微睡み想う、いつかの酒

文字数 1,996文字

帰りの電車に揺られている内に少し寝てしまっていたらしい。かすむ目を窓の外に向けると、もうほとんど沈みかけた夕陽に照らされた建物や雲の黒いシルエットが、濃い橙色の空に進行方向とは逆に流れていく。見覚えのない街並みだった。どうやら寝ている間に、降りるべき駅を過ぎてしまったらしい。仕方なしに次の駅で下車した。時刻表を確認すると、次の電車は40分後のようだった。

電車が来るまでの気晴らしに、駅の周辺を散策してみることにした。どこか暇を潰せる店はないだろうか。駅の前にはいくつかの店が立ち並んでいたが、どの店も明りが点いていない。人影はおろか、車の通る音さえ聞こえない。もったりとした夏の夜気が、重たくまとわりつく。どことなく、なにもかもが嘘っぽい。不安な気持ちを抱えながら、しばらく歩いていると、喫茶店風の店を1軒見つけた。あるいは居酒屋かもしれない。どうやら営業しているのはこの店だけのようだった。少し不信感を抱きつつも、先ほどから喉が渇いて仕方がない。何か怪しいものを感じたらすぐに退散しよう。決心して戸を開ける。

薄暗い店内にはカウンターに席が8つほど。先客はいなかった。カウンターの内側には店主と思しき妙齢の女性が1人いる。私の来店に気づくと、少しほほ笑んで手前の席を手で示した。

私が席につくと、店主は何も言うことなく、カウンターの奥に消えてしまった。メニューでも取りに行ったのだろうか。しかし、いくら待てども戻ってこない。しびれを切らして「すみません」と声を掛けようとしたところで、店主は戻ってきた。手には、何らかの液体が縁までなみなみと満たされたグラスがある。

店主は、そのグラスを、私の目の前にそっと置いた。

「……まだ何も頼んでいないのですが」

私が幾分か不愛想に言うと、

「お客様が今、一番飲みたいものをお出ししています」

と笑顔で返してくる。

「……まあそう言うのなら」

不承不承ながら目の前のグラスに改めて目をやる。

脚も取っ手もこれといった装飾もないシンプルなグラス。それを満たす液体は、少しくすんだ黄色をしていて、表面にはうっすらときめ細かい泡が張っている。手に取り、口に近づけてみると、柑橘系をベースにした、南国の果実のような甘く、爽やかな香りがした。ジュースか何かだろう。そう思いながら、一気に口の中に含んだ。

口に含んだ瞬間、衝撃を受けた。フルーツのような芳香が、目まぐるしく、次々に現れる。桃、ライチ、マンゴー、グレープフルーツ、オレンジ。そういった果実の印象が頭の中に次々に現れては消え、現れては消え。しかし、舌に感じる甘さにくどいものはなかった。液温は冷たすぎず心地よい程度で、芳醇な香りの奥には、その液体に含まれた炭酸とかすかな苦みが、絶えず舌をぷちぷちと刺激している。

これはいったい……?

その液体の正体がつかめず当惑したまま、飲み込む。するりと口から喉へ、喉から胃の腑へと落ちていく。少し時間をおいて、その液体が通った後にじんわりと熱を感じて、この飲み物が酒であったことを思い出す。ふわり、と、口に含んだ時に感じたあらゆる果実の香りが蘇ってくる。かと思えば、今度は暴力的な苦みが舌を襲ってくる。ただ、不思議なことにこの苦みが、まったく不快ではなく心地よい。

美味しい。何だこの飲み物は。たまらず、もう一口。さらにもう一口。その度に、あらゆる香り、味が口の中で爆発する。味覚のあちこちを、頭のあちこちをこれでもかというぐらいに刺激する。

気づけば、もう半分以上飲んでしまっていた。視線を上げると、まるで女神のような微笑をたたえている店主と目が合った。気まずさに、頬が赤くなるのを感じた。あるいは酒のせいかもしれないが。

「これはいったい……」
「ビールですよ」
「いや、そんなはずはない。だって、ビールは……」
「いえ、あなたはわかっているはずです」
「だとしたら、これは何というビールなんだ」
「それも、あなたはわかっているはずです」

店主は笑ってそう答える。まったく意味がわからない。だが、そんなことはどうだっていい。今はこの酒を存分に味わおう。さらに一口、また一口。幸せを深く重ねていく。

ふと気づくと、私は1人でないことに気づいた。この狭い店の中に、何人もの客がいる。皆思い思いに酒を飲み談笑している。だが、その姿かたちはどこか曖昧で、声も音も聞き取れない。その客達に店主は酒を運び、あの奥ゆかしい笑顔で接している。店主も同様に、幾分か影が薄くなったようだ。

酔いに微睡みながらその様子を私はぼんやりと眺めていた。この明らかに怪しげな状況に、私は不思議と安らぎを覚えていた。そのうちに本格的に眠気を催してきた。まぶたが重い。

「ああ、もう帰られるのですね」

店主の声が遠くに聞こえる。その声音は少し寂しげだった。

「それではまた。おやすみなさい」

ああ、そうだ、確かにこれはビールだ。名前は確か……。
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