透明なメッセージ

文字数 6,329文字


 家でのテスト勉強中、受験対策中。逃れられない問題に対して容易に逃れられる環境がゆえ、別の娯楽や普段は気にも留めないことに集中力を削がれることはないだろうか。
 再放送のドラマ、まだ読み終えていない本、消しゴムの黒ずみ、座ったことによって肌に密着したホットパンツの皺、今すべきではないことが気になり始める。
 真山千都世は今がそれだった。学校は休みの日だったが、大学受験のため、参考書や各教科の先生に用意してもらった対策問題と、朝から四時間は向き合っていた。彼女は普段、家で勉強をするという習慣がない。机と対面するのは授業で出された課題をするときや、友人に借りたノートを写すときくらいだ。四時間も勉強に使ってしまった。別にこれといった趣味があるわけでも夢があるわけでもないが、勉学に重きを置いていない千都世にとってはその衝撃といったらない。このまま勉強して、なんとなく大学に入って、就活して、卒業して働いて、結婚できるかもわからないけど、なんの夢を持つこともなく、そのまま死んでいくのだろうか。
 凝り固まった肩を肩甲骨から回す。ため息をつきながら、押入れの中は物が溢れかえっていることを思い出した。掃除をしよう。机の上に広げたプリントやら教科書やらをそのままに、押入れの襖を開く。下の段に並べられたクリアチェスト。夏服も冬服も全てこの中に入れている彼女は、衣替えの時期に引き出しの中身を入れ替えるという習慣があるということを中学生の時に初めて知った。
 ストッパーが付いていない引き出しを全て出し切り、床に並べていく。夏服の引き出し、冬服の引き出し、ワンピースの引き出し、パンツとスカートの引き出し、下着の引き出し。中身をひっくり返そうとぴっちり敷き詰められた服を両手で鷲掴みにした時、視界の端で、何かが煌めくのが見えた。
 押入れの、空っぽになったチェストの奥。覗き込むと、ドレッシング瓶だろうか。細長いガラスの瓶が転がり落ちている。中はカラフルな何かが入っているようだ。
 押入れに上半身を入れ、腕を伸ばしてそれを掴み出す。こんなもの身に覚えがない。カラフルな何かは、近くで見るとくしゃくしゃに丸められた小さな折り紙のようだった。開けるべきか否か。悩んでいると、中の紙玉がもそもそと動いている気がして、息を飲む。ひとりのとき、千都世はどうしても悲鳴を上げたり、笑い声を出すことができない。それがたとえ、誰かといる時よりも驚くことだったとしても、面白いことだったとしても、息を深くするだけ。
 虫が顔を出したら嫌だ。この家には今、誰もいない。夕方か、夜までは誰も帰ってこない。瓶を床に置き、少し距離を置く。もそもそ、がさ。紙玉が一際盛り上がった後、ぱらぱらと瓶の中で散る。小さな顔と手が、カラフルな紙玉を掻き分けて現れた。
「ああ、やっと出られた。ねぇ、君が真山千都世ちゃんでしょう」
 言いながらそれは紙玉の上によじ登った。親指よりふた回りほどスリムな大きさ。まるまるした、猫のような琥珀色の瞳。真っ白なのに、光に反射して虹のように見える髪がオスライオンのように大きく広がっている。なんだこれは。千都世は呆然とその瓶の中の生き物を見つめ続ける。
「聞こえてるんでしょう。ああ、そうか。驚いているんだね。はじめましての人にはちゃんと挨拶するように言われてたんだった。許してね、ぼくは今回の仕事が初めてなんだ」
 何も言えない千都世に一方的に話し続けるそれは、「ぼく」と言った。男の子なのだろう。しかし身に纏う服は、髪と同じ色をした膝上丈のワンピースを着ている。なんの生地でできているのか、これもまた彼が動き、光の当たり方が変わるたびに色を変えた。
「ぼくは……そうだな」
 瓶の中の青い紙玉を一つ手に取り、広げ始める。彼は腕を目一杯広げて自分より大きくなってしまったその紙を眺めている。
