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文字数 3,698文字


 イサー、イサーと犬を呼ぶみたいに俺を呼ぶ母親の声に気づいたのは、朝飯を食って冬休みのドリルの二ページを開いたときだった。冬休みはあと三日。ドリルはあと二十八ページ。そろそろヒロといっしょにオリの家に行く時期だ。
 カズはたぶんもう写させてもらって、適当にまちがいを入れてるはずだ。こういうことにかけちゃカズは天才だ。俺とヒロが先生にバレたとしても、カズにかぎってそういうことはない。
 俺は気のない返事をして茶の間に向かった。
「電話なんだから早く来なよ」
 母親が言った。電話なら電話と言ってくれよ、とは言わなかった。言っても無駄だということは学習済みだ。
「だれから」
神蔵(かみくら)のテルコさん」
「テルおばちゃん?」
「そう」
 おばちゃんと電話で話すのは、おばちゃんちに行く前と帰ってきてからくらいだったし、かけるのはいつも俺からだった。忘れ物でもしたかと思いながら受話器を受け取った。
「もしもし」
「もしもし、イサかい」
 声の様子がいつもとちがう。
「はい。俺、忘れ物でもした?」
「ちがうんだよ、イサ。ジュンちゃんが来てるんだよ」
「えっ?だって三十日に帰ったよね」
 おばちゃんとバス停まで見送っている。
「そうなんだけど、きのうまた来たんだよ」
「なんで?」
「それがよくわかんないんだよ」
 と言って、おばちゃんは急にヒソヒソ声になった。
「お家に電話したら、あちらのおばあちゃんが出て、お父さんもお母さんも出張中ですぐには行けないから、しばらく置いといてほしいって言うんだよ」
「へえぇ」
「預かるのはいいんだけど、あの子、うちに来るって言わないで出てきちゃったみたいなんだよ」
「家出?」
 言ってから俺はあたりを見回した。人の話に首は突っ込まない――というか関心がない母親だけど、家出と聞いたらさすがにだまっていないだろう。が、母親はいなかった。俺はふぅと息をついて受話器をにぎり直した。
「おばあちゃんの話だと、秋口から学校もあんまり行ってないんだって」
「そう、なんだ」
「テレビ見て笑って、ご飯もちゃんと食べてるから心配はないんだけど、あたしとおじさんじゃ話が通じないからさ。ちょっと話してあげてくんないかい。いま呼んでくるから」
 ちょ、ちょっと待ってよおばちゃん、急にそんなこと言われたって、と言う前にゴトッと受話器を電話台の上に置く音が聞こえた。
 ジュンちゃーん、ジュンちゃーんと呼ぶ声が離れていく。おとといの朝までいた茶の間が目に浮かぶ。おばちゃんはいま廊下のつきあたりで元子ども部屋のドアを開けているころだ。ジュンちゃんが機嫌をわるくしてなければ、もうすぐ二人分の足音が聞こえてくる。
 ジュンちゃんと話したいという気持ちはあった。けど、何をどう話せばいいか見当もつかない。まいったなと思っているところへ足音が近づいてきた――重めの足音、そして軽めの音。
「イサ、なんで帰っちゃったのよ。まだいると思って来たのに」
 声は落ち込んでなかった。元気な家出少女だ。
「だってさ」
「いたら、また腕枕させてあげよかなって思ってたのに。ドキドキしてたんでしょ、イサ。正直に言ってみろ」
 暮れの二十九日だ。ひょんな成り行きでジュンちゃんを腕枕した。ドキドキなんてもんじゃなかった。
「宿題とか、学校の準備とかあるし」
 言って、しまったと思った。テルおばちゃんからジュンちゃんがあまり学校に行ってないって聞いたばかりなのに――学校って言っちゃった。アライ先生がそういう人にはあまり学校のことは話すなと言ってたのに。案の定、ジュンちゃんはいつものようにたたみかけて来ない。
「ジュンちゃん――」
 ごめんと言いかけたところにジュンちゃんの声がかさなった。
「なんで帰っちゃったのよ。話がしたかったんだぞ」
 声はすこし細くなっていた。
「話って?」
 俺はたずねた。学校のことには戻らないことにした。
「ねえイサ、こういうときはまず『俺も会いたかった』とか『ぼくも声が聞きたかった』とか言うの。ぶっきらぼうに『話って?』なんて、そんなんじゃ女子にモテないぞ」
 毒舌は相変わらずだ。でも声がちがう。やっぱり家出してきてるからなんだろうか。俺も、こんな家になんかいたくない、出てってやる!と何度も思ってきた。でも、いざとなると怖くてできなかった。それをジュンちゃんはやってしまった。それだけ嫌なことがあったんだ。
「大丈夫なの、ジュンちゃん?」
「大丈夫なわけないでしょう。ねぼけたこと言わないでよ。家出してきてるのよ、あたし」
「そうだよね、ごめん」
