第1話 桜の花散る頃
文字数 3,252文字
思えばあれは明治四十年の四月。
あたくし校倉恵 は京都の八坂にある私立輝耀女学院 に通う女学生で御座いました。
低血圧な性質 なのでぼう、とする頭のまま矢絣の着物に海老茶色の行燈袴 に着替えて髪をまとめてから階下に降り、お紅茶とスクランブルエッグと片面きつね色に焼いたパンというイギリス式の朝食を慌てて咀嚼するとばあやに、
「やんごとなきご身分の姫 さまがそのようにお行儀悪くては笑われてしまいますわよ」とまた叱られてしまいました。
この日は日直なので早く教室に着かなければ、と教科書と裁縫の宿題をまとめて風呂敷包みに入れて小脇に抱え、玄関で見送るばあやの視界から出ると、
お父様が買って下すった革のブーツで通学路をばたばたと走ったものです。
「ごきげんよう、恵さま」
「ごきげんよう」
「課題の折り伏せ縫いはお出来になって」
「いちおう出来たけれども自信が無いわ」
と級友たちと挨拶を交わしている時、背後からちりんちりん。とベルが鳴り、
「カメ子さんごきげんよう」
と云ってうふふ、と笑いながら横を通りすぎる自転車娘は山科の別荘街に住む法連寺桜子 。日本を代表する画家であるお父上が多額の寄付をなさっているので自転車通学を許可されている何かと生意気な同級生です。
その頃のあたくしのコンプレックスは強い近眼で鼈甲縁 の眼鏡をかけていること。
眼科の先生によって霞がかった視界が明瞭になったのは嬉しい事で御座いますが、そのせいで心ない生徒からは
亀の甲羅の眼鏡を掛けているカメ子さん、カメ子さん、と囃し立てられ心傷付いていたものです。
さて、学校に着いて教室の窓を開けて風を通し、黒板を雑巾で拭いて日直の欄に校倉、と書いた後チョークの粉で白く濁ったバケツの水を捨てて石鹸で手を洗ってハンケチで水気を拭きながら美術室の前を通りすぎようとする時、
あたくし見てしまったんです。
全女生徒憧れのお姉さま、古川響子先輩が下級生でスイス人との混血、葛城ヨハンナと抱擁し合っているのを。
嗚呼、ヨハンナ嬢がお姉さまのお目さん(想い人の後輩)と云ふのは本当のことだったのでせうね。
二、三日前に始業式を迎えた頃の事で窓の外からは散った桜の花びらが入り込み、それはまるで薄桃色の淡雪のやうにお姉さまのお髪やヨハンナさんの灰色の髪のお目さんだけが着けることを許される緑色のリボンの上に降りかかっていたのをつい、
なんて美しいのでせう。と思って眺めてしまいました。
どれくらいそのやうにしていましたでしょうか、背後から突然
「カメ子さんはやっぱり出歯亀だったのですね」
と声がかかったので振り返るとお姉さまのご連中(取り巻き)の一人、姉小路真弓先輩がまるでえらの張った両頬に尖った顎、とまるで球投げ鬼ごっこ(野球)のホオムベエスのやうなお顔で得意気に頷いてからあたくしの肩を掴んで捕獲し躊躇 いもなくお姉さまがたに近づいて行きました。
「出歯亀を一体捕獲しましてよ」
と真弓先輩があたくしの首根っこをつまむ形でお姉さまがたの前に付き出すのをたまたま通りかかって発見した法連寺桜子が猫のように敏捷な動作で「ひどいわ、校倉さんはたまたま通りかかっただけよ」と珍しくあたくしを弁護してくれました。
白磁のやうな両頬を上気させて桜子さんは「だいたい朝からそのやうに学び舎での恋愛ごっこをなさるから誰でも見てしまいますわよ」と咎めるようにヨハンナさんを見て涙ぐんでいました。
あたくしはその時、
桜子さんは学級ではいつも一緒にいるヨハンナさんを好きでいらしたんだ。ということに気付いてしまったのです。
「ふうん、ヨハンナはお姉さまのお目さんでいらしたんだあ」とそのままスキップをし、「お目さん、お目さん」と歌いながらヨハンナの周りをくるくる回ってからかう桜子さんの笑顔はなんだか哀しみで歪んでいました。
