1話 花がながめせしまに

文字数 2,757文字

 私立緑青高等学校の門へ、同じ制服であるのに自信ある様相で、ズカズカと足を踏み入れた。彼らは真っ直ぐ進んで行き、横三本向かい合っている桜を、薄い(てのひら)サイズのガラス板から通した、薄く褪せた桜を眺める。カシャカシャと音を立てては、奥の本物の桜よりも、手前の板に写る桜を見て感動をする。
 (みな)、異口同音で「綺麗」と述べた。私立で学校の様相だけは一丁前の事を言ったのか、同じく制服を通して見た自分が綺麗なのか、比較的進学校だという過信が綺麗に見えたのか―――俺には(わか)らなかった。




 一年七組の教室に同時に入ろうとした二人に、駆け足で担任らしき先生は「ちょっとそこの二人、手伝ってくれないか」と近寄る。入学式当日なのに少しボサッとしている頭と、小人(こびと)が登れそうな螺旋状に重ねられた書類と、古びて萎びた通勤カバンに少し今後の未来を案じる。
 宮路青丹(みやじあおに)は迫って来る担任の距離感を気にして下がると、入口側の左隣に居た荻野大輔(おぎのだいすけ)の肩にぶつかった。
「ごめん」
宮路は探り探りで謝ってみたが、荻野は何も言わない。下を向きがちだからか、顔が見えにくく、肝心の眼すらもスクエア型の黒眼鏡のテンプルの幅で半分ほど見えない。見えにくくても判明するのは、眼は微動だにしなかった事。まるで俺が彼の視野外、聴覚外に存在しているようだ。
 この謝罪を聞こえないまま、何もしないのは誠実性に欠けるのか、寧ろ彼の視野に俺が存在していない事によって誠実性すらも存在し得ない事になるのか。そう考え込むと担任にタイミングを消された。
「ごめんな。忘れ物したから取りに行かなきゃいけなくてさ」
 先生らしくない御託を丁寧に並べた先生から、続々と粗雑に重たい書類を渡される。――ここまで来たなら置いてからまた行けよ、まあ言わないけど。

 荻野は担任の何冊かのファイルと、毎朝の通勤電車のように押し込まれた年季の通勤カバンを、宮路は保護者に向けた連絡書類と勉強に関する書類を渡された。荻野は進んで、先に教室に入った。教卓に少し投げやりに置く。手を離した瞬間「めんどくさ」と手が話し出しそうな動きだ。俺も進まないと、と感化されて歩き出し、教壇で少し足が(もつ)れた。
 足に目をやろうとすると、自然に持っていた勉強に関する書類に目をやってしまった。合法的にカンニングをしていると信じたい。
 英語や理科社会はワークで予習。数学は指定された(ページ)まで予習、現代文は授業の為に小説『気のいい火山弾』を読んでおく。オリエンテーション合宿の為に小倉百人一首を覚える。小倉百人一首―――やった!もうここまでの人生においてカンニングをしていた!
 自分の偏差値の指標よりも少し高い気がした緑青高校は、家から近いという怠惰な名目で頑張った。だから着いて行けないかと案じていたのに、小倉百人一首は昔から好きで得意だった故に、今は気分が良い。何でもしてやれる気がする。なお、記述ではなく選択であるならば。


 一年七組は、学校内の年功序列のせいで、一年生は最上階の三階の位置でエレベーターはあるが健常者の生徒は使わない物。七組という最後尾の組のせいで、一番近い階段からでも生存してる教室で最も遠い場所になる。息絶えた四組分ほどの空き教室がこの学校にはある。

 七組の教室の黒板には、手書きの席順と数字がチョークで刻まれていて、隣には三十五人の名前と番号の紙が貼られてある。その前には何人かの女子が群がっており、見えにくい。
 さっき一緒に先生を手伝った人は紙を見てすぐに席に着いた。一番廊下側の一番後ろの席だった。出席番号、五番目の位置に座った。五番目の行には萩野(はぎの)だと書いてある。俺は二十三番で、窓側から三列目、前からも後ろからも三番目で、ここからでは気休めで外の景色すらも眺められない。今日の空は不貞腐れた薄灰色で気分をぼやかしている。

 気分転換も出来ない席に、曇り空の窓から嫌気が差して来た。後ろの席の人が肩を叩く。
「何?」振り返ると、ふっくらとした優しい顔立ちで、LEDに照らされた明るめの茶髪の人が座っている。
「口実ならぬ行実。行動の

の方ね」
「おお、上手いね」そこまでではないが、ここは最初が肝心なので接待モードに切り替えた。
「俺、森本猛(もりもとたける)ね」挨拶のバトンを受け取る。言葉で握手を頷くようなバトンの渡し方に少し戸惑うが、有り難く受け取る。
「僕は…宮路青丹」多分ピックアップしそうだ。
「あおい?もう一回言ってくれる?」ほら、来た。
「あおにって言うの。珍しいでしょ」ここは自分から述べてみる。慣れているように見せかける。珍しさの後光が差して、相手に引け目に感じる事は無いんだよ、と周りを霞ませて、親鳥を見たばかりの小鳥にお手本として見せるかのように。
「あんま聞いた事無いね。あだ名…鬼ちゃんってのはどう?」
「え、なんで鬼?」どこかで俺の言動で怖がらせた?
「青丹から、青鬼、どちらの青を打ち消して、鬼ちゃんとか」眼から同意が滲み出ているか確認するような顔で覗き見る。
 特に嫌な事は無く、青鬼の印象も悪くない。別に俺の概念が無くなる訳でも無いから了承した。それよりも嫌な事はここから。
「僕もあだ名つけて良い?」優しく良いよと言うが、俺は嫌でしかない。
 同級生の関係は常に対等だ。上下関係なんぞ作ったら破滅の道への門が開かれるだろう。その対等か否かの平均を求める値の一つに、あだ名も含まれると思っている。だから、値を揃えないといけない。だとしても行動範囲を狭めた怠惰のお揃いにしたら、初対面の相手にとって気持ち悪い感情にさせるだろうし、少しの個性も与えなかったら申し訳ない。禁忌の領域の一つに、相手の尊厳を(けが)すあだ名だ。それだけは避けたい。

 たけちゃん…(たける)…猛っち…たけ、椎茸?それよりも松茸の方が名誉的か?
「たけるってどう書くの?」字を分かれば少しばかりは道が開かれるのではないかと思った。音だけじゃ伝わらない事もあるだろう。
「獰猛の猛だよ」
 宮路は顔に意識をやらずに考え込む。どうしようか。聞いてみたものの、漢字を思い出せない。時間をかけた上に、お手数増やすばかりの質問はここまでにした方が良い。多分、あの熟語には獣偏は無かった気がする。俺は自信ありそうな声質で言った。
「獰猛の猛の方を取って…孟子とか!」森本は一瞬顔を歪めた。数秒足らずの表情は、俺に漢字を間違えた事を察するように仕向けた。
「孟子って哲学者の?あの孟には獣偏無いけど、渋くて良いね」最終的にフォローされた。
 なぜか頭の中から取り出す漢字は、いつも何処か霧がかっていて鮮明に見える事はあまり無い。勿論あまり見かけない、書かない漢字だけじゃなく、いつも見かける、昨日書けた漢字や小学生の頃に習った慣れた漢字ですらも対象外ではなく、書けない事実と見飽きた失望だけが残る。
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