タンジール

文字数 3,767文字

タンジール。そこにいけばどんな夢もかなうという、愛の国。どうしたら行けるのだろう? チュニジアだっけ? もっとも、それがどこにあろうがかまいはしない。いつだって単に、信じればそれはすぐそこにある……
その日、おれは組の子分たちと焼肉を食っていた。駅前にあるいつもの安い店だ。おれたちは裕福ではない。本能のおもむくまま自由に生きる男たち……一攫千金……濡れ手に粟……そんなイメージを抱いてこの稼業に飛び込んではみたが、そこを支配していたのはどこにでもある世知辛いマニュアルやガイド本の束だった。「だましのテクニック・老婆編」、「警察官の会話の特徴」、「パニックの心理学」、「みかじめ料の算定基準」……いったいどこで誰が書いているのか知らないが、掟はどこまでも追ってくる。そこから逃れるためにここまで逃れて来たというのに……
おれたちはいつもの一般客の目には触れにくい奥まったテーブルに通された。やがて、肉が運ばれてきた。冷凍してスライスされたタンが溶けて、その汁が汚らしく皿にたまっていた。おれがその皿を見つめながらタンジールのことを考えていると、ヤスは何を誤解したのか、大声で店員を呼びつけるとその皿を替えさせた……
おれがあいつらの親分におさまっているのは何かの間違いだった。多くの間違いと誤解が複雑にからみあい事故は起きる。ヤスは粗野と暴力とマチスモの貴族のくせに、見てくれがいいだけの乞食のおれを王様だとかん違いしていた。すべてはおれの外見と、あいつの心に根深く巣食うルッキズムのせいだ。おれの体はゴツゴツとして大きく、武張っている。おれにその気はないのに、周囲の人間を威圧し萎縮させてしまう。でも実際は、おれの心は繊細かつズボラ、まったく戦いには向いていないのだ。おれの体と心は調和していない。おれのばあちゃんは丹波で呉服屋をやっていた。しるし染めという伝統の技法を祖先から受けつぎ、守り続けて五百年。丹波のしるし染め。タンジール。おれはこう見えても職人で、平和とミキタンをこよなく愛するオタクなのに……
店のモニターにはミキタンのアニメが映し出されていた。おれはヤスの手前、ことさらつまらなさそうに横目でモニターを眺める。ヤスがいつも行きたがる浜系ラーメンを押し切ってこの店に来るのは、表向きはこのテーブル席があるからということになっているが、本当は、ミキタンの顔がいつも見られるからだった。おれにはもうミキタンしか生きる張り合いが残されていなかった。この店の店長もきっとおれとおなじ趣味なのだろう。趣味と実益を兼ねた焼肉屋か……羨ましい……
ミキタン……しかし職人だって流行には左右される。その日、ミキタンが活躍するアニメを見ながら、ふとその相棒のユカタンの姿をしつこく追っている自分におれは気づいた。ユカタン、それは豊かな半島……その名はちょっと痛単にも似ている。クスッ。ユカタンのシールが宝石のように光る、丸みを帯びたバイクのボディーのイメージが、ふいに眼の前に浮かび、おれは肉きれをトングでつまみ上げながら雷に打たれたようにしばし忽然とした……卵でふくらんだグッピーの腹のようなボディーを抱きしめ、風をうけて走り出す……柔らかな腹を手のひらで優しく押すと、おれの精子で受精した透明でピチピチした無数の卵がスーパーボールのように陽気に弾みながら元気よく飛び出していって、世界をくまなく覆っていく! おれはその妄想に興奮し、カンの鋭いヤスに心の内を読み取られないよう、ことさら眉間にしわを寄せると唇を噛みしめた……

こんな生活を続けてはいけなかった。おれは限界に達していた。これ以上ウソは嫌だ! ユカタンの痛単、そしてカミングアウト、組の内部でのおれの場違いな立場の劇的な切り下げ、この一連の恐ろしくも甘美に満ちた見通しが、渾然一体となっておれを内部から駆り立てた! そして願わくばおれは……ヤスの子分となって……ユカタン・ミキタンとの2+2で夢と現実、仮象と具象を股にかける愛の一大帝国を築き上げるのだ……おお、タンジール! ヤスにならどんなにぶたれたっていい! あの決して笑うことのない冷酷なヤス、あらゆる意味において手段ではなく目的そのものであるような数少ない人間の一人であるあのヤスが、整った顔立ちに軽蔑の冷たい炎を燃え立たせ、ピカピカに磨いたブーツの先でおれの腹を踏みつけグイグイと押してくる、そうすればおれは無力なオスの真鱈のように、白子の中身をそこら中にぶちまけてしまうだろう! そう、おれはこれから塗装屋へ出かけてゆき、塗装職人とユカタン・シールのデザインを細かく打ち合わせ、発狂する! じゃなくて発注する! おれの人格のデノミ決行へ向けて、ついにカウントダウンが始まるのだ! そのとき塗装屋の職人たちは、一瞬だけその仕事の手を止めて、HAPPY BIRTHDAY TO YOU をおれのために声をそろえて歌ってくれるだろう! おれは、ついにまた生まれるのだ! ビバ、第二の誕生! ビバ、タンジール!