お姉さまのヨハンナびいきが気に入らないご連中の真弓先輩もこの時ばかりは桜子さんと一緒になって「お目さん、お目さん」とおふたりをからかっていました。
お姉さまとヨハンナさんは何かを言いたそうにぐっと堪えたまま。
あたくしはお二人が可哀想でいてもたってもいられなくなって「およし下さいませ、お二人とも。きっと何か事情がおありなのでしょう」といつにも無く強い口調で言ってしまいましたの。
桜子さんと真弓先輩は動きを止めて急に神妙になり、あの校倉伯爵令嬢が珍しい、という目であたくしを見ました。
お二人ともばつの悪そうな顔で急に話題を変え、
「そう云えば始業式の高樹男爵の出で立ちったら。
あたくし達と変わらないくらいちんちくりんの背丈なのに、無理してかかとの高い靴をお履きになられて、頭には英国の舶来品のポマードをべったりお付けになってちょうど頭の真ん中で分け目を作って丸眼鏡でちょび髭で訓示を垂れていらっしゃる様ったらなくってよ。あたくしあれで向こう半年は思い出し笑いが出来てよ」
と数日前の始業式の格好付けすぎな高樹男爵を思い出して真弓先輩はふっ、うふふふっ、と堪えきれない笑いを抑えた口元から漏らし、話を次いだ桜子さんが、
「あのポマードのてかてか光る様ったら。四月なのにご来光かしらと思えてよあれでも男爵は御年二十九であらせられる、と聞いた時には耳を疑ってしまったわ。英国のご留学からお帰りになられて箔を付けたと勘違いなさっている見栄っ張りですわ」
とこちらは口を隠さずにほほほ、とはははの中間ぐらいの大きさでお口を開けて笑っておいでになる始末。
「本当本当、髪の毛はおありなんですけれど前列にいたあたくしにはご来光というよりお坊さんの説教に思えてしまいました」
あたくしも話の輪の中に入り、丸眼鏡にちょび髭の学院理事で財閥一族のご令息であられる男爵の訓示よりもご容姿の方が気になってしまい、十五の女生徒にも珍奇なものに映ってしまった事などを面白おかしく語らっている横でヨハンナさんの灰色の瞳はさらに哀しげを帯びてくるではありませんか。
とうとうたまりかねて「およしになってご連中の皆様」とヨハンナさんが目に涙を浮かべて何か云おうとするのをお姉さまが自ら前に出て止めて下さいました。
「僕は来年卒業したら、高樹男爵に嫁ぐ事が決まったんだ」
その時ばかりはこの世の時間、というものが全て制止してしまったかのような衝撃を受けたのは云うまでもありません。
「本当ですの」
と唇まで青ざめて入学以来のご親友であられた真弓さんが縋るようにお尋ねになるとお姉さまはこくりと頷かれ、
「昨年の運動会の時、徒競走で一位になった僕をお見染めになられたそうだ。僕の家家は傾きかけた造り酒屋、とてもお断りできる縁談ではなかった」
そう言って肺の全ての息を吐き出すように深い深いため息をお付きなられたお姉さまの美しい少年のようなお顔はなんだか、
少女であることを全て諦め、あたくしのお母様みたいに全ての自我を封じ込め一気に年老いてしまったように見えました。
この時代、学校内での上級生と下級生との恋愛ごっこも黙認されていたあたくし達は卒業したらお嫁にゆき、
母校の校訓
清く
正しく
淑やかに
のもと
良き妻良き母として生きるしか途の無い限られた時間の乙女たちだったのです。
「せめて僕から君たちにお願いだけれど」とさすがに堪えきれなくなったお姉さまがお顔を上げ、
「僕に君たちを抱き締めさせてくれないか」
と仰有 るではないですか。
あたくし達に否やはありませんでした。
最初に清い関係の思い人であるヨハンナさんがお姉さまぁ、としゃくり上げて続いてヨハンナさんに想いを寄せる桜子さん、お姉さまのご親友の真弓さん、そして最後にあたくしがお姉さまの胸の中に飛び込んで「御免なさい、御姉様」と謝罪致しました。
