文字数 11,009文字

 嘘か真かは本質でない。絶景は、美しい少年の死骸と、四散した悲怨の魂を贄としているのだという。血潮は渦巻き岩に砕ける。遠く水平線は彼岸である。登希雄がその曰く付きの断崖絶壁を好きなのは自戒でもある。狂恋は人を衰弱させて殺すのである。しかし我が事となれば、残念ながら自分が彼を殺すかどうかなど思案する暇もない。無論、最低限の弁えは必要である。しかし、押さなければどうしようもないということもある。
 彼というのは白石くんといって、のちに同郷だということが解った。通っていた高校も近く、よくよく話を聞けば、一度や二度、知らぬうちに顔を合わせていたとしても不思議ではない。登希雄は大学受験の一年目に失敗し浪人していて、一年間横浜の予備校に居たが、その予備校は今は移転してしまって、跡地には知らない飲食店が建っている。つまり、今年の四月に一緒に研究室に配属された白石くんとは大学では同期だったが、現役で入学した白石くんが歳は一つ下なのだった。とはいえ、短期講習や模試のさいにでも、白石くんとすれ違っていないとも言い切れない。思い立って二年分の模試の順位表などを引っ張り出して見返すと、大学で出会った友人らの名前が散見されたし、白石くんも優秀なので、その中にカタカナのシライシ ■■■を見つけることができた。
 また、あの辺り、特に登希雄の学校もあった山手の辺りには歴史ある高校が幾つかあって、塾で一緒だった知り合いが進学していたところもあったので、学園祭を巡るということもした。白石くんの学校にも、彼の一つ上の学年に三人ほど知り合いがいた。こういった形で、各校の一部の生徒間では交流がもたれており、それに、彼らの多くには何らかの自己表現の場と、外界との関わりが必要であった。性別にしろ家庭環境にしろ、極めて均質的な空間に六年間押し込められるのである。球場の付近の、関内のライブハウスは溜まり場であり、登希雄は演者にこそならなかったが、同級生の演奏を聴きに何度かライブへ足を運んだことがある。当時は、学外の人間と関わりがあるというだけで何か先進的な印象があった。その同級生は隣の女子校の上級生とバンドを組んでいた。白石くんも同じライブハウスによく居たのだという。ライブは幾度ともなく開催されていたので、それだけでは、接触していたとは言い切れないが、その女子校の上級生は美人で、その上珍しく速弾きのできるギタリストであった。それもあってか、友人のバンドは当時その辺りの中高一貫校の学生の間でそこそこ名を馳せていた。バンドの名前は、英単語が二つ連なっていたということ以外は登希雄はもう失念してしまったが、当時は勿論知っていたし、界隈ではよく知られていたのである。白石くんもそれを知っていて、その演奏を見たことがあるというから、やはりそこで顔を見たことがあってもおかしくはないのである。友人のそのバンドは、その綺麗な上級生の受験勉強が忙しくなるのに伴って自然消滅のように解散し、登希雄が関内のライブハウスを訪れることも無くなった。否、一つ補足をするならば、彼女の卒業の間際、一度だけ復活公演が開催されたのだ。同期のバンドが七組ほど出演する段取りのライブだった。構成員の一人であったその友人も駆り出されたはずであるが、登希雄は別の用事、おそらくは四月から入る予定の予備校に関係する何かがあり、彼の勇姿を見に行くことが出来なかった。しかしそれは伝聞によるだけでも、青春の最後の、代え難い趣があった。自分は歌えないし、楽器の演奏もできないが、音楽でないにせよそういった何か象徴的なことをしておくべきだったと、登希雄はボンヤリと悔やんでいる。
