沈めた。
 日は落ちはじめていた。
 腹が鳴る。脳裏をよぎるのは店員の首筋と血管の奥に潜む匂い。胸を焦がし、苦し紛れに花を食んだ。空腹感は誤魔化せるものの、咀嚼(そしゃく)するたび戻したくなった。

 人なのだから、人を食べてはいけない。
 プライド。意地。エトセトラ。捨てれば楽になるとわかっていて、だけど捨てたくなかった。目を閉じ、よく味わった。

 また、冷たい風が吹く。
 襟をかきあわせ震えていると、顔に温もりを感じ、目を開けた。
 ポチが青年の顔をなめていた。

「おいで」

 伏せるポチに身を寄せる。

「なあ、ポチ。この命は、お前にやるよ。腹が減ったら食べてくれ。おれは食べたくないからさ」

 鼻を鳴らすポチに、はにかんだ。

「大丈夫。そばにいる。飼い主のできることなんて、それくらいだろ。まったくやるせない話だけど……。おれもゾンビになったら食べあうことはないかな。それでも、これからどうなる。おれはお前をポチだと認識できるのか? 世間からは脅威そのものにされるのか? 嫌だな。それは、とてもさみしいことだ」

 青年の表情は固くなり、おもむろに、まぶたを下ろした。
 動かなくなった口の端からコスモスの一片がこぼれ、ポチは静かになめとった。
 
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