第1話

文字数 1,919文字

「百物語をやろうと思うんだ」
 まだ夏は終わりの兆しを見せようとはしない。珍しく降り続いた雨上がりの午後、大学の正門でぼくを待ち受けていた柏木さんは突然そんなことを言い出した。
「どうしてそんな急に?」
「この前近所を散歩していたら、小さな寺を見つけたんだ。眺めていたら住職に声をかけられたてね。幼い頃から寺で百物語をするのが夢だと話すと、なんと自由に使っていいと言うんだよ」
 まだ大学は夏休みだからか、正門を抜けた路地の人通りは少ない。路地の一角にある古本屋では風鈴が涼やかな音を鳴らしている。
「まさか、2人でやるの?1人50話も考えられないよ」
「まさか。そう言われると思って、墨田くんにも頼んでおいたよ」
 たびたび柏木さんの好奇心に振り回される彼を不憫に思った。下宿へ帰る分かれ道、柏木さんは「では次の土曜日に」と嬉しそうにしていた。

 集合場所のコンビニに既に2人は来ていた。陽が完全に落ちるのはあと30分ほどだろう。頼まれた蝋燭とライターの入れた袋を放り投げると、墨田くんは手を伸ばしてそれを掴んだ。
「先輩、遅いですよ」
「そうだ。遅いぞ坂口くん」
「柏木さんが頼んだものを買ってきたのに」
 不満をそれぞれ口にしながらも、柏木さんは先へと歩く。その寺への道は知らない道であった。ポツリポツリと点在する電燈は切れかかって点滅している。朧げに道を照らすそこに数匹の蛾がひらひらと集まっていた。
「ここだ」
 柏木さんが立ち止まった先、暗闇に包まれながらひっそりと佇むそれがあった。大きくはないが、しっかりと手入れが行き届いている。
「住職はいないようだが、自由に使っていいと言われている。入ろうか」
 彼女の言葉に動かされるようにして、墨田くんはふらふらと本堂に入っていく。
「先輩はちゃんと怖い話考えてきました?」
「うん。いくつかは考えたけど、ネットでも拾ってきたよ」
「俺もです。あの人はほとんどが体験談みたいですけど」
 墨田くんは笑いながらも、蝋燭を並べる柏木さんを見ていた。蝋燭には青い紙を貼った箱を被せている。
 百物語と言ってもぼくが買ってきた蝋燭は30本ほどである。柏木さんにはそれでいいと言われた。
「いいんだ。百本は面倒だから。他にもルールがあるみたいだけど、今回は話が終わったら火を消して、話すときにまたつけるってことでいいかな」
 「それじゃあ」と言って、柏木さんはぼくたちの向かいに座った。数本の蝋燭に灯された光は、ゆらゆらと揺らめいて波のような影を壁に作っている。
「墨田くんから初めてくれ」
「ええ……俺ですか?まあいいですけど」
 ぼやきながらも墨田くんは「友人から聞いた話です」と定型句から始めた。お堂には線香のような盛夏を思い出させる香りが漂っている。外から流れてくる湿った風は、柏木さんの半袖をひらひらと翻した。あの時の蛾のようであった。
 その後のことはあまり覚えていない。5話目、6話目と徐々に進んでいった中で、怖い話もあればそうでもない話もあった。聞いたことのある話もあった。当然のことだろう。墨田くんはインターネットから集めた話もあると言っていたことだから。
 特に印象的であったのは柏木さんの話だ。いや、印象的でなかったのかもしれない。彼女の話はどうしてか記憶の中でぼんやりとしていて思い出すことができない。水に溶けた水彩絵の具のように、ぼくの記憶の中に馴染んでいるようであった。
 ただ彼女の話には全て「私が体験した話なのだが」という枕詞が付随していた。
 99話目の蝋燭を吹き消した。お堂には闇が立ち込める。チリチリと何かの虫が先程からずっと鳴いている。
「最後の話は私だな。ではこれは私が体験した話なのだが……」
 三人が肩を撫で下ろす。これで話は終わりだ。100話目の話は少し不思議な感覚を味わった。百物語では100話目を語り終えた後に怪異が起こるというが、何も起こらない。白み始めた空だけが時間の経過を知らしめていた。

 そうして今日は正門で墨田くんがぼくを待っていた。
「あの寺に行けないそうです。柏木先輩は躍起になって調べています。今日はその報告を」
「行けない?柏木さんが案内したよね」
 困り顔で彼は説明してくれた。後日、柏木さんは住職にお礼の品を持っていくつもりだったそうだ。しかし、いくら探せどその寺は見つからない。あの夜に案内した道も夢のように忘れてしまったという。
 そもそも調べてみても、そんな寺はどこにもない。だが、しかし、確かにぼくたち三人はあの時、あの場所で怪談を語ったのだ。
 この記憶も過ぎゆく夏に溶けていく、そんな気がした。
 
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