 つまるところ白石くんとはそういう薄い繋がりが少なからずあって、同じ青春の時間を端と端の方で共有していたと言っても過言ではなく、しかし登希雄はそんなことで運命を感じるほどの浪漫チストではないのだが、さまざまな出自を持つ学生が集まるキャンパスで彼と母校周りのニッチな話で盛り上がることができたので、親しみを抱いたといったところである。
 白石くんは横浜やその周辺の地理に長けていた。仲を深めた登希雄をさまざまな場所に連れ出してくれたのだった。というよりはおそらく、登希雄が却って内向的で無知で、何か知り得たことがあったとしても忘れっぽいのだった。白石くんは中高時代、好んで友人らと、昼夜問わずそこらじゅうを歩き回った話をよくしてくれた。例えば、赤レンガの周辺に関しては、登希雄も放課後に友人たちと学校から歩いていったことがあるはずだった。しかしどう歩けばどこに着くのか、その場所にはどういった謂れがあったか、悉く記憶から薄れていた。白石くんが教えてくれるたびにそれを思い出し、こんなに美しい街だったかと感心するのだった。その赤い街は一つの時代のようで、また足を伸ばして著名な建築家が手掛けたという船のターミナルの波打つルーフに立つと、一望する海闊天空は記憶よりも無限的であった。
 相模湾に突出したあの小さな神妙な島も、実のところ白石くんに連れられるまで登希雄は訪れたことがなかった。藤沢を出て街中を抜け海へ向かう小さな列車は、季節外れだったこともあり、乗客も少なく静かだったので、どことなく異界へ至る神輿のように感じられた。白石くんと一緒に島を訪れた後に関西から来た同期たちを連れて行った時はちょうど電飾が美しい期間で、白石くんのお陰で、あたかもかねてよりそこに精通しているかのように島を案内して回ることができた。神社。灯台。岩屋。断崖。自分の故郷のことをよく知らないことのつまらなさを白石くんは教えてくれた。それは登希雄に少しの劣等感を抱かせた。灯台の展望台には二度上がったが、白石くんと行ったのは昼間で、二度目は夜間だったわけだから、相模湾とその沿岸の風景については二つの顔を知ることができたのである。登希雄の気に入った、例の景勝を教えてくれたのも白石くんである。その頃はまだ白石くんに自分の見っともない情愛を、未だ胸の内で捏ね回している段階で打ち明けてはいなかったので、彼は看板に書かれた伝説を嬉しそうに説明してくれた。即ち、どこかの寺の稚児に懸想した僧侶が居た。恋に狂った僧侶は少年のもとへ、文をしたため百度参り。耐えきれなくなった少年は猛る波に身を投げる。己の罪に慄いた僧侶は後を追い、同じ波間に砕け散ったと。今思えば、これは白石くんの牽制だったのだろうかと、後々、登希雄は考えた。即ち、白石くんは登希雄の恋情を何となく察していて、それは彼にとっては喜ばしいものでなかったので、お前は自休――この独りよがりな僧侶であると暗に示していたと推理することも可能である。否、彼はそこまで考えまい。白石くんは聡いように見えて、案外ぼうっとしているのだ。
 白石くんを好きになったのは、今思えば、研究室の内定者歓迎会の隣の卓で、彼の自己紹介を漏れ聞いた時だったはずである。
 「印哲に至るまで紆余曲折ありまして、幼稚園は最初に仏教で、引っ越したあとのところはプロテスタントで、中高はカトリックなんです。」
 彼の冗談はそこの四、五人にまずまず受けていたし、登希雄も気に入った。登希雄の高校もカトリックだった。別の山手のプロテスタント系女子校の知り合いに聞くような、毎朝の礼拝があったというわけでもなく、普段の学生生活に宗教色は薄かったのだが、ことあるごとに新旧約聖書を参照し、讃美歌を歌い、聖書の授業も年に二単位ほどあったはずなのである。クリスマスには大掛かりな式典があった。神とイスラエルの契約、キリストの数奇な生涯、その死後の福音の拡散と変容を、一通り辿ったはずであった。