秘密の実

文字数 1,994文字

 半年ぶりに会う高田くんは、マスク越しでもよくわかる笑顔で僕を歓迎してくれた。
 高田くんは、短期のアルバイトでお金を溜めてはアジア各地を一人で旅していたので、大学にはあまり来ていなかった。僕は彼に講義のノートを貸したことがきっかけで、たまに二人で飲みに行く仲になった。僕は彼の旅の話を聴くのが好きで、一人で冒険するその勇気をいつも称賛していた。高田くんは僕に褒められるたびに「澤井はお人好しだから、海外一人旅は向いていない。絶対に騙される。」と笑っていた。

 僕と高田くんが三年生に進学した春、世界的な新型感染症の大流行が始まった。大学は講義をオンライン化し、僕は大量の課題に追われる毎日を送っていた。そんなある日、高田くんから二人でオンライン飲み会をしようと連絡をもらった。
 画面の向こうの高田くんは、眼下の隈と伸びた髭のせいか急に歳をとったようにも見えたが、口調は明るかった。彼はこのところ、真面目に授業を受けつつ、オンラインのアルバイトに励んでいたそうだ。このまま講義のオンライン化が進んだら、海外から授業を受けたいと語っていた。
 互いに酔いが回ってきた頃、彼は冬に訪れた東南アジアの少数民族の村の話を始めた。村の人にもらった面白いものをぜひ渡したいから、大学の近くで会おうという話になった。僕は二つ返事で一週間後に久々にキャンパスまで足を運ぶことにした。

「この生活いつまで続くんだろう。」
「俺もずっと一か所にいると感覚がおかしくなりそうだよ。」
 愚痴に一区切りがついた頃、高田くんが喫茶店のテーブルの上に差し出したのは、小さな赤い実を干したようなものだった。
「これ、新型コロナウイルスを予防する薬。」
高田くんの真面目な表情に僕は思わず笑ってしまった。
「いやいや、そんなものがあったら国が放っておかないでしょ。」
「これは、村に伝わる秘密だから。澤井の口が固いのを見込んで特別に教えている。」
 どうやら村の長老や呪術師に重宝されてきた植物の実ということだ。強い自己暗示をかけることで、驚異の身体能力を引き出すことができるのだという。
「高田くんは食べたの?」
「ああ。おかげさまで、無事に進級できている。」
彼が自分にかけた願いは、意外にも進級することだった。自分の力でどうにもならないことは大学の単位ぐらいってすごいなと茶化したら、その場で思いついたのがそれぐらいだったと照れ笑いで返された。実を食べた後、少し時間を置いてから、願いを口に出すと体が順応するのだそうだ。多用すると体が疲れ果てるから、一度しか使えないらしい。
「ま、騙されたと思って食べてみ。20分くらいしたら願いを言えばいい。」
話半分に聴いていたが、高田くんや村の人々が食べているのだから毒ではないだろうし、僕はこのとき刺激に飢えていたので、実を口にすることにした。実は酸味と渋味と少しばかりの甘味を舌の上で放った。咀嚼して飲み込み、念入りに水で流し込んだ。
 食後はいつも通り、高田くんの冒険譚を聞かせてもらった。現地の人との宴会、強欲な商人の話、魅力的な女性のこと。精悍な顔立ちに柔和な笑みをたたえる彼は、多くの人を引き寄せる。
「いいなあ。僕も高田くんみたいになりたいなあ。でもこんな時代じゃどこも行けないよなあ。」
「いつかまた旅に出られる日が来るよ。」
「そういえば、高田くんは就活どうするの?」
「うーん、将来ねぇ……。」
高田くんは苦笑いをして話題を打ち切り、そろそろ20分経つと教えてくれた。
「新型コロナウイルスにかかりませんように。」
僕は目をつむり、手を合わせて言った。

 大学は、秋もオンライン授業を継続すると発表した。僕はこれ幸いと一人暮らしのアパートに引きこもって暮らしている。一度、夏風邪を引いてからは、実家には帰りづらくなっていた。それでなくても人には顔を合わせたくない。普段はマスクで隠れているが、このところヒゲが濃くなり、顔つきと体つきが変わった。知らない国の言葉がふいに口をついて出てくるようになった。
 高田くんは夏休みに「実家に帰る。今年は会えなくて残念。そのうち飲みに行こう。」というメッセージを寄越したのを最後に、連絡がつかなくなっていた。ある日、課題のレポートを作成しようとして、僕はキーボードで自分の名前をSからではなく、Tから入力し始めた。その時、全てがわかった。僕は高田くんみたいになったのだ。確かにあのとき、僕は口に出してそう言った。
 ある日、差出人不明の箱が玄関前に置いてあった。箱には高田くんの私物が入っていた。そして、一番底には見覚えのある実が透明の袋に包まれて入っていた。あの日、僕が会ったのは高田くんみたいな誰かだったのかもしれない。
「お人好しだから、絶対に騙される。」
僕は変わり果てた声で独り言を放って笑った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み