第3話

文字数 2,168文字



 仕事帰りはいつも、主婦だらけで混雑しているスーパーに寄る。その日の夕食と翌日の朝食を仕入れるために。昼食は食べない。昼休みは誰とも顔を合わせないようにするため作業台で寝て過ごす。工場の収入は、贅沢できるほど多くはない。それでも賞味期限ギリギリの、半額になった菓子パンやおにぎりを買うくらいならば余裕も残る。
 もっとも、以前勤めていた風俗業で収入が多かった時も、食事は質素なものだったが。

 由衣は料理をしない。生まれてこの方、一度も包丁を握ったことがない。学校の調理実習の時も、みんなが『ベビーちゃんには無理よ』と言うので後ろで見ているだけだった。 箸の使い方がわからないせいもあるが、そもそも食べるものを自分で選ぶということをしたことがなかったから、食べたいものがなんなのか全くわからなかった。自分で用意しないと食事は出てこないのだということを、風俗店の寮で同室だったエミリに教えてもらって初めて知った。
 エミリは髪を真っ赤に染めて若作りだったが、内面は面倒見がいい近所のおばさんと言った感じの女性だった。生きるために必要なことのほとんどを由衣に教えてくれた。買い物の仕方、服の着方、髪の梳かし方。けれど物知りなエミリでも、由衣が何を食べたいのか何をしたいのかを知る術だけは、教えることができなかった。

 スーパーを走り回っていた子供が、由衣の目の前で唐突に転んだ。耳をつんざく大音声で泣き喚く。由衣は不思議な気持ちでただ子供を眺めていた。なぜこの子供は泣いているのだろう?なぜこの子の母親は、子供が転ぶようなことをしていても抱き止めに来ないのだろう?走り回ったらだめよ、怪我をして大変なことになるわと、なぜこの子の母親は泣きながら、抱きしめに来ないのだろうか?
 なぜ?

 由衣の父親は年に二回しか帰ってこない。外洋船の乗組員なのでいつもどこか遠くにいるらしい。父親の体には潮の臭いが染み付いていて、由衣は抱きしめられるたびに顔を顰めた。父親は姉のことも抱きしめたが、姉は何かを怖れるように身を縮め、できるだけ父親から身を離そうとしているようだった。
 父親は帰宅するたび二人に土産を買ってきた。筆入れだとかノートだとかの文房具が多かった。それらは外国の風情がする洒落たものばかりだったが、どれもこれも由衣と姉とおそろいだった。由衣は姉が自分と同じものを持っていることに苛立ちを覚えた。熱が出て気分が悪い時と似た感じだった。姉はもらった文房具を、サッとポケットに隠すようにしまう。由衣はそれらを興味なさげに見やり、適当に放り出す。父親がまた船に乗って遠くへ行ってしまうと、父がいる間中ずっと不機嫌だった母が、由衣の分の土産の品々を指先でつまんでゴミ箱に捨ててしまうのが慣例だった。

 由衣は今日も動画サイトで千回に到達させるべき曲を探す。
 もしも誰かが、再生回数が少ない曲で、なおかつ好みに合う曲を探すのならば結構な手間がかかるだろう。しかし由衣は手当たり次第どんなジャンルの曲でも、どんなにうるさいだけの曲でも、最初に見つけた曲を選ぶだけだ。簡単な作業だった。
 今回は日本人が作った曲を再生することに決めた。さっそく再生ボタンを押すと、軽快なサックスと、甘くハスキーな声の女性が歌うジャズが流れ出した。
 パソコンに目と耳が釘づけになる。思わずモニタに顔を近づけた。二度まばたきして、どうやら自分はこの曲が好きらしいと由衣は気づいた。こんな気持ちは生まれて初めてだった。勝手に体が動き出しそうになる。二分二十秒で曲は終わった。2回、3回と再生を繰り返し、モニタを見つめて耳をそばだてて聞く。パソコンの前から立ち上がる気になれない。12回、13回と再生しても、ちっとも飽きない。由衣は着替えも食事もせず、部屋が真っ暗になったことにも気づかず、同じ曲を何度も何度も再生し続けた。


「お母さんは?」

 珍しく姉の声を聞き、由衣はびっくりして顔をあげた。学校から帰ってきたばかりらしい。くたびれたセーラー服姿で卒業証書が入った黒い筒を持ち、由衣の部屋の入り口に立っていた。そうか、姉は今年で中学校を卒業したのか。由衣は初めてそのことに気づいた。

「ママはキヨコおばさんの家に行ってるけど……」

「そう」

 短く返事して部屋を出ていく姉は、なんだかいつもと様子が違った。興味がわいて由衣はついていってみた。姉は物置の掃除機と布団乾燥機の間で寝起きしている。ほんの少ししかない身の回りの品は、学校の体操着を入れるための紺色のバッグ一つにまとめてあった。姉の持ち物のほとんどが父親の土産だということに由衣も薄々は気づいていた。
 姉はバッグを抱えて玄関に向う。

「どこに行くの?」

 由衣は生まれて初めて、自分から姉に話しかけた。振り返った姉は、優しくほほえんでいた。姉の笑顔を見たのも生まれて初めてだと言うことに由衣は気づいた。なぜだか姉はいつもより大きく見えた。

「どこか、お母さんのいないところ。由衣も早く逃げ出せるといいね」

 姉が出て行ってドアが閉まっても、由衣はその場を離れられなかった。逃げ出す? いったい何から? 答えは見いだせなかったが、由衣は真っ黒な何かに包まれているような恐怖を感じ、腕をぎゅっと胸に抱いた。
 その後、姉の姿を見ることは一度もなかった。
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