「うん、ぼくはソラだ。ぼくの名前はソラ」
 たった今決めたようだった。
「ボトルメールって知ってるかい? メッセージボトルとも呼ばれているね」
 不気味に思ったはずだった。虫が出てくるより、恐ろしいものを目にしているはずで、悲鳴をあげてしまいたいのに、やっぱり頼れる者がいないこの状況ではただそれを受け入れることしかできなかった。深く、息をする。
「それがどうかしたの。あたし、メッセージボトルなんて身に覚えがないんだけど」
「だってこれは君のものじゃないからね。ぼくの仕事はこのボトルの中のメッセージをしっかり読んで、届けるべき人のところへ届けることなんだよ。ほら、必要としていない人のところへ届けても仕方がないからね。あと、メッセージの整理もしてる」
 届けちゃいけないものっていうものもあるんだよ。そう言ってからからと笑う。小さいからだろうか。まるで幼い子供を見ているようだった。
 メッセージを届けるべき人のところへ届ける仕事。中身を確認して、整える仕事。ファンタジーな話だな、と思ってからそうでもないことに気づく。手紙の中身を確認されるというのはあまり嬉しいものではない。
「それがあたしのものじゃないなら、どうしてうちの押入れにあるの。こういうのって普通、海にあったりするものでしょう」
「ああ、そうだね。でも海に流すだけで本当にどこか別の海辺にたどり着くと思うかい? 海は広いし深い。どこかに沈んでしまったり、壊れてしまうことの方が多いよ」
 彼が「ああ」と息を抜くような声を出すたび、何か温かいものに包まれていく感覚が千都世にはあった。そしてその都度、非現実的な現実をなんの躊躇いもなく受け入れてしまう。そうか、海に流して誰かが拾うことの方が奇跡なのだ。そりゃあそれを運ぶ役割の生き物が必要になるよな。
「ぼくらはボトルに入り込むことで、どこに持っていくかコントロールするんだ。海だろうと陸だろうと家だろうと関係ない」
「あなた……ソラはこれをあたしに届けに来たの?」
「違うよ。君には手伝ってもらいに来たんだ。このボトルの中のメッセージが、いるものかいらないものか、整理してほしい」
「あたしが勝手に決めていいの? 申し訳ないけど、主観でしか選べないよ」
 ソラはまた、からからと笑う。何がそんなに面白いのかと尋ねる気持ちで見つめると、当たり前じゃないかと苦笑いをした。
「それはぼくが選んだって同じことだよ。どれだけ客観的に見ようとしたって、客観にはなれないからね」
「そう。じゃあいいよ、手伝ってあげる」
 そうこなくちゃね。そんな笑顔だった。彼は何度か両手を閉じて開いてを繰り返すと、指をパチンと軽く鳴らす。すると、さっきまで瓶の半分までを覆い尽くしていたカラフルな紙玉が消え失せた。残ったのは、ソラが自分の名前を決めるときに開いた青い紙と、黒い紙。
「じゃあ、まずこれから」
「随分少なくなったね」
「君に決めてもらいたいものがこれだけってことさ」
 そうなのか。千都世はただ頷いた。黒の紙玉と、開いてしまった青い紙を両手に抱え込み、瓶の内側を蹴った。そのまま足が瓶に沈み、腿が、腰が、胴が。やがて全身が瓶の外へ出てきた。
「そうやって出入りするの」
「まあね。細かいことはいいじゃないか。実を言うとあまり時間がないんだ」
 ソラは開いた青い紙を千都世に手渡した。青い紙には「空が青いということ」のひとこと。
「ねぇソラ。これ、いるとかいらないとかあるの」
「ああ、書かれていることをどう捉えるかは自由だよ。いるかいらないかの判断も好きにしたらいい」
「でもこれじゃあ意味がわからないよ」
 千都世がため息混じりに言うと、ソラは仕方がないなぁと言うように苦笑いを浮かべた。黒い紙を開こうとした手を止めて、千都世と向き合う。
