だから、彼女に話さない。

文字数 22,033文字

 神無月(かんなづき)かれんは恋愛小説家だ。しかもかなり官能的な、きわどい濡れ場を得意としている。
 彼女の前の担当は彼女によって人生を狂わされた。
 それは彼女が妖艶な美女であり、やってくるものすべてを虜にし、ついには骨抜きにしてしまう……――からではない。
「わー、このカヌレ、おいしいー!」
「お口に合ってよかったです」
 男の自分には菓子のうまいまずいはいまいちよくわからない。隣の席の女子においしい店を聞いて買ってきてよかった。
 カヌレをじつにおいしそうに頬張っている。寝癖がそのまま。くたびれたジャージ姿の女性。彼女こそが神無月かれんなのだ。大学生の息子、葎と都内はずれのマンションで二人暮らし。
 彼女を見たらたいていはこう思うだろう。
 気のいい、ちょっぴりころっとした専業主婦、と。
 それが神無月かれんの印象であろうと、ココノエ出版文芸二部、彼女の担当編集である草野真白(くさのましろ)、三十二歳は判断する。
 草野は彼女のマンションを原稿の受領と次回の打ち合わせのために訪れ、エディターズバッグをかたわらにスーツでリビングのソファに座っている。ローテーブルには草野が購入してきたカヌレが箱の中に横一列に並んでいる。カヌレとはカヌレ・ド・ボルドーの略で、フランスの修道院で作られていた……――らしい。外側はかりっとして、中はぬめっとしたプリンとケーキのあいだぐらいの菓子だ。
 神無月はご近所には自分が作家であることは内緒にしているらしい。いわく「恥ずかしくはないけど、恥じらいはあるの。万が一にも息子の同窓生に渾身の濡れ場を読まれたら、大根を買いに行けなくなっちゃう」とのことだ。
 草野が神無月の担当になって半年。そのあいだ、月に一度は自宅を訪れている。草野のことを彼女は保険会社の人だと説明しているらしい。スーツにエディターズバッグ。人に言わせるとまじめなサラリーマンそのもの。そう見えなくもないかもしれない。
 まだ口を動かしながらも、神無月は次のカヌレを選んでいる。
 最初に食べたのがスタンダードなもの、あとはレモン、イチジク、チョコレート、抹茶とある。
「先生はこういう菓子がお好きとお伺いしたので」
 神無月はぱっと顔を輝かせる。
「そうなの。私、カヌレとかマドレーヌとかフィナンシェとクイニーアマンとか、ちょっと地味なお菓子が好きなのよね。粉と卵とバターとお砂糖、それだけで勝負! みたいな」
 彼女はチョコレートのカヌレに手を伸ばした。なんだか動物みたいだと草野はおかしくなる。
「先生の小説にも通じるところがありますね」
 神無月の書く小説は、官能的でありながらも骨太。文体も飾りがない。
「そう? そうかしら?」
 神無月かれんはその金太郎を思わせる頬にお菓子のくずをつけたまま、首をかしげた。
「まったくいい年をして。お菓子のくずがついてますよ」
 そう言ったのは、コーヒーを入れてきた息子の葎だ。大学生の彼は、たまたま家にいるときにはコーヒーを入れてくれる。それが抜群にうまいので、草野の密かな楽しみになっていた。葎はティッシュを持ってきた。
「カヌレはふたつまでですからね」
「えー、そんなー」
「甘いもののとりすぎは身体によくありません」
「ぶー」
カレンは頬を膨らませている。草野は言った。
「お二人、仲がいいんですね」
 葎が珍しく感情らしきものを見せた。戸惑っている、というものだ。しばしの沈黙のあと、言葉を慎重に選んで、葎は言った。
「そうですね、ずっと二人暮らしでしたから」
 葎はほとんど表情を変えない。神無月かれんが感情豊かな金太郎人形だとしたら、葎は本堂の奥深くにある仏像だ。しかも何百年に一回の秘仏だ。整った顔立ちに長身。これはきっと父親似なのだろう。
 神無月かれんの夫。
 一度も見たことがないし、写真もないし、彼の存在を匂わせられたこともない。前任者の鈴木からも夫の話はタブーだと聞いている。
 草野にだって好奇心はある。彼女の夫はどんな男だったのか。死別なのか。離婚したのか。別れたとしたらそれはやはり彼女のあの「作家の習性」が原因なのか。
 さまざま思い巡らしていると、神無月が「それにしても」と上目遣いで草野を見つめてきた。
「草野さんってキャラが立たないのよねえ」
 それは幸いだ。
 それこそが鈴木が彼女の元を去った原因だからだ。そのおそるべき威力を、彼女自身はまったくわかっていない。
「そういうのって葎以外では初めて。葎は私の息子だからかなって思うんだけど。草野さんをいくら見ても、『文芸誌の編集者』以外のなにものでもないんだもの」
 いや、幸いではなく、不幸なのか。
 彼女はさらにこう付け足すべきだった。
 ――『記憶喪失の文芸誌の編集者』と。
「それでは、お原稿、確かに拝領しました」
「はーい」
 彼女が甘いものを食べすぎようと、たとえ男に溺れようとも不倫をしようと離婚をしようと、草野には関係ない。きちんと期日に求められた仕事をする。それだけが草野が作家に求めるものだ。
 神無月が聞いてきた。
「鈴木さん、お元気ですか? もうお仕事に復帰されました?」
「え?」
 なにを言っているのか。鈴木は草野の前任者だが、もうとっくにばりばり仕事をしている。最近は新人賞をとった作家を世に出そうと奮闘中だ。
「鈴木ですか?」
「まだお悪い、とか。お見舞いに行ったほうがいいかしら」
 徐々に思い出してきた。あの顛末を。
「だって、面会謝絶だったじゃないですか。ずいぶんお加減が悪そうだったし」
「あ、ああ」
 彼女の丸い目がくりくりとこちらを見つめている。ああ、そうか。そういうことになっていたのか。
 草野は顔が引きつるのを感じる。それはあなたのせいですよ、とは、言いがたい。
「ご安心ください。鈴木はもうすっかり元気ですよ」
「よかった。ずいぶん青い顔をされていたから、心配だったんです」
 台所で葎がこっそりため息をついたのが聞こえてきた。ああ、やっぱり彼も気がついているらしい。
「先生からのお言葉を伝えておきますね」
 きっといやがるだろうと予測しながらもそつなく言っておく。
 鈴木は草野の上司だ。入社時にはたいへん世話になった……――らしい。入院していた病院で「担当をかわってくれ、おまえ、俺の弟子だろう。俺はおまえの師匠だ。おまえが新人のときには散々世話してやったんだからな。頼むよ」と泣きついてきた。そのとき編集部の中でちょうど余力があったのは、まだ経過観察中の草野だけだった。
 鈴木は、たしかに胃潰瘍を患った。だが、本来は入院するほどではなかった。だが、あのままで行けば命を落としかねなかっただろう。
 彼を病気にしたのはこの目の前のご婦人、神無月かれんなのだ。彼女の発言によって心身ともに参ってしまった。かと言って、彼女が意地悪をしたとかそういうのではない。断じてない。だからこそ、困るのだ。