その日。おれはあまたの星がきらめく宇宙にビキニ姿のミキタンとユカタンが示現する黒地のパーカーを着て、塗装屋からひきとったばかりの痛単に乗って朝遅くに事務所に現れた。
ヤスはおれの姿を見てぎょっとした様子だった。
「どうしたんすか、そんな格好して」
「気に入らねえのか?」
「なんか、オタクのグループに潜入しにいくみたいっすね」
おれは心の中で泣いたが、すぐに心の仮足を伸ばして涙をぬぐった。ヤスは、まだおれの壮大な計画を知らないのだ。いまからその反応に一喜一憂してもしかたがない……
「おれたち、組に名前がないよな」
「なんか考えたんすか」
「おお。タンジール、ってどう?」
「タンジール……いいっすね。でもタンジールって何なんすか?」
「別に意味はねえよ」
そのとき事務所の電話が鳴って、ナンタン通りのやつらがウチの縄張りで騒いでいるという報告が入った。いつもあそこのインド料理屋にたむろってはタンドーリばかり食っているやつらだ。やつらはここんところ勢力を伸ばしてきていて、初めはおれたちにへいこらしていたくせに、いまではすっかりつけあがっていた。
「まさか、その服で行くんすか?」とヤスが言う。
「ダメか?」おれは言い訳のように普段はしないサングラス(ダグラス・マッカーサーがかけていたようなトンボのやつ)をかけると、そのまま事務所を出た。
「乗れ」
そう命令すると、ヤスはおれの痛単を見て一瞬ためらったが、何も言わずにおれのうしろにまたがった。おれはヤスの筋肉だらけの力強い腕が腹に回されるのを感じた。タンジール! 頼むからあまり腹を押さないでくれ! おれは心のなかでそうヤスに呼びかけながら、眉間にしわを寄せて歯を食いしばり、なんとか自分を抑えるのに精一杯だった! だが同時に、胸元のミキタン・ユカタンが風でバタバタと震えるのを感じながら、おれは不吉な予感に苛まれてもいた! 脳の中に誰かが呼びかける声が響いた。引き返せ! 今ならまだ間に合う、Uターンしろ! タンジール! おれは心と体を千々に乱れる思いに引き裂かれながら、それでも現場へと向かった。

タンドーリのやつらは、まずおれのサングラスと苦虫を噛みつぶしたような顔を見た。それから、ミキタンとユカタンのビキニのパーカーに視線を移し、そして顔とパーカーの間を二三度行ったり来たりして見比べると、すっかり黙りこんでしまった。やつらがその足りない脳みそをいそがしく働かせているせわしない音がこちらまで聞こえてくるようだった。
「クスリヤのオッサンに何をした?」とヤス。
「クスリヤ? ケッ。オマエラのシッタコとかよ」
「オマエラこそケンカウってんのか。ちょっとシンミにしてやりゃ漬けあがりやがって」
なんだか意味がよくとれなかったが、おれはまるで急に透明人間になったかのように仲間はずれにされてその場に突っ立ったまま、ユカタンとミキタン、じゃなくてヤスと若頭のテンポのよい会話にうっとりと聞き惚れていた……ああ、いい! 意味なんてものは、たんに示し合わせにすぎないんだ……意味からいったん自由の身になれば、そこには生身の肉と骨とがじかにふれあい、心に響く音を立てる、魅惑の世界が広がっている……タンジール! ヤスと向こうの若頭との間ににらみ合いの火花が散った! それを見たとき、おれはやっと気がついた! おれはシラタンなんだ! おれはそう断じる! ユカタン・ミキタンの二人の友情に秘めた憧れを抱く、冴えないメガネのキャラクター……おれがサングラスなんてかけてきたのも、そのせいなんだ……
新たな自我の発見におれがしみじみ感動していると、ヤスと若頭の体はいつの間にかもつれあい、若頭の頭突きと膝蹴りがキマって、ヤスがゲロを吐きながらカナブンの幼虫のごとく体を丸めて地面にうずくまった。ヤスにまけずおとらず神々しいオーラを放つ若頭のごつい体がおれの面前にそびえ立ち、おれはこの意味も掟もない人生においてはほんのささいなきっかけで、たとえシラタンと言えども、途端に死に直面することもあるのだということを悟った……
タンジール……だれもがみな行きたがる、はるかな世界。どうすれば行けるのだろう、タンジール……
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