赤い傘の下

文字数 773文字

雨の匂いがする。彼女がそう言ったとき、俺はぼんやりと金魚を眺めていた。
彼女が飼っている金魚は出店の金魚すくいにいるような和金じゃなくて、もっとちゃんとした「金魚」だった。ヒレがどれもヒラヒラと長くて、体は丸っこくて、色は綺麗な赤。四十センチほどの水槽でひとり自由気ままに泳ぐそいつは何を考えているのかはたまた何も考えていないのか、いつもやたらと優雅だった。
「ねえ、雨の匂い」
ほら、と呼ばれてしぶしぶ金魚から目を離して彼女の隣へ行く。もうそろそろ本格的な秋を迎えるいまの季節、日が暮れたあとの空気は意外と涼しい。彼女のシャンプーの匂いに混じって、外から流れ込む風には確かに雨が降りだしたばかりのときの、あの土の匂いがした。
「ペトリコールだ」
「なにそれ?」
「この匂い。そういう名前」
「ふうん」
彼女は小さくうなずいたあとでにっこりと笑った。
「わたしこの匂い好き。雨が降ってるって知らなくても、まだ降りだす前でも、ああ雨だなって五感で感じられるの。雨はあんまり好きじゃないけど、これは好き」
「俺は雨好きだけどな」
「ええ?どうして」
「さあ?」
嫌いなものだったらいくらでも説明できるのに好きなものとなると難しい。雨でも、人でも、物でも。
「雨の日に何かいいことでもあったのかもな」
「例えば?」
例えば。また難しいことを言ってくる。雨の日に何があったかなんていちいち覚えていない。
…ああでも。
「告白に成功した」
華奢な肩にトンと体をぶつけてみせると、彼女は一瞬キョトンとしたあとで頬を赤く染めた。
「嘘だよ、あの日晴れてた」
「いいや、付き合うことになった日は雨だった」
「本当?」
「本当」
だってあの日、中学生のファーストキスかよと笑ってしまうぐらい緊張しながらキスをしたんだ。
金魚と同じくらい、綺麗な赤い傘の下で。


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