 鈴木は彼女の無意識のうちの行動、ある意味、まことに作家らしい習性によって大きなダメージを喰らうことになったのだ。
 神無月が次のレモン味のカヌレに手を伸ばした。葎がさっと箱ごと下げる。
「もう終わり」
「だって、脳が糖分を欲しがるのよ」
「栄養が行き渡るのは脳だけはないですよ。少し、控えたらどうですか」
 言いたいことをずばりと言う。己で菓子を持ってきておいてなんだが、草野も葎の意見に賛成だった。神無月は小柄なのにころころしている。彼女は口を尖らせた。
「だって、どこに行くわけじゃなし。楽しみは食べることだけだもの」
「そうおっしゃいながらも、芝居だ、旅行だ、と、しょっちゅう出かけますよね」
 神無月は、きっ、と、葎に向き直った。
「あれは違うの」
 果敢に反論を試みる。
「おや、どう違うんですか」
「あれは……――取材よ」
「取材」
 うん、と、彼女は、己の納得させるように何度もうなずきながらカヌレにかじりついた。
「取材……」
 思わず草野がオウム返しに口にすると、彼女は言い張った。
「そう。お芝居も映画も旅行も、すべてが取材。生きていること自体がネタになるのよ。作家なんて、そんなものでしょ。親が死んだって泣きながらも『親が死ぬとこんな気持ちになるんだ。いいネタをもらったなあ』ってほくほくしてるんだから」
 そう言った彼女を草野はまじまじと見る。
 金太郎のような彼女が不意に得体の知れないものに見えてきた。彼女は、自分の親の葬式でそんなことを考えていたのだろうか。親の死に泣きながら、ほくそ笑んでいたのだろうか。
 葎があきれたように口を挟んできた。
「お母さん。あなたのご両親は健在でしょう。社長業を息子に譲って悠々自適だ。昨日、ヴェトナムに遊びに行くと連絡がありましたよ」
「たとえよ、たとえ」
 ほっと息を吐く。
 だが、彼女は葎の父と別離したときにはきっとほくそ笑んだに違いない。これはいいものを手に入れたぞ、と。
「それで、次回の話になりますが」
「はい」
「恋愛、すなわち先生お得意のエロスを入れていただくことを大前提として、さらにミステリーの要素はいかがでしょうか」
「ミステリーかあ。誰かが死んだりするんでしょう?」
「死ななくてもいいですけどね。謎は小説の推進力になります。恋人が犯人、でもいいですよ」
「んー、うまく書けるかなあ。人を殺す気持ちが、わからないからなあ」
 じゃあ、あんたはイケメンとこんな濃厚な濡れ場を経験したことがあるのかといつも書いているものに突っ込みを入れそうになったが、草野の理性がそれをとどめた。
 神無月は天井を見つめる。とりつかれたような目をしていた。彼女はぽつりとつぶやいた。
「人を殺したらわかるのかしら」
「え」
 笑おうとしたが、笑えなかった。
 なにを物騒なことを言っているのだ。まさか本気ではあるまいと彼女をまじまじと見つめる。
「でも、刑務所に入らないといけないものねえ。いったい、刑務所からでも原稿って提出できるものなのかしら。パソコンは持ち込めるかしら。打ち合わせとかできるのかしらね。今さら手書きなんて無理」
「お母さん、刑務所の中ではだいたい時間が決まっているし、カヌレも食べられないし、芝居も見に行けないですよ」
「そうね。やっぱりだめよねえ」
 無言で見つめている草野に、彼女は破顔した。
「やだ、草野さん。冗談ですよ。ジョーク、ジョーク。そんなことするわけないじゃないですか」
 ジョークか。心底そうか。ほんの少しは本気が混じっていたのではないか。
 まったくもって疲れる人だ。

 草野は神無月のマンションを辞すと私鉄に乗り、渋谷で降りた。青山方面、ココノエ出版の入っているビルへと大通りを歩き出す。うしろから背中を叩かれて振り返る。
「いやおまえ、足がはやい……」
「鈴木さん」
 さきほど話していた鈴木だった。副編集長をしていて、草野が入社した当時はたいそう世話になった……――らしい。
「声かけてんだから、止まれよ」
「聞こえませんでした」
「いや、聞こえてたね。おまえ、俺の弟子だろ」
「そのあたりは記憶にありません」
 鈴木の少々薄くなった頭頂部に汗が光っている。
 鈴木はすっかりおもがわりしている。かつては女子にセクハラをしてこれも愛情だなんて豪語していたのだが、その面影はどこにもない。ぎらついていた様子はすっかりと影を潜め、体重も筋肉を伴って一回り落ちたように思える。
「その後、様子はどうですか」
「え、様子?」
「胃潰瘍です」
「ああ、まあ。胃痛は相変わらずだけどな。だいぶよくなったよ」
「神無月かれん先生が鈴木さんのことをたいそう心配していましたよ」
「やめてくれええええ!」
 鈴木は歩道を歩いている人たちがぎょっとするほどの悲鳴をあげた。鈴木はエディターズバッグを前に抱え込み、胃をかばうようにしている。
「あの悪魔の名を口にするなあ!」
「すみません。もう言いません」
「ほんとうだな」
「ええ」
 歩き出しながら、鈴木はぽつりと言った。
「……おそろしいよ、あの女は」
 草野はさっき見たばかりの金太郎のようなほっぺたの女性を思い浮かべた。
「そうですかね」
「ああ。あの『キャラ立て』ってのはなんなんだよ。あの先生が新人のときからのつきあいだが、ずっとそうやって観察してたのかね」
 彼女は、親が死んでも悲しみつつ「いいものを拾った」とこっそり懐に入れる。きっとやる。
「作家ですからね」
「それにしても、だ」
「キャラ読みが当たっていたんですね」
「……」
「当たっていたんだ」
 鈴木は立ち止まった。歩道の端に移動させられる。だれにも言うなよ、と、前置きして鈴木は話し出した。
「同じ部署の前田とつきあってたんだ」
 さしもの草野も眉がぴくりと動いたのを感じた。
「向こうが配置換えを希望して替わっていったから言えるけどな。三年ほどつきあっていた」
「鈴木さんも前田さんもご結婚されていたでしょう」
「ああ。悪いのは先刻承知していた」
 どうだか。草野はそういう話を信じていない。心の底から「悪い」と思っていたのなら、しないはずだ。ばれたときに謝るくらいなら、しなければい。
 ただ、他人が不倫しようが結婚しようが、それが仕事に影響を及ぼさないのなら別段気にならない。
「こう、日々の潤いがさ、欲しかったんだよ。会社ですれ違いざまにメモを渡したりさ。だれにもわからないように目配せしたりさ」
 彼らはうまくやっていた。だれも社内で気がつくものがいなかった。相手の前田が色気とはほどとおい印象の眼鏡女子だったせいもあるだろう。
「あるとき、あの先生と割烹で打ち合わせしてたんだよ。あいつめ、こっちの経費だと思って食べる、食べる、飲む、飲む。日本酒党で大吟醸を四合」
 よく覚えているなあと感心する。そうか。甘党だと思っていたが、酒もいけるくちか。
