第1話

文字数 1,972文字

僕の部屋には花がある。僕が小学三年生の夏、男と逃げた母が置いていった花だ。
母は花など好まない人だったから、どこから来たのか、本当に不思議だ。
男から母へのプレゼントだったのかもしれない。
そんな花を子供のもとへ残していく無神経さが、母にはあった。
母が逃げた日、母の気配が消えた部屋で、花だけが、ぽつんと咲き誇っていた。
塗り潰したような赤が、素っ気ない陶器の鉢に不似合いな花だった。
僕は、その花を自分の部屋で育て始めた。植物を育てた経験が無い子供の拙い育て方だったけれど、いくつ季節が過ぎようとも、花は枯れなかった。花は年中、僕の部屋で咲き続けていた。
理科で植物について学んだ時、これは一体なんの花なのか、何年も咲き続ける花なんて有り得るのか、気になって図書室で調べてみたが、分からなかった。その頃の僕は、周囲から腫れ物のように扱われていたから、誰かに聞いてみるのは憚られた。僕は、僕が花を育てている事に、何か特別な意味を持たせられるのが嫌だったのだ。

花の声が聞こえるようになったのは、中学生になった頃だった。花は、ある日、突然、話し始めた。
「ねえ、今日は、とっても気持ちのいい日ね。あと少しだけ、日の当たる場所に動かしてもらえないかしら?」
花が話すなんて考えてもいなかったので、僕は最初、自分に呼びかけられているのだと思わなかった。何かの拍子に携帯電話が誤作動し、動画を再生し始めたと思ったのだ。携帯電話を確認した後、僕は空耳を疑い、最後に―しつこく話しかけ続ける花のおかげで―花が話しているのだと知って、仰天した。
「あなたの事、ずっと見ていたのよ。手入れの仕方には不満があるけど、丁寧さは悪くないわ。ああ、気持ちいい」
恐る恐る、日の当たる場所に動かした僕に、花は機嫌よく歌いながら言った。
それから花は毎日、話しかけてきた。無視すると、花は怒って一晩中、歌い続けたので、それからは必ず返事をするようになった。そうしてみると、花は案外、気の合う相手だった。やがて、僕は、そんな日常にも慣れていった。

高校を卒業すると、僕は就職し、そこで出会った女性と付き合い始めた。穏やかな女性だった。僕は彼女の部屋に入り浸り、家には殆ど帰らなくなった。花への罪悪感はあったが、花は近頃は無口だったし、僕が居なくても枯れないのだからと、僕は自分に言い訳をしていた。
「僕は彼女と結婚するよ。彼女、妊娠したんだ」
二十四歳の春、僕の言葉に、花は「そう」と言って揺れただけで、こちらを見ようともしなかった。
「勿論、君も連れて行くよ。……僕と彼女の新居に」
気まずい思いで、僕は言った。

僕は結婚し、新居の窓辺に花を飾った。
新居に越して以来、花は僕に話しかけてこなくなった。そうしていると、至って普通の花に見えた。正直、その方が有難かった。いまや、僕は花を重く感じていた。
妻が生んだ子供は、女の子だった。僕と妻は、その子を美咲と名付けた。僕は幸せだった。
全てが崩れたのは、美咲の一歳の誕生日だった。その日は、午後から美咲の誕生日祝いをする予定だった。
僕が寝室で微睡んでいると、突然、妻の叫び声がした。急いで見に行くと、妻はダイニングで美咲を抱えて、涙を流し、狼狽えていた。
「誕生日のケーキを作っていたら、美咲が急に泣き出して。見たら、ぐったりして、息をしていないの。ちょっと目を離しただけなのに、どうして、こんな」
僕は、すぐに救急車を呼んだ。僕自身、動揺して手が震え、なかなか携帯電話のボタンが押せなかった。
やって来た救急隊員と共に部屋を出ようとした時、僕は気付いた。窓辺に何枚かの花びらが落ちている事に。花びらは千切られて、所々が欠けていた。
美咲が食べたのか?
だが、花は美咲の手が届く場所には無かった。だとしたら―。
その時、玄関から僕を呼ぶ妻の声がして、僕は慌てて玄関に向かった。

結局、美咲は助からなかった。原因不明の突然死だと、病院では判断された。
僕と妻は、ただ呆然と日々を過ごした。葬式や法的手続きは、妻の母が気遣って代わりに手配してくれた。無断で何ヶ月も休んだから、仕事は多分、クビになっただろう。それも全て、どうでもよかった。
「あなたと居ると、あの子を思い出して、辛いの」と言って、妻は実家に帰ってしまった。
一人になった家で座り込んでいると、不意に、あの花の声がした。
「ねえ、わたし、今日で十六歳になったの。結婚だって出来る年齢だわ」
僕は起き上がり、花を見た。花は初めて話したあの日のように、鮮やかな大輪の花を咲かせて、嬉しそうに佇んでいた。僕は、とても長い年月ぶりに、花の声を聞いた気がした。
鉢ごと花を抱きしめると、僕の目から次々に涙が溢れた。ひんやりとした花の温度は、温かく柔らかだったあの子とは、似ても似つかなかった。
僕は妻と離婚して、ひっそりと、花と暮らし始めた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み