しかし結局、登希雄が数年を経て印度哲学なる関心へ辿り着いたのは、カトリックに浸かった故にそれに反駁したくなったとか、興味が抱けなかったというわけでもなく、むしろそうした、創造や真理についての説明における、人類の試行錯誤のそのものに興味を惹かれたる要因は、紛れもなく母校で培われた素地にある。とは言えその関心はあくまでうっすらとしたもので、研究室の選択にさいしてはむしろ消極的要因の方が大きかった。登希雄の所属する大学は二年の春学期までの成績で希望の研究室への配属の可否が決まるのだが、予備校の一年間で多くを使い果たした登希雄にはその成績を研鑽する気力があまり残っていなかった。そして登希雄らの研究室は、寺院の子息か、相当の好き者か、あるいは卒業さえできれば構わない怠惰な学生が土産の論文を書きにくるところか、そう言われるような、比較的競争率の低い研究室であったので、自分の興味関心と能力とを照らし合わせて、深く考えることもなく選択した専攻であった。しかし、入ってみると、案外噂よりも困難なもので、何しろ印度古典の原典に当たらなければ卒業論文さえ書けないのである。確か志望研究室を決める前の説明会でそのようなことを言っていたような気もしたが、すっかり侮っていた。登希雄は、多少なりとも興味を抱いて入ったので、そこはよかった。しかし、語学は得意でなかったので非常に苦心した。何となしに気になったサンスクリット語をやることにした登希雄は、白い表紙の極めてシンプルな装丁のテキスト、J・ゴンダのサンスクリット初等文法を入手し、まずはアルファベットを覚えるところから始めるのである。幼い頃、拙い筆致で、ぜいぜい四画程度の漢字をノートに何度も書き下して練習していた頃の記憶が蘇った。それに何と言っても、サンスクリットは格変化が多い。学部の一、二年の頃はそういう類の暗記がイヤだという理由で、必修の第二外国語に中国語を選んだというのに、結局ここで対峙しなければならなくなったというのは、誤算であった。
 さて、白石くんであるが、彼は登希雄よりは専攻の研究に対する熱意があった。しかし、のめり込んでいるというほどではないように見えた。なぜ印哲に来たのかと問えば、彼はどうも「空(くう)」という概念にとりわけ関心があるのだと言う。ということは、どちらかといえば仏教である。それのどういうところが好きなのかと問えば、発端はF・カプラという人の本にあり、それ自体はタオだとかヒンドゥーだとか、量子力学までもが混淆したものらしいが、特にそのn章のn節の、空に関する議論だけよく記憶に残っていて、どうせならその周辺の唯識や中観を学んでおこうという動機だと聞いた。彼の卒業論文の見通しを教えてもらったが、登希雄にはあまり理解できなかった。
 白石くんは登希雄より少しだけ背が下回り、体格は余程華奢であった。彼はそれを気にしている。気にはしているが、元来あまり食べ物に執着が無いようで、少食な様子が見て取れたし、却って好き嫌いもない。登希雄はしばしば白石くんを誘って昼食を取った。学食は騒々しくて、どうも邪魔されているようで好かなかったので、キャンパスの外に出ることが多かった。何より、昼時は混んで長蛇の列が出来る。とても並ぶような気分にはなれないので、キャンパスの周辺にはそれを見越した飲食店が軒を連ねていて、登希雄は行きつけのラーメン屋に白石くんを何度か誘った。辛抱ならなくなって好意を露わにしたのも、そのラーメン屋に居た時であった。梅雨の頃で、湿ったジーンズの裾がクルブシに纏わりついて億劫だった。緊張で瞳孔が開いていたので、実のところその時のことはほとんど記憶にないのである。少なくとも、一生懸命に麺を啜る白石くんの横顔が愛らしかったので、第一にそれを伝えたのである。