「そこで打ち合わせをしてたんだけどさ、あの先生が、ふいに身を乗り出して言うんだよ。『あのね、私、前から鈴木さんのことを……』」

 以下は鈴木が語ったママになる。
 そのとき、彼女は頬を紅潮させて言った。かなり酔っていたのだろう。
「あのね、私、前から鈴木さんのことを小説のキャラクターだったらこうかなって思ってたの。話してもいい?」
 遠慮というものが彼女にあったのが鈴木には驚きだった。
「いいですよ」
「ほんとに? ずーっと考えていたんだけど、どうしても言い出せなくて」
「水くさいなあ。なんでも言ってくださいよ」
 神無月かれんの目がらんらんと輝きだした。まるでお気に入りのお人形を買ってもらった女の子のようだった。
「あのね、私、鈴木さんを小説のキャラクターにするのだったら、同僚の女子とダブル不倫している設定にするわ」
 がたーんと鈴木の、焼酎を入れていた青いグラスが倒れた。中にあった丸い氷がころころところがっていき卓の下に落ちた。鈴木は慌ててそれを拾った。うつむいて卓を拭く。
 神無月は鈴木の様子がおかしいのには気がついていない。自分の考えに夢中になっている。
「お相手は……そうだわ、まえに社にお邪魔したときにお目にかかったことのある眼鏡の人。あのひととかいいんじゃないかな。前田さんって言ったっけ。あ、これはキャラ立ての話だから、気を悪くしないでね。二人はお互いに結婚して、伴侶にはなんの不満もないの。でも、ちょっとした潤いが欲しいなあ、なんて思ってる。部内のだれにも知られないで関係を続けるのも秘密めいて楽しい。そんな無邪気な間柄だから、実際の逢瀬のときにはそれほど萌えるとかバラエティに富んだいやらしいことをするとかじゃないの。不倫を続けるための約束みたいに会うの。場所は、そうだなあ。渋谷だと近すぎるものね。ちょっと離れた越谷あたりで、最初に鈴木さんのほうが入って電話して、次に前田さん。そのときにはちょっとだけ……そうね、眼鏡を外してルージュを引いたりするのね。それを鈴木さんは褒めてあげるの。それから……――」
 めまいがした。酔いが急激に回ってきたのか。ぐるぐると天井が回り出す。
 ――おはよう。
 ――今日、楽しみにしてるよ。
 ――いつものところで。
 そう。彼女のルージュを鈴木は褒めた。デパートのカウンターで買ったんだと前田は頬を染めて語った。
「どうしたの、鈴木さん。ごめんなさい、私、しゃべりすぎた? 怒っちゃった?」
「いや、あの。胃が、急に」
 差し込むように痛み出す。吐き気さえ伴っている。「あら、たいへん。人間、ストレスがたまると胃の粘膜が五分でやられるっていうわ」
 おまえがそのストレスを与えたんだよ。そう言いたいが、もちろん、口にすることはできない。
 神無月が店の人に「救急車、救急車を呼んでください!」と叫んでいる。おおごとにしたくはなかったが、そんなことを言っている場合ではないことはわかっていた。胃が焼けただれるように痛んだ。苦悶しながら病院に担ぎ込まれ、胃潰瘍だと診断された。もう不倫はこりごりだ。そう思っていた鈴木だったが、看護師の一人と仲良くなり、こっそり連絡先を渡したりした。そんなに悪くない感触だったのに、お見舞いに来た神無月が「今の看護師さんをキャラクターにしたとしたら、鈴木さんのことを好きになる役にするわ」などと言うものだから、治りかけていた胃痛が再発した。

「……あとは、おまえの知っているとおりだよ」
 うううと鈴木はそのときの胃痛が再現したというように、顔をしかめてたばこを探るしぐさをした。それから、やめたのに気がついて「ああ」と苦笑した。
「こわいだろ?」
「こわいですね」
 さらに言えば、浮き浮きとダブル不倫していたあんたのほうもこわい。それは言わぬが花だけれど。
「まあ、もう浮気はやめだ。懲りたよ、俺は」
 彼は息を吐いてそう言った。
 と言いながら、会社の前で、一階に入っている銀行の女性がやけににこやかに鈴木に挨拶してきた。
 草野は予測する。この人はまた女性に手を伸ばし始めているではないだろうか。なんともはや、精力的であり、懲りない男であることだ。

 ココノエ出版は業界内中堅、堅めの書籍が多い出版社だ。ココノエ出版が入っているビルの四フロアを借り切っている。
 文芸二部がある四階、エレベーターをおりると草野のデスクは遠くからでもすぐわかる。ほかの編集員のデスクは、クリップで留められた著者校や、印刷会社から上がってきたばかりの表紙の色刷りや資料、見本、そのほかが雪崩を打ちそうになっているのに、草野のデスクだけはノートパソコンが一つ、ぽつんと出ているだけだからだ。そこはまるでふれてはならない聖域のようだった。
「よくそんなデスクで仕事できるわねえ」
 隣席の望月があきれたように言ってきたが、肩をすくめるにとどめた。彼女は同期入社だそうだ。比較的よく話をする。彼女は女性誌から抜け出たような出で立ちをしている。髪はゆるくウェーブして、後ろで巻き上げていた。唇が輝いているのは昼に天丼だったせいではなく、そういうリップなんだと草野は彼女から学んだ。
 望月のデスクの上は、ほかのデスク以上に雑然としていた。時折、草野のデスクで仕事をしているのを知っている。いないときにデスクを貸すことくらいで文句を言いたくはない。だが、消しゴムのカスやコーヒーをこぼしていったりすることだけは勘弁なら亡い。
 草野としては、どうしてみんな、そんな整頓されていないデスクで仕事ができるのか、そっちのほうが理解に苦しむ。どこになにがあるのか、わからなくなってしまうだろうに。
「さて」
 神無月の原稿を手に立ちあがる。コピーをとるとそれと赤のフリクションペンを手に食堂に赴く。無料の緑茶をいれるとまずはすっかりと飲んでしまってから、テーブルの上が濡れておらず汚れていないことを確認してから原稿を置いた。
 この原稿は「初稿」と呼ばれるものだ。ネタを出し、そのあとに書籍の地図であるプロットを提出してもらった。それにそって書かれた最初の稿だ。書き下ろしなので書籍のページ数にして三百ページ以上ある。ネットでやりとりしてしまえば手っ取り早いのだが、草野はできるだけ受け取りに行くようにしていた。なにげない会話から小説を掴んでいく作家が多いためだ。
 原稿には集中して、まずは一気に読んでしまうのが草野流の仕事のしかただ。そのあいだ、一切、電話には出ない。
 一時間後。草野は原稿を読み終わって目を閉じた。それからもう一度、読み返しながら、今度は疑問に思ったこと、明らかな文字の間違いなどをペンでチェックしていく。神無月かれんの小説は、言いたいことがあるのはとてもわかるのだが、本人の性格ゆえか、あちこちにほころびがあり、クライマックスを盛り上げるためのエピソードがあと三つほど足りない。それから、セックスシーンで、「両の腕(かいな)で痛いくらいに抱きしめられて」いる最中なのに、「そっと髪をかきあげられて」いる。手が何本あるんだ、この男は。だが、とりあえず、直せばよくなる。これは大切なことだ。

