002 夜の王

文字数 2,484文字

「――――っ!?」
「目が覚めた?」
 悲鳴を上げて飛び起きた魔物を見下ろし、セレネはにやりと人の悪い笑みを浮かべて見せた。白い寝巻き姿ではなく、いつもの黒い革鎧を身につけている。壁に立てかけてあった剣も、彼女の腰に吊るされていた。
「良い夢だったろう?」
「な、何なのよ、お前は。わたくしが…………っ、わたくしが、こんな」
 目の前でうずくまっている魔物は、自分の身体を抱きしめるようにして震えている。若い金髪碧眼の娘だ。言葉遣いは上品だが、豊かな胸と腰周りを覆う布以外は何も身につけていない。健全な青少年には刺激が強すぎるだろう。現れたのが自分のところで良かったと思う。
(あ、でも魔王様もこういうのは嫌いじゃなかったりするのかな。やっぱり男の子だし)
「何を、何をしたのっ、お前!」
「ん? ああ、ごめんごめん」
 潤んだ瞳で、娘がセレネを睨みつける。実際にこんな娘を目の前にしたら、きっとあの子は真っ赤になるんだろうなあ、などと呑気に思いながら、セレネは言った。
「答えは簡単。私は最初から寝ていなかった」
「なんですって…………?」
「寝てなかったから、私の中に何かが入って来たとしても私の方が強い。…………たとえ、それが夢魔でもね」
 娘が唇を噛んだ。混乱もするだろう。夢の中ならば絶大な力を発揮するはずの夢魔が、逆に夢を見せられるなど、普通ならありえない。
 剣を抜く。悔しげに顔を歪める夢魔の首筋に、セレネは剣を突き付けた。
「こっちは文字通り出血大サービスしてやったんだからね。色々教えてもらおうか」
 夢魔の瞳から、怯えの色が消えた。
「ずいぶん舐めた真似をしてくれるじゃない、人間のくせに」
「夢の中でなければ、夢魔なんて怖くないさ」
 夢魔は、普通の剣でも傷つけることができる。首筋に剣を突きつけている今の状態なら、セレネの方が有利なはずだった。
「それで? 私を襲った理由は?」
「わたくしが素直に言うと思うの?」
「それはね、君が邪魔だからだよ」
 答えは背後から返ってきた。夢魔ではない。若い男の声だ。
 悪寒がする。直感に従って、セレネは夢魔に背を向け、振り向き様に剣を振り下ろした。
「おやおや、僕に剣が通じないことぐらい、君だって知ってるだろう? まあ、良い判断だったけどね」
 青白い肌と鋭く尖った耳、大きく裂けた口。黒いマントに身を包んだ吸血鬼が、血のついた長い爪を舐めながら笑っていた。
 剣を持っていない方の手で首筋に触れてみる。手に血で濡れた。いつの間にかはわからないが、首を浅く斬られている。
 傷は不快な熱を持っていた。吸血鬼の爪と牙には、毒がある。それを思い出して顔をしかめた。
 夢魔が勝ち誇った表情で、吸血鬼にしなだれかかった。吸血鬼が夢魔の腰を抱き寄せる。
「少し勿体ない気もするんだけどね。君の血はとても美味しい」
「それはどうも」
 セレネの意志に反して、身体が震え始める。声が震えないように、喉の奥に力を入れた。視界が揺れている。毒の回りが予想以上に早い。
(落ち着け。まだ手はある…………)
 普通の剣では、吸血鬼を傷つけることすらできない。英雄の剣か、あるいは神官が用いる神聖魔法でなければ倒せない。そのどちらもセレネは持ち合わせていなかった。
 それでも――――覚悟さえすれば、彼女は吸血鬼を倒すことができる。
「仕方ないんだよ。僕が欲しいのは魔王の血なんだから。邪魔な君は消えないといけないんだ」
 覚悟をする。後で魔王には怒られるだろうが、それは甘んじて受け入れよう。自分に向かってきゃんきゃんと吠える魔王を想像して、セレネは小さく笑った。
「勿体ぶらずにさっさとやったらどうだい?」
「命乞いもなし、か。良いね、そういうのは嫌いじゃないよ」
 吸血鬼がセレネに向かってゆっくりと手を伸ばした。呼吸を測る。いつ動くべきか、その時を見失わないよう、セレネは身構えた。
 吸血鬼が爪を振り上げる。セレネの手が、剣の柄を掴んだ。それぞれが動き出す――――
「――――裁きを受けたるは、夜を統べし不浄の王!」
 鋭い声と共に、部屋の扉が蹴破られた。
 夢魔を抱えた吸血鬼が大きく後ろに跳ぶ。魔物たちが立っていた場所に、白銀に輝く矢が何本も突き刺さった。
 何度か見たことのある魔法だ――――魔王の使う、神聖魔法のうちのひとつだろう。
 扉の方を見れば、まだ寝巻き姿の魔王が吸血鬼を睨みつけていた。床に刺さった光の矢が、硝子が砕けるような音を残して消えていった。
 夢魔を背中に庇った吸血鬼が言う。
「これはこれは。魔王が神聖魔法を使うとはね! 邪悪の根源、災厄の子と人々に恐れられているのに!」
 声を立てて笑い始める。しかし一切隙は見せなかった。
 しばらくして満足したのか、吸血鬼は元の薄い笑みを浮かべて、
「これは思わぬ収穫だった…………今日はこれで失礼させてもらうよ。いずれまた、今度は魔王の血を頂きにね」
 闇の中に溶けるように、吸血鬼と夢魔の姿が薄れていく。完全に消えた頃に、セレネの膝が限界を迎えた。身体を支えきれなくなり、ずるずると膝をつく。
「おい、大丈夫か?」
「まあ何とか。でももう少し早く助けに来てくれた方が嬉しかったなあ、なんて」
 こちらに近づいて、早速回復魔法を唱え出した魔王にそう言うと、彼は顔をしかめた。それが妙に情けない表情だったので、慌てて話題を変える。
「まあ、何はともあれ、手掛かりが見つかりましたね」
「手掛かり?」
「トトの村の。――――あの吸血鬼に力を授けた魔王とやらが、何者なのか」
 あれから色々と調べてはみたが、これといった情報はまだ手に入れていない。血に狂った吸血鬼どころか、目撃情報すら見つからないでいる。魔王の血を求める吸血鬼が現れたのは、好都合と言えるかも知れない。
「向こうから来るまで何もなしというのが問題だ。受け身は性にあわん」
「それでも一歩前進ですよ」
 出来る限り穏やかな調子でそう言ってみたが、魔王は情けない表情のままだった。
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