次に、それはいっときの感興というわけではなく、横に並んで飯を食うたびにそう思っていたこと、また飯を食っている時以外にもそのような感慨を抱いていたこと、そんな内容が、文字通り堰を切ったようにというべきか、唇から漏れ出たのであるが、白石くんはその一部始終を青ざめたような顔で聞いていたのだと思う。もともと血相の良い人でなかったので、そう見えただけなのかもしれない。それに、雨で少し寒かった。それからというもの、登希雄はことあるごとに、ほとんど自棄のように白石くんの心身への執着を表現するほかなくなった。隠しておく必要がなくなったので、思い付いた時に全部言ってしまおうということだ。白石くんの方からは、直接的に受容や拒絶を示されたことはなく、登希雄もあれ以来なかなか核心に踏み込むことができないので、彼との間には、恐るべき均衡で平常通りの関係が続いていた。
 白石くんは、より詳細には、神奈川の中部から東京の上野の方にかけて(と登希雄は認識している)の観光スポットに造詣が深かったのである。マイナーな記念館から名の付かない佳景まで。大学から上野まで歩いてそのまま国立のミュージアム群を巡ったこともあるった。世界各地のミイラに関する特別展が登希雄の気に入った。
 しかし、もっと近隣にこのような、いかにも印哲や仏教学の学徒の好みそうな観光地が溶け込んでいることも、彼が教えてくれるまで登希雄は知らなかった。自分はつくづく無知であると登希雄は思った。その洞窟は白石くんの母校からは近い場所にあったので、彼は、気には掛かっていたものの、中には入ったことがなかったらしく、良い機会だと登希雄を誘ってくれたのである。少し便の悪いところにそれはあった。
 燃え盛る緑が倦怠げに水蒸気を吐き出し、その熱気が少なくともその街の全てに満ち満ちているような、不快な季節であったが、白石くんの湿った肌は一層上気して透き通っている。バスを降りて周りに人が居なくなったところで白石くんが不織布のマスクをずらして顎にかける。頬骨のところにあった珠の汗が引き摺られて伸びた。それを登希雄が指で掬うと白石くんは慄いて不機嫌そうな顔をした。蒸れて潤んだ唇の上のあたりに吹いた汗を、指で拭い潰したい衝動があった。しかし、それは白石くんを怯えさせすぎるように思ったので辞めた。
 「蝉が凄いね」と登希雄は言った。鼓膜を直に擦る硬い鳴き声が延々と輪唱している。殆ど山の中だったのと、おそらくは周期的に、ちょうど十三年目の成虫の多い夏だったのである。
 目的地は通り沿いのすぐ傍にあって、唐突に現れる入り口には、一見して何の厳かさもない無粋さに見えた。短い石段を昇ると、小ぢんまりとした圧迫感のある境内であるが、奥へ入っていけば、深淵の予感を孕んだ草むした岩肌がある。洞窟の内部構造を示した地図を見ると、何だか細長い大蛇のような生き物の体内の趣がある。蝋燭が置いてある。それを長い板の先に取り付けられた釘に刺して、持って中に入れということである。
 草いきれに埋もれた、いやに小さく、整った方形の暗闇に沈んでいく白石くんの背中を追う。この小さな入り口の奥に、どれほどの深みが広がっているものか、想像に難かった。踏み入れると、すぐに背後の日の気配が薄れる。大気中の湿気が冷えて岩肌に結露し伝っているようだった。それがまた蒸発して、気化熱が吸われるので、洞窟の中はうっすらと冷たい。外気が干渉するので、それでも入り口の付近はまだぬるいくらいである。奥へ進入するにつれ、火が戒めのように小さく、その揺らぎが不安定に見えることが気にかかるようになった。「これ、暗すぎるんじゃないか?」と登希雄は言う。「本来はローソクすら点けないものだよ。真っ暗でないと意味ないの。」白石くんは、話しかけなければあまり自らは話さない。彼は話す必要のある言葉とない言葉とを考えてしまうようなナイーブな性格だった。登希雄は、しかし白石くんの言葉はどんな些末な内容であっても聞きたいと思った。