 数ヶ月前、どうしても読んでくれと自称高校時代の友人に頼み込まれて小説を読んだことがあるのだが、あれは小説と言っていいものではなかった。小説とは、料理に似ている。もう少し塩をきかせれば、あとちょっとソテーすればよくなるとわかるものはかなりできがいいのだ。友人の小説は、靴を煮て出されたようなものだった。「どうだ、傑作だろう」と言いたげだったが、どこをどうしてもおいしく食べられるようになるはずもない。自称友人はだれもが知っている商社で働き、相応の収入を得ている。出身大学からして頭もいいはずだ。それなのにどうしてああ、無邪気なままに信じてしまうのだろう。自分に小説の才能があると。通常の投稿であればつけてあるべきあらすじがなかったために、よけいに解読は困難になった。「いいんだぞ、おまえの出版社から出してくれても。友人のよしみだからな」と言わんばかりの彼に、「これはうち向きの話じゃないようだ」と言うだけが精一杯で、けれど、草野が「これは素晴らしい。ぜひ、出版させてください。お願いします」と土下座せんばかりの態度をとると信じ切っている友人にとっては、それは失望させるに十分足る態度だったらしい。あれから連絡がないのは、そういうことだろう。
 おそらくは、友人でさえなかったのだろう。
「おまえは、冷たい」
 そう、自称友人は言った。草野は問い返したかった。この性格は記憶を失う前からのものか。それとも、以前の自分はもっと違っていたのか。

「ふう」
 読み直し終わって自分の席に帰る。ノートパソコンを立ち上げる、メモを見ながら問題点を列挙していく。それから、赤入れした原稿をスキャナーでデータにする。それを神無月相手に送信すれば一段落だ。あとは向こうの都合のいい時間がとれたら電話での打ち合わせをすればいいだけだった。
「もしかして、さっきとってきた原稿、もう終わったの?」
 隣の席から望月が聞いてきた。
「ああ。終わった」
「早い。早すぎるよ。もっとこう、心で読まないとだめなんじゃないの」
 望月に言われて、草野は驚く。
「心?」
 自分の胸に手を当ててみる。そんな、実態のないものを求められても困る。
 茫洋としたものを文字に変換するのは作家の仕事であって編集のそれではない。彼らのとってきたものがどんな小さなものでも、編集はたいせつに吟味し使えそうだと思ったら磨くように指示をし、だめそうだったらもう一度とってくるように宣告する。編集者に求められるのは技術だ。繊細な球を作る旋盤工と同じだ。
「俺たちの仕事は、どうしたらより伝わるようになるか、商品になるか、それを見定め構築することだろ。映画を観るときだって俺はどこをどうしたら面白くなるのか、面白かったら工夫はどこにあるのか、考えながら観てるぞ」
「つまらなそー。映画こそ、感性で観るものでしょうよ」
「それこそ構造だろう」
 草野が武器としているのは理論であって感性ではない。おいしいと味わうのは読み手であって自分ではないからだ。
 望月は反論した。
「最初の読者は編集でしょ。私らがおもしろいと思わなくちゃ、読者だっておもしろいと思うわけないよ。もう、本が好きでこの仕事に就いたんじゃないの?」
 そう言われて、草野は困惑する。そうなのだろうか。自分は、本が好きだから、この仕事に就いたのだろうか。
「俺は……――そう言っていたか?」
「え。知らない。だいたい、あんまり話したこともなかったし」
 なんだ、それは。
「でも、草野さんのやりかた、普通じゃないよね」
「どこがだ?」
 打ち合わせ、ネタ出しをし、プロットと言われるあらすじを提出してもらい吟味し、初稿を書いてもらい、それから二稿、三稿とさらに精度を上げていく。
 普通だろう。
「だって私、じっくり読むから初稿だったら返すの最低でも二週間かかるよ。もっと言えば一ヶ月欲しい。最初に読んだのを忘れる時間があるといいんだよ」
「望月は望月のやりかたで行けばいいだろ」
「そうだけど、草野さんのほうが結果を出してるの、なんか納得いかない」
 納得いかないのは自分のほうだった。早くできて結果を出している。それなのに、心で仕事をしろと説教されるなど。
 一段落ついたので携帯の電源を入れると、いきなり鳴った。知らない番号からだ。用心して出ると、いきなり言われた。
『草野さん、もう私、限界でずー』
 濁音混じりの泣き声。
「あの、申し訳ありません。どなたでしょうか」
『お忘れですが。笹原です。笹原一花(いちか)です』
 恨みがましく彼女は言った。
『覚えてないですよね。そうですよね。授賞式と新年会でお目にかかっただけの駆け出し作家なんてそんなものですよね』
 笹原一花。
 去年のココノエ文学新人賞をとった作家だ。親から莫大な資産を受け継ぎ、趣味で小説を書いているという、まことにうらやましい身分だったと記憶している。彼女の小説に鈴木が惚れ込んで、担当になったはずだった。
 どうして担当ではない自分のところに電話をかけてくるのか。新年会のときに名刺を渡したことを、草野は後悔した。トラブルの予感しかしない。
『ご迷惑ですか。そうですよねー』
 彼女はずびびと鼻をすすり、がりがりと飴をかみ砕いている。
「いえ、とんでもない」
 ここで「そのとおり。迷惑です」とは、社会人として言えない。
「どうされたんですか」
 どうせ込み入ったややこしいことなのは目に見えている。草野は目を通そうと思っていた資料をデスクにしまい込み、廊下に出た。
『私、もう、鈴木さんについていけません。限界です。私の小説はそんなにだめですか』
 彼女の受賞作は当然草野も読んでいる。新人にしてはよく書けていたが、独りよがりが目立ち、手直しは必要だった。
「小説がだめということはありません。そうじゃなかったら、新人賞をとれません。ただ、商品として出す場合、どうしてもわかりやすくかみ砕いていただかないと読者さんに伝わらないんですよ」
『正直に言ってもいいですか』
「はあ」
『私の小説は完璧です』
 彼女は断言した。
『完璧なんです。直すところなんてない。鈴木さんの言うように直したら、私の小説が死んでしまう。わかりにくいって言うなら、わからないほうが悪いんです。それに、小説を商品にするために曲げるとか、私にはできません』
 草野はくらくらした。
 新人にはありがちな思い込みだ。だれしも、自分の小説はこれでベストだと思っている。そのままで通用すると信じている。実際はチームを組み、編集と二人三脚でかみ砕かなければ、流通できるものにならない。
 読者に向けて届けるとは地道に小説を研いでいくことだ。それは新人賞受賞とか、書籍発売、サイン会、そういった目に見える華やかな世界とはまったく違う。ただひたすら自分の小説に自らだめ出しをしていく。過去の自分を否定するのはつらいことに違いない。だが、それなくしては商業小説はあり得ない。
