解放
文字数 2,009文字
「お子を授かるまでのご辛抱ですよ」
そう励ます父の妻を、藤原宮子 はじっとみつめた。県犬養道代 は軽く口元を押さえ、誤りを指摘されたかのように眉を八の字にする。
「皇子 を無事にお産みになるまで、ですわね」
そういうことを言いたかったわけではないのだが、その訂正も尤もではあった。授かった子が無事に生まれてくるとは限らないし——。
「皇女 だったら……」
「皇女であっても勿論めでたいことですわ。ただ、珂瑠 さまにはどうしてもお一方、皇子がいらっしゃらなければならないのですから」
そういうことを言いたかったわけでもないのだが、これも尤もな話である。宮子は珂瑠皇子 ——つい先日祖母より位を譲られた、今となっては天皇 の、その夫人 であった。だから、子が生まれても女児であったら、実際のところ、皆が落胆するだろう。……いや、それも違う、安心する者もいるはずだ。宮子の他にも、珂瑠には二人の嬪 がいる。
道代の方は宮人 として珂瑠の母皇女に長く仕え、また珂瑠の乳母をも務めていた。即位の儀式の後から臥せっている宮子に、珂瑠が見舞い役として遣わしたのが、道代であったのは自然なことだった。
子供の話を始めた割に、体の不調を懐妊に結びつけて語らない辺り、体より心の問題であることを見抜いているのかもしれない。宮子は落ち着かずに拳を握りかけ、相手から見えるのだと気がついてそろそろと力を抜いた。起き上がらずに横になったままでいればよかった。
「あの、もし、私が皇子を……私一人、だけが……」
言葉を探している間、道代は口を挟まなかった。先を続ける意志はあると察してくれたわけだろう。結局うまく続けられずに俯けば、そこで初めて後を引き受ける。
「もしも皇子に恵まれたのが宮子どのお一人であったら、その皇子は次の皇太子 に立たれるでしょう。宮子どのはいずれ、天皇の母君となられますわね」
天皇の生母。そうした肩書きの下に自らの存在が知れ渡ることを思って、誇張なしに身が震えた。しかもそこには、天皇の生母は皇族でなくてはならぬという伝統を破った、という補足がつくのだ。珂瑠に皇族の妃 はいないけれども、それは本来、重要な条件であったはずなのだから。
黙りこくる夫の娘に、宮子どの、と父の妻は呼びかけた。
「重荷なのでしょう、見ていればわかります。今のような立場でなくて、宮人としてお勤めなさっていたとしても辛かったでしょうね。——人が、苦手なのでしょう?」
「……はい」
ほんの一言、答えるのがやっとで、宮子は唇を引き結んだ。代わりのように、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
人が怖い。人に認識されることが怖い。
何故こんな目に遭うのだろうと天を恨むほど、何故こんな目に遭わせるのだろうと父が恨めしくなるほどに。
父の期待に応えたくはあった。珂瑠も優しい夫ではあった。宮子が圧し潰されそうになるのは、是非とも男児を持たねばならぬという強迫観念にでも、自分は子を産む道具なのかという苦悩にでも、二人の嬪への嫉妬にでも、珂瑠への独占欲にでもない。もっと、手前の——少なからぬ人々と接さねばならず、関心と注目にさらされがちな日常に、だ。
道代のことだって、頼りにしている一方で、怖い。神経質で扱いにくい自分に内心呆れていないだろうか、軽蔑してはいないだろうか——。
「お父上も酷なことをなさいますこと。珂瑠さまと宮子どのはお似合いですけれど、天皇の夫人となれば、天皇とばかり関わればよいというわけにはいかないのですもの」
それでも、道代は人の心を読むことに長けていて、言われたいことを見て取るのが上手で、そしてその手腕を宮子に対して発揮してくれる。宮子のためでなく珂瑠のため、もしくは父のため、または父と手を組んでいる道代自身のためであったとしても。
「お子は努力に応じて授かるものではありませんし、望めば男に生まれるというものでもありませんし、お腹のお子を守り抜くのも、産むのも、大変なことです。けれども、宮子どの、お父上が期待なさっているのはそこまで——ですよ」
いつしか固くなっていた拳が、労るように包み込まれた。
「皇子を授かるまでの——無事にお産みになるまでのご辛抱です」
——そういうことを言いたかったのだ。
宮子が懐妊し、出産に至ったのは、珂瑠の即位から五年目、「大宝」の元号が定められた年のことだった。
「——産みました!」