 仕方がないので壁面を蝋燭の灯りで舐め回してみると、摩耗された梵字のレリーフが連なっている。登希雄は、白石くんの言ったことがわかった。本来、彼の言う通り、これらの造形物は視認されることを想定していないのだろう。ただそこにある為に、そこにあることで何かを呼ぶ為に彫られた、あるいはより究極的に、彫られる為に彫られたものである。蝋燭はあくまで商業的な配慮である。しかし、実際に、それらは照らし出し愛でずにはいられない程には芸術的すぎるのである。登希雄は暗所もやぶさかではない。しかし、白石くんはその点やや臆病のはずである。彼は夜も苦手であるし、宗教的な空間は暗いことが多いので、彼はそうした場を訪れる時、いつも自罰のように恐縮している。ならば避ければよいものを、彼は夜の神社とか、寺院の地下空間などが好きなので、致し方ないのである。
 細い回廊と関節のような小空間が連なる洞窟である。回廊を緩慢と辿るうちは、終始、四方の石面が迫ってくるような重みがある。もしかすると、実際に少しずつ、閉じているのかもしれない。時が来ればそこは完全に塞がり、押し潰されてしまうかもしれない。そんな空想が愉快になってきた頃、突如、閉塞が陥没し、身に纏う大気が解けた感覚を得る。左右の壁が広がり、天井がひらけた。見上げると巨大な何かのモチーフがトグロを巻いている。何であるかは登希雄には解らなかったが、流動的な、複雑な形状をしていた。奥を見ると、落ち窪んだ祭壇の蓮型の台座に弥勒が腰掛けている。
 ここまでどう迷い込んだか、蝿のような羽虫も参拝していたようで、弥勒の前に備えてあった酒缶に止まっていたそれがおもむろに飛び立つと、近くに居た白石くんはモーター音に狼狽え、よろめいて登希雄の腕に手を掛けた。汗ばんで粘膜のような白石くんの掌が張り付いた。「ゴメン、僕、手汗が。」と、白石くんはすぐに手を離して右手の蝋燭を持ち直す。「白石くんの汗だったら、何でも構わないよ。俺の服で拭いていいよ。」
 途端に白石くんの顔が曇る。否、暗くてよく見えた訳ではないのだが、彼はどうしたらいいか解らなくなると黙ってしまって、気まずそうな表情をする。可哀想だが、しかしこちらも必死なのだ。仕掛けて返答を強いるというのは、悪いことをしているのだと解っている。ただ、彼がウンともスンとも言わないのも、また卑怯だと登希雄は思う。弥勒は目を伏しているが、耳は傾けているだろう。それはどう裁くのか。少なからず登希雄の分は良くないだろう。
 逃げ道を塞ぎすぎるといよいよ嫌われてしまうかも知れないと思って、登希雄は蝋燭を掲げて天井を照らしながら、「本当に、これ凄いネ」云々と言って、その実自分が逃げているのだとも言える。ただ、実際にそれらは圧巻なのである。向こうの端が蝋燭の視界から見切れて見えないほどの、巨大な鳥のような生き物の尾が真上にそよいでいる。また少し進むと、無数の仏の姿が連なっている。年月、生、人、執着、信仰、諸々の膨大なエナジーの集散を意識せずにはおれない。これを一つ彫るのに、どの程度の時間と気力を要するだろうかと、例えば一つ、人の形をした浮き彫りの、装具の珠の一つを見詰めて、登希雄は黙考してみる。すると空想の中で、石に刃物を滑らせるけたたましい摩擦音が鋭敏に鳴り響いて、体内の柔らかい、最も守られるべき部分を乱雑に握り締められるような不快を抱く。全身の毛孔が抗うので身震いをした。途方もない忍耐がこの窟を穿つのだ。
 ふと、登希雄は、天蓋のレリーフの一部の微細な振動に気付く。錯覚かもしれない、とはじめ、登希雄は思った。そしかしそれは目を凝らしても実際に震えているようであった。その異常を見せるのは、何かの意味を持つであろう梵字であった。それは文字と言うにはおよそ大きすぎるように見えた。