 今まで自らのために書いていた小説から、読者という広いもののために書く。その方向転換、新人賞の受賞で高くなっていた天狗の鼻をへし折られる痛みが、新人作家には必要なのだ。
 それをまだ笹原は越えられていない。あまつさえ、商業小説を否定してしまった。
 売れなくてもいい。それは一番言ってはならないことだ。
 鈴木は難航しているのに違いない。
 笹原一花の受賞作は、そのペンネームにふさわしくのんびりした趣のファミリーものだった。その当人は家族とうまくいっておらず、母親が死んだときには財産をどうするかでじつの父親との間で骨肉の争いがあり、その果てに彼女に家を残し、父親はほかの不動産を独占したという噂だった。
 だが、草野にはどうでもいい。小説を書いてくれさえすればいいのだ。
『担当替えしてください』
「う……」
 そう来たか。
 笹原一花は新人だ。まだ本を出したことはない。
 大御所先生がごねたとしたらかなうことでも、まだ実績、言ってしまえば数字を出していない新人がなにを言ってもわがままにしかならない。
「鈴木は、数多くのヒット作を出しています。笹原先生にとってもいいパートナーだと思うのですが」
『私、草野さんがいいです。草野さんはいい担当さんだって、神無月かれん先生が新年会で言ってたわ』
「そうおっしゃられても」
 それに、鈴木以上に草野は作家に厳しい自覚がある。なにをもって「いい担当編集」とするか。神無月かれんの場合は、「読者さんが楽しめる小説を書けるなら、這いつくばってもとってくる」のが信条で、だからこそ草野の指摘についてこられるのだ。
 自分が笹原にとっていい編集になれるのとはとても思えない。
「もう少し、頑張ってください。先生なら、きっと鈴木といい小説を書いていってくれると信じてます」
 そうとしか言いようがない。
『やっぱり……どうでもいいんですよね……。もう私、限界なんです』
 限界とは、聞き捨てならない言葉だ。
 笹原一花の容姿を、草野は必死に思い出していた。明るいファミリーものを書くとは思えない、幽鬼のように痩せた女性で、それなのにそれをカバーするためか、フリルを多くつけていた。人見知り激しく、手が震えていた。そのため、持っていたいたジュースがこぼれて、彼女のバッグを汚した。
 そのバッグがブランドもので六桁をくだらないものであることを指摘したのは同僚の望月だ。世の中には、どんなに高級なものを持っても、貧相になってしまう。そんな女性も存在するのだと草野は感嘆したものだ。
「草野さん、会議だよー」
 望月が廊下まで呼びに来た。
「わかった。すぐに行くから」
 会議なので、と断ろうとしたそのときに飴をかみ砕く音がした。
 がりがりがり。
『もう、いいです。むだなんですよね。なにを言っても』
 それっきり電話は切れた。
「まったく」
 草野はトイレに行って、鏡にうつった自分の顔を見る。さわる。一日に何回か、これをしている。そうしないと落ち着かないのだ。自分の顔の形、鼻の位置。眼鏡はしていない。唇は薄い。総じて特徴のない男の顔だ。
 草野真白。三十二歳。妻子なし。恋人なし。両親は横浜に健在。兄と姉がひとりずつ。一人暮らし。『ココノエ出版』の文芸二部編集者。
 それは聞かされたものであり、自分がそうと記憶しているわけではない。
 名前の通りだ。まっしろだ。
 去年、神無月の担当になる少し前のことだ。気がついたら、自宅マンションで倒れていた。後頭部には大きな傷があった。血は止まっていたが、髪がばりばりしていた。そこは今でも髪が生えてこず、一本の、縫い目のような線になっている。
 どうしたらいいのかわからず、とりあえず持ち物をあさって病院に行った。そこで電話が着信し、どうして出社しないのかと鈴木に問い詰められ、正直に記憶を失っていることを伝えた。
「うん、俺は薄情なんだろう」
 両親や兄姉だという人たちを見ても記憶は戻らず、「こうなったからにはまた一からよろしくお願いします」と頭を下げたら、あきれられた。「昔から情の薄いやつだと思ったが、ほんとに冷静だな」と父親という男には言われた。
 仕事は編集者。少々特殊な職業だ。記憶のない自分にできるのか心配だったが、杞憂だった。原稿を見たとたん、それが使えるか、どのレベルまで完成しているのか、どこを直せばいいか、数式のように頭の中に湧いてくる。聞けば、自分は私学の数学科からココノエ出版に入社した変わり種であるらしかった。最初は経理に配属される予定だったのだが、入社直後のオリエンテーションで、校閲の能力が抜群に優れていたために急遽文芸部に所属がえになったのだそうだ。
 ちなみに、校正と校閲は違う。校正とは、その昔、まだ書籍が活版印刷で活字を拾っていたころに、その拾った活字と原稿を照らし合わせ、間違いがないかどうか確認するものだ。字の間違いを直すのは校閲という。テキスト文書データでの提出がメインとなったこんにち、校正という仕事はないと言ってもいい。
 今現在、草野が担当している作家で、手書きで提出してくる作家はいない。全員、テキストデータ提出だ。文芸二部で手書き原稿を提出してくるのは、副編集長である鈴木が担当している大御所ぐらいのものだった。そして、その文字を解読できるのもまた、鈴木だけなのだった。その解読課程は校正と言っていいかもしれない。
「そうだ」
 この顔だ。これが俺の顔だ。慣れなくては。
 ――友達だろ。
 頭の中に響いてくる、言葉がある。この声はだれのものなのだろう。
 資料を忘れたことに気がついて、いったん自分のデスクに帰る。電話が着信した。
「はい、ココノエ出版文芸二部草野です」
『お世話になっています。神無月です。あの、原稿の直しなんですけど……』
 神無月かれんだった。お時間いいですか、と前置きしないで話し始めるのは彼女の悪い癖だ。
「申し訳ありません。今から会議なんです。終わるのは六時ぐらいになると思います」
『ああ、じゃあ、ごはん作る時間になっちゃうな』
 草野は手帳を取り出して確認した。
「明日、お時間を取らせていただけないですか」
『ああ、じゃあ、午後二時でいいですか』
 やりとりをしたあと、神無月が切ろうとした。そのときに、なにかがひらめいた。
「あの」
 ――限界なんです。
 そして、あの、ばりばりと飴を砕く音。
 気がつけば、草野は彼女に頼んでいた。
「申し訳ないんですが、笹原一花先生の様子を見てきてくれないですか」
『笹原先生の?』
 なにを頼んでいるんだ、自分は。編集者失格だ。おかしいだろう。編集者が作家をこきつかう? 謝って取り下げようとしたのだが、なのに口は違うことを唱えている。
「担当は違うんですが、限界です、とおっしゃられて気になってしまって。私が行ければいいんですが、これから会議なんです。電車賃もろもろは払いますので」