「ごめんって、なんでイサがあやまるわけ。あやまらないでよ。あたしが家出してきたこととイサは関係ないんだから。そうでしょ」
 怒ってるのに、苦しそうだった。
「イサがいたらいいなって思っただけなんだから」
「ごめん」
「だからあやまらないで!」
 いきなり怒鳴られた。鼓膜が破れるかと思った。
「ふつうに話してよ。言いたいこと言ってよ。腫れ物に触るようにしないで。あたしをいないことにしないで。みんな大嫌い!」
 言ったきり、ジュンちゃんの声が途切れた。そして変に荒い息が聞こえてきた。
「ジュンちゃん」
 俺は呼んだ。
「ジュンちゃん、どうしたの」
 返事はなかった。代わりに、どうしたのジュンちゃん!とおばちゃんのあわてた声が聞こえてきた。
「イサごめんね。ジュンちゃん、ちょっと苦しいんだわ」
 おばちゃんが言った。電話台の前でジュンちゃんはおばちゃんに抱かれて――泣いてるのか。
「おばちゃん、ジュンちゃん大丈夫?」
「大丈夫。落ち着けば元にもどるよ」
「そう」
「じゃあ、切るからね。わるかったね、イサ」
 おばちゃんはあわてたまま電話を切った。
 
 部屋にもどっても俺の頭はまだおばちゃんちの茶の間にいた。
 ――なんで家出なんかしたんだ。
 ――いったい何があったんだ。
 ――だいじょうぶかな、ジュンちゃん。
 誰もいない茶の間に俺の心配がうずになって膨らんでいった。居ても立ってもいられなくなって、机の上の時計を見た。まだ十時前だ。財布を開けた。行って帰ってくるだけはある。お土産は買えないけど、しかたない。
 親父の部屋に行って時刻表を開いた。いつもの電車はもう間に合わない。あっちこっちめくって、次の電車に乗れば暗くなる前におばちゃんちに着けることがわかった。
 親には忘れ物を取りに行ってくると言えばいい。何をと聞かれたら、おばちゃんにもらったマフラーだと言おう。わざわざ取りに行かなくてもと言われたら、俺には大切なんだと言う。そしておじちゃんのマフラーをもらってくればいい。
 財布と、きのう思い切ってお年玉で買ったトランジスタラジオ―これを買わなければお土産のお菓子が買えた――と下着と靴下をリュックに突っ込んで、母親を探した。母親は自分で工房と呼んでいる部屋――俺から見れば布切れと毛糸だらけのガラクタ部屋だ――で編み物をしていた。
「おばちゃんちに忘れ物取りに行ってくる。あしたかあさって帰って来る」
「そう。気をつけてね」
 あっさりしたものだ。今日ばかりは母親の性格に感謝だ。
 自転車にまたがって駅に向かった。次の電車まで一時間以上あるけど、家にじっとしてなんかいられなかった。
 オリんちの門が見えてきた。寄っていこうかと迷った。俺は本当はジュンちゃんに何て声をかければよかったのか、ジュンちゃんは俺と何を話したかったのか――オリの考えを聞いてみたかった。でもオリは、おまえはどう思うんだ、どうしたいんだ、と言うにちがいない。そっちのほうが大事だろうと。アライ先生もきっとそう言う。
 わからないまま俺はオリんちの前を通りすぎた。駅に着いて、自転車を置いて、切符を買って、ホームに出て、端から端まで何回も往復して、プワーンと鉄橋の方から汽笛が聞こえても俺の頭は空回りをつづけていた。
 窓の景色が流れていく。
 ――行ってどうするんだ。
 ――俺に何ができる。
 ――あんなに怒らせて会ってもらえるのか。
 ――ジュンちゃんだけでも大変なのに、俺まで行ったらテルおばちゃんに迷惑だろうが。
 電車のあったかい椅子に座ってじっとしていると弱気な考えが次々と襲ってきた。なんだよちくしょう、黙ってろよ、とののしっても弱気の声は消えて行かなかった。
 ――次は小滝、小滝――とアナウンスが流れた。小滝からなら四十分も歩けば笹和駅に着く。
「やっぱ、帰るか……」 
 つぶやいたとき、ジュンちゃんのさみしそうな顔が浮かんだ。あたしには女子の友だちがいない、と言ったときのさみしそうな顔。女子のことはよくわからないけど、それは俺にとってのオリとか、ヒロとか、カズとか、エイちゃんとか、ユウとか、トシがいないようなものかもしれない……。
 俺は切符をたしかめた。
 友だちじゃないし、カノジョでもないけど、ジュンちゃんは、やっぱり俺にとって特別の大事な人だ。
 帰れと言われたら帰ってくればいい。友だちじゃなくても、カレシじゃなくても、文句を言われるだけでもなんでもいい――少しのあいだジュンちゃんの近くにいよう。近くにいてジュンちゃんと話をしよう。
 それが今の俺の答えだ。
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