「白石くん」と同伴者の名を登希雄は呼んだ。
 「何?」
 「あそこちょっと見てくんない? 動いてる感じがするんだけど。」
 「怖がらせようとするの辞めてよ。」
「そうじゃなくて、本当にそういう気がする。」
 背後から、白石くんの肌の熱気がジワリと近付いた。登希雄の心臓は慌ただしく肋骨を打っていた。肩に触れた手はこわばっていた。石の梵字の振動はもはや誤魔化しようのない顕在を見せていた。音は無い。それが奇妙なのだった。登希雄は胸騒ぎがして辺りを見回した。案の定と言うべきか、穴がないのである。焦燥するほど、回廊へと続く穴が見当たらなかった。即ち、出口が無いのである。
 壁面に手を触れながら、左回りに伝っていくことで、突破口を探ることにした。その手段に思い至る程度には登希雄は未だ冷静であったが、石肌から染み出した死のような冷たさが、追い討ちのように指先を濡らしていく。それは手首に滴った。実際には、その円形の空間の壁を何度回ったのか、しかし長い間、何周も巡っているような感覚があった。それ自体が何かを喚起してしまう儀式のようにさえ思えた。嵌められたのだ。そんな被害感情が満ちたのは、侵食する絶望を打ち消す為だろう。左手は白石くんの手を握っている。即ち、蝋燭の板はいつの間にか手を離れていた。白石くんは何も言わない。息遣いだけが引き寄せた登希雄の肩に掛かって温ませる。登希雄はそれさえも疑わしいように思えたので、左手の方を振り返ると、暗闇は影だけを映し出している。火は消えている。登希雄は、掌に握っている柔らかいものに力を込める。
 「白石くん。」
 「うん」と影は応答した。それは反響して、拡散し丸みを帯びていたが、確かに白石くんの声だと思われた。登希雄は少しだけ安堵した。
「白石くん、これ、出られる?」
「多分、出られるよ」と右から白石くんの声がした。振り向くとそれも影だった。壁に声が反射しているのだろうと思った。けれども、もはやどれが白石くんの実体で、どれが影であるかさえ分からなかった。
「白石くん。どうやって。」
「そのまま壁を伝っていけばいい。心を静かにして何度も巡っていれば、そのうちに道が開ける。」
「それ、おかしいじゃん。」
「さっきも言ったけどね、ここはそういう場所なんだって。必要な時空間と行為が全部凝縮されてるの。だから、それをやれば『外』へでられる。」
「何の為に?」
「壁に全部書いてある。」
「読めないんだよ。」
「読めなくても解るよ。」
白石くんのやや理不尽に強引なところも好きだ。と登希雄は思った。
次第に、音にならない音が真空を満たし始めるのである。登希雄は足を止める。壁を見失わないように背中を預けると壁の水滴が服に染み込んで肌を冷やすので、感覚が遠くなって、寄って立つそれも覚束なくなった。隣にあるはずの身体を引き寄せた。それがあればまだ浮かんでいることができるように思った。暗闇は全てを孕んでいる。暗黙は、すると最も明るい状態となった。目蓋を閉じているのか開いているのかさえ、己でも判別できないくらいには、全ての光があって、それ故に暗黒であった。
音なき音というのは鼓膜よりも深いニューロンを揺るがすものであって、網のようなそれの一部が凝集して任意のシグナルを持ち、意味を伝達する。見上げると、真っ白の闇の中に、巨像が浮かぶのである。想起されたのは、皮肉にも、人は神を象って作られたという主旨の旧約の一節であった。親しみのある姿をしているその発信機は、恐怖的ながらも、決して不快ではない無数の意志に取り巻かれている。思わず隣にあるものを掴んで引き寄せると白石くんの実体、実体らしきものが胸に飛び込んでくる。それは痙攣し、水底じみた大きな目に映る何かの煌めきが揺れていた。腕の中の白石くんらしきものは震えている。巨像が怖いのか、オレが怖いのか、と登希雄は戸惑いながら、巨像のシグナルに「耳」を傾けた。