 じっとりと受話器を持つ手が汗ばんでいる。これは断られるだろうな。断って当然だ。この件で神無月かれんが自分を担当替えして欲しいと言われたら、それは従うしかない。
 だが、電話の向こうで、彼女はきっぱりと言った。
『わかりました。行ってきます』
「いいんですか?」
『いいです。だって、草野さんが私に頼み事をしたなんて初めてだもの。すごく重要なことなんですよね?』
 そういうわけでもないのが、心苦しい。
「笹原先生の住所はご存じですか?」
『はい。新年会で名刺を交換しましたから』
 そう言うと、彼女は電話を切った。ほっと息を吐いて、草野は会議室に向かう。いきなり自分の担当している作家を押しかけさせてしまって、笹原はさぞかし驚くことだろう。豪邸に住んでいるという噂だが、警備会社のセキュリティが張り巡らされた家から一歩も出てこないのではないだろうか。それならそれでいい。
 鈴木にはなにか言われるだろうか。彼が大の苦手としている神無月を関わらせてしまったのだ。
 だが、なんでだか心が軽くなった。
 なにもなければそれがいちばんいい。
 草野はしばらく考えたのち、神無月だけ着信可にして、会議に臨んだ。

 神無月かれんから電話があったのは、会議が始まって一時間ほど、中盤にさしかかった時分だった。携帯を切っておかなかった草野を第三会議室二十八人の視線が責め立てるが、かまっている場合ではない。神無月とても会議中に電話するというのがどういうことかはわかっているはずだ。その彼女が電話をしてくるということは、すなわち……――
『あのね。あのね』
 彼女はひどく慌てていた。
『笹原先生、死んでる……――と思います』
「死んでる?」
 室内の視線が違うものに変わる。なにがあったのかと、問いかけている。
『悪いと思ったけど、入っちゃったんです。鍵があいていたので。そしたら、キッチンでうつぶせになってたんですよ、笹原先生が。肩に手を当てて揺すっても起きない……っていうか、なんだか人形みたいになってますし。いろいろ液体が出てますし。死んでいるんじゃないかと思います』
 ふっと彼女が息を吐く。
『人間って、死ぬと淀むんですね。生きているときには流れてるのが滞っちゃう』
 はっと、草野は我に返る。
「警察は?」
『あ、そうですよね。警察を呼ばないと』
「神無月先生がそちらに向かったのを知っている人は?」
 神無月は第一発見者だ。下手をすれば拘留されてしまう。そうしたら改稿が進まなくなることをいちばんに心配した自分は、親の葬式でも執筆の糧にする神無月と変わらない。
『えっとね。手土産にマカロン買ってきたんです。お店の人とどのマカロンがいいか話し込んだから、今なら覚えているかもしれません。それから、レシートがあります。交際費に経費として計上できるかなーって思って』
 彼女が移動する気配がする。
『……血は出てないから、毒かな。コップあるし』
 草野は大声を出した。
「ぜったいに匂いをかいじゃだめですよ!」
『きゃん!』
 図星だったのだろう。神無月は叱られた犬のような声を出した。
『だってよくやってるじゃないですか。「これは……青酸カリ!」とか』
「青酸カリだってなんだって、成分が万が一残っていたら吸収されます。下手をしたら死にます」
 たたたたっと足音が聞こえる。彼女が死体から離れたらしい。
「まずは外に出て新鮮な空気を吸ってください。それから警察に連絡。私もすぐに向かいますから」
 電話を切る。今や、全員がこちらを見ている。
 草野は報告した。
「笹原一花先生が亡くなられました」
「嘘だろ。俺、さっき打ち合わせしてきたばかりだぜ……」
 鈴木がつぶやいたのが耳に入った。

 鈴木と草野が辿り着いたときには、笹原の家の周囲にはすでにパトカーがいた。
 鈴木は、家を見上げる。
「それにしても、いつ見ても立派な家だな」
「そうですね」
 草野は同意する。
 都心近い駅から徒歩八分。高級住宅街にあるこの家は、一人暮らしの女性にしては豪勢すぎる。広い庭に三階建て。二世帯が暮らしても、充分なスペースだ。
 自分は冷たいのだろう。さきほど話していた作家が亡くなったというのに、ぴんとこない。思うのは、磨けば面白いものを書く作家になっただろうにということだけだ。明るくて、ほんの少しの毒を含んだ家族の物語。それはおそらく、彼女自身も救ったはずだ。
 家には立ち入ることはできず、黄色い線のこちら側に野次馬と共にいるしかない。
「……自殺、かな」
 鈴木がぽつりと言った。
「そうですね……」
 そう言いながらも、なにかがわだかまっていた。なんだろう。
 あの飴を砕く音だ。がりがりがり。
 直後に彼女は毒をあおった。がりがりがりがり。
 音が聞こえてくる。この家の中から。
 首を振る。幻想だ。人が死に、さすがにセンチメンタルになっているのだ。
「それにしても、どうして神無月先生がここにいるのよ」
「じつは、会議の直前に笹原先生から電話を受けまして、様子がおかしいので行ってもらったんです」
 鈴木は苦笑した。
「どうせ俺の悪口だろ」
 その件については、否定も肯定もしないでおいた。
「書き直さないって言い張るんで、ほとほと参ってたんだよなあ」
「改稿はむりだと思います」
 鈴木は驚いたようだった。
「なんだって?」
「彼女はあの原稿が完璧だと言ってました。これをいじることはできないと。わかりやすくしたら、小説が死んでしまうとまで言い張っている人に改稿指示を出しても無駄でしょう」
「おまえでも、だめだったか」
 彼女の担当に自分がなったところを草野は想像してみた。言い争い、疲弊していく互いしか想像できない。
「はい。水を飲みたくない馬に飲ませる方法を俺は知りません」
「そっかあ。じゃあ、しょうがねえんだなあ。いい話なのにな」
 鈴木は悔しそうだった。
「俺もそう思います」
「だよな。明るい家族ものと見せて、そのじつ深いところに毒がある」
「彼女のほかの小説も読みたかったですね」
「まったくだ。明治の文豪じゃあるまいし。死ななくてもいいだろうになあ」
「草野!」
 いきなり呼びかけられて、草野は身体をこわばらせる。その声には聞き覚えがない。白い手袋をして腕章をした刑事がこちらに大股に歩いてきていた。
 だれだろう。
 癖毛。垂れ目。小柄。同い年ぐらい。自分の中で思いっきり検索をかけるが、なにも出てきはしない。
「草野? 草野だよな?」
「そうですが」
「なんだよ、その口調。どうしたんだよ?」
 はっとしたように、彼は声を潜めた。
「もしかして、あのあとなにかあったのか?」
「あのあと……?」
 がんがんと耳鳴りがした。
 ――友達じゃないか。
「私は……頭を打って、記憶をなくしているので、お名前をうかがってもよろしいでしょうか」
「……!」
 そのときにその刑事の目に浮かんだのは、動揺? 戸惑い?