「空が青いところを想像してみてよ」
 言った後、ソラはゆっくりとその瞼を下ろす。きらきら光る髪が眩しく、なぜか切なくなる。見ているのが苦しくて、言われた通りに想像するために目を閉じる。
 どこまでも青く、澄んだ空。雲ひとつないそこには、写真やアニメで見るような、嘘みたいに深い青が広がる。千都世は思う。私はこの空が好きだった。その理由はあるようでないけれど、ただ、こんな青い空をいつまでも見上げていたかった。いつから空を眺めていないだろう。綺麗なんだと誰かに伝えることを諦めただろう。好きだった。空が青いということが、どうしようもないほどに。
「どう? このメッセージは、必要かな」
 声に瞼を持ち上げると、彼は千都世を優しく見つめていた。その瞳が、彼女の頬を撫でるような色をしていた。
「うん、いいと思う。綺麗な景色だもの」
 ソラは柔らかい微笑みのまま、頷いた。
 今度は黒い紙を開き、それを千都世に手渡す。「画鋲の傷」と書かれていた。
「なに、これ」
「ぼくにもわからない。だからこうして手伝って貰ってるんだ。わかるものはちゃんとぼくらが整理するよ」
「画鋲の傷」
 ふと、部屋の壁を見る。ホワイトボードに、マグネットで張り付いた写真や、カレンダー。昔はホワイトボードではなく、コルクボードだった。いつ、ホワイトボードに変えたんだっけ。
 ソラは千都世をまっすぐに見つめる。さっきとは少し違い、眉間に皺を寄せ痛々しいものを見るように、瞳が歪む。
 きらりと光る髪と服。画鋲と傷。瞬間、息が詰まる。あ。出た声が一瞬自分のものだとは思わなかった。いらない。いらない、いらない、いらない。
「いらない!」
 ちゃんと言葉になっていなかった。ナイフが空気を裂くような、冷たい悲鳴。ソラは言った。
「本当に?」

 千都世は小学五年生の頃、友達と呼べる存在がいなかった。中学生になる頃にはそれでも数人、仲のいい子ができたが、小学校最後の二年間は彼女にとって地獄だった。殴られるわけでも、物を壊さられるわけでもない。ただ、ひとりだった。
 移動教室も、体育のペア決めも、給食も、ずっとひとりだった。話しかけると嫌な顔をされる。何かするたび、くすくすと笑われる。笑い声が聞こえると、不安になった。いじめと呼べるほど明確な事件はないが、クラスで息をするのが苦しいほどには悪意が満ちていた。
 そんなある夏の日、ひとりのクラスメイトが初めて行動に出た。教室の後ろ、図工で描いた絵などを貼り付けるために常備されてる画鋲のケース。それを、千都世の頭からかけた。
 刺さるわけでも切れるわけでもない。ただ、ちりちりと頭を、顔を、腕を通り過ぎていく。それでも、怖くて動くことができなかった。拾っては頭からかけられた。手間はかかるが、計算に満ちたいたずら。毎日、毎日、飽きることなくそれは続いた。
 目を閉じることで何かされるかもしれないのが怖くて、薄く目を開けていた。ちくちく、ちりちり、肌を擦る。笑い声。やめなよぉ。甘ったるく助長するように言う声。耳を塞ぐように視界に集中していた。きらきら、蛍光灯に、外の光に反射してそれが星屑のように見えた。実際にどう見えていたのかはもう思い出せないけれど、記憶の中の画鋲は綺麗だった。針先の痛みを覆うために、それを星屑なんだと思い続けた。

 頬が冷えていく。涙が流れていた。
「ねぇ。このメッセージは、本当にいらないの?」
「どういう、こと」
 千都世が問うが、ソラはそれ以上は何も言わない。ただ彼女を見つめるだけ。彼の服が動くたびに色を変える。どうしてこんなことを思い出させたのだ。
 空が好きだった。青い空を綺麗だと言った。それをクラスの誰かが馬鹿にした。千都世を馬鹿にしていいという雰囲気がクラスに蔓延した。些細なこと。何がいけなかったのかがわからない。それは今もわからなくて、理解できないことが原因だったんだと、そう思うことにしていた。
