第1話

文字数 1,644文字

 昔の話。

 兄が母親の誕生日にカレーライスを作ると言い出したのは兄が中学二年生、僕が小学二年生の時だった。同級生の辻本君に美味しいカレーライスのレシピをもらったから、とのことだった。
 母親はとても喜んで、「じゃあ、お願いしちゃおうかしら。」ということになった。

 母親の誕生日の当日、兄は学校から帰ってくると、既に帰宅していた僕を連れてスーパーマーケットに買い物に出かけた。兄はもらったレシピを見ながら、鶏肉、たまねぎ、ニンジン、じゃがいも、そしてバーモントカレーなど、基本的なものの他に、隠し味として何かを買っていたのだが、残念ながら今では思い出せない。

 家に帰ると兄はレシピを見ながら、台所を占拠してカレー作りを始めた。ご飯は母が朝、家を出る前に準備をして、炊飯器のタイマーを入れておいてくれたので、いつも通り、7時には炊き上がる。僕は兄の指示でニンジンやじゃがいもを切ったり、カレーのあくを取ったりして手伝いをした。
 兄は鍋で煮込んでいるカレーを真剣な顔つきで腕を組んで眺め、レシピを見ながら、何度か味見をしていたが、しばらくして、「うん、出来た。」と言った。あくまでも弟しての個人的見解だが、その時の兄の満足そうな表情は、なかなかにかっこよかった。

 カレーが完成し、ご飯も炊けて、後は母の帰りを待つだけとなった。
 いつもは、母はだいたい仕事から7時には帰ってきて、それからちゃちゃっとごはんの支度をして8時少し前に、夕食になるというのが我が家のスタイルだった。
 しかし、その日、7時を過ぎても母は帰ってこなかった。いつも仕事で遅くなる時は必ず母は会社から電話をかけてくるのだが、電話は鳴らない。僕と兄はテレビでアニメを見ていたが、8時を過ぎても母は帰ってこない。アニメが終わり、テレビではクイズ番組が始まった。
 兄は僕にカレーライスを先に食べるかと訊いた。お腹はペコペコだったが、今日は母の誕生日なので、母が帰ってきたら一緒に食べると僕は言った。そうだよなと兄は言って黙った。
 9時を過ぎてとんねるずのバラエティ番組が始まっても母は帰って来なかった。僕はすっかり心細くなっていた。ひょっとしたら、もう、この世の中には僕と兄しかいなくなってしまったのではないだろうか。僕たちがカレーライスを作っている間に何か決定的なことが起こって世界は終わってしまったのではないだろうか。
 兄を見ると、兄はぼんやりとテレビを観ていたが、うつらうつらと眠たそうにしていた。
 とにかく、母はきっと帰ってくる。帰ってくるまで眠らずに待ち続けるぞと僕は固く決心した。

 僕の名前を呼ぶ声が聞こえ、体をそっと揺すられた。目を覚ますとそこには母の笑顔があり、兄もニコニコしながら僕の顔を覗き込んだ。
「ごめんね。遅くなって。」と母は言った。「帰りの電車で事故があって、ずっと動かなかったの。」
 時計を見ると、時刻は既に11時を過ぎていた。良かった、まだ母の誕生日は終わっていない。
「カレー食べようぜ。」と兄は僕に言った。
 平皿にご飯を盛り、温めなおしたカレーをかけ、カレーライスが3皿出来上がった。
 僕と兄が母にハッピーバースデーの歌を歌った後、ようやく僕らは兄が作ったカレーライスを食べた
「とっても美味しい。」と母は食べながら、何度も言った。僕もそう思った。
 兄は照れくさそうに笑いながら、「まあね。」と言った。
 カレーライスを食べ終わって、僕が何気なく時計を見ると、時計は真夜中の12時を指していた。そんなに遅い時間に起きているのは初めてだった。

 昔の話。まだ母が携帯電話を持っていなかった頃の話。

 兄がカレーライスを作ったのはあの日一日だけだった。兄は同級生からもらったカレーライスのレシピをなくしてしまったのだ。その同級生は高校が別で疎遠になり、連絡が取れないとのことだった。

 あれから、何十年も経つが、母は今でも、あの誕生日に食べたカレーライスが世界で一番美味しいカレーライスだったと言う。
 僕もそう思う。
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