「……ま、じかよ……。どうりで連絡がないと思った。俺だよ。綿貫!」
「綿貫……」
 もちろん、なんの感情も返ってこない。いや、ひとつ。自分のメッセンジャーアプリに綿貫の名前があった。履歴はなにも残ってはいないが。
 先輩らしき刑事が声をかけている。
「綿坊! なにサボってんだ、鑑識、もう行ってるぞ」
「呼んでるから、またな」
「待て」
 彼の肩に手をかける。なにを頼もうとしているのだ、自分は。
「被害者が最後に電話をかけたのはおそらく俺なんだ。なかを、見せてもらうわけにはいかないか」
「うーん……」
 彼は考え込んでいたが、「ま、いっか」と軽く答えた。
「頼んでみるよ。ほかならぬおまえの頼みだからな」
 彼が上司に掛け合っている。上司はまるで「ああ、あの」と言いたげにこちらを見て、うなずいている。綿貫が帰ってきた。
「なんて言って説得したんだ」
「おまえが見た現場は必ず解決するから、今回も見せておいたほうがいいって言っておいた」
「そんな、でたらめを」
 よくも言えたものだ。
「あれ? ほんとうだよ。忘れちゃってるのかもしれないけど。けっこうゲンをかつぐからね。うちの課長なんて、パトから降りるときには必ずまず右足から、なんてやってるんだぜ」
 黄色のテープを、草野はくぐる。鈴木もあとに続いてきた。玄関を入ると高い吹き抜け、奥のキッチンには現場写真を撮るためだろう。ライトがいくつも立てられていた。
 なにもさわるな、動かすな、と、綿貫に念を押されているので、ただ見るだけだ。彼女が倒れていたのはキッチンのシンクの前。遺体はもう運び出されていたが、彼女が倒れていた形に印がついている。いくつかの札が立っていた。なにか落ちていたところだろう。
 青い顔をした神無月がいた。
「草野さん……」
 さすがに神無月は心細そうだった。こちらに寄ってきた。
「笹原先生、死んじゃった……」
「そうですね。私がおかしなことを頼んだばかりにこんなことに巻き込むことになって、申し訳ありません」
 神無月はかぶりを振った。
「ううん、草野さんのせいじゃないです」
 神無月は今日はずいぶんとおしゃれをしている。友禅のような模様のチュニックに、一応化粧もして、短めの髪も彼女にしては整えている。
「今日はなんだか違いますね」
「お芝居とかレストランに行くとき用なの。こんなことになると思わないもの。なんだか不謹慎になっちゃったなあ」
 草野はそこにしゃがみ込むと、両手を合わせた。こうして以前も手を合わせた気がする。どこでだったろう。立ち上がり、記憶がかすかに反応したのを感じる。
 神無月が報告した。
「さっきも警察に聞かれたけど、特に変わったことはなかったんです。家の中は荒らされてなかったし、引き出しも全部しまってたし、着衣の乱れもなかったし、争ったあともなかった。変わっていたことって言えば、ただ、ドアがあいてたことぐらいです」
「そうですか……」
 綿貫がひょいと顔を出した。
「今日はお帰りいただくけど、そのうち事情聴取させてもらうかもだから、住所氏名を書いていってもらえるかな」
「はい」
「まあ、司法解剖の結果次第だけどね。自殺だったら特に聞くこともないし」
「やはり、警察でも自殺と考えてるんですか?」
 綿貫は個人的な意見だけど、と前置きして言った。
「水の入ったコップ持って毒をあおったんだぜ。まあ、自殺だね」
 綿貫は肩を叩いてきた。
「ああ、じゃあ、また。メッセ入れてくれよ。たまには会おうぜ。昔みたいにさ」
「綿貫。もし、なにかわかったら、言える範囲でいい。教えてくれ」
「あ? ああ」
 現場へと去って行く男のくたびれたスーツ姿を見ながら、自分に友達がいたことに不思議さと安堵を覚える草野だった。

 笹原の家をあとにして草野と鈴木と神無月の三人は、駅前までの坂をだらだらと下っていった。草野は報告した。
「解剖しないとわからないらしいけど、警察はやはり自殺として見ているらしいです」
「自殺……」
 鈴木が肩を落とす。
「せっかくの新人賞作家がなあ」
 神無月はやけにおとなしい。
「なんだ、今日はさすがに参ったのか。先生、無口じゃないか」
 鈴木が軽口を叩く。
「あ、うん……」
 神無月が鈴木を見つめた。
 鈴木は静かに神無月を見返した。
「鈴木さんのキャラがうまく立たなくて」
「先生にとってキャラ立ちしない人間は、私と葎くん、そして鈴木が三人目ですね」
 草野はそう茶化してみるのだが、神無月はしきりと考え込んでいる。
「うーん、なにかに似てるんだけどなあ。なにかなあ」
「わかったら教えてくれよ」
 駅までつくと、鈴木はそう言ってまだ仕事があるからと社に戻っていった。
「よかったら、少し飲みませんか?」
 水を向けると神無月はうなずいた。
「私もそうしたいなーと思ってた」
 神無月が日本酒も好きだということを思いだし、駅前の居酒屋に入った。カウンターについた神無月の足は、子どものようにぷらぷらしている。
「死体を見て、満足しました?」
 出てきた熱いおしぼりで手を拭きながら聞いてみる。これはずいぶん、意地悪な質問だな。自らを反省する。だが、神無月は顔色を変えたりしなかった。彼女は首を振った。
「死体ってもっとこう、まがまがしいものだと思っていたの。怖い、おそろしいものだって」
「怖くなかった?」
「なかったです。ただ、ふしぎだった。ついさっきまで小説を書いたり、話したりしていたのに、もうできないことが」
 ビールがジョッキで出てきた。彼女はその泡をすかして見ている。
「なんかねえ、悲しくないの。こういうのって薄情だって思う?」
「……思いませんよ」
 草野自身も、特に悲しいという気持ちはない。ただ、そのあっけなさに呆然としているというのが本音だ。
 だって、今日、あんなに怒っていたじゃないか。話をしていたじゃないか。