美術室に居た五人の乙女たちは抱き締め合いながらさめざめと泣きました。
時よ、いま少しあたくし達に少女である事を許して下さいませ。と時を司るという古代ギリシアの神クロノス様にお願いしながら。
その時間はかくも美しく儚く風のいたずらで散る淡い色の桜吹雪のやうでした。
間もなく朝のチャイムが鳴ります…
あたくし
低血圧な
「やんごとなきご身分の
この日は日直なので早く教室に着かなければ、と教科書と裁縫の宿題をまとめて風呂敷包みに入れて小脇に抱え、玄関で見送るばあやの視界から出ると、
お父様が買って下すった革のブーツで通学路をばたばたと走ったものです。
「ごきげんよう、恵さま」
「ごきげんよう」
「課題の折り伏せ縫いはお出来になって」
「いちおう出来たけれども自信が無いわ」
と級友たちと挨拶を交わしている時、背後からちりんちりん。とベルが鳴り、
「カメ子さんごきげんよう」
と云ってうふふ、と笑いながら横を通りすぎる自転車娘は山科の別荘街に住む
その頃のあたくしのコンプレックスは強い近眼で
眼科の先生によって霞がかった視界が明瞭になったのは嬉しい事で御座いますが、そのせいで心ない生徒からは
亀の甲羅の眼鏡を掛けているカメ子さん、カメ子さん、と囃し立てられ心傷付いていたものです。
さて、学校に着いて教室の窓を開けて風を通し、黒板を雑巾で拭いて日直の欄に校倉、と書いた後チョークの粉で白く濁ったバケツの水を捨てて石鹸で手を洗ってハンケチで水気を拭きながら美術室の前を通りすぎようとする時、
あたくし見てしまったんです。
全女生徒憧れのお姉さま、古川響子先輩が下級生でスイス人との混血、葛城ヨハンナと抱擁し合っているのを。
嗚呼、ヨハンナ嬢がお姉さまのお目さん(想い人の後輩)と云ふのは本当のことだったのでせうね。
二、三日前に始業式を迎えた頃の事で窓の外からは散った桜の花びらが入り込み、それはまるで薄桃色の淡雪のやうにお姉さまのお髪やヨハンナさんの灰色の髪のお目さんだけが着けることを許される緑色のリボンの上に降りかかっていたのをつい、
なんて美しいのでせう。と思って眺めてしまいました。
どれくらいそのやうにしていましたでしょうか、背後から突然
「カメ子さんはやっぱり出歯亀だったのですね」
と声がかかったので振り返るとお姉さまのご連中(取り巻き)の一人、姉小路真弓先輩がまるでえらの張った両頬に尖った顎、とまるで球投げ鬼ごっこ(野球)のホオムベエスのやうなお顔で得意気に頷いてからあたくしの肩を掴んで捕獲し
「出歯亀を一体捕獲しましてよ」
と真弓先輩があたくしの首根っこをつまむ形でお姉さまがたの前に付き出すのをたまたま通りかかって発見した法連寺桜子が猫のように敏捷な動作で「ひどいわ、校倉さんはたまたま通りかかっただけよ」と珍しくあたくしを弁護してくれました。
白磁のやうな両頬を上気させて桜子さんは「だいたい朝からそのやうに学び舎での恋愛ごっこをなさるから誰でも見てしまいますわよ」と咎めるようにヨハンナさんを見て涙ぐんでいました。
あたくしはその時、
桜子さんは学級ではいつも一緒にいるヨハンナさんを好きでいらしたんだ。ということに気付いてしまったのです。
「ふうん、ヨハンナはお姉さまのお目さんでいらしたんだあ」とそのままスキップをし、「お目さん、お目さん」と歌いながらヨハンナの周りをくるくる回ってからかう桜子さんの笑顔はなんだか哀しみで歪んでいました。
お姉さまのヨハンナびいきが気に入らないご連中の真弓先輩もこの時ばかりは桜子さんと一緒になって「お目さん、お目さん」とおふたりをからかっていました。
お姉さまとヨハンナさんは何かを言いたそうにぐっと堪えたまま。
