第1話
文字数 2,032文字
走ることが好きだった。走っている間は、何でも出来て、何処へでも行ける気がした。それが錯覚だと知った後も、嫌いにはなれなかった。
陸上で実業団入りを目指したが、望むような記録に繋がらない。ふと思い立って二輪免許を取得したのは、パッとしない僕なりの冒険だった。
その日は練習が休みで、快晴。バイクで走行中、黒いワンボックスを追い抜いた。ただの威嚇だったのか、明確に害意があったのか、相手の真意はわからない。いきなり車体を寄せられた僕は、バランスを崩して転倒した。
迫ってくるアスファルト。全身が衝撃で軋んだ。上下左右の感覚を失うほど、視界が激しく回転する。
煽り運転による事故だった。陸上競技は続けられず、今では思いがけない仕事に就いている。
□
僕の勤める遊園地に名前はない。夜間営業の移動遊園地だ。開園前に、演奏スタッフの仁木さんが詰所へ飛び込んでくる。
「大変です、先輩。ダップル君が脱走しました!」
「また?」
首肯に合わせて胸元のリボンが揺れる。保守職員のツナギとは違い、仁木さんの制服は華やかだ。
ここでは、職員自ら担当部署を決める。所属先を選択するまで、各部署を経験するのが慣例だ。新入りの彼女が保守整備部へ来たとき、指導したのが僕だった。演奏スタッフになった後も、彼女は僕を先輩と呼ぶ。
「子供たちが忍びこんで、馬と遊んでいたんです」
「御先山分校の子たち?」
「はい。そうしたら、ダップル君がはしゃいじゃって。馬丁さんたちと止めたんですが、女の子を一人乗せたまま何処かへ……」
「えっ、お客さんを連れてっちゃったのか」
メリーゴーラウンドの保守担当は馬丁と呼ばれている。馬丁の一人である僕は、綿菓子の箱を抱えた。ここの馬たちは甘いものや綺麗なものに目がない。綿菓子は大好物だ。
「ご飯で釣る作戦ですね。手伝います」
「いいの?」
「音楽があっても、馬がいなくちゃ仕事になりませんもの」
詰所を出ると、お客さんで賑わっていた。騒動に乗じて入り込み、なし崩しに開園になったのだろう。営利目的の遊園地とは違う。規則はゆるく遊具は奇妙で、牧歌的な面がある。
常連客が花時計の前にダップルがいたと教えてくれた。急いで向かう途中、一人の老婆に気付いて足を止める。
「先輩、あのお客様……」
「ご新規だね」
病衣を纏う痩せた老人。左手首にタグを巻いた彼女は、素足のまま途方に暮れて佇んでいた。
「こんにちは。移動遊園地へようこそ」
穏やかに声をかける。極力、驚かせないように。
「今日は遊びに来られたんですか? それとも、待ち合わせですか?」
「待ち、合わせ?」
「ええ。ご家族を捜す方が多いので」
「家族? あ……わたし……」
老婆が震え、うずくまる。過去の喪失を思い出した苦悶の表情だ。
「私、娘が……でも、あの子は学校で……ああ……そんな……」
悲壮な啜り泣き。けれど、かつての僕より気丈だ。捻れた手足に恐怖し、地べたで呻くばかりだった。仁木さんも、落ち着くまで時間を要した一人だ。黒く焦げた彼女は、失った両腕に慟哭し、しばらく意志疎通できなかった。
沈黙する僕ら。そこへカポカポと能天気な蹄 の音が近付いてくる。白毛に灰色の斑紋がついた馬と、おかっぱの少女が連れ立って歩いてきた。
「わあ、お母ちゃんだ!」
少女の歓声。老婆が大きく目を見開いた。
「詠子っ!!」
老婆は叫び、一心不乱に娘の元へ駆けていく。一歩踏み出すごとに彼女の姿は変化した。白髪は黒く、皺は失せ、病衣がワンピースになり、素足はパンプスをはいている。
肉体から離れた人間は、老いや怪我に縛られることはない。朽ち果て、打ち捨てられた廃園の木馬たちが、元気良く動き出すように。
僕の時もそうだった。花時計のデイジーを盗み食いに来たダップル。フガフガと髪の匂いを嗅がれ、憤慨した僕は、失礼な馬を捕まえたくなったのだ。
曲がったはずの足が大地を踏みしめて、捻れたはずの両腕が動きだした。無邪気な馬を夢中で追いかけ、泣き笑いしながら走っていた。
「ここに居たの。捜したのよ、詠子。ずっとずっと捜したのよ」
「お母ちゃん……」
母親の胸に抱かれた詠子ちゃんが、嬉しそうにはにかんだ。
宿城小学校の御先山分校が、土砂崩れにあったのは五十年前。待ち合わせの児童を迎えに、保護者たちが来園する頃合いなのだ。
「気付いてますか、先輩。ここ、お化け屋敷が無いんですよ」
「あ、確かに」
「この遊園地全体が、お化け屋敷みたいなものだからかな? ふふっ」
仁木さんが手を差し出すと、バイオリンが現れた。燃えたはずのガルネリが、悲劇の天才の手で歌いだす。
彼女の最期は飛行機事故だ。僕らが同僚になるなんて、誰が想像しただろう。
人生は何が起こるかわからない。たとえ、それが終わってからでさえ。
「お前、まだ食べる気かよ」
「ブルルッ」
綿菓子を狙うダップルが嘶 いた。仁木さんが笑っている。
幽霊になった僕の勤務先は遊園地。メリーゴーラウンドの馬丁は適職だと思っている。
陸上で実業団入りを目指したが、望むような記録に繋がらない。ふと思い立って二輪免許を取得したのは、パッとしない僕なりの冒険だった。
その日は練習が休みで、快晴。バイクで走行中、黒いワンボックスを追い抜いた。ただの威嚇だったのか、明確に害意があったのか、相手の真意はわからない。いきなり車体を寄せられた僕は、バランスを崩して転倒した。
迫ってくるアスファルト。全身が衝撃で軋んだ。上下左右の感覚を失うほど、視界が激しく回転する。
煽り運転による事故だった。陸上競技は続けられず、今では思いがけない仕事に就いている。
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僕の勤める遊園地に名前はない。夜間営業の移動遊園地だ。開園前に、演奏スタッフの仁木さんが詰所へ飛び込んでくる。
「大変です、先輩。ダップル君が脱走しました!」
「また?」
首肯に合わせて胸元のリボンが揺れる。保守職員のツナギとは違い、仁木さんの制服は華やかだ。
ここでは、職員自ら担当部署を決める。所属先を選択するまで、各部署を経験するのが慣例だ。新入りの彼女が保守整備部へ来たとき、指導したのが僕だった。演奏スタッフになった後も、彼女は僕を先輩と呼ぶ。
「子供たちが忍びこんで、馬と遊んでいたんです」
「御先山分校の子たち?」
「はい。そうしたら、ダップル君がはしゃいじゃって。馬丁さんたちと止めたんですが、女の子を一人乗せたまま何処かへ……」
「えっ、お客さんを連れてっちゃったのか」
メリーゴーラウンドの保守担当は馬丁と呼ばれている。馬丁の一人である僕は、綿菓子の箱を抱えた。ここの馬たちは甘いものや綺麗なものに目がない。綿菓子は大好物だ。
「ご飯で釣る作戦ですね。手伝います」
「いいの?」
「音楽があっても、馬がいなくちゃ仕事になりませんもの」
詰所を出ると、お客さんで賑わっていた。騒動に乗じて入り込み、なし崩しに開園になったのだろう。営利目的の遊園地とは違う。規則はゆるく遊具は奇妙で、牧歌的な面がある。
常連客が花時計の前にダップルがいたと教えてくれた。急いで向かう途中、一人の老婆に気付いて足を止める。
「先輩、あのお客様……」
「ご新規だね」
病衣を纏う痩せた老人。左手首にタグを巻いた彼女は、素足のまま途方に暮れて佇んでいた。
「こんにちは。移動遊園地へようこそ」
穏やかに声をかける。極力、驚かせないように。
「今日は遊びに来られたんですか? それとも、待ち合わせですか?」
「待ち、合わせ?」
「ええ。ご家族を捜す方が多いので」
「家族? あ……わたし……」
老婆が震え、うずくまる。過去の喪失を思い出した苦悶の表情だ。
「私、娘が……でも、あの子は学校で……ああ……そんな……」
悲壮な啜り泣き。けれど、かつての僕より気丈だ。捻れた手足に恐怖し、地べたで呻くばかりだった。仁木さんも、落ち着くまで時間を要した一人だ。黒く焦げた彼女は、失った両腕に慟哭し、しばらく意志疎通できなかった。
沈黙する僕ら。そこへカポカポと能天気な
「わあ、お母ちゃんだ!」
少女の歓声。老婆が大きく目を見開いた。
「詠子っ!!」
老婆は叫び、一心不乱に娘の元へ駆けていく。一歩踏み出すごとに彼女の姿は変化した。白髪は黒く、皺は失せ、病衣がワンピースになり、素足はパンプスをはいている。
肉体から離れた人間は、老いや怪我に縛られることはない。朽ち果て、打ち捨てられた廃園の木馬たちが、元気良く動き出すように。
僕の時もそうだった。花時計のデイジーを盗み食いに来たダップル。フガフガと髪の匂いを嗅がれ、憤慨した僕は、失礼な馬を捕まえたくなったのだ。
曲がったはずの足が大地を踏みしめて、捻れたはずの両腕が動きだした。無邪気な馬を夢中で追いかけ、泣き笑いしながら走っていた。
「ここに居たの。捜したのよ、詠子。ずっとずっと捜したのよ」
「お母ちゃん……」
母親の胸に抱かれた詠子ちゃんが、嬉しそうにはにかんだ。
宿城小学校の御先山分校が、土砂崩れにあったのは五十年前。待ち合わせの児童を迎えに、保護者たちが来園する頃合いなのだ。
「気付いてますか、先輩。ここ、お化け屋敷が無いんですよ」
「あ、確かに」
「この遊園地全体が、お化け屋敷みたいなものだからかな? ふふっ」
仁木さんが手を差し出すと、バイオリンが現れた。燃えたはずのガルネリが、悲劇の天才の手で歌いだす。
彼女の最期は飛行機事故だ。僕らが同僚になるなんて、誰が想像しただろう。
人生は何が起こるかわからない。たとえ、それが終わってからでさえ。
「お前、まだ食べる気かよ」
「ブルルッ」
綿菓子を狙うダップルが
幽霊になった僕の勤務先は遊園地。メリーゴーラウンドの馬丁は適職だと思っている。