自分が体調を崩していた母を差し置いて、父と共に駆けつけていた道代へと、宮子も父を差し置いて叫んだ。
「皇子を産みました! もう——よいのですね!?」
「ええ、宮子どの。よくご辛抱なさいました」
戸惑う父の横で、道代は力強く頷いた。
男児を産んだ。
珂瑠天皇夫人藤原宮子の役目は、終わったのだ。
それきり、宮子は人前に出なくなった。もう耐えられなかった。父の顔も道代の顔も、珂瑠の顔も、我が子の顔すら、もう見たくなかった。
人にはもう、一生分、会った。
そう励ます父の妻を、
「
そういうことを言いたかったわけではないのだが、その訂正も尤もではあった。授かった子が無事に生まれてくるとは限らないし——。
「
「皇女であっても勿論めでたいことですわ。ただ、
そういうことを言いたかったわけでもないのだが、これも尤もな話である。宮子は
道代の方は
子供の話を始めた割に、体の不調を懐妊に結びつけて語らない辺り、体より心の問題であることを見抜いているのかもしれない。宮子は落ち着かずに拳を握りかけ、相手から見えるのだと気がついてそろそろと力を抜いた。起き上がらずに横になったままでいればよかった。
「あの、もし、私が皇子を……私一人、だけが……」
言葉を探している間、道代は口を挟まなかった。先を続ける意志はあると察してくれたわけだろう。結局うまく続けられずに俯けば、そこで初めて後を引き受ける。
「もしも皇子に恵まれたのが宮子どのお一人であったら、その皇子は次の
天皇の生母。そうした肩書きの下に自らの存在が知れ渡ることを思って、誇張なしに身が震えた。しかもそこには、天皇の生母は皇族でなくてはならぬという伝統を破った、という補足がつくのだ。珂瑠に皇族の
黙りこくる夫の娘に、宮子どの、と父の妻は呼びかけた。
「重荷なのでしょう、見ていればわかります。今のような立場でなくて、宮人としてお勤めなさっていたとしても辛かったでしょうね。——人が、苦手なのでしょう?」
「……はい」
ほんの一言、答えるのがやっとで、宮子は唇を引き結んだ。代わりのように、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
人が怖い。人に認識されることが怖い。
何故こんな目に遭うのだろうと天を恨むほど、何故こんな目に遭わせるのだろうと父が恨めしくなるほどに。
父の期待に応えたくはあった。珂瑠も優しい夫ではあった。宮子が圧し潰されそうになるのは、是非とも男児を持たねばならぬという強迫観念にでも、自分は子を産む道具なのかという苦悩にでも、二人の嬪への嫉妬にでも、珂瑠への独占欲にでもない。もっと、手前の——少なからぬ人々と接さねばならず、関心と注目にさらされがちな日常に、だ。
道代のことだって、頼りにしている一方で、怖い。神経質で扱いにくい自分に内心呆れていないだろうか、軽蔑してはいないだろうか——。
「お父上も酷なことをなさいますこと。珂瑠さまと宮子どのはお似合いですけれど、天皇の夫人となれば、天皇とばかり関わればよいというわけにはいかないのですもの」
それでも、道代は人の心を読むことに長けていて、言われたいことを見て取るのが上手で、そしてその手腕を宮子に対して発揮してくれる。宮子のためでなく珂瑠のため、もしくは父のため、または父と手を組んでいる道代自身のためであったとしても。
「お子は努力に応じて授かるものではありませんし、望めば男に生まれるというものでもありませんし、お腹のお子を守り抜くのも、産むのも、大変なことです。けれども、宮子どの、お父上が期待なさっているのはそこまで——ですよ」
いつしか固くなっていた拳が、労るように包み込まれた。
「皇子を授かるまでの——無事にお産みになるまでのご辛抱です」
——そういうことを言いたかったのだ。
宮子が懐妊し、出産に至ったのは、珂瑠の即位から五年目、「大宝」の元号が定められた年のことだった。
「——産みました!」
自分が体調を崩していた母を差し置いて、父と共に駆けつけていた道代へと、宮子も父を差し置いて叫んだ。
「皇子を産みました! もう——よいのですね!?」
「ええ、宮子どの。よくご辛抱なさいました」
戸惑う父の横で、道代は力強く頷いた。
男児を産んだ。
珂瑠天皇夫人藤原宮子の役目は、終わったのだ。
それきり、宮子は人前に出なくなった。もう耐えられなかった。父の顔も道代の顔も、珂瑠の顔も、我が子の顔すら、もう見たくなかった。
人にはもう、一生分、会った。