あたくしはお二人が可哀想でいてもたってもいられなくなって「およし下さいませ、お二人とも。きっと何か事情がおありなのでしょう」といつにも無く強い口調で言ってしまいましたの。
桜子さんと真弓先輩は動きを止めて急に神妙になり、あの校倉伯爵令嬢が珍しい、という目であたくしを見ました。
お二人ともばつの悪そうな顔で急に話題を変え、
「そう云えば始業式の高樹男爵の出で立ちったら。
あたくし達と変わらないくらいちんちくりんの背丈なのに、無理してかかとの高い靴をお履きになられて、頭には英国の舶来品のポマードをべったりお付けになってちょうど頭の真ん中で分け目を作って丸眼鏡でちょび髭で訓示を垂れていらっしゃる様ったらなくってよ。あたくしあれで向こう半年は思い出し笑いが出来てよ」
と数日前の始業式の格好付けすぎな高樹男爵を思い出して真弓先輩はふっ、うふふふっ、と堪えきれない笑いを抑えた口元から漏らし、話を次いだ桜子さんが、
「あのポマードのてかてか光る様ったら。四月なのにご来光かしらと思えてよあれでも男爵は御年二十九であらせられる、と聞いた時には耳を疑ってしまったわ。英国のご留学からお帰りになられて箔を付けたと勘違いなさっている見栄っ張りですわ」
とこちらは口を隠さずにほほほ、とはははの中間ぐらいの大きさでお口を開けて笑っておいでになる始末。
「本当本当、髪の毛はおありなんですけれど前列にいたあたくしにはご来光というよりお坊さんの説教に思えてしまいました」
あたくしも話の輪の中に入り、丸眼鏡にちょび髭の学院理事で財閥一族のご令息であられる男爵の訓示よりもご容姿の方が気になってしまい、十五の女生徒にも珍奇なものに映ってしまった事などを面白おかしく語らっている横でヨハンナさんの灰色の瞳はさらに哀しげを帯びてくるではありませんか。
とうとうたまりかねて「およしになってご連中の皆様」とヨハンナさんが目に涙を浮かべて何か云おうとするのをお姉さまが自ら前に出て止めて下さいました。
「僕は来年卒業したら、高樹男爵に嫁ぐ事が決まったんだ」
その時ばかりはこの世の時間、というものが全て制止してしまったかのような衝撃を受けたのは云うまでもありません。
「本当ですの」
と唇まで青ざめて入学以来のご親友であられた真弓さんが縋るようにお尋ねになるとお姉さまはこくりと頷かれ、
「昨年の運動会の時、徒競走で一位になった僕をお見染めになられたそうだ。僕の家家は傾きかけた造り酒屋、とてもお断りできる縁談ではなかった」
そう言って肺の全ての息を吐き出すように深い深いため息をお付きなられたお姉さまの美しい少年のようなお顔はなんだか、
少女であることを全て諦め、あたくしのお母様みたいに全ての自我を封じ込め一気に年老いてしまったように見えました。
この時代、学校内での上級生と下級生との恋愛ごっこも黙認されていたあたくし達は卒業したらお嫁にゆき、
母校の校訓
清く
正しく
淑やかに
のもと
良き妻良き母として生きるしか途の無い限られた時間の乙女たちだったのです。
「せめて僕から君たちにお願いだけれど」とさすがに堪えきれなくなったお姉さまがお顔を上げ、
「僕に君たちを抱き締めさせてくれないか」
と
あたくし達に否やはありませんでした。
最初に清い関係の思い人であるヨハンナさんがお姉さまぁ、としゃくり上げて続いてヨハンナさんに想いを寄せる桜子さん、お姉さまのご親友の真弓さん、そして最後にあたくしがお姉さまの胸の中に飛び込んで「御免なさい、御姉様」と謝罪致しました。
美術室に居た五人の乙女たちは抱き締め合いながらさめざめと泣きました。
時よ、いま少しあたくし達に少女である事を許して下さいませ。と時を司るという古代ギリシアの神クロノス様にお願いしながら。
その時間はかくも美しく儚く風のいたずらで散る淡い色の桜吹雪のやうでした。
間もなく朝のチャイムが鳴ります…