ミルク

文字数 869文字


 ある貧しい男が、山に捨てられていた生まれたての赤ん坊を拾った。その日から仔山羊が男の家にやって来て、毎日ミルクを置いていくようになった。男は仔山羊を怪訝そうな表情で見つめたが、ミルクを受け取り赤ん坊に飲ませ続けた。

 男は赤ん坊に触れる事を恐れた。赤ん坊は小さ過ぎた。壊れそうだった。赤ん坊はよく泣いた。男は赤ん坊が自分に懐いていないと思った。ただ、ミルクを飲ませる時だけは、赤ん坊は大人しくなり、笑った。だから男はミルクを必要とした。ミルクだけが必要だった。そして、自分は赤ん坊にとっては必要ない存在だと思った。男は、赤ん坊を育てられないと思った。
 ある日男は、家にやってきた子山羊を蹴飛ばした。

「帰れ。もうミルクはいらねぇ。何で俺がこんな赤ん坊を育てなきゃならねぇんだ」

男は鼻息を荒くし、倒れた仔山羊を睨みつけた。仔山羊が咥えていた籠からミルク瓶が転げ落ちた。ミルク瓶は割れていなかった。仔山羊は身体を起こし、男を見上げて言った。

「ミルクを渡すまでは帰れないよ。ミルクがそれを望んでいるし、それはあなたが望んでいる事でもあるから」

男はもう一度、仔山羊を強く蹴った。仔山羊はまた倒れ、今度は流血した。

「帰れと言ってるんだ。俺は一人がいいんだよ。俺に赤ん坊なんか育てられるわけがねぇだろう」

仔山羊はまた起き上がり、転げ落ちたミルク瓶を咥えて籠に入れ、その籠を男の目の前に置いた。

「ミルクには、赤ん坊を育てる力がある。それは赤ん坊を育てる人を、癒す力でもあるんだ。ミルクは、親子のためにあるんだよ」

そう言って、仔山羊は震える脚をゆっくりと動かし、背を向けた。

「だから、泣かないで。あなたにはミルクが必要だよ」

自分の目から溢れるものに驚いた男は、去っていく仔山羊を追いかける事も呼び止める事も出来ず、その場に立ち尽くした。

 暫くして我に返った男は、目の前に置かれたミルクを持って家の中に戻った。赤ん坊を抱いて、ミルクを与えた。赤ん坊は笑った。男は赤ん坊の頬を、壊れないようにそっと撫でた。





 赤ん坊が笑う時、男は自分も笑っている事に気がついた。
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