「彼女とは、新年会で会ったっきりだもの。ジュースを飲んでいるときに少し変わったひとだと思ったけど、書くものはすてきだった。明るくて、少しだけ毒を含んでいて」
「同感です」
 そう言って、草野もビールに口をつけた。いいさ。今日はもう仕事は終わりだ。
 ――人を殺したらわかるのかしら。
 草野は想像してみた。これを神無月がやったとしてみる。動機は、取材のため。死んだらどうなるのか。警察はどう動くか。周囲の反応はどうか。見定めるため。
 いや、だめだ。それにしては、エピソードが五つくらい足りない。
「あのね、私、まえ、殺人者の気持ちはわからないって言ったでしょう」
「ええ」
「あれ、撤回」
「おや、自白ですか。崖にでも移動しましょうか?」
「もう、違うわよ」
 彼女は神妙だった。
「ひとは人を殺せるんだわ。どんなひとだって、なにかがあれば殺すことができる。それが可能なんだわ。だって、ひとってこんなにもろいんだもの。丈夫な毛皮もなく、呼吸を止めるだけで、毒を飲まされるだけで、切りつけられるだけで、死んでしまう」
 ぐびっと彼女はビールをあおって続けた。
「すごく残念。私、選考委員だったから、彼女の小説を読んだんだけど、彼女にしか書けないものだった。もう読めないなんて、ほんとに無念だわ。悲しくはないけど、さびしいの。得がたいものをなくしてしまったんだって」
 彼女は身もだえた。
「どうせなら、完成させてからにしてくれええ!」
 そう言ってジョッキをカウンターに置く。まったく同感なので、草野は黙って飲んだ。
「なんで? どうしてこんな中途半端にできるの? 悔しくないの? あともうちょっとなんだよ? この崖を登ればできあがるところまで来てるんだよ? なんで死ねるの。私、いまこのときそこを拳銃を持った人間が入ってきたら、あの話を書いていないって後悔するのに違いないのに」
「みんながみんな、神無月先生みたいじゃないですよ」
 どちらにせよ、笹原一花の小説は完成しなかっただろう。そういう運命だったのだ。
 おかしいなあ、と神無月はまだ腑に落ちないようだった。
「おかしいって言えば、鈴木さん、どうしちゃったのかな。ずいぶんやせちゃってたし」
「そうですか?」
 今は銀行員とおつきあいしているんです、とは言わないでおいてあげた。鈴木の名誉のためだ。
「それに、今日は私の隣に来たでしょう? 新年会のときには避けまくっていたのに」
「ああ、そういえばそうでしたね」
 あんなに神無月のことを疎んじていたのに、さきほどはまるでかつて担当していたときのようだった。

 綿貫から草野にメッセージが来たのは、笹原の死から二日後のことだった。
 笹原一花の司法解剖の結果が出たのだ。
 死亡推定時刻は神無月が訪問する三時間前、午後二時ごろ。そのころには神無月は自宅にいた。宅配便を受け取っているので証明する者もいる。
 もみ合ったあともなく、最近、執筆に悩んでいたのは草野も証言した。コップに入っていたのは水で、それで毒を飲み下したらしい。
 死因はアコニチンの服毒による心発作。アコニチンはトリカブトの根に含まれるもので、結晶となる。入手経路が問題となったが、最近ではアングラサイト経由で入手できるので、そこからではないかという結論になった。
 神無月かれんと笹原一花以外、指紋も足跡もない。遺留品も見つからなかった。もっとも、玄関先までは石のアプローチがあるし、家の前はすぐにアスファルトなのではなから足跡には期待していない。彼女の家は奥まった場所にあり、住民から不審者がいたという証言もない。
 綿貫からのメッセージの最後に、個人的に話したいことがあるから会えないかとあったので、昼飯どきに待ち合わせることにした。
「おう、こっちこっち」
 綿貫が指定したのはココノエ出版近くのファミレスだった。
 彼はチーズ入りハンバーグを食べている。やたら速いので、草野が注文する前に終わってしまいそうだった。
「ここだけの話なんだけどさ」
 そう彼は前置きした。状況からしてすでに笹原件はの自殺として片付けられている。それに対して綿貫がどうこう言える立場ではない。けれど、気になる点がいくつかある。
「笹原さんだっけ? あの死んだ女性ね。あれだけでかい家に一人暮らしで、不用心だと思わないか?」
「ああ、それは思った」
「それが、ずっと大手のセキュリティ会社と契約していたんだそうだ。それが今年になってから解約したんだって」
「おかしいな」
「だろ?」
 綿貫はナイフでこちらを指し示した。行儀の悪いやつだ。
「それから、彼女名義の口座から、まとまった金が引き出されてる。百、百、三十、だ」
「二百三十万円……?」
 綿貫は食器を置いた。口を紙ナプキンで拭く。
「俺みたいな薄給にとっちゃとてもお小遣いとは思えないね」
「公務員だろ。高給取りじゃないか」
 にやっと綿貫は笑った。
「貧乏暇なしだよ」
 じゃ、そういうことで、と、綿貫が席を立つ。支払う気はないらしい。
「なんで俺にこんな話をするんだ?」
 綿貫は真面目な顔になった。
「おまえ、記憶をなくしちゃったから覚えてないかもしれないけどさ。よく俺の話から真犯人をあててくれたんだよ」
「真犯人を、当てた……?」
「ほんとに覚えてないんだな」
 これからは自分でなんとかしないとなあ、と綿貫は口の中でつぶやいている。
「それじゃ、また」
「ちょっと待て」
 草野は綿貫を呼び止めた。
「俺たちはいつから友達なんだ? 高校か? 大学か?」
 彼は振り向き目を見開いたが、そっと唇に指を当てた。
「内緒。当ててみな」
 そのまま手を「ばいばい」の形にして、彼は店を
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み