純白の巨像が世界の全てになる。光のようなヴェールが降り注ぐ。
 朦朧の中で何かの形象を求めると、それが前方を指差すのが見える。それを大いなる中心とした網の結び目が全て弛緩し、解けたので、身動きが取れるようになった登希雄は、示されたほうを見るが、依然としてそこにはただ闇があった。しかし、確かにそこへ道があると、登希雄は思い、従った。
 ざらついた壁を掌で辿りながら登希雄は急いだ。再びあの小空間の中を巡り始めただけのようにも感じられた。しかし、歩みを止めるよりは良い。血の匂いが時折鼻をつくようになった。皮膚が刺すように痛むので、自分の手の皮が破れて血が染みているのだと分かった。しかし、登希雄は白石くんを連れてここを抜けなければならなかった。左手が重かったが、その分心強かった。二足の靴音が乱れ鳴るのは孤独の中の幸福であった。肌を包む大気に生ぬるいものが混じる。その粘り気に登希雄は咳き込んだ。ただでさえ、息が切れていた。次に、腐りかけた植物の匂いがする。それは喜びの気配である。
 小さな光の方形が見えた。ようやく足元の凹凸が照らし出された。それは蝋燭の火ではなく、差し込むアマテラスの光条だった。
 掴むように飛び出すと、割れるような蝉の声がある。我に返り振り向くと、同じく息を切らして見上げる瞳がある。いつものように、いたいけで、小さく丸めて握り潰したくなるような、狂おしい愛敬。
 案の定、片手の掌の皮膚は裂けて血が滲んでいる。反対の手で、確かめる為に少年の頬に二、三度触れる。白石くんは眉を顰めて後退った。肩に触れると皮膚の下の骨を感じた。それはちゃんと温かかったので、登希雄は安堵して手を離した。
 「どうしたの?」と白石くんが、登希雄の掌を見て言った。
 「中に居る時に。」
 「痛そう。」彼の同情は、登希雄の胸を震わせた。
 「白石くん、さっきの見た?」
 「何を?」
 「洞窟の中でさ。」
 「だから、何をって。」
 「色んなもの。ウーン、真っ白いデカい仏様。」
 白石くんは、一層訝しげな顔をして登希雄を見た。嫌な顔をしている彼は可愛いのだ。彼は合点が行かない顔をして少し思案し、間も無く、「それ、大船観音じゃないの?」と言った。
 登希雄は、それを聞いても判然としなかった。
 「駅から見えるデカい観音だよ」と白石くんは説明を加えた。「胸から上が山から覗いてるどでかくて白いやつ、それを見たんじゃないの?」
 登希雄がなお首を傾げると、「そんなん、この中に居ないだろ?」と白石くんが笑った。しかし、それは確かに居たのであるし、白石くんも見たのだ。白石くんが嘘をついているのか、自分が嘘をついているのか、登希雄は解らなくなった。
 石段を降りて公道へ出ると、平穏な、重苦しい夏が広がっている。白石くんがマスクを上げたので登希雄もポケットから萎れたマスクを取り出して耳に掛けた。それはすぐに、湿った肌に纏わりついた。
 すると、登希雄は思い出した。あの白い巨像を、登希雄は知っていた。知りすぎて忘れているほどには。
 「そういえば高校生の時、毎日電車の窓から見てた。」
 「大船観音のことか」と白石くんが答える。
 「そう。」
 確かに、洞窟で見たそれは、記憶の中のそれと重なった。
 「何線?」
 「東海道線。」横浜に越す前は、湘南の方に住んでいたのである。
「今度行こうか。観音の中に入れるよ。」
白石くんの目尻が微笑んだので、登希雄は嬉しくなって白石くんの肩を抱いた。それはやはり少し汗ばんで警戒していた。白石くんと出掛ける次の予定ができたのは、大変喜ばしいことであった。(了) 
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