第1話

文字数 1,988文字

篝火のような茜色の空が徐々に藍色の幕に覆われていき、星々が姿を現す。その移り変わる空を鏡のように反射する湖を、そっと抱きかかえるように草原が広がっている。その中央で一組の男女が抱きあっている。

そんなこの世のものと思われぬような景色が両手を広げたくらいの四角い額に収まり、白いパーテーションに飾られていた。まるで吸い寄せられるかのように、その写真の前に人だかりができている。写真の下に<理想郷>というキャプションが貼られている。

まさしくユートピアだ。キャプションを読んだ観客の一人はそう嘆息した。またある観客はこう言った。さすがはカメラの魔術師だ、と。

「初めての個展……上々だな」
少し離れた所で、本田真は観客の背中を見守っていた。漏れ聞こえる感想に不敵な笑みを浮かべる。

本田の撮る写真はSNSを中心にとても人気が高く、その腕前、いや能力から「カメラの魔術師」と呼ばれている。人気の理由は、風景であればもっとも見栄えよく、女性であれば震えるほど美しく、被写体を真に理想的といえる状態で写すからだ。

それは本田の撮影技術の高さやカメラの性能だけでは説明がつかない。カメラマンとしての技能や能力というよりも、本当の意味で特殊能力だった。撮影するとき被写体の理想形を念じることで、それを写真に反映できるのだ。カメラが写すのは現実ではない。理想と言う名の虚構をこれからも撮り続ける。本田はそう心に決めていた。

ある日、本田は撮影の依頼を受けて写真スタジオに来ていた。人気上昇中の本田は既に多くの依頼を抱えていたが、かなりの高額報酬を提示されて引き受けた。依頼人は一組の夫婦だった。二人は三十を超えた本田より若いようだ。夫は背が高くほっそりとしていて神経質そうだ。妻は夫より一層細く、少し顔色が悪い。正直、本田は撮ってみたいと思えなかったが、夫は「あなたの能力を見込んで、私たち夫婦の絆を記録してほしい」と注文してきた。

たいていの客は俺にお任せなのに、大したやつだ。まあ、報酬は高いし許すとしよう。二人が華やかな雰囲気をまとって寄り添っている光景を想像しながら、本田は愛機のシャッターを切った。

たくさんの依頼を抱える本田は猫の手でも借りる、いや猫を雇いたいほど忙しい。ゆえに撮影はすぐに終わらせるつもりだった。カメラを向け、〝理想の夫婦〟をイメージして撮った写真に写る二人は、SNSで映えるような、きらきらした雰囲気をまとっている。

本田はカメラをパソコンにつなぎ、みなぎる自信をそのまま差し出すように写真のデータを二人に見せた。

夫は、眉をしかめて首を傾げた。妻も無言で写真家を見つめている。二人の瞳に浮かんでいるのは失望の二文字だった。
「なぜそんな顔をする?」
本田が不満げに訊ねると、夫はいらだちを顕わにした。
「これじゃない」
「何がだ?こっちは忙しい、早く選んでくれ」
本田が付き合っていられないという風に首を振ると、開かずの扉のように固く閉ざされていた妻の唇が開いた。
「特殊な力のある方と伺っていましたが、ずいぶん鈍感ですね。私たちはそんな華やかな写真が欲しいのではありません」
開けっ放しの口から言葉が引っ込んで出てこないという現象を、本田は生まれて初めて経験したかもしれない。

本田が「帰ってくれ」と言いかけたところで、妻は希うような表情に変わった。妻は語りかけるように続ける。
「写真展にも行ったけれど、あなたの写真はどれも美しいと思う。でも、今の私たちの姿は自分たちでも撮れる。あなたの能力でしか撮れない写真を撮ってほしいのです」
「……どんな写真を望んでいる?」
「幸せが永遠に続くといいな、と思える写真」
本田の胸の内で永遠という言葉が何度も反響した。永遠なんて、ただの理想。若い二人がおぼれがちな仮初の言葉だ。愛の誓いは来年の今ごろにはちり紙より簡単に破られているかもしれない。そうでなくても人は老いて死ぬ。
……そうか。最期の時まで続く幸せも、理想形の一つか。
本田は、意を決してカメラのシャッターを切る。

本田は撮れた写真を、贈り物を渡すような気持ちで二人に見せた。それまで暗かった妻の表情が途端に明るくなった。
「私たちの未来を一枚だけでも見せてくれて、ありがとう」
「本当にこの写真でいいのか」
「はい、とてもいい記念です」
そう言って妻は微笑む。そんな彼女を慈しむように見つめる夫の顔も、雨上がりの晴れ間のように穏やかだ。夫が囁く。
「これ位しわくちゃになるまで、一緒にいよう」
年若い夫婦が愛おしそうに見つめる写真に写っているのは、年老いた二人。
「無理だよ。私の余命、聞いたでしょう。発見が遅くて手遅れだって」
妻の目尻に一滴の涙が浮かんだ。夫は妻の肩を抱きながら、その涙をハンカチで拭う。二人は本田に礼を言って立ち去った。
本田はカメラに記録された夫婦の写真のデータを、最後の一枚を残して全て消した。






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