「つらいだけだよ。あたしはいらない、こんなの」
「捨てないでよ」
 彼はワンピースをふわりと揺らし宙を舞うと、千都世の涙を両手で拭う。
「君は美しいものがちゃんと好きだったよ。目標じゃない、夢がちゃんとあったんだよ。始めからなかったみたいにしないで。捨ててしまった理由をちゃんと覚えていてよ」
 言葉を忘れた赤ちゃんのように声をあげて泣いた。笑われないために、皆と同じになるために、好きなものを想う気持ちを捨てた。
「真山千都世、今の君なら大丈夫だよ。この痛みを背負って生きていける。この傷を抱えて、それでもちゃんと好きなものを好きだと言えるよ」
「どうしてそんなことがわかるの」
 ガラガラに掠れた声。叫び声に近かった。流れ続ける涙を優しく包み、頬を撫でながらソラは笑う。
「わからないよ、これはただの『主観』さ。君はもう乗り越えていける。千都世のたくさんのメッセージを読んで、そう思ったから、この記憶が必要だと思ったからぼくは運んで来たんだ」 
 千都世は思い出す。数分前のような、数時間前のような、時間の感覚が曖昧なさっきのこと。彼の仕事はボトルのメッセージを読んで、整理して、届けること。必要としていない人のところへ届けてもいけないし、届けちゃいけないものもある。
「ソラ、あなたって」
「君が流したたくさんの記憶が、壊れたり、沈んだりしないように管理しているんだ。だから、最初に言ったことは嘘だね。このボトルは、君に届けに来たんだ」
 ゆらり、ふわり。ボトルの周りを踊るように揺れ動く。輝く服が、髪が、徐々に透明な青に染まっていく。微笑む彼に、聴きたいことがいくつもあった。どうして今、こんな記憶を。あなたはいったい何者なの。あたしの何を見ていたの。
 聴きたいのに、声が掠れて音にならない。遠くの方で微かに笑い声が聞こえてくる。
「ああ、もうお別れだね。君はきっと苦しくてたまらないかもしれない。だから、どうしても耐えられなかったらまた流してしまったらいいよ。ぼくがちゃんと持っててあげる」
 視界が歪み始めて、背骨や腕が軋む音がする。遠くの声や音が、徐々に大きくなっていく。
「強くなんてならなくていい。なれなくていい。大事なものに嘘だけつかなきゃいいよ」
 彼の声が遠くなる。あたたかく、優しい声をもっと聞いていたいのに、少しずつ視界が黒に染まる。ソラ、ソラ、ソラ。彼が両手を瓶に突き出し、沈むように中へと入っていく。指を鳴らす仕草。瓶の中にはカラフルな紙玉が現れて、彼はその上で光に透ける青い髪と服を揺らして微笑んだ。
「さよなら、またいつか」

 瞼が持ち上がる。陽はすっかり西に傾き、室内を赤く染めていた。目を細めて眺めていると、スマートフォンの画面が光り、何かのメッセージを受信した。
『チトちゃん、興味なかったらごめんだけど、一緒に美術展に行ってくれないかな』
 中学生の頃、出会って以来の友人からだった。美術展は最近有名な画家が描いた空をテーマにしたものらしい。彼女からこうした趣味の誘いが来たのは初めてじゃない。でも、いつもは付き添うばかりで、ただぼんやりと眺めているだけだった。
 返信を打つために、指を画面の上でスライドさせる。
『すごく行きたい。今までずっと言えてなかったんだけど、あたしね……』
 一説では、夢というのは記憶を整理しているときに見るものだと聞いたことがある。今回のはそれだったのだろうか。千都世は思う。とんだ夢だった。だけどこの夢のことはきっと、一生忘れられないだろう。
 緊張と期待に震える指でメッセージを入力し、送信ボタンを押す。
 部屋を包む赤い陽の中に、青い光が瞬いたような気がした。
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