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文字数 1,732文字

 世の中には歌を歌うための声帯を持って産まれた人と、そうでない人がいる。莉絵子さんは前者で私は後者だった。

 どうやって彼女と知り合ったのかどうしても思い出せない。好きなものをいつ・なぜ好きになったのかはいくらでも思い出せるのに。食べ物、酒、本、音楽。People In The Boxも、チャットモンチーも何がきっかけで聴くようになったのか思い出せる。そこに他者は介在していない。そう確信をもって言える。

 ミュージシャンがモテるのは、あるいはニキビ面の少年少女から淡い想いを寄せられるのは、音楽を通じて人々と接している時間が長いから。
 あるマンガの隅に余談としてそう描かれていた。だから莉絵子さんとの出会いについての忘却は時間の力なのかもしれないし、そうではなくて単に私の生来の者覚えの悪さのせいかもしれない。

 近ごろ、大学院でお世話になった先輩のフルネームを思い出すのに時間がかかるようになった。大学の学部生の時は、夏休みが明けたらゼミの同級生の名前が口から出てこなかった。小学校四年生の私は友達の家へ遊びに行く時、もらい物の大きなマドレーヌを二つ持参した。その子には妹がいたから。それだけじゃなく兄もいると聞いていたのに。

 でも、莉絵子さんとしたことは忘れていない。
 エルレガーデンとアジカンは彼女に貰った焼き増しCDで初めて聴いた。栄の雑居ビルにあるポスト・ロック系のレコ屋に一緒に行った。私がベースを買うのに付き合ってくれた。バンドを組んで文化祭に出た。私が作った曲を彼女が歌い、十代向けのアマチュアコンテスト、閃光ライオットに応募した。

 莉絵子さんの歌声は素晴らしかった。

 彼女とあまり親しくない私の友達が、文化祭のステージを終えた私に向かって、いの一番に言及したのは彼女の歌声についてだった。衣装から着替え終えた後、すれ違った他校の制服を着た男子高校生が「さっきステージでチャット歌ってたボーカルすげえ上手かった」と言うのを聞いた。
 私がすべての演奏曲を編曲して、キーボードを弾いて、チャットモンチーの曲でカウベルを叩いて聴衆が沸いたことを誰にも何も言われなくても、ほとんど気にならなかった。

 私の声帯は歌うためにはできておらず、脳は音楽を作るためにはできていなかった。それでも音楽は私の内で、外で鳴っていた。好きな音楽と、そうではない音楽はある。でも、一切の興味を惹かない音楽はほとんど世の中になかった。

 私は閃光ライオットのために二つ曲を作った。東山公園の246スタジオを借りて、文化祭に出たメンバーと一緒にそのうちのひとつを録音した。メンバーはいい曲だと言ってくれたけれど、出来上がったデモテープの中で特別だったのは莉絵子さんの歌声だけだった。予想はできていた。

 もし、と考える。もし、私が波多野裕文のように音楽を生み出す力があったら、橋本絵莉子に劣らない歌声の彼女とともに、どこか別の場所へ行けただろうか。

 橋本絵莉子波多野裕文がたったふたりで、浜辺に設置された舞台の上に立っている。海からの風が弱まってきた。日が暮れて夜がやってくる。短い凪のあと、風向きが変わる。
 「もう一度やり直せても同じこと選ぼうと思う」という歌詞が、陸から吹く風に乗って海の彼方へ流れていく。

 さっきの「もし」は仮定法だ。何度やり直しても、私が私である限り魅力的な音楽を作る力などない。私はそれをよく知っていて、だからひとりで池下のUPSETへ閃光ライオットの地方予選を観に行く。緑黄色社会の「マイルストーンの種」がからっぽの頭を巡る。小さなライブハウスで浴びた力の残滓を燃料に、電車を乗り継いで家に帰る。

 今年度付与された有給休暇は四日だった。今日はそのうち半日を使ってここまで来た。太陽は水平線のはるか下に潜っている。JRのホームでひとり、帰りの電車を待つ。
 少し離れたところで、若い女性の二人組が「めっちゃ寒い」「春の夜の寒さ甘く見てた」と笑い合っている。私はマウンテンパーカーのジッパーを首元まで引き上げた。莉絵子さんが私のことを覚えていてくれたら嬉しいけれど、忘れてしまっていても悲しくはない。今日訪れた音楽フェスの会場にも、世界にも